1 - 恋はみずいろ

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※ 高校2年生




 水色の靴ひもを結びなおしたのは、今日、何度目のことだったろうか。
 白一色の運動靴に明るい水色のサテンがまばゆく映えている。少しすべりがよすぎてすぐにほどけてしまうのが難点ではあったが、はこの真新しい靴ひもをとても気に入っていた。おとといの放課後、仲の良い友人たちと一緒に手芸屋を物色していて、お揃いで買ったものだ。蝶々結びをすると結び目が小ぶりのリボンのようにきれいにひろがって、陽射しや角度の加減でうつろう光沢が胸をときめかせる。

 年に一度の体育祭の日、秋晴れの空気は吸いこむとほの甘い。ふとまわりを見渡せば、女生徒たちはみな思い思いの差し色を身に着けているようだった。中学一年生から高校三年生まで、学年ごとに纏う色はそれぞれ異なる。たち高校二年生の「学年カラー」は青だった。だからこそ選んだ、水色の靴ひもだ。は足の甲できつく紐を締めなおし、リボンの向きを指でととのえてから、深呼吸と一緒に自分の控え席から立ち上がった。

ちゃーん、昼休みのチアかわいかったよ」
「わっ、うれしいです」

 階段状に鉄パイプの足場を組んで作られている応援席を降りて、中学三年生の組体操を横目に見ながらグラウンド沿いを歩き、半地下のピロティーへと石段を駆けもぐる。その間、数十メートル。道すがら、綱引きを終えて引き上げてきたバスケットボール部の三年生が数人、通りすがりにを呼んだ。「かわいい」も「うれしい」も、なんとも心もとない、浅薄な言葉だ。きっと三秒後には言ったことも言われたことも、言葉以上のものにはならず、融けていく。
 がピロティーに辿りつくと、そこはすでに最終種目の学年対抗リレーに参加する生徒たちのざわめきで満たされていた。しっとりとした冷気が日陰に浸されたコンクリートからたちのぼってくる。友人の姿を見つけて小走りになりながら、は人知れずかすかな身震いをした。

「緊張するね、やっぱり」

 バトンをつないでいくといっても、走るときは誰もがひとりきりだ。自分ひとりを試されているような心地がする。そんなとは対照的に、陸上部の友人は至ってリラックスした様子で、軽く笑いながらぶらぶらと手首と足首をほぐしていた。

「大丈夫だって。うちの学年、今年は足速いの揃ってるから」
「でも責任重大だよ? 順位がかかってる」
「優勝争いってわけでもなし。先に差つけといてあげるから、は気楽に走んなよ」

 友人は気楽にそう言うが、この一戦は考えようによっては優勝争いよりも険しいものだと、は思う。白鳥沢の体育祭は中学一年生から高校三年生までの学年対抗で競われる。中学生のうちは順当な位置で終わるばかりでおしなべて退屈なものだが、高校生にもなると「下剋上」もままあることだった。今年は高校一年生と二年生が一種目ごとに抜きつ抜かれつの熾烈な争いをくりひろげている。このリレーでひとつ年下の後輩に負けてしまえば、最終順位もきっと入れ替わってしまうだろう。やはり責任、重大だ。
 毎年持ち回りで各運動部から一人ずつ選手を出さないといけない決まりのせいで、は今、ここにいる。けれども彼女がチアリーディング部の一員としてリレーに参加することが決まったのは、夏休みが明けて少し経ってからのことだった。もともと参加する予定だったチームメイトが腕を骨折してしまい、他の種目との兼ね合いであれよという間にに大役がめぐってきたのだ。足が遅いわけでもないが、そこまで速いわけでもないにとって、それははっきりと大仕事だった。

 誘導係の笛が鳴り、学年ごとに固まって円陣めいたものを作っていた選手たちが、円状から直線へとかたちを変えていく。赤、青、白、黄、紫、緑。ひと学年に八人ずつ、ビブスの色が連なり虹のようだ。も第一走者の友人と別れ、おとなしく列に混じって待機していると、もう間もなくグラウンドに移動するという刻限になってようやく、の目の前に八人目の走者が滑りこんできた。視界を遮る、大きな背中。日なたの風の匂い。たち青組のアンカーは、誰にも混じらない鮮やかな赤茶色の髪をしていた。

「天童くん、がんばろうね」

 としては心がけて愛想よく声をかけたはずだったが、天童は構わずビブスを頭からかぶり、無視をする一歩手前でやっととなりの彼女のことを見やった。伸びでもするように、指先を組んで長い腕を胸の前に突きだしながら。彼の両手の指にはところどころテーピングが巻かれていた。は部活柄、様々な運動部の選手たちを見てきたけれども、彼らは体を動かすとなるとこの白いテープを四肢のいたるところに巻くのだった。なぜだか痛々しいような気がして、はあまり好きではない。

