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 杜のみやこ 真下に押さえ
 あおげば 雄々しき仙台城
 われらの学び舎
 ああ栄光の 白鳥沢学園
 ああ栄光の 白鳥沢学園

 シンプルで短い校歌のメロディーを、は指先を踊らせて軽やかに紡ぐ。五番まで同じ旋律を繰り返したところで生徒たちの声が途切れ、背中にびりびりと視線を感じながらはそのまま後奏を弾き続けた。歌詞が尽きてもう歌う者は誰もいないが、そのかわり、しだいに遠ざかる足音が連なっていく。伴奏者は最後の一人が講堂を出ていくまで、グランドピアノを弾いていなくてはならないのだ。
 はそれほど、ピアノが得意なわけじゃない。卒業式だとか入学式だとか、そういう特別な晴れの舞台でもなければ、伴奏者はいつも適当に選ばれてしまうものなのだ。が担当するのもこれが一年生の三学期の始業式に続いて二回目だった。音楽教師に呼び止められて伴奏を頼まれたのは、期末テスト最終日のこと。グランドピアノを弾ける機会なんて滅多にないんだし楽しんだらいいよ、などと言われたけれど、はあいまいな気のない返事しかできなかった。彼女の家には立派なグランドピアノがあったから。稽古をつけているわけじゃなし、日の目を見ることは今やあまりなかったけれど。

 最後まで伴奏をし終えて講堂を出ると、もうすっかり教室に帰る生徒たちの波は引き揚げていて、かわりに箒やちりとりを手にした生徒たちがちらほら散りはじめていた。終業式のあとは、学期末には付きものの大掃除が待っている。も急いで三年二組のホームルームに戻ったが、教室はすでに椅子を逆さに乗せた机がすべて後ろに片付けられていて、めいめい持ち場の掃除を始めていた。
 手にしていた楽譜をしまおうにも、机は下げられてしまったし、教室のうしろのロッカーにも辿りつけない。は掲示板の掃除当番表を確認した。彼女は教室前の廊下の掃除を割り当てられていた。廊下に出ると、モップを手にした女の子たちが掃除もそこそこに賑やかに談笑している。廊下のはしに、なみなみ水の入ったブリキのバケツと、ぼろの雑巾を放りだして。

「たまには雑巾がけぐらいしろっつの」

 バケツを前にしてしゃがむこともせず突っ立っていたの躊躇が癇に障ったのか、背中からそんなにべもない言葉が襲ってきて、はかっと頬が熱くなるのを感じた。ああ、自分の「そういう」態度を、彼女たちはきっちりと監視していたのだと。わずか四十人の監視社会。サボっていたわけじゃない。むしろ放課後に大した予定のないはいつも真面目に当番をこなしていたのだけれど、の真面目さにはいつもどこかつけいる隙というものがあった。今日だって頼まれて伴奏をこなしていただけなのに、裏で「ポイント稼ぎ」だと揶揄されていることを彼女は知っている。のクラスを受け持っている音楽教師は若くて顔も整っていたから、女生徒たちのあいだでとても人気があったのだ。
 手持ちには反論できるような強さも図々しさも何もなく、ただ邪魔くさい楽譜がひとつあるだけ。刺々しい声に押しつぶされるようにが膝を折ろうとしたとき、すぐ背中に気配を感じて、彼女は肩を跳ね上げて振り返った。背の高い彼の影。を覆ってしまう薄暗い影。そこには早い者勝ちでなくなってしまうモップを一本手にした、天童覚が立っていた。

さん、こっちととりかえよーか」

 天童がモップをに差し出している。その仕草は、いやがおうにもあのどしゃ降りの雨の中のことを、当たり前のように彼がビニール傘を差し出してきたあの雨の日のことを思い出させた。そのせいかはまた、最近忘れていたはずの息継ぎの難しさとむずがゆさを感じて、人知れず陸の魚のようなつたない呼吸をするはめになった。

「い、いいよ、悪いし」
「楽譜もったまま水拭きなんてできないでしょ」
「そんなの、自分でなんとかするから」
「俺もここの掃除だし。任せて」

 強引に押しつけられてしまえば、モップを落とさないように柄の部分を握るしかない。天童は廊下のはしから、少しバケツを引きずってその場にしゃがみこんだ。大きな手のひらがてきぱきと雑巾を水にくぐらせ、しぼる。水のしたたる音。その淡々とした作業の向こうで、さっきに一方的な言葉を投げてよこした女生徒たちは、しばらく鼻白んだような顔で彼の背中を見ていたが、やがてつまらないとでも言うように持ち場を離れて教室のなかに引っ込んでしまった。天童は少し、いやかなり、このクラスでは浮いた存在だ。スポーツは万能で、勉強もそれなりにできる。劣ったところがないぶん、群れない彼は気味悪がられていた。彼自身、敢えて周りをそう仕向けているふしもある。運動系クラブの友人なら適度にいるみたいだが、間違っても異性から異性として人気が出るような性格でも見た目でもなかった。

