6 - 17才はもうこない

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 この冬一番の、そしておそらく最初で最後の大雪が降って、グラウンドも、通りも、中庭も、屋根という屋根も、世界は一夜にして白銀色に染まった。澄んだ晴天の真下でも、厚く降り積もった雪はとうぶん溶けてなくなりそうもない。数十年に一度の大寒波が到来したのだという。足首を覆うスノーブーツが埋もれてしまうほどの雪を、はずいぶんと久しぶりに見た気がした。ひとつ前の冬も、ふたつ前の冬も、薄い膜のような雪が二三積もったきりだったから。どうせ積もるなら昼中もずっと降り続いて、学校に行けなくなってしまえばよかったのに。自分でも自分らしくないと思う、そんな後ろ向きな気持ちをなんとか引きずって、は足裏で刻印を押すように、雪道をざくりざくりと踏みしめた。

 高校二年生でいられる日々がもうすぐ終わってしまう。最終学年に上がれば、この場所に居ながら、この場所を離れていくことをうんと考えないといけない。そう思うと、はもうここから一歩も動きたくないという、甘えた気持ちになるのだった。温室の外では呼吸のできない植物はたくさんあるだろう。あとどれぐらい、芽吹きのひとつひとつに水を遣っていられるのか。冬の底まで潜っていても、ここはいつでも、ほの温かい。

~、天童が告られてる」
「えっ、やだ!」

 部室の窓の結露を手の甲でぬぐいながら、弾んだ声で絶望的な報告をしてきた友人の背中に、は追いすがるようにして即座に抱きついた。肩甲骨のあたりに顔をうずめて、頭突きでもする勢いでひたいをすりつける。の仕草がくすぐったいのか、反応が可笑しいのか、彼女はくっきり輪郭のついた気持ちのいい笑い声を立てた。

「と思ったら、女バレの一年と話してるだけだった。雪かきに駆りだされてんね、バレー部」

 ほらあそこ、とグラウンドの方向を指されても、にはその光景を目撃するだけの勇気をみちびきだせなかった。砕氷をかぶったみたいに心臓が縮みあがっている。彼が異性と話しているところを見るだけでも、こんな心持ちではとても耐えられそにもない。

「……なっちゃんひどい」
「ショック療法になるかと」
「何それ」
があんまり辛気くさいから」

 腰に回した腕を払いのけられて、は逆に、払われた手に手を重ねられてしまった。仰々しい説得か何かが始まりそうな静かな手つきだ。はちからなく、こうべを垂れる。これから何を言われるのか気まずいほどに勘づいてしまったのだ。

「いいの? チョコ渡さなくて。いつものノリでちゃちゃっと渡してきなよ。自信作だから食べて~って」

 今日という日の意味を、誰もが知っている。
 授業のない平日の昼下がり、チアリーディング部の部室はチョコレートの幸福な匂いで満たされていた。めいめい持ち寄った菓子類を、昼休憩のあいだ、部員みんなで分け合っていたのだ。
 は毎年この日のために、母親と一緒に、マシュマロをたっぷり乗せたブラウニーをつくる。それを大量に用意して、タッパーに詰めこみ、出会った友人たちには誰にでも勧めていた。けれども、ほんとうに渡したい相手に、ほんとうに渡したいものは、これではない。かばんのなかに眠っている特別なラッピングの正体を、何より自身がいちばんに見破っていた。

「……でも、だって、……今さら、だし……」
「ばっちりチョコ用意しておいて、なに遠慮してんのよっ。それこそ今さらでしょ」

 ばちん、と容赦のないチョップが前髪の上に落ちてくる。痛かったが、それが紛れもない慰めと励ましなのだと知っているから、はそれ以上弱気なことは何も言えなくなった。
 は、部室のベンチの上に放ってあった自分のかばんをおそるおそる、見据えた。なんの飾りもついていない、くだびれた合皮の通学かばん。天童が結んでくれた水色のリボンは、遠慮げに軽く結ばれていたので、一日足らずでほどけてしまった。痛みの滲むひたいを指のはらで撫でながら、考える。わたしはこんなやわな痛みで諦めてしまえるほど、彼や、彼との恋に、何も望まなかったのだろうかと。



