2 - シュガー・クライマー

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 どこからともなく溢れたその小さな願いは、透明なサイダーの底からのぼりたつ微細な泡とそっくりだった。胸に浸せばぱちぱちと甘くこころよい刺戟に囚われる。十四歳の夏休みの一日だった。テレビ越しのそれが、そこに映るものが、には貴い祈りの集合体に思えた。

 その年、白鳥沢の硬式野球部が十何年かぶりに夏の甲子園に出場を果たしたので、も寝ぼけまなこをこすり、冷たいソーダ水を飲みながらぼんやり八月の朝の試合を家族と一緒に観ていたのだ。野球のルールなどこれっぽちも知らないにとって、エースピッチャーの投げる白球のゆくえより、時おり画面に映る、きんきんと照る太陽の真下で踊っているチアリーダーたちのほうが親しみ深く感じられた。目が覚める。中学生の時分に、高校生の姿は大げさなくらい眩しく見える。きっかけは些細なことであっても、思い立つとはいつも一直線で、良くも悪くもよそ見や寄り道ができない性分だった。

 生まれたてのヒヨコのようなものだ。雛鳥が初めて目にした、それ。はそういう運命を、すぐに信じてしまう。裏切られたことがないから。
 あれからもう三年の月日が流れたていたが、白鳥沢の野球部はあの夏以来、一度も甲子園の土を踏めてはいない。その間、白鳥沢の男子バレーボール部は、何度も県大会で優勝し、幾度となく全国大会へと駒を進めている。甲子園は、どんなところだろう。東京よりもずっと遠い場所。にとって憧れはまだ幸福な憧れのかたちを保ち、胸のなかを漂っている。



 体育祭が終わって一週間が過ぎた。十月も終わりに近づき、大気の粒も涼やかな温度で肌をすり抜けていく。
 そんな折、はひとり、格技館の裏手に降りる石段のふもとに腰かけてじっとしていた。何をするでもない。むしろ何もできなくて、何もする気が起きなくて、そうしている。格技館の壁の向こうでは、だんだんと柔道部の活気が集まりだしていることが分かる。彼女は携帯電話も腕時計も何も持ちあわせていなかったが、もうすぐ放課後の始まりを告げるチャイムが鳴ってしまうのだということは分かっていた。
 どうしようもないのでなんとか腰を浮かそうと足先になけなしの力を込めたとき、思わぬところから声が飛んできて、は再び脚のちからを失った。小石や砂利の残る石段にしりもちをつき、短いスカートの裾から伸びた太ももの裏側が少しちくちくとした。

「何してんのこんなとこで」
「……天童くん!」

 自分の声に、自分でびくりとする、頓狂な第一声。今、何をしているのかと尋ねられれば、途方に暮れていると言うほかない。そんな身も蓋もない返事を考えもなしにしてしまいそうになって、はむっと口を結んだ。
 天童が顔を出したのは自転車置き場とゴミ捨て場へと通じる細道からだった。校舎棟から体育館へと向かうには、確かにここはちょうどいい穴場の近道かもしれない。雑草だらけで「道」と言えるのかあやしい隙間ではあったけれども。

 体育祭が終わってよりこちら、は一日一回は天童の目に留まろうと、人知れず細かい試行錯誤を繰り返している。はこの一週間で、自分の一週間と、三つクラスの離れている天童の一週間とが折り重なるタイミングについて学んだ。その学習成果によれば、それなりに無理をしなければ二人の学校生活の歯車は噛み合わないということだった。だから、移動教室に向かう時間を早めたり遅らせたり、わざと天童のクラスに行く用事をつくってみたり、はたまた、放課後の練習を終えてからも少し部室で油を売ってみるだとか、彼女なりに小さな工夫をあれこれ思案している最中だったが、まさかこんなところで天童のほうから声をかけてくれるとは、にとってこれは願ってもいない邂逅だった。また、考えるよりも先に、の心が駆けだしていく。あのとき天童の手のひらを包んでしまったように。

「あっ、あのね天童くん、お願いがあるんだけど」

 朝の廊下での「おはよう」、放課後の下駄箱での「ばいばい」、体育館や部室棟ですれ違うときの「がんばってね」。一週間積み重ねた挨拶は思えばどれも一方的なもので、彼はいつもにあいまいな会釈しか返してくれない。そんな天童がはからずも、目の前に、自分の前に、立ち止まってくれている。ゴムまりのようにの心臓は跳ねて跳ねて、仕方なかった。

