「俺はー、どしゃ降りの雨んなかでヤってる、試合勝った日とか」

 どんな時でも話題の中心に居る奔放な大エースが、また、突拍子もないことを言っている。耳を疑うような言葉だったので、赤葦はもくもくとスタミナ丼を食べていた箸を思わず止めた。それが、「夢の話」だと分かっていたとしてもだ。
 休日練習の昼休みだった。四月の、それぞれ学年が繰り上がって間もない土曜日。まだ十五分ほど昼休憩が残っているというのに、食堂にはもう一年生の姿はない。ぴかぴかの新入部員は緊張と熱意を持て余しているのでてきぱきと動く。この時期は一年生が働いてくれるから楽だね、と練習前に一つ年上のマネージャーたちが言い合っていたのを、赤葦はふと思いだした。

「なんつーか、木兎らしいわ」

 溜め息まじりの相槌を打ったのは小見だったが、夢の内容にも、それをけろりと口にしてしまう態度にも、みなが一様に呆れていた。本人だけが目を丸くして、小さく首をひねっている。

「えっどこが?」
「夢の中でも能天気」
「どーせ……とヤッてんだろ。……とか」

 コップの水を飲み干して、赤葦の隣に座っていた木葉があしらうように茶々を入れる。彼が二三口にした名前は赤葦にはピンとこなかったので、どれもうまく聞きとれもしなかったが、周りの反応から察するに流行りの芸能人か誰かなのだろう。当の木兎は「はぁ?」と言いながら肯定するでも否定するでもなくからりと笑っていた。赤葦から見れば、それは余裕のある嘘のそぶりだった。きっと、三年生は誰も気づいていない。彼らはとっくに木兎を単純な生きものとして各々の図鑑のなかに収めているのだから。
 気づいていることに、気づかれないように。赤葦は会話の輪から視線を外し、箸を口に運んだ。親の厳しいしつけがすみずみ行き届いてるせいで、彼は昔から「早飯」というものが得意ではない。話すことも、聞くことも、食事中は二の次だった。

「つかさ、授業中に寝ると若干勃たね?」
「あー分かる分かる。で、そういうときに限って女子が声かけてくんだよなあ」
「次移動だったりとかな!」

 バレー部の面々しか居ない食堂にげらげらと無遠慮な笑い声が広く響く。椀の中の味噌汁の表面がかすかに揺れている。どんぶりの最後の一口をたいらげて、赤葦は冷めてしまった味噌汁を一気に流しこんだ。

「――赤葦は? なんかある、定番の夢」

 すると、対面に座っていた猿杙から、逸れてしまったと思われた「夢の話」のバトンが巡りめぐって彼のもとへ渡ってきた。集まる視線のなかで、テーブルの対角線上、一番離れた位置で目を擦っていた木兎となにげなく目が合う。なぜだか、喉がクッと締まる思いがした。砂でも飲んでしまったみたいに。
 何度同じ夢を見ても、目覚めるとすでに心の底にこびりついている風景は断片的なものになっていて、脈略のない物語を思いだすことはままならない。眠りに落ちれば容易く手に入るものが、覚醒の途端に指をすり抜けていく。それでも、ピンぼけの写真に目をこらすように、赤葦はなんとか今朝の夢のイメージを手繰り寄せた。

「……行きたい場所があるんですけど、行き方も知ってるはずなんですけど、辿りつけないんです」

 夢のなかで、待ち合わせをしているような気がした。誰と出会う約束だったのかは、誰とも出会えないのだから分からない。ただ、うすみどり色に霞む春の駅前に立ち、ここに居てはいけないと思った。もたついているうちに時間が削りとられるようにして失われていく。穏やかな雑踏。しだいに焦りが芽生え、もどかしさばかりが嵩を増していった。

「迷子になっているわけじゃないんですけど、分かっているのに足がなかなか前に進まなくて、歩いても歩いても目的地が遠のく気がして、どんどん行きたかった場所から離れていって……それで、目が、覚めます」

 淡々と話しきったそれが、誇張のない正直な夢の質感だった。水滴のついたコップを引き寄せ、指先に目を落とす。一番遠い席でまたたく、光にかざしたビードロのような瞳にぶつかりたくなかったのだ。彼――木兎は、時々その光でいやおうなく他人を居た堪れなくすることがある。こんな、暇つぶしのような話題のなかでも。