「ピアノおつかれさま」

 天童がにふたたび声をかけたのは、あらかた床の水拭きもし終わって、バケツの水をいちど取り替えに行ったあとのことだった。けっきょく楽譜を脇に抱えたまま、よそよそしくモップを動かしていたは、その声にぴんと背筋が伸びる思いがした。もう、ピアノを弾いていたのが遠い過去のことに思えるぐらいに、こんな人の往来のある場所でも、天童と二人で同じ廊下を掃除していることに胸を弾ませていたのだ。

「天童くんも。インターハイの壮行式おつかれさま」
「俺なんか前に突っ立ってただけだよ」
「でも、あれ見ると、いつもすごいなって……」
「若利くん、ああいう挨拶はビシッとこなすもんねえ」

 さすが主将って感じ、と天童がその姿を思いだしてか、唱えるように口角を上げる。バレー部の人間と話していると、二言目には彼の名前が出てきてしまって、はどうやって返したらいいか迷ってしまう。のことを気遣って共有しうる話題を出しているつもりなのかもしれないが、それが居心地悪いのだ。
 一学期の終業式は毎年恒例で、夏休み中に全国大会に出場予定のある部が全校生徒の前で挨拶をする決まりだった。ずいぶん前のことにはなるけれども、六月のインターハイ宮城県予選の優勝報告もかねて、今年も男子バレーボール部は凛々しく数百人の生徒たちの前に立っていた。ああやってずらりと大勢が横に並んでいると、天童はかなり目立つ。背の高い集団のなかでも背が高く見えたし、逆立った明るい髪をして、そしてほんの少し猫背の彼は、きっと誰の目にも留まりやすいだろう。

 汚れの比較的少ない雑巾を一枚かたくしぼって、天童はよいしょと立ち上がる。廊下の窓枠のサッシを拭くため、少しだけひらいていた窓を全開にしたとき、彼の頬にぱらっとかすかな水の気配が落ちてきた。あっという間に気配は確信に変わって、雨の吹きこみを防ぐために、彼はろくに水拭きもできず窓をまた閉めるしかなかった。

「うわ、サイアク。雨降ってきてんじゃん」
「おまえ、天気予報みてねーの? 午後から降水確率100%だっての」

 窓を見上げながら通りすがりの男子生徒が二人、そんな会話をして去っていく。むわりとした湿った熱気が廊下にこもって、も容赦なく降り続ける雨を恨めしく見上げた。そのすぐとなりで、天童もまた、参ったという顔をして雨を見つめている。どうやら彼も通り過ぎて行った男子生徒と同様に、天気予報を確認せず登校してきてしまったクチのようだ。

「あーあ……踏んだり蹴ったり」
「え?」
「いや今日ね、このあと数学の課外授業があってさ。練習試合ついて行けないんだよね」
「そうなんだ……天童くん、数学できるもんね」
「別にできるってほどじゃないけど。でも一応、おべんきょーもしとかないと、卒業できないし」

 ふう、と溜め息をついて天童がバケツを持ち上げる。卒業、という彼のつぶやいた言葉にの胸はちくりと痛んだ。中高一貫校の最終学年ともなるとことあるごとに「終わり」を実感させられるが、それが「別れ」のかたちに化けての胸を掠めるのは初めてのことだった。鼓動の音が、からだの奥に響いている。

「……天童くん、大学もバレー強いところ?」

 はおそるおそる天童に尋ねた。当然そうだろうという予想をどこかで立てながら、彼のことを少しでも知りたいという淡い気持ちを忍ばせていた。天童ほどのバレー部の中心選手であれば、きっと、監督がどこかの大学に押しこんでくれるものだろう。スポーツ推薦で入学してきた部員なら、なおさら。ところが天童はを見下ろして、思いがけずあっさりとした様子で首を横に振ったのだ。

