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 停滞した蒸し暑い空気が夏のかたちを練り上げはじめる、六月の初め、バレーボール部の戦う三日間のインターハイ予選大会が始まった。
 友だちに誘われたのは二日目の、ベスト4が出そろう準々決勝の一戦で、その勝負はあっという間にかたがついた。たびたび他校の男の子に目移りしているみんなの雑談に相槌を打ちながら、わたしは一セット目の途中から出場していた天童くんのことを何度も目で追った。バレーのことは体育で習う程度のことしか分からない。だけど、天童くんが何かのプレーを決めたときのどよめきが、試合後みんなとカラオケボックスに移動したあとも、家に帰ってからも、ずっとずっと耳に回っていた。網膜に残る、教室では見せない、彼の笑顔と一緒に。
 明けて月曜日、今日はいよいよインターハイへの切符を手に入れるための、決勝戦があるのだという。わたしたちにはもちろん六時間分の授業がいつも通りあったけれど、天童くんの席は朝から空っぽだった。校内放送で白鳥沢が優勝したという報告があったのは、お昼休みも過ぎて、五時間目の授業が間もなく終わるころだった。ぱらぱらとさみしい拍手が教室に散らばるなか、膝の上でわたしも指先と指先で小さな拍手をした。昨日の試合のことを、反芻しながら。

、バイバイ」
「バイバーイ」
「うん、明日ね」

 ホームルームが終わってすぐ、彼女たちは足早に教室を出て行った。いつもなら特に用事のない放課後でも、三十分ほどここで雑談をしてから帰るのだけど、今日はこのあと他校生と遊ぶ予定があるらしいのだ。わたしは最初から誘われなかった。遊ぶ相手が、近くの男子高の男の子たちだったから。
 簡単な掃き掃除とゴミ捨てをしただけで掃除当番はみな帰ってしまい、誰もいなくなった教室の静けさに、しだいに大きくなっていく校庭の騒がしさが覆いかぶさってくる。日によって違うけれど、今日はサッカー部の日だったから、きっとそのうちドリブルだとか、砂のグラウンドをスパイクで蹴る音だとか、威勢のいいパス回しの掛け声だとかが聞こえてくるだろう。開けっ放しの窓に寄り添い、風をあおぐ。えりあしに生温かいそよぎを感じながら、いびつに列をなす机を眺めていると、ふと、一番後ろの一列だけが少し高くなっていることに気がついた。スポーツ推薦で入学したひとたちは、みな周りの子よりも体つきができあがっている。きっと机のサイズもひとまわり違うのだ。水泳部、ゴルフ部、陸上部……バレーボール部。一番後ろの、窓から二番目。今日一日、あるじが不在だったその机は、静けさのなかにも溶けない沈黙を守っているようだった。

 束ね忘れたカーテンの控えめなふくらみに背中を押され、わたしは何を思ったのか、彼の机に数歩近づくと、そこに収まっていた背の高い椅子を手前に引いた。椅子の足にかたまっている埃が、床を引きずる音。おそるおそる腰を下ろしてみると、そこには、毎日見ているはずなのにまるで見たことのない風景がひろがっていて、驚いた。天童くんはいつもこの席で、こんな景色を見ているのだ。そして、そう思ってから、呑気に彼の視線を追体験している自分を恥じた。何、やってるんだろう。ほんとうに。

 腕を枕に、うつぶせになると、木と黒鉛のちょっとだけ香ばしいような匂いがした。ひとり居残る教室は新鮮なのどかさを湛えている。しばらくそうしていると、瞼がまどろみに落ちてゆきそうになって、心地よさと、いけない、という気持ちとが異なる波形を描いてせめいだ。波間はしだいに狭まって、やがてひとつになる。さらさら。風の音がさながら、潮騒のよう。
 昨日一日、外出して、帰宅してから今日の数学の小テストのことを思いだし、週の初めから夜更かしをしてしまったのがよくなかったのだと、思う。
 わたしは半分、意識を手放してしまった。あるいは、半分以上。眠りに落ちるすれすれで、教室の四方八方に頭のなかの空想があふれて飛び散ってしまっているような、気持ちの悪い夢を見ていた。夢には質感があった。風が髪の毛と頬を撫でているのだろうと思った。さして気にもとめなかった。遠くではなく、とても近くで、誰かの声がするまでは。