「保健室まで、連れてってもらえませんか」
「……何しろって」
「ううん……お姫様抱っことか」
「むり」
「冗談、だよ。手貸してくれたら、歩けると思う。ちょっと捻っちゃって」

 へらりと薄く笑って右足首をさすってみせると、と距離をとり、まるでうさんくさい手品でも観察するように気色ばんでいた天童の表情が、ふと途絶えた。石段に近づいて長い脚を窮屈そうに折り曲げ、彼はおもむろにと同じ目の高さまでしゃがみこむ。天童は似つかわしくもないやけに神妙な面持ちで、の右のくるぶしのあたりをじっと睨んでいた。

「……体育祭で転んだところ?」
「ん、うんと、それもあるけど、もとから癖がついちゃってて。踊ってても、たまにぐきって」

 話の途中、脚につけていたレッグウォーマーを天童が無遠慮におしあげたので、はしゃっくりしたときのように息が止まってしまった。
 彼女は今、Lサイズのぶかぶかのトレーナーにチアリーディング用のプリーツスカートを合わせた、へんてこな格好をしている。こんな格好で何をしていたかというと、振り付けの覚えが悪いは、たまにこの場所でひとりダンスの振りの確認をしているのだった。天童の手が何かを確かめるようにの骨の上を這う。それはみずみずしく冷たくて、信じられなくて、のぼせてしまいそうになる手つきだった。

「かついだほうが早い」
「えっ、い、いいよ。そんなの」
「これ、膝かけて」

 天童は着ていたブレザーをさっさと脱ぐとに押しつけ、エナメルのショルダーバッグを背中にまわして背負いこんだ。問答無用で託された天童のブレザーは、こうして手にしてみると改めて自分とは全く違う大きさだということが、にもよく分かった。脱ぎたての淡い体温のなごりが指先に伝播していく。彼女にとってそれは火よりも熱く感じられた。できたての、恋の熱だった。

「寒くないよ、わたし」
「そうじゃなくて、下着見える」
「いちおう、アンスコってゆって、見えてもいいやつ穿いてるけど……」
「男にはあんまり違いないから」
「うん……」

 頑として譲らない天童に折れるようなかたちで、は疑問符をちらちらさせたままぎこちなく頷いた。与えたブレザーがの剥きだしの両膝をすっぽり覆うのを確かめてから、彼女の小さなふたつの膝の裏に、天童は片腕をさしこむ。肩つかんで、と素っ気なく命じられ、言われるがままには右のこぶしで天童のシャツを握りしめた。これではきっと、皺になってしまう。それでも、肩に腕を回すことなんて、できるはずがない。

 天童はが思っていたよりもずっと軽々とその行為をやってのけた。重たさに顔をしかめるでもないし、腕も足さばきも頑丈で、何より戸惑いも迷いもなかった。何を思っているだろう。何を見ているだろう。はずっと、天童の鎖骨の下あたりのシャツをつかんでいる自分の右の手の甲とにらめっこをしていた。頭の芯がおぼつかないのは、指先に意識が集中しているせいだろう。自分の指がつくっている皺の一本一本に至るまで、今のには非常な気がかりだった。

「来週、いよいよ春高予選だね」

 さすがのでも、この距離でそう無頓着に天童を見上げることはできない。廊下で誰かとすれ違うたび全身が縮こまっていく心地がして、はその窮屈さから逃れようと、なんとはなしに天童に話を振った。自分の右手から目を離さずに。

「え……ああ」
「応援、楽しみだなあ。決勝の……それまでに、もすこし足治さなきゃ」
「そう」
「天童くん、お父さんとかお母さんとか応援にくる?」
「実家けっこう遠いから」
「そうなの? どこ?」
「登米の北のほう」
「そっかあ……じゃあ、さみしいね」
「いや、別に……」
「かっ、」
「え?」
「あっ、えっと、……彼女さんとかは、観に来たりするのかなって」

 一瞬、二人のあいだの空気がぴたりと封じられたように止まる。天童の心の内は知れないが、は自分の愚直さにいよいよ驚いて息を止めた。口先の軽率さを責め立てるように心臓がわたしを足蹴にしている。暴れている……。はようやくまばたきの端で視線をずらした。天童が締めているグラフチェックの紫紺のネクタイ。その緩い結び目。喉仏の浮いた白い首筋。それ以上、視線を持ち上げることはままならなず、ぎゅっとちからをこめて瞼を閉じる。