 体重をかけすぎないようにそっと、忍び足でもするように部室棟の外階段を降りても、錆びた鉄骨階段は一段踏みしめるだけでぎしぎしと悲鳴を上げた。まだこのあたりは雪かきの途中のようで、そこかしこに中途半端な雪の山ができている。部室棟のすぐ裏手、グラウンドの一角に賑やかな声の群れがあると、ここから耳を澄ませていてもよく分かった。
 コートを羽織り、紙袋をひとつ手に持って、勢いで部室を飛びだしてきたはいいものの、はもうすでにこの場で立ちすくんでしまいそうだった。人目もはばからず、触れたい一心で天童の手を握りこんだ、秋空の下の大胆なはもう居ない。白い息を指先に吐いて、それでもなんとかは軒先から踏みだそうと、あるだけの決意を振り絞った。

「天童さんならそっちじゃなくて、向こうでかまくら作ってますよ」

 それはまるで、臆病な心を透視されたようなタイミングだった。
 聞き慣れない声の呼ぶほうを振り返ると、反対側の軒先の端から、背の高い男の子がひとり、ひょっと顔を覗かせていた。彼は手に持っていたスコップの先でコンクリートをカンカン言わせながら、遠慮なくこちらへ近づいてくる。言葉を交わしたことはないが、知らないわけでは、ない。は紙袋を背に隠し、寒さに縮こまっていた背筋を張った。

「あっ、そうなんだ、かまくら……」
「雪集めてるだけですけど。あれ絶対崩れますよ、すぐ。近づかないほうがいいです」

 淡々と臆さずに喋り、スコップの赤い持ち手を左から右へと持ち変える。初めてこの距離で見上げてみると、彼はちょうど天童と似たりよったりな背丈をしていた。見上げた感じが、同じだ。それだけでなんだかふつりふつりと、は頭の芯が煮えてくるのを感じた。

「……あー、俺」
「一年の川西くん、バレー部の」
「え、はい」
「よかった、合ってた」
「すごい。チアのひとって、ほんと覚えてるんですね」
「春高、出てたから……」

 の最後の言葉を聞いて、川西はまるくしていた目をさらに見ひらき、淡い感嘆の意をこめてまばたきをした。「出てた」といっても川西が出場したのは初戦のたった一試合、三年生のミドルブロッカーが捻挫の治療をしている間に、代打でほんの数分コートに立っていたに過ぎなかったのだ。それでもは、彼がいちどスパイクで得点を決めたとき、揃いの声援のなかで彼の名前をコールしたことをまだ覚えていた。

「天童さん呼んできましょうか」

 川西くんはわたしが、天童くんに用事があるということを、当たり前のように見抜いている……。はそのことにようやく気がついて、もう、まともに川西の目を見られないような気がした。どれほどのことを、どこまで、知られているのだろう。天童くんは、わたしのこと、誰かに話したりするのかな。どんなふうに話したのかな。気になるよしなしごとが溢れないよう心に蓋をして、は明るく首を振った。

「ううん、いいよ。終わるまで待ってるから」
「当分終わんないすよ、雪かき」
「いいのほんとに、約束してるわけじゃないし……」
「約束なんかいらないでしょ、別に。なんで遠慮してんすか」

 遠慮、している。ついさっき仲の良い友人に突きつけられた一言を、初めて言葉を交わした年下の男の子にも投げかけられ、偶然なのかただ自分の態度があからさまなのか知れず、はあいまいに頬をこわばらせた。すみません、とどこか慌てた様子で川西が言葉を付け足したのも、のその表情のせいだったかもしれない。自分の分かりやすさのせいで、彼に気まずい思いをさせてしまった。なんとかこの過ちをうやむやにしようと頭を回してみても、回せば回すほど中身の伴わない自分の思い悩みを、恥じるばかりだ。

「たーいち、のことナンパしないでくれる」

 沈黙に陥りかけた二人を掬いあげるように、二人を唯一結ぶことのできる張本人の声がして、と川西は同時にはっと首を動かした。

 、と自分の名前が、彼の白い息になっている。太陽の光の粒がまぶしく視界を遮るように、彼がかたちにした下の名前は、それだけでのことを容赦なく引きつけた。それ以上のことを考えられないぐらいに。
 天童は、あっちでかまくらをつくっている、と言った後輩の指先のゆくえをまったく裏切って水飲み場の陰から現れた。手に、オレンジ色のキャップのついた小さなペットボトルを持っている。どうやら部室棟脇の自販機まで温かい飲みものを買いに来ていたらしい。

