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※ 高校二年生|モブが多いです




 平熱のまなざしが肌にひたりと触れる。温かくも冷たくもないぬるい手のひらを突然あてがわれたようで、奇妙に思って顔を上げると、すぐ、その瞳のいたずらは肌の上から逃げていってしまう。痕もしるしも何も残さずに。細小魚のように素早く、四十人のおどろに絡みあう視線の網の目をすり抜け、複雑怪奇な沼地にも似た教室のなかを巧みに泳いでいってしまうのだ。あのすばしこい尾ひれがひるがえって帰る場所に、わたしと同じ体温の在り処があるのかもしれない。いつしかそんな空想をするようになった。逃げてしまうものに、わざわざ、自分から手を伸ばそうとは思わないけれど。

、ねーってば、ちゃんと聞いてる?」

 咎めるように名前を呼ばれて、はっと顎を引く。自分でも気づかないうちに、わたしはまた顔を上向きにして窓の向こうを眺めていたらしい。何に注意を奪われていたわけでもない。ゆらゆらと視界を過ぎていく烏や雀、千切った綿のようなおざなりな雲のかたち、五月の微風がときおり揺らすカーテンの薄汚れた白、教室の床まで滴り落ちる杏色の夕陽。何もめずらしくないのに、立ち止まってはぼうっと眺める。そういう、幼い癖のようなもの。あわてて向き直ると、友人たちはみないつもの呆れ顔でわたしを見ていた。

「あ、わ、なんだっけ」
「もう、聞いてない」
はぼんやりだねえ、毎日毎日」

 ごめん、と言うすきまもなく、三人の微妙に高低の違う笑い声が重なる。ばかにされているのかもしれないけれど、笑顔を見せられると、やっぱりほっとしてしまう。言われ慣れた「ぼんやり」に今さら何を思うでもない。美しい白い手を優雅に見せつけ、茉莉が机に頬杖をついた。わたしにはとうていできない所作を身に着ける、彼女の十七年。若さは、量産型の得難さだ。生かすも殺すも、自分次第。

「だからね、理沙のシュシュがかわいいからみんなでお揃いしよって。もするでしょ」

 友達との会話の大半は、何がかわいいとか、何がおいしいとか、何がおもしろいとか、何がうざいとか、そういう話題に尽きている。くだらなくて易しくて、平和なあれこれが体内に循環することを、退屈だと思うほどわたしは贅沢ではない。ありがたいなあと思うことすらある。中学校のころの思い出話なんかが盛り上がると、わたし、いつもどういう表情をしたらいいか困ってしまうのだ。
 五月、しぶとい花粉がだいぶ落ち着いてきて、教室中をせわしなくうごめく矢印たちもめいめいそれぞれの方角を見つけだすころだった。それぞれに同じ向きにならって、小さな渦をいくつもつくる。わたしは一年のころから同じクラスの友人に、ずっとひっついていた。そしたら自然と、ひとり、ふたり、集い、四人の渦ができた。そのなかで高校から白鳥沢に入学した外部生はわたしひとりだ。大したことではないのだけれど、こんな些細なことが案外、この世界での日々を右に左に揺さぶるちからを持っていたりする。

「あ、そういえば昨日の柘植バア、マジうけんだけど……」

 茉莉が現国のおばあちゃん先生の陰口をしはじめようとしたとき、教室の後ろのドアが乱暴にひらき、四人だけの放課後を脅かす人影が突然に差した。彼女たちの、噂話をしていた口を紡ぐはやさと、しれっとした表情をつくる自然さにはいつも感心させられる。わたしたち四人のまるい眼つきは、いっせいに来訪者に注がれた。ひらいた窓と、ひらかれたドアを結ぶ風の通り道を、初夏の匂いが吹き抜けていく。
 教室に入ってきたのは、同じクラスの天童くんだった。
 新しいクラスが動きだしてひと月半。ようやく馴染んだ、まだ覚えたてのクラスメイトのひとり。彼は制服のブレザーではなく、濃いグレーのトレーナーに、膝上のハーフパンツを履いていた。きっと何か、運動系の部活動をしているんだろう。天童くんは動じず、もちろん臆さず、窓際の席で話していたわたしたちを無視して、まっすぐ自分の席へと向かった。窓際から二番目、一番後ろ。そういえば教室の一番後ろの一列は、推薦入学したひとたちのための座席だったような気がする。