「いないよ、彼女なんか」

 早口ではあったが、はっきりとした声だった。頂点に達していた心臓の駄々が、その一言をさかいめにしてすっと鎮まっていく。自分の幸せがいちばんに大切な、げんきんなたましいだ。は何かに導かれるようにして顔を上げた。胸もとから刺す視線に気がついて、天童がひとときだけ目の奥をに差し向ける。感情なんて読み取れなかったが、はいま自分の感情だけで手いっぱいで、他人を量っている場合ではなかった。

「ほんとうに?」
「いたらこんなことしてなくない?」
「そっ、じゃあ、……じゃあ、わたしが、立候補してもいい?」

 そしてまた、二人のあいだに流れる空気が堰き止められてしまう。そのしどろもどろで、不格好な問いかけが、にとって生まれて初めての異性への告白だった。そういう意味での、告白。天童にとってどうかは知れないが、これが二人の共有できる初めてであったらどんなにいいだろう。天童の目はまるで動物のそれのように大げさに伸びたり縮んだりする。まるく尖った黒いまなこがの言葉を値踏みするように、彼女の裏側を読み取るように、抜け目なく彼女を貫いていた。

「俺の彼女に?」
「うう、ううん」
「は?」
「うん!」
「……俺のこと好きなの?」
「すきになっちゃった……」

 天童の心臓の真上に皺をつくっていた手を離し、は両手で口もとを覆った。すき、と。もう、体育祭の日から心のなかで何度も唱えていたはずなのに、声にだすとそれはまるで違う響きと、意味と、引力を持っていて、自分の言葉に耐え切れなくなってしまったのだ。表情が手のひらの向こうに隠れ、ただうっとりとした水晶体の光だけが天童に注がれている。いつの間にか彼の足は止まっていた。校舎の端の目的地に辿り着き、これ以上進む道もない。潮騒のように遠く遠く、鼓膜をつんざく女生徒たちの甲高い笑い声が届いて、天童は思いだしたように膝を慎重に折り曲げた。呼吸を整えるかのような溜め息を重たく吐きながら。

「なんか、恥ずかしいとかないんだね、さんて」
「恥ずかしい、よ? 心臓が痛くてしにそう……」

 そうだ、恥ずかしい。だってけろっとこんな告白をしてのけたわけではない。けれども、思えばリレーが終わったあとのあのふるまいといい、この一週間のささやかな努力の数々といい、はどうしてだか天童を前にすると糸がほどけるように素直になれてしまうのだ。素直が過ぎて、自分自身でもつかみどころがないようなそんな自分が、ここに生きている。
 天童がゆっくりと身を降ろしてくれたおかげで、は挫いた足でもさほど痛みを感じることなく立つことができた。けれども時にはひとりの足で立てない拙さや立たないずるさが、ひとを動かすこともある。右腕に抱えた彼のブレザーをはなかなか返すことができなかった。ぐずぐずとためらって、また天童のことを困らせている。二人とももう、部活動には大遅刻だ。

「最初はお試しでも、いいの。好きじゃなくても。だから、」

 差しだされた天童の手に、腕に、はおそらく彼の欲しているものとはまるで違うものを返した。皺くちゃの彼の左胸に頬を押しつければ、そこに打ち寄せている鼓動が自分のそれとさほど変わりないぐらい、ひどく乱れていることに気がついてしまう。両の上腕をつかまれ、はすぐさま引きはがされてしまったけれども、かえってははっきりと天童の動揺をつかまえることができた。二人に何センチの身長差があるか分からないが、うんと顔を上げて、は天童のことだけを見つめた。

「わたしのこと、たくさん試して」

 ――天童くんは、やさしい。こんなに無茶なことを言っているのに、無理なことを吹っかけているのに、呆れた、面倒臭そうな顔ひとつしないで、わたしの願いに耳を傾けてくれている。
 生まれたてのヒヨコと同じだ。雛鳥が初めて目にした、それ。天童覚という一人の男の子も、この恋も。はそういう運命をすぐに信じてしまう。裏切られたことが、ないから。









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2016.10