5 - 遊ぶ季節

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 ほんとうに、すぐほどけてしまう。
 足もとに落ちている水色のリボンを腰をかがめて拾いあげ、天童はさっと埃をはらった。なめらかなサテンの、冷たい手ざわり。かつての運動靴を編みあげ、今は彼女のかばんに結ばれていたそれ。いつのまに落ちてしまったのだろう。二人、というよりも一方的に、天童はを抉じ開け、乱した。そうしているうち、二人のはざまでこの結び目もを映したように乱されてしまったのだ。階下へと続く階段を見やる。今しがた彼女が駆け降りていった、その傷ついた背中の残像がまだ、そこにある。

 天童は手に拾ったリボンを指先をつかって慎重に巻きとり、制服のポケットのなかに収めた。自分ももう行かなくてはならない。体育館の点検が入っているなんて口から出まかせを言ったが、あれはに鎌をかけただけのその場しのぎの嘘だ。あれが嘘だと分かったら、彼女はまた泣くだろうか。泣いてたよな、今。天童は自分の忌々しい記憶に念を押す。

 年が明け、天童たち男子バレーボール部はすぐに東京へと向かった。大会の会場でを見かけたけれど、話す機会も、目が合うことすらなく、それきりだった。二人を結んだ、ほどけた水色のリボンはまだ、天童のポケットのなかにある。



「そっから先、男子禁制なんですけど」

 部室棟の外階段を上がったところでどうしたものかと思案していると、背後から手厳しいお咎めを食らい、天童は素早く振り返った。冬休みが明けた最初の土曜日、バレー部の天童にとっては部活動の昼休憩の時間だったが、一般生徒にとっては四限までの授業が終わった頃合いだろう。各クラスのホームルームが済んで、部室棟がしだいに慌ただしさに満ちていく。天童は狭い通路でべたりと壁に背中を貼りつけ、声を掛けてきた女生徒のため道を譲った。部で揃いのロゴが入ったトレーナーをコートの下に着こんでいる。彼女はちょうど、チアリーディング部の部員だった。

「部室、さん来てる?」
? ……あー、はいはい。ちょっと待って。なっちゃーん、いるー?」

 何が「はいはい」なのか、妙に訳を知ったふうな口を利かれば、当然のこと居心地はよくない。男が仲間うちだけで好き勝手を言うように、ソッチはソッチで同じことをしているのだろうし、その話題のなかには自分の名前もあって、今の反応からしてきっとあんまりな評価を受けているに違いないのだ。別に、それ自体はどうってことないのだが。半開きのドアの向こうからの簡潔な返事はすぐだった。

「まだー。自主練してんじゃない?」

 チアリーディング部の部室のなかから湧いて出たその声は、部室の外どころか、数歩退いた階段のもとで立ち往生していた天童の耳にもはっきりと届いた。自主練。その一言だけでも、天童の脳内では点と点がまっすぐ線になる。

「たぶん格技館の裏のとこ。、あそこでよく踊ってるから」

 そう伝えられるまでもなく、天童にも彼女の居場所の察しはついていた。が足を挫いてつまらなそうにしゃがみこんでいる姿、自分がちょっと声をかけただけで、明かりが灯すようにはなやいだ表情。赤く腫れたくるぶし、骨と皮膚の温度。言葉の感触よりも、その言葉の受け皿になった、トンネルのような廊下のはかない静けさと、その静けさをかき消す心臓の喚きのことをよく覚えている。覚えているというより、まだあれは、過去ですらない。

「春高終わったばっかりなのによくやるよ」
「甲子園に向けて練習してるんでしょ? なんか急にやる気なってさ」
「まだ一月なんですけど。寒すぎて足動かない。てか閉めて、ドア」
「待って。今年、選抜行けんの?」

 気になる単語が鼓膜の端っこにひっかっかり、天童は彼女たちの会話から極力距離をとるようにけだるく壁にもたれていた背中を、反射的に浮かせた。ドアの内側に引っこみかけていた通りすがりの彼女が、うっすらと問いを含んだ天童の声に呼び戻される。顔だけ。未だにその場にいて、しかも会話に割りこんできた天童に、どうも少し驚いているような表情で。

「えー……微妙なとこ。でも行けたら学校中お祭りだよね。バレー部と違って、そうそう頻繁にあることじゃないじゃん?」

 早く閉めてってば! ほとんど怒号のような大きな大きな声が飛んできて、会話はそれきり、チアリーディング部の部室のドアが素っ気なく閉まって途切れてしまった。ガンガンと足音を立てて階段を降りながら、彼は、投げつけられた言葉を胸で繰り返す。
 悪意などけっしてないのだろうが、むしろ強豪の男子バレーボール部を称える含みすらあったのかもしれないが。そういえば、も春高予選の話をしたとき、当たり前のように「決勝の応援をするのが楽しみだ」と言っていたような気がする。決勝戦まで進める保証なんてどこにもないにもかかわらず。勝負に絶対はないということを忘れないで居続けるのは、実はとても難しいことなのかもしれない。ひとはきっと、ひとに期待をかけたり何かを望んだりして、なんとか手をつないでいる。夢を見る生きものなのだ。