「え、ううん。俺、バレーは高校までって決めてるから」

 なんでもないというふうに言い放って、天童は背を向け、踊り場の流し台まで歩いて行った。
 何も言えないまま、はまた取り残される。彼はいつも、を置いて行ってしまう。まるで、それ以上かかわらないよう、何かに対して注意をはらっているかのように。
 掃除の時間がもうすぐ終わってしまう。そうしたら短いホームルームがあって、通知表が配られ、担任教師のためにならない小言を受けて、最後の夏休みが始まるのだ。天童のように頭が良いわけでもない、部活動をしているわけでもないに、学校に留まる理由はない。短いようで長い真夏の四十日を、わたしはまた何も言えず、何もできず、彼とも会えずに、こなすだけなのだろうか。は急に切ない気持ちを抑えきれなくなり、あと少し見境がなければ、その場に座りこんでしまうところだった。
 飼い慣らしていたはずの退屈が、錆をたくわえ、をむしばむ。左胸にはとっくのとうに、取り返しのつかない穴が開いていた。



 午後三時のチャイムが頭上で鳴っている。
 はその音に導かれるようにして、涼しい図書室から抜けだした。
 昼食を抜いて、三時間の辛抱。自分でも何をやっているんだろう、という気持ちで、それでも確固たる意思をもって、はまだ学校に残っていた。昼過ぎの一時からいっせいに始まっている各教科の課外授業が終わって、静かになったはずの校舎がまたわずかばかりの活気を取り戻す。は廊下を渡って、渡って、三年生の下駄箱が連なる昇降口に向かった。こんな待ち伏せまがいのことをして、きっと驚かせてしまうだろう。図書室で勉強していたらこの時間になったから、いつぞやの傘のお礼をしようと思って……そんな、しらじらしい理由をつけたら、彼はどう思うだろうか。いっそのこと、見抜かれてもいい。そうしたら、 あとはたったひとつの言葉が残っているだけだ。それすら今は、こわくない気がした。ゆっくり、何度も、胸のうちで唱えてみる。こんな妄想では、大した練習になんかならないと分かっていても、何度も、何度も、何度でも。

 外ではまだ雨が降り続けているようだった。昇降口を生徒たちが通り抜けていくたび、残っていた白い上靴がひとつひとつなくなって、ぱらぱらと傘立てに残っていた傘も減っていく。は、水色のギンガムチェックの、お気に入りの折り畳み傘がかばんのなかにあることを今いちど確認してから、三年二組の下駄箱の側面に背を預けて立った。あの日、天童にもらったビニール傘は、今もの自宅の傘立てにある。本当は返したほうがいいのだろうが、それを返したらもう天童との特別なつながりがなくなってしまいそうで、そんなことをだらだら考えているうちに機会を逸してしまったのだ。自分は、良い子ちゃんのふりをした、不届きものだ。そう考えると、胸をたゆたう水がまたふつふつと熱くなってくる。

 は、待った。本も読まず、音楽も聞かず、ただひたすら待った。だけど、待てども待てども、天童は姿を現さなかった。腕時計の針だけがむなしく動き続ける。不安にかられ、ちょっとの物音がするたび、は薄暗い廊下に視線を向けた。成績上位者のための課外授業は、まちがいなく午後三時で終わっているはずなのに。天童のローファーはまだ下駄箱にある。そのことだけを支えには待ち続けた。それでよかった。不安はあっても、つらくはなかった。心にはちゃんと一番星が、たったひとつの目的が輝いていたから。

 の最後の記憶は、別のクラスの友人から届いた一通のメールだった。同じ塾に通っていて、八月に始まる夏期講習のことについて、予習範囲などを確認するような内容だった。そのメールに返事をしたのか、しなかったのか。昼ごはんも食べず、冷房のない蒸し暑い暗がりに、そう何時間もしゃんと立っていられるものではない。は少しだけ、と思ってその場にしゃがみこんだ。そしたらもう、色んな力があとからあとから、やわな四肢から抜けてしまったのだ。



「……さん、さん……さん!」

 誰かが自分を呼んでいる。肩をゆるく揺すられながら、はようやく重たい瞼を持ち上げた。目を開けた途端、そこには待ちわびていた一人の顔があって、しかも彼はの身体を支えるように背中に腕をまわして、その場に跪いていた。目と目が合うと、ただならぬ表情をしていた天童が、その大きな眼が、少しだけほっとしたように優しくひずんだ。そんな顔をされたら、状況を飲みこめないまま、それでも、どうしようもない嬉しさがこみあげてきてしまう。