「悪夢だろそれ。こっわ」

 頬杖をつきながら話を聞いていた木葉が呟く。「悪夢」だと言いながらも、その声は赤葦の夢見の悪さを面白がっているふうだった。この、軽薄な性格。推し量る隙もない彼の軽やかさを赤葦は時に羨ましいとすら思う。ないものねだりだ。

「そうですか。夢なんて大体こんなもんじゃないですか」
「いやまあ、そうそう都合のいい夢は見ねーけどさ」

 食堂の電波時計が昼の一時を指し示していた。くだらない会話は誰からともなく途切れて、めいめい軽くなったトレイを持って立ち上がる。
 悪夢だろ、と言われて初めて、赤葦はこれが悪夢なのだと気がついた。そして、悪夢という名づけがこの夢にはとてもしっくりくるとも思った。怖ろしいわけでも、不快なわけでも、うなされているわけでもないが、あの日からほとんど毎日、自分はたしかな悪夢に晒されている。霞のような淡くけぶる夢のなか、足首によどむ焦りを蹴散らしながら歩き続けているのだ。

 うつつの地続きに不可解な夢がよこたう。そう考えてみれば、始業式の日のできごとは、ちょうど夢想と現実がせめぐ水際で揺らいでいるような気がした。
 大したことではないのだけれど。



「赤葦くん、同じクラスだったね」

 モップの柄の先端に両の手のひらを重ねて、彼女は赤葦に愛想よく声をかけた。という名前の、その女生徒。なんてことのない挨拶のようなものだったのに、彼女の声は密やかに胸になずんだ。まるで唇の前に人差し指をかざし、囁いているような。
 それは学期初めの大掃除の最中のことで、教室の内外はやわらかな騒々しさに包まれていた。赤葦はぼんやりと窓辺に突っ立って教室の窓ガラスを水拭きしていて、はおそらく教室の掃き掃除を任されていたはずだ(おそらく、というのは、赤葦には彼女がほとんど手を動かしていないように見えたのだ)。彼女は踵を上げたり、おろしたりしながら、好奇心をちらつかせた目で赤葦を覗きこんだ。

「よろしくね、一年間」
「そうだね、よろしく」
「マナに羨ましがられちゃったよ、さっき」
「ああ、フリでしょ」

 軽やかな笑みにまじえてが口にしたのは女子バレーボール部の友人の名前だった。彼女は赤葦との数少ない共通の知り合いだ。去年度まで同じクラスだった彼女をつうじて、赤葦はと出会った。出会ったといっても、昼休みの教室で二三言葉を交わすぐらいのものだったが。
 去年の夏、が一度、友人たちに連れられて男子バレーボール部の試合を観に来ていたことがある。赤葦はその日のことを印象深く覚えていた。きっと、彼女と帰りの電車が一緒になり、要らぬ気まずい思いをしたからだろう。途中まではの友人も、部の先輩も一緒にいたが、最後はがらんとした車両に二人きりになってしまった。偶然にも、彼女とは最寄駅が同じだったのだ。

「けど、わたしも楽しみだな。だって――」

 甲高い叫び声が上がって、は口を閉ざした。
 教室の後ろで不真面目に騒いでいたクラスメイトが、誤って床に置いてあったバケツを蹴飛ばしたのだ。危ない――そう思って赤葦は咄嗟にの腕を引っ張ったが、遅かった。バケツいっぱいの水がひっくり返り、不運なことに近くに立っていた数人の足もとが水浸しになった。洗いたての白いスニーカーに埃の浮いた水がはねる。赤葦は自分のズボンの裾が若干色を変えていることを見とめた。そのすぐとなりで、が目をまんまるくして足の先を見つめていることも。

さん……大丈夫?」

 の腕から手を離して赤葦は少し身を屈めた。彼女は突然のことに虚を突かれただけで、動揺しているわけではないようだった。ブレザーの袖で口もとを隠しながらがふふと笑う。の笑い方。小枝が南風にそよぐように穏やかで、頼りない。