 あの日の放課後のように急いでいるわけでもないのに、わざわざ道なき道を縫ってあの場所に赴くのは気が引けて、天童はいちどグラウンド側に回ってから格技館の裏手に抜けた。石段の頂上から、そのふもとを見下ろす。彼女のチームメイトたちの言う通り、そこにはの姿があった。一月の寒空の下、コートを脱いで、制服の短いスカートからは生脚が覗いている。膝丈のベンチコートを着こんでいるこちらがばかみたいに思えてくる、なんとも寒々しい格好だ。天童ははばからず顔をしかめた。捻挫の癖がついてる? こんな場所で、そんな格好で踊っているから、足を捻るのだ。自業自得だ。

 一段一段、石段を打つように降りていっても、背を向けて踊っているはいっこうに天童の気配に気づかないままだった。の着ているカーディガンのポケットから、彼女の耳まで、白いイヤホンコードが伸びているのが窺える。きっと応援につかう音楽でも耳に流しこんでいるのだろう。の動きを観察していると、次々に振り付けが変わってとても華やかだ。あの日、彼女がうずくまっていたあたりに天童は自然と腰をおろした。なめらかに自分の四肢をつかいこなすの後ろ姿。気づけば彼は、眺めている以上に、見入っていた。いま、甲子園球場のアルプススタンドに立っているのかもしれない、彼女に。に。

 大事なリレーの本番に足をもつれさせていたが、水を得た魚のように身軽にステップを踏む。優雅な鳥の羽ばたきのようにやわらかく腕を伸ばす。無音の世界にも、旋律が響いているようだった。軸のぶれないみごとな一回転。あわせて、プリーツスカートがふわりと花ひらく。……花、ひらく?

「きゃっ!」
「……ごめん、今のはさすがに見えた」

 不可抗力と言えなくもないが。短く叫び声を上げ、は瞬時にひろがったスカートを両手で押さえこんだ。そのはずみで、浅いカーディガンのポケットから小さな音楽プレーヤーがするっと落ちていく。イヤホンコードもろとも、コンクリートの上。はそれを拾おうともせず、むしろ気づきもせず、混乱しきりの表情でおろおろと天童を見つめていた。久しぶりに、正面から目と目でと向き合う。不可抗力ではない。自分の意思から湧いたちからで。

「えっ、いっ、いつからそこ、」
「別に、今きたとこ。うまいもんだね」
「う、」
「チアってよく居るけど、あんまり気にしたことなかったから。あらためて踊ってんの見てたら新鮮だった」

 腰を上げ、呆然と突っ立ったままののかわりに、天童は腰をかがめて彼女の音楽プレーヤーを拾いあげてやった。火照った赤い頬。上がった息。少し汗ばんでいるようにも見えても、足を止めてしまえば瞬時に皮膚は冷えていく。天童は自分のベンチコートを脱いでの肩にかけてやりたい思いに駆られたが、そんな出過ぎた真似はできないと踏みとどまった。あんなふうに言って、泣かせて、傷をつけて、自分はもはや彼女にとって、何者でもないのかもしれない。迂闊にそう思い知るのは、ごめんだと思った。

「……そんな、わたしなんか全然、へたっぴなほうだから……」

 整った睫毛をのろのろと上下させ、手のひらに音楽プレーヤーを受けとりながら、が後ろめたそうに口ごもる。天童にとってそれはたいそう的外れな言葉と態度だったが、彼は黙っての消え入りそうな声に耳を傾けていた。うまいとか、へたとか。誇らしさとか、情けなさだとか。そんな話をひろげにきたんじゃない。自分は、彼女に点数をつけたいわけではないのだ。天童はすっと小さく息を吸って、なんとか言葉の錘を削げるだけ削ぎとってから口をひらいた。

「あのね、さんにこれ、返さないとって思って」

 コートのポケットから天童がそれを取りだしたとき、は息を止めて目のふちを揺らした。驚いたのではなく、怯えたようなそぶりに映る。も分かっていたのだ。天童がその宝物のリボンを持って、いつか自分の前に現れるのだということを。

「ごめんね、あのとき」

 その先にたくさんの言葉を続けるつもりだったはずが、口のなかは空っぽで、吐きだした白い息を色づけられる持ちあわせは何もない。ごまかすように音楽プレーヤーを乗せたの手のひらにリボンを重ねようとしたが、それすらできなかった。許されなかった。さっきまでぼんやりと夢のような驚きに身をゆだねていた彼女が、素早く両の手のひらを自分の胸に押し当てたのだ。差しだされたリボンを拒むように。雨を孕んだ雲のような表情で、が目を伏せ、ぎこちなく首を横に振る。