「ねえ、天童くんってバレー部なんだよね」

 ぎょっとして、胸が動く。きっとまだ一度も話したことがないだろうクラスメイトの男の子に、茉莉はとても友好的に、感じよく声をかけた。彼女だからできること。大きな背中を丸くかがめて、自分の机のなかから黒のスマートフォンを取りだした天童くんが(忘れ物をとりにきたんだろう)、やっとわたしたちに視線を投げる。男の子の素っ気ない大きな目がうらやましい。訝しげに片目を細め、彼は、YESかNOで簡単に答えられるその質問に、すぐには答えなかった。意識と無意識のはざまで、彼のシルエットの内側にあるものに目を注ぐ。天童くんの長い脚。肩の傾斜。色素の薄い、焦げ茶の髪。わたしの白い上履きを照らしているのと同じ、杏色の陽が射して、それは普段見るよりもずっと赤みがかっているように映った。

「スポーツ推薦なんだっけ。一年のころから試合にもよく出てるって」
「……まあ」
「えーすごーい。わたし、一度バレーの試合観てみたくて。インハイ予選、絶対応援しに行くね」
「どうも」

(……あ、)

 それだけ言って、彼が足早に立ち去ろうとした、そのときだった。彼がなにげなく目を切ったその瞬間、あてどもないわたしの視線が、不意を突かれてぶるりと揺れた。まるで弛みもなく、緊くもなく、なんの警戒心もなく張り渡していたその視線を、容赦なく、弦のように弾かれる。視線の糸を伝い、角膜を突いて、胸の中心が、悪さを見抜かれたときみたいに痺れた。わたし、なんにも、悪いことなんてしていないのに。

(天童くんと、いま。)

 去り際に魚のうろこが一枚たった一瞬だけちらつくような、ほんとうに繊細な、瞳のあしらい方だった。まっすぐに、強引な圧などかかっていないのに、軽やかに、天童くんからわたしへ、彼の置いていった印象と温度がたちまち溶けていく。その不可思議な心地が全身にゆき届いたころ、天童くんはもう、来たときと同じくぞんざいにドアを閉めて、教室をあとにしていた。一分も、ない。

「何あれ、暗」

 天童くんの足音が消えた途端、ぼそ、と美加子がそう呟くと、茉莉も理沙もくすくす笑いで続いた。愛想笑いで同調するのもラクじゃない。だってたった一分のあいだにはとうてい咀嚼しきれないあれこれを、彼ははっきりとここに残していったような気がするのだ。

「茉莉があんなこと言ったら本気にしちゃうんじゃない」
「やめてよ。天童とか眼中ないし」
「バレー部かぁ。わたし、スポ薦とかガチなひとヤだなあ」
「あ、ちょっとわかる」
「でも新入生にかわいい子いるらしいよ」
「え~」

 好き勝手に脱線していく品評会のさなか、膝の上のスマートフォンのディスプレイが光をともした。ポップアップの簡素なメッセージが目に飛びこんできて、右手でそれを拾いあげる。となりに座っていた茉莉に手のうちを覗きこまれて、わたしは戸惑いながら恋人からの連絡にすぐさま既読のしるしをつけた。

「先輩?」
「う、うん。……会議終わったみたい」

 ラブラブだね、相変わらず。そう言われて、なんと返したらいいか分からない。ぎこちなく首を傾げて、あいまいに笑って、わたしは人差し指を素早くすべらせ、いつも使っているスタンプのなかから適当なものをチャット画面に貼りつける。そして、まだ帰りそうもない彼女たちよりも一足早く、席を立たなくてはならないのだ。もう何度目のことか知らないけれど、わたしはこのルーティンがとても苦手で、何度しても慣れなかった。みんなにも付き合っている男の子や、仲のいい男友達がいるのに、わたしよりも居るのに、わたしだけ秘密を秘密にすることもできず、いつまでも監視されているみたいで。
 じゃあ、ね。
 上擦ってしまった声に、みんなが「バイバーイ」とにこやかに返してくれる。手のひらを小さく振って、わたしは、さっき天童くんが入ってきた後ろのドアに手をかけた。雑な閉じ方をしてちょっとだけすきまが開いている。このドアを閉じたら、わたしのいない放課後の教室で、彼女たちは一体どんな言葉を話すだろう。「何あれ」。わたしだって、そんな一言で彼と同じように笑われているかもしれない。そんなつまらない想像をしながら、わたしは丁寧に教室のドアを締め切った。聞きたくもない噂話も、陰口も、恋の話も、すべてに蓋をしてしまうように。