「してません」
「存在がナンパなんだよな~」
「なんすかそれ。ちょっと話してただけです」
「はいはい、あっち行った。一年がサボってんな」

 天童がめずらしく先輩らしい少し乱暴な一言を添えて、犬でも追い払うようなそぶりで右手を振る。川西は思いのほか従順で――との沈黙と離れたかったのかもしれないが、彼女に小さく頭を下げると、もと来た軒先の向こうへと走っていった。先輩後輩どうしの親しい会話も、川西が会釈してくれたことも、背景に退くのはあっという間だ。二人きりはなんとも、あっけない。
 裏返りそうな声を揺らして、が「久しぶり」と呟くと、天童は意外そうに目をひらいてから「大げさだね」と軽く笑った。そうだろうか。一ヵ月と、少し。懐かしくて泣きたい気持ちを深呼吸に変えて、も釣られたふりして、笑顔をつくった。



 男子バレーボール部の部室は、チアリーディング部の部室よりずっと広い。単純に、となりの空いた部室との仕切りを取っ払ってつかっているから、他の二倍の大きさがあるのだ。それでも人数分のロッカーと、ミーティング用のホワイトボードや、ベンチを詰めこめば、大したゆとりは残されていなかった。天童が慣れた手つきで天井の明かりと、足もとのスチーム暖房をつけていく。部室の中には至るところに着替えやシューズなどの荷物が積み上がっていたが、ひとの気配はなかった。

「わたしが入って、いいの?」
「別にいいよ。みんな雪かきで出払ってるから、貸し切り」
「でも……」
さん、なんか寒そうな格好してるし」

 ドアに背中をくっつけて突っ立ったままのを振り返り、天童がぐりっと視線を上下させる。
 さん、か。下の名前を呼ばれてしまったあとの、苗字の響きの味気なさといったら、ない。は天童に指摘されて初めて、自分の格好に意識がまわった。俯く。キャメルのダッフルコートを、ひとつも前を留めずに羽織っているだけ。その下には長袖のチアリーディング用の衣装を着ている。タイツを履いているとはいえ、確かに、この大雪の日になんとも心もとない服装だった。

「あ、これは」
「ちょっと雰囲気変わった? その衣装」
「えっ……、うん……そう、そうなの。あのね、甲子園決まったから、少し新しくして……」
「ああ。さすが気合い入ってるね、野球部サマの応援は」

 チアなんて気にしたことがないと言っていたわりに、天童は細かい衣装の違いをすぐに見抜いてしまった。もともと、そういう細かいことによく気がつくタチなのだろう。着心地を確かめるために袖を通した、新しい揃いの衣装。どこか冷たい天童の口ぶりが、にはいまだはかりかねる。「俺の応援ばっかりして楽しい?」と尋ねられたときの突き放された声色が胸に蘇り、は喉の奥に小骨がささったような呼吸の難しさを感じた。

「甲子園よかったね。すごいはりきってたんでしょさん」

 なんと返したら、いいのだろう。は登下校のときに必ず目に入る、校舎の側面に吊るされた「祝選抜甲子園出場」の垂れ幕のことを思い浮かべた。もちろん、そのとなりには、春高出場を称える男子バレー部の垂れ幕もいまだに飾ってあったけれども、もう何年も同じものを使いまわしているせいか、真新しい垂れ幕と並ぶと色褪せが目立つのだった。雑誌や新聞、地方局のテレビ取材。次々に届くよく分からないお偉いさんの祝辞や寄付の品々。応援団や後援会を巻きこんでの準備。あの場所にはとんでもない引力が働いている。は日々、それを実感している最中だった。

「……ずっとね、憧れてたの。中二のとき、白鳥沢の試合テレビで見てて、すごいなって。みんなきらきらしてて、それで……」

 途中でどうしてだか言葉が詰まって、はそのまま口ごもってしまう。別に、誰に打ち明けたことがあるわけでもない、つまらない話だ。言葉にすればほとんどないようなきっかけで、それが始まりのすべてだった。