「……いらない」
「いらないって……」
「いらない」
「捨てろってこと?」
「やっ、」
「じゃあ」
「だって ……だって、それ返してもらったら……」

 にはそれ以上を紡ぐ潔さはなかったし、天童もそれ以上を聞きとおせる自信がなかった。この水色のリボンが、童話のガラスの靴のようなていのいい忘れ物であったら、めでたしめでたしとゆくのかもしれないが。そんなかわいらしい落としものではない。それにどちらかというとこれは、午前零時の鐘そのものだ。
 溜め息さえつけないほどに、どうしようもない行き詰まりだった。も、天童も、二人が。天童はきれいに渦をつくって巻き取っていたリボンをほぐし、一本のひもに戻した。かたくなに腕を縮こまらせているに背を向け、コートと一緒に石段の上に置かれていたの通学かばんのもとでひざまずく。そして彼は迷わず手もとのリボンを持ち手にくぐらせた。

「……ここに結んでおくよ」

 もとあった場所に、もとあったように。そう思って彼は靴ひもを結ぶ要領でリボンを結んでみたが、それはどうにも不格好な縦結びにしかならなかった。いちど崩したものをそっくり同じかたちにするなんて、虫がよすぎる。そういうことなのかもしれない。
 がこの結び目に与えていたきれいな蝶々結びは、とうとう天童にはできずじまいだった。



 停滞前線のようだった一月がなんとか過ぎ去ろうとしている。もともとここより冬が長くて厳しい地方の生まれだった天童は、外の寒さにならそれなりに慣れていたけれども、室内に堆積する空気の冷たさはどうも苦手だった。部屋のなかでもコートを着ていたいぐらいだ。なんだってこの学校は校内だというのにどこもかしこもたっぷり冷気に満たされているのだろう。コーチから体育教官室に呼びだされた帰り道、天童は一刻も早く暖まった食堂に逃げこみたかった。自然、足どりも速まる。「節電」の張り紙がはりつけられた薄暗い廊下は、臓腑を突き刺す極寒の洞だった。

「あ、」
「なに?」
「すみません、さんがいたんでつい」

 並んで廊下を歩いていた後輩が不意に立ち止まって、窓の向こうを視線で指し示した。足にも、意識にも、急ブレーキがかかってしまう。川西が見つけたのは中庭を隔てた向かいの渡り廊下で立ち話をしていたの姿だ。どうやら向こうはこちらの視線になど気がついていないらしい。天童はの屈託のない笑顔を、とても懐かしいもののように感じた。身に凍みる寒さをしばし忘れる。恋しさのせいか、痛みのせいかは、分からない。

「いいんですか、あれ」

 川西が小さく息を呑む。はひとりではなかった。冷たい廊下で何人かの男女と混じって何やら話しこんでいるのだった。そのうちの二人はよりずっと背が高く、天童よりは背の低い男たち。天童は彼らのことをよく知っていた。二人は同じクラスの、硬式野球部の連中だった。そういえばもうすぐ、春の選抜大会の出場校が決まるらしい。おそらく今週中には。

「本人がいいならいいんじゃない」

 平静を装うには、そんなふうに言うよりほかなかった。話すときの距離感がとても天童のような人間には信じられないが、あれぐらいはにとってはふつうのことなんだろうと思う。思うことにする。天童が見ているとも知らず、野球部のひとりが、冗談交じりの不埒な手つきで、の髪にくしゃっと触れた。が笑って首を振り、やんわり男の手をはねのける。どこからどう見ても親しい仕草。なんの話をしてるのか。笑っているということに腹が立つ。元気そうにしていることにすら苛立っている。もうそれが正直な答えなのに、答えが出ているだけではマルもバツもつかないのだから、もどかしいのだ。

「大人しい顔しててもチア部っすよね」

 何気なく洩れた川西の言葉が、今の天童には聞き捨てならなかった。ぎろりと天童の視線がうごめき、捉えられて、めずらしく川西が少し驚いたような目をする。天童もそんな自分に驚いていた。

「……あ、いや。よく言うじゃないですか。遊んでなさそうな子が、いちばん裏では遊んでて。うちのチア人気ありますし」

 よく言うって、いつ、どこで、誰が。川西のことだから、自分ひとりの経験則ではなかろうかと疑いたくなる。後輩を責めているわけじゃない。強いて言うならばこれは自己嫌悪みたいなものだろうと天童は思った。彼の言葉の奥に、かつて自分が彼女のことを泣かせてしまった言葉と同じたぐいの、無責任な侮蔑をほのかに感じとってしまったのだから。
 遠く、の平和な笑顔を再び見やる。ひたむきに踊る彼女の後ろ姿が、季節外れの一枚の花びらのように、胸の空洞をゆらゆら落ちた。

はそんな子じゃないよ」

 。後輩の前で見得を切るように初めてその名前を口にして、思ってもみなかった格別な甘美さに、ぐらりと眩暈が全身を駆けていく。気持ちいい。気持ちいいけれど、苦しい。ここから逃げたい。かつてないわがままな気持ちを抑えこんで、天童は窓越しのから視線を外した。

 甲子園なんてさっさと行って、さっさと負けて、さっさと夢から醒めたらいい。
 逆立ちしたって俺が連れて行けない場所を、いつまでも遠い憧れのまま胸に留まらせてなどいないで。









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2016.11