 生徒会室は二年生の教室からひとつ階を上がって、廊下の突き当たりにある。
 受験生で、生徒会の任期が終わるまでもう間もないはずだけれど、いまだ週に二回のかたちだけの定例会議があって、わたしが彼に呼ばれるのは決まってその集まりが終わったあとだった。生徒会副会長の特権なのか、鍵の管理を一任されているようで、彼はよく生徒会室にわたしを導く。そして、先輩が受験勉強をしている横で、わたしもその日に出た課題を片づける。ぽつぽつと、たわいのないやり取りをかわしながら。

 ふた月前、先輩がわたしに、好きだよ、と言った。春休みの一日、茉莉の家の庭先でバーベキューをするというので、その集まりに呼ばれた帰り道だった。彼は、茉莉の兄の友人だった。彼女はとても顔が広くて、先輩にも後輩にも、他校にも、男女問わずたくさんの知り合いを持っている。そういうつながりで、一年の文化祭の日、彼女は「この子、外進で、未だに校内で迷うんですよお」と不名誉な仕方でわたしを彼に紹介した。文化祭のスタッフジャージを羽織っていた先輩が、「案内してあげようか」といたずらっぽく笑ってくれたのを、覚えている。こなれた爽やかな笑顔が、白い歯が、優しさと好意のないまぜが、情けないわたしの気後れを誘った。
 そしてきっとあの日感じた気後れは、今も、ずっとわたしを支配し続けている。

「先輩、」

 いつからかこの部屋のドアが閉まることが怖くなった。ふたりになると、彼はいつも、ただひたすらたったひとつのタイミングを計ることに心を囚われているように見えた。今日は、わたしのシャープペンシルの先が止まったことを、きっかけにしたみたいだ。分からないの、と尋ねられ、参考書を委ねる。わたしから抜け落ちていた文法の規則と、その応用の仕方を、彼は丁寧に教えてくれた。どこまで頭に入ったか怪しいものだ。触れる肩が熱い。わたしのからだは冷たい汗を吐く。やがて、そのときが訪れ、きつく目を閉じた。シャープペンシルが弱弱しく、ノートの罫線の上に転がる。

 あのとき、初めてこうしたとき、タイミングなんてなかった。気づかなかった。機械的に手を動かしながら、特に何も考えず、うちの庭で育てている草花や果物のことを話していたと思う。夏になるとプラムが熟れて、それを手でもいで、皮ごと食べるのが楽しみなのだと。美味しいですよ、先輩にもおすそ分けしますね。めずらしく生き生きと、調子よくそんな話をして、ふと顔を上げたとき、なんの前触れもなく薄くひらいた唇に乾いた感触が重なってきた。そのときはっきり感じたのだ。わたしと先輩は、違う肉体を持っている。そしてそれを確かめ合う距離を、わたしは彼に許しかけているのだと。

 先輩の指はいつも熱い。わたしの平熱を追いやるように、熱い。そのぶあつくて力強い指が、わたしの膝の上で、スカートのひだを揺らしている。太腿にはかない遠慮げな圧迫感が伝って、今日も、だめだと思った。肩を押すと、やわらかいちからで、彼はゆっくり身を引いた。口の中に、違和がある。拭って洗い流してしまいたいけれど、もちろん彼の前でそんなことはできなかった。

「……ごめんなさい」

 わたしのこういう反応を、初めは眉を下げて笑いながら受け止めてくれた先輩も、今はもう優しさの皮をかぶることをたびたび忘れそうになっている。じれったく、下唇を噛み、ふと気づいて、取り繕うように口角を上げる。重たい手のひらがつむじを抑えこんで、髪の表面をぬぐい、顎の線に沿ってじりじりと落ちていった。