「……天童、くん」

 の声は掠れていて、いつも以上に弱く、乾いていた。そのせいか、ほっとしたのも束の間、また天童は神妙な面持ちに戻ってしまった。その背後で、聞き慣れたチャイムの音が鳴り響く。ちょっとがしゃがみこんで、ちょっと目を閉じている隙に、世界は午後五時を迎えてしまったらしい。いつのまにか雨はすっかりやんで、茜色の夕暮れが滲むように始まろうとしていた。

「どうしたの……てか、ちょっ、大丈夫? 顔色すごいんだけど」

 顔を上げたのひたいに、汗で張りついた前髪をよけて天童の手のひらがあてがわれる。天童の手がほのかに冷たく感じて、は心地よさのせいか、嬉しさのせいか、ただ体調が悪いせいなのか、尾てい骨から背骨を抜け、火照った全身をつんざくような身震いを味わった。

「あの、あのね」

 頭のなかで思い描いていたものは何ひとつ現実にはなっていない。少しでもその乖離を埋めようと、は考えも追いつかないまま、まごつく舌を動かした。小さなの声を聞き届けるため、天童が首をかしいで、彼女のくちびるに耳をそっと近づける。

「雨、降ってたから……」
「え? 雨?」
「傘……を、」

 前に、傘を貸してもらったお返し。図書室で勉強してたら、ちょうどこの時間になったから。頭のなかに用意していた取り繕いのストーリーが、声にならずにどこかへ霧散していく。一瞬の間が吹き抜けて、は、一度くちびるを閉じた。この距離は、はからずも今まででいちばん彼に近づいた、貴重な距離だ。逃したくない。そんな想いが募れば、打算のすべては、あとかたもなく水に流れた。

「……違うの。天童くんのこと、待ってたの」

 待っていた。ただ、待っていた。天童がふと顔を上げ、何かから醒めたように、正面からを見据える。どんなに近づいても、人と人は、他人とは、見えない壁で仕切られている。そう思っていた。それなのに今、二人のあいだには何もない。透明が紛れもく透明で、は初めてじかに、天童の水晶のなかに自分を浸すことができた気がした。

「天童くんと、会いたくて」

 口にすれば、それは、改めなくてもばかみたいな理由だった。会いたいなんて、今まで、毎日教室で会っていたのに。今日だって午前中、つい数時間前、大掃除の時間に他愛のない話をしたばかりだったのに。会いたい。天童くんと、会いたい。だけどその願望が、まじりけなく自分の心を吐きだしたかたちをしていて、何よりそれが、愚かしく、おそろしかった。
 背中に回っていた腕に力が入って、は上体を天童に引き寄せられた。これが抱きしめられるということなのだと彼女が気づくのには、うぶで間抜けな数秒が必要だった。胸に閉じこめられると、天童の奥に制汗剤の香料のにおいが渦巻いていることに気がつく。はどうして天童が、午後三時の授業終わりにすぐ下駄箱に現れなかったのかようやく理解した。さわっていたのだ、一人の体育館で、あの三色のボールを。練習試合に参加できず、留守番をくらったこんな日でも、ひたむきに。

「……ごめん、あついね」

 ばつが悪そうにそう呟いて、温もりがそろそろと離れていく。は、まだ沸騰寸前の熱のかたまりでいたくて、身体中の水をすべて熱に変えてほしくて、駄々っ子のように天童のシャツをつかんで離さなかった。雨の干上がった暑い夏の午後、ここはまだ、水浸しだ。水のなかだ。は潤んだ目を隠しもせず、大胆に天童を見上げた。

「ううん、あったかい」

 天童が、喉仏を動かして、を見つめ返した。こんなふうに戸惑っている天童を、彼女は初めて目前にしていた。その戸惑いは正しい。やっぱり彼は、の本音から逃げていたのだ。でももう、こんな袋小路に抜け道なんてひとつもない。

「天童くん、好き」

 やっと言えた。ようやく、言えた。応えはなかった。ただもう一度、は天童に抱きしめられた。今度はもっと、凶暴な力で。
 苦しかった。まともに息ができなかった。だけど、息ができないときこそ、自分は生きているのだと、確かに実感できることには気づいた。天童の腕のなかで、まともな呼吸を奪われて、自分は生きている。はもう陸の魚じゃない。ちゃんと海の魚になって、彼女は波のようにさざめく天童の鼓動に身をゆだねた。









後編 →

2016.7
白鳥沢の校歌は原作21巻17-18頁より引用.