「うん。よろしく、さん」

 はっとしたのは、今初めて、彼に名前を呼ばれたような気がしたからだった。自分の名前ひとつに新鮮な驚きがある。その驚きこそが、今の二人の距離をかたどっていた。

 天童の所属している男子バレーボール部は、なんといってもどんな部よりも多く、たちチアリーディング部を華々しい舞台へと連れて行ってくれる。夏と冬、年に二回の全国大会の切符を逃すほうがめずらしいたいそうな強豪チームで、天童も二年生ながらその中心選手として活躍している。
 それでもは天童のことをそこまで知っているわけではない。むしろ、知らない。同じクラスになったこともなく、このリレーの練習を通して顔を合わせるようになるまで、「男バレのひと」という括りのなかでしかは天童と出会ったことがなかった。の前での天童はたいてい無口なものだ。それも、話せないというより、話したくないといった無口さ。名前を呼ばれただけでも驚きが胸にせりあがってきたのは、そのせいだろう。たった一言でも、初めて天童と、誰と誰でもいいような会話から抜けだせたような気がしたのだ。

「第一走者はスタートラインにお願いします、第二走者以降は順位をみて体育委員が誘導しますんでー……」

 人、人、人。人、人、人……。

 古臭いおまじないの通りに、は手のひらに「人」の字を書いて何度も飲んでみたが、心はうらはらにおびただしい数の人に飲まれていきそうだった。グラウンドを取り囲む生徒たちの視線がすべて、ひとところに集まっている。大丈夫? そんな声が耳に届いたような気がしたが、返事をできたのかも定かではなかった。スタートを告げる空砲が高々と打ち上がる。それから先はあっという間のできごとだった。大歓声と、刻一刻と迫りくる自分の出番に、は平常心をみるみる失っていった。

 白いペンキの缶を足もとにひっくり返してしまったみたいだ。今まで当たり前に見えていたものが見えなくなって、どろりとした粘液がまとわりつくように、自分の足が法外に重たく感じられる。バトンを受けとり、とにかくは懸命に脚を前に運んだ。呼吸の仕方を忘れ、すぐに喉もとに苦しさが溜まっていく。
 絶対に足もとを見てはいけない。前だけを。
 そう思えば思うほど、足の先が、そのゆくえが、気になって気になって仕方なかった。陸上トラックの弾力ある地面を蹴って、蹴って、風を切る。自分の脚が、自分のものではないみたいに回っている。苦手な最後のカーブを越えたとき、一面の白に、鮮やかな亀裂が走った。
 それは、ほどけた水色の靴ひもだった。

さん!」

 は一瞬、あらゆる重力の足枷から自由になった。無秩序に声援の飛び交う大変なざわめきのなかで、名前を呼ぶその声がたったひとつ、崩れ落ちたを引っ張り上げる。強制的に。立ち上がり、一心に前を向く。もはや十数メートル先の彼は正しい向きでバトンを待ち構えてなどいなかった。いつでもスタートを切れる姿勢は崩さず、目はを迎え入れるように、しっかり見据えている。バトンが手の内に入るまで、天童はけっして足を動かさなかった。助走などいらない。彼の走り方は、はなから異邦なのだ。

 天童は長い脚を大きくつかってまるで一歩ずつトラックを飲みこむようにして悠々と走った。口を開けた鮫のようなストライド。彼の目の前にあったすべてが、またたくあいだに彼の後ろへと追いやられていく。陸上競技の訓練や練習を積んでいる者ならば絶対に真似しないようなでたらめな足の動かし方、腕の振り方。それでも彼は速い。練習のときよりもずっと。

 今までの練習を、一度も本気で走っていなかったのか。本番に実力以上の力が湧いてでるのか。それとも、の感覚が狂ったのか。
 軽々と一周分のトラックをたいらげて、最後の直線。彼を邪魔するものはいつの間にか何もなくなっていた。ゴールテープがはち切れる。はなぜだか、涙が出そうになっている。

 地鳴りのような歓声だった。内臓が揺れているのが分かる。バトンを手放してからずっと待機列にも入らずにへたりこんでいたは、両の耳ではなく、動かない脚を通じて、しばらく途切れそうもない群れなす声の波音を聞いていた。