「濡れちゃっただけだよ。乾けば平気」

 廊下から担任教師の荒々しい怒号が飛んできて、教室は手に負えない騒がしさだった。ことを起こした張本人がけだるそうに乾拭きの雑巾を足で動かしている。そんなざわめきから逃れるように、はベランダへ出るとひとり窓枠に浅く腰をおろした。南中間近の陽光が薄い雲間から射している。風は冷たいが、陽射しはもうすっかり春らしくぬかるんでいた。
 どう、するのだろう。そう赤葦が思っているうちに、は水玉柄のハンカチでソックスの表面をひと撫でした。上履きを脱いで、ためらいなく、は濃紺のハイソックスを指でおろしていく。赤葦がすぐそばに立っているのに、構いもせず。まっさらなふくらはぎが陽の下にあらわになって、赤葦はなぜだか見てはいけないものを目の当たりにしているような気になった。彼女の奔放さを知っている。彼女を通してではなく、もっと馴染みの距離のなかで。

「学校で裸足になるのって、ちょっとどきどきするね」

 親しげに話しかけてくる彼女と、その邪気のない瞳と、赤葦は目を合わすことができなかった。留められないまなざしが泳ぐ。視線の先に、光を吸いこみ、きらきらとの左の足首を飾るものがあった。
 何かと思いまばたきをする。彼女の濃紺のハイソックスの下に隠れていたもの。それは、細いゴールドのアンクレットだった。
 まばたきと同じ速度で、思わず一度、目を逸らす。
 そしてまた、春陽と一緒くたに彼女の足首にまなこを吸いこまれる。
 は両足の靴下をスニーカーの上に落として、ぶらぶらと足先を揺らした。彼女の金色がちらつくたび、指のはらに棘が刺さったときのようなこまやかな不快感が、赤葦の左胸をかすめた。痛くはない。けれど、無視できない。の左足に、誰に見せるでもない光のさざ波が立っていること。

さん」
「うん?」
「……なか入ったほうがいいよ、すぐ冷えるから」
「うん」

 うん、と応えつつは相変わらず素足を春風に遊ばせていた。
 風に飛ばされそうなその細いアンクレットについて、彼女は何も言わなかったし、赤葦も何も訊かなかった。興味がなかったわけではない。訊けば何かが狂うような気がして、なにげない一歩すら踏み出せなかったのだ。こんな春の日には似つかわしくない不吉な予感だった。まだ何も知らない、友人ですらない彼女のことを、どうしてはっきりと予感してしまうのだろう。そこに秘密があると。深く潜ってはいけない淵があると。

「なんだかいい匂いがする」

 ひとりごとのようにがぽつりと言う。肺に風の匂いを深く吸いこみながら。
 ベランダの階下には中庭の庭園が臨めた。季節の花がちらほらと庭を彩っていて今の時期はだいぶ賑やかだ。赤葦はそこに咲くいくつかの花の名前を知っていた。少なくとも流行りの芸能人の名前なんかよりは、ずっと正しく身についた知識として。彼の母親は庭先に色づく花々を絶やしたことがない。あれは沈丁花、あれはヒヤシンス。けいちゃんご覧、かわいいお花でしょう、いい匂いでしょう。幼いころに子守歌のように聞かされた花の名前は、今も記憶の奥深くに仕舞いこまれたままだった。

「……ああ、これ。たぶんモクレンの」
「え? 違うよ、食堂の……揚げものの匂い。しない?」

 が白い足の甲をさらして、素足を中庭の奥へと差し向ける。それは、ともすればはしたない行為だったが、彼女にはどこか無垢ないたずらっぽさが備わっていて、そんな仕草にも不作法ないやらしさがなかった。澄んでいて、愛らしく、憎めなかった。
 調子っぱぐれな二人の会話に、二人だけの会話に、二人で笑う。
 ――赤葦くんって、ロマンチストなんだね。
 からかうように、は春の花よりも匂い立つ笑顔を彼に向けた。



(行きたい場所があるんですけど、行き方も知ってるはずなんですけど、辿りつけないんです)

 あれから、同じ夢ばかり見る。
 目を閉じればいつも同じ風景がひろがっている。どれだけ歩いても、歩いたことにならない世界で、それでも歩いている。
 彼女の嵌めた金色のさざめきを前に、あのとき踏みだせなかった一歩を、今日も、明日も、あさっても。









後編 →

2017.3