「俺のほうこそごめん、勉強の邪魔して」
「いえ、もう終わりました」
「そっか。俺もさっさと片づけないと……」

 そう口では言いながら、先輩の太い指先はまだわたしの髪の束をもてあそんでいる。彼と向き合っていると視線の置きどころが分からない。どうやらわたしの眼はわたしの意図していないあれこれを彼に伝えてしまうらしかった。だから、ネクタイの結び目や、シャツの皺、腕の筋、そういうものを行ったり来たりしながら、放課後のチャイムだけをわたしは静かに、静かに待った。

はおとなしいよな」

 混ざりあわない熱を押しつけられるのは苦しい。押しつけるほうも、きっと苦しい。顔を上げることができず、恋人らしからぬそぶりをわたしは繰り返した。指を払うように、顔をそむける。こんな態度をとっても、優しいこのひとにはまだ、未知に怯えている一つ年下の奥手の恋人だと、わたしのことがそういうふうに見えているのだろうか?

「ああ、悪い意味じゃなくて。ほら、茉莉ちゃんとかに比べるとさ。黙ってないでなんか言いたいことあったら、ちゃんと言えよ? 遠慮して溜めこんだりとか、なしな」

 先輩の指に巻きついていた毛先が落ちて、ぱさぱさと首筋をくすぐる。
 言えない。言いたいことなんてない。「好きだよ」と告げられたとき、ひとけのない駅のホームで、先輩は、「さんが俺のことを好きになるのは、もう少し先でもいいから」と言った。そういう日が、まるであらかじめ約束されているかのように、なんの衒いもなく。あんまり自然に彼がわたしを導くから、そういう日が必然と同じ鮮やかさで訪れるのかもしれないと、初めて異性に告白されたわたしは、わたしで、あまり疑いもなくそう思った。疑いたくなかったのかもしれない。幸福だった。
 だけど、カレンダーに予定を書きこむように、日記をつけるように、恋をすることはできない。恋は、幸福よりも、ずっと難しいものだった。



 帰り道、先輩は家の近くの十字路までわたしのことを送ってくれた。夕暮れのアスファルトに、一帯の果樹園から甘酸っぱい匂いが漂ってきている。その匂いを肺深く沈めながら、わたしは、つないだ手の汗ばむ肌の感触を紛らわせた。
 帰宅して、自分の部屋でスマートフォンをひらいてみると、そこには何十件ものメッセージが入っていた。すべて、友人たちとつくっているグループチャットの会話だった。ベッドに身を投げ、ちからなく目を通す。来週末の男子バレーボール部の試合を観に行こうという計画と、わたしを巻き込んだ勝手な待ち合わせの約束と、雑談のあれこれが長い長いスクロールを埋めている。ただただおっくうな気持ちで、履歴のいちばん上にあるスタンプを送信し、スマートフォンの画面をベッドに伏せた。

 今日はもう何も考えたくない。

 そんな投げやりな気持ちできつく目をつむったとき、放課後の教室での、あの一分間のできごとがまっくらな瞼の裏を掠めた。天童くんの眼。冷たくも、温かくも、熱くもない、さめないぬるま湯を溜めたような、うるおった淡い残像。
 似ていると思った。ときおり、首の裏にあてがわれるものに。横顔に紗のように重なるものに。昼休みの教室で。美術のデッサンの時間に。授業中、プリントを配るとき。移動教室に向かう休み時間、朝礼から教室に戻る道すがら。ふしぎに思うことはあったけれど、気にしたことはなかった。誰かに見られていること。ちがう。もう、誰かじゃない。同じ体温を、持つひと。

(……なんで。)

 なんで、なんで。なにが、なんでかも分からず、未知の未知と閉じた目の奥で戯れている。目は口ほどに物を言う、なんて、言葉があるけれど、あんなのはおかしい。目は口を助けるものじゃない。わたしには、あの目は、口には告げられないものをまったく別の回路で告げているように思えた。
 皺くちゃのスカートの奥に指を伸ばすひとりきりの行為のように、きっとそれは、ひとりが扱い、ひとりに向かい、ふたりのあいだに交わされるべきものを人知れず代理している。









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2017.5.20