っ、怪我してない? 派手に転んだからびっくりしちゃった……」

 いつまでも立ち上がらないでいるに、一緒にリレーを走った運動部の女子部員たちが駆け寄ってきたとき、の視線の先で、ずっと膝に手をついて忙しく呼吸していた天童がゆっくりと顔を上げた。、大丈夫? そんな声に呼び覚まされて、はっとも、顔を上げる。

「ごめんね、わたし、みんなのリード台無しに、」
「いいって! 結果一位だったし」
「天童はっや。ちょっと引いたわ逆に……」
「そんなことより、いちおう保健室行っとこ?」
「うんでも……あっ、天童くん!」

 間違いなくこの晴れのレースの主役だというのに誰とも勝利を分かちあわず、そそくさと退場しようとしていた天童を、は慌てて追いかけた。一度の呼びかけで、そうやすやすと彼は振り向いてくれない。はもう一度、天童くん、と声を張りあげた。左手のバトンをくるりと手癖のように一回転させて、天童がなんともだるそうに足を止め、振り返る。

「あのっ、あの、ありがとう。わたし、転んだのに……」

 その先の言葉がうまく見つからない。だって分かっている。わたしが、わたしが転んだから、転んだわたしのために天童くんが走ったわけではない、ということ。それでも、はどうしようもなく彼の走りに救われたのだ。天童は咳をひとつしてから口をひらいた。掠れた声だった。

「そんな靴ひもつけて浮かれてるから」

 言葉もない。自分から「がんばろうね」などと声を掛けておいて、このざまだ。足が速いだとか遅いだとかいう以前の、心構えの問題だ。はしゅんとして足もとに視線を落とした。天童の言う通り、自分はこのお祭り騒ぎにはじめから飲みこまれていたのだ。

「ごめんなさい……」
「今さら謝られても」

 にべもない言い方ではあったが、その声には爪先ほどの奇妙な笑みが掠めていた。あんなに息苦しかったレース中よりもずっとずっと胸がふくらむ心地がする。ふくらんで、そして、破裂寸前で息を止めてる。は、そんなはずはないと思いながらも、天童が笑っているところを初めて見たような気がして、切なくて口ごもった。

「まあ、よゆーじゃつまんないし。いい運動になったよ」

 もう一度、天童がバトンをくるりと回す。これみよがしに器用な指だ。踵を返した天童に、はどうしてか、とめどない名残惜しさを感じていた。やだ、まだ、行かないで。そんな出どころ不明のわがままをぶつけられるわけ、ないのだが。

「あっ、待って、天童くん」
「まだなに……」

 再びのほうを向いた天童の目がはらりと見ひらく。天童だけではない。その場にいて、雑談しながら引き上げてゆく他の生徒たちも、似たような目をしてを見た。それでも彼女は構わない。が一気呵成に、両手で包むように触れたのは、大きくて平たい天童の右手だった。指先にびらびらとくすんだ白のテープが不格好にくっついている。手汗ではがれてしまったのだろうか。突然の予期せぬの行動に、天童は不覚にも軽く握っていたバトンを手放してしまった。間抜けな軽い音がして、プラスティックの青筒が落ちる。愛らしいリボンのかたちを忘れた、ほどけた水色の靴ひももそのままの、だらしのないの足もとに。

「えっと、天童くんもほどけてたから……」

 それはいちかばちかのつまらない口実のような言いぐさだったが、ふしぎとにはためらいがなかった。ためらいのない言葉は、その意味はどうあれ、ひとを怖気づかせ、静かにしてしまうちからがあるものだ。はがれたテーピングごと指先をやわらかく握りこみながら、腕をもたげ、見上げる。潤った黒目と乾いた黒目が火打石のようにぶつかると、ようやく天童もこのささやかなからくりに気づいてしまったようで、なんとも言えない顔ですぐに視線を逸らしてしまった。天童の伏せた目の先に、二人を繊細につなぐ手と手がある。するりと、なかなかに乱暴な仕方で、すぐに彼の手は引っ込められた。わずか数秒のできごと。けれどもその数秒は、今までの二人の延長線上には、きっとない。

「……どうせもう取るから、放っといて」

 破裂寸前の胸のふくらみが、無残に割れることなく、花ひらくように甘怠くほころぶ。そのとき、鳥肌になってふつふつ湧いてきた実感。わたし、今、天童くんを困らせている。天童くんが、わたしに困っている。そういう、またとない実感。
 足早に離れていく背中を見送りながら、はこの感覚を全身にめぐらせている。毒か薬かも分からずに。
 勝手なことでしょうか神様。は、王子様を見つけてしまいました。逆立ちしたって彼はそんな柄じゃないって、笑われてしまうかもしれないけれど。









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2016.10