「不純、だよね」

 しんしんと降りる冷たい蛍光灯の明かりがときおりカチッと爆ぜて、具合の悪い点滅が二人きりの静けさを邪魔している。天童が、なんであんなことを言ったのか、も心の奥底では分かっていた。自分の薄っぺらさも、そんな自分に対するもどかしさも。自嘲をこめて笑ってみせると、天童はうらはらに真剣な面持ちでから視線を逸らした。

「……別に、いいんじゃない。それが不純なら、俺もたいがい不純だし」
「……天童くん、が?」
「なんていうかな。好きなんだよね、試合してて、相手の諦めちゃった顔見るの」

 天童がすっと視線を遣った、その何もない空白には、彼が好きだという、彼が手ずから下してきたあまたの対戦相手の表情が浮かんでいるように、には思えた。表情は変えなくても、彼が、愛しい記憶を懐かしむような目をしていたから。首筋がぞくりとざわめく。は初めて天童が自分の前で、付け焼刃ではない、ほんとうのことを話しているのだと思った。

「引いた?」

 今度は天童が、自分自身を嗤うように口の端を歪ませる番だった。ベンチに座っていた天童が長い脚を組みかえて、片足をぶらつかせている。なんだか、落ち着かないように。所在なさげな天童はめずらしい。所在がない場所に、気まぐれな彼が、それでも留まろうとしているということが。
 今なら、と思った。今なら渡せる、と。は、震える足先で床を押し返した。の影が天童にさしかかる。天童が顔を上げるよりも先に、は手にしっかり握りすぎて、持ち手がくしゃりと皺になってしまった紙袋を彼に差しだした。

「引かない。なんのためにがんばったって、天童くんががんばってるってことは、変わらないもん」

 不純だとか、純粋だとか、めでたく白黒つくことなんて、この世界には一握りぽっちもないのかもしれない。はっきりとしない境界を、その境目が行ったり来たりするのを、楽しんだもの勝ちなのだと思う。誰かを好きになってしまう気持ちも、恋をすることも、子どもが夢中になって遊ぶみたいになれれば。
 色素の薄い天童の眼が、惑星のように大きな球面を描いて、やがて穏やかに弛緩する。紙袋のなかを確かめなくても、彼にはそれが何か、どういう意味を持つのか、お見通しに違いなかった。

「そうだね、さんも……」
「な、名前でいいよ」
「そこ?」
「えっ、どこ?」

 とぼけたの返答が、天童のからりとした、翳りない笑い声を誘いだす。天童は、口もとをコートの袖口で覆いながら、「俺いま、けっこう良いこと言おうとしてたよ?」といたずらっぽい目をしてを見上げた。天童くんがこうやって笑うと、全身の血が、ぐわってなるなあ。は焦っているくせに、驚いているくせに、頭のどこかにいつも実に呑気な小人を飼っている。彼が口にしようとした「良いこと」が一生聞けなくなってしまっても、呼び捨てられる名前ひとつで、背中に羽根が生えたように嬉しくなってしまうのだ。

「じゃあ、

 チョコレートを贈ったはずの両の手首をいっしょくたに束ねられる。けれども彼の手のひらは鎖ではない。手錠でもない。ただ、ほどけやすい、なめらかなあのリボンのように、違う心臓で絶えず生まれくる鼓動と鼓動を結んでいる。胸の痛みから目を背けないよう、つたない蝶々結びで、この恋を飾りつけながら。

「ありがと、諦めないでくれて。俺、今日しぬほど、学校来るのこわかった」

 それははからずも、が深い雪を切り裂きながらどうにかここまで抱えてきた心のかけらと、ちょうど同じ棘とまるみを持った想いだった。そんな気がして、は笑った。それは今日初めての、裏も表もない、淡い一枚きりの笑顔だった。
 痛い目を見て転んでもまた、バトンを拾い、膝に傷をつけて立ち上がる。ほどけてしまった水色のリボンは、いくらだって結び直せばいい。
 ふたつの温度がひとつに馴染む。付き合うということや、恋をするということ。今は分からないことばかりでも、初めての帰り道で彼が教えてくれたように、とりあえず「こういうこと」にしておこう。

 もういちどここから始める、十七歳の二人。









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2016.11