さん」

 うたた寝しているとき纏わりつくような怠惰さと、「まさか」という気持ちが勝って、わたしはその声に呼び覚まされずにいた。そよ風じゃない。その声の持ち主が、わたしの髪の毛と頬を撫でているのだと、ぼやけた感覚のなかで気がついていたのに。
 先輩のいたずらなのかな、と最初に思った。だけどそれが的外れなあてずっぽうだということは、指先がちょっとすべるだけでも明らかだった。乾いていて、肉厚な重たさはなく、万事軽やかな、一定の生ぬるさ。その手を感じていることが、眠りの際で踏みとどまっている証拠であるのに、すぐにでもわたしをそこに落としてしまいそうな、危うい手つき。それは、初めてで、初めてではなかった。まるで、答え合わせのようだった。わたしはこの手のひらの、代わりになる微弱な熱を、ずっと全身に注がれてきたのだ。
 木漏れ日がかたちを変えるように、揺れる気配が、耳にかかる髪を払った。空気が触れる。彼が震わせた、秘密めいた空気が。

「もしかして、起きてる?」

 鼓膜をじかに震わさんばかりの、ささめきだった。あのとき掠めた視線と同じに、わたしの「ぼんやり」を悪さに仕立ててしまう、悪魔めいた声だった。ゆりかごのような安全な熱に包まれていたからだが、一気に受難の火をつける。冷たい火。すぐさま首をもたげると、急に身を起こしたせいか頭がぐわぐわと不健康な痛み方をした。擦った目に、まっすぐ飛びこんできたもの。そこには、わたしの座る正面の席に後ろ向きに腰を下ろした、無表情の天童くんがいた。

「そこ俺の席」
「っ、ご、ごめんなさ、」
「いいけど別に」

 天童くんはほんとうに「別に」なけだるい態度で、わたしが今の今までうつぶせていた机の上に大きなエナメルバッグをどさりと置いた。思わず、怯んでしまう。泣きそうになる。そして、天童くんは弾かれるように立ち上がったわたしの代わりに、自分の椅子を引き寄せた。彼はバレーボール部のそろいのジャージを上下に着ていた。今日は公欠の扱いのはずだけれど、何か、必要なものでも取りに立ち寄ったのだろうか。
 自分の髪に指を通し、頬を確かめるようにさわる。
 いつも通りの素っ気ない天童くんを見ていると、さっきまでの手のひらが急に不確かなまぼろしのように霞んで、鮮やかだった快さもすべて夢の産物だったのではないかという気がしてくる。彼は、となりで突っ立っているわたしのことなんかお構いなしに、机のなかからノートと教科書をいくつか取りだして、かばんに放りこんだ。二期制の白鳥沢では、もうすぐ一学期の中間考査がある。
 髪を、撫でられていた。頬に、触れられていた。夢、……夢じゃない、と思う。彼に聞けば、すぐ分かるけど、聞けるはずもない。だってもしこれが夢じゃないとしたら、そんな現実は、この場所に潜むふたりの距離をまったく逸脱しているからだ。

「いつも四人で残ってるよね、ここ」

 バインダーに挟まっているルーズリーフをぱらぱら確認しながら、天童くんがぼそりと言った。とても意外だった。尋ねるようにして話しかけられたことも、天童くんがそれを「いつも」と口にすることも。

「あ……今日はみんな、他校の子と遊ぶみたいで」
「ふうん。それで、さんだけお留守番?」
「わたしは……」

 言いよどんだ言葉の端がさらにもたつく。ゆったりとわたしを見上げてきた天童くんとまともに視線がぶつかりあって、手のひらのまぼろしがまた、まぼろしを軽々と踏みこえていく生の体温をもって蘇るようだった。聞かずとも、その目がすでにそれ以上のことを差しだしている。問いにあった答えや、論理だった言葉のたぐいではないもの。それなのに正しく点と点を線にする、あなたの目。
 やっぱり、ずっとわたしのこと、天童くんが。

「――?」

 石のように動けなくなったわたしから、先に目を逸らしたのは天童くんのほうだった。わたしよりもはやく、わたしの名前を呼ぶほうへ、彼はわずかに首を動かした。彼の視線を追いかけて、振り向く。そこには、半分ひらいた教室のドアからこちらを覗きこむようにして、先輩が立っていた。わたしが、待っていたはずのひと。冷たい汗が滲んだのは驚いたからじゃない。わたしは、今はっきりと、彼との約束を忘れてしまっていたからだ。いつだってここで時間をつぶしていたのは、彼のためだったのに。

「ごめんな、待たせて。ケータイ見てないのかなと思って迎えにきた」

 先輩にそう言われ、慌ててかばんの外ポケットに差しこんでいたスマートフォンに手を伸ばしてみると、彼からメッセージが何件か入っていた。着信まで、ある。何か、申し訳ない気持ちとは違う、うすら寒い恐ろしさが胸に垂れこめた。先輩を見遣る。表情は穏やかだが、けっして笑ってはいなかった。

「おいで、行こう」

 かばんを肩にかけ、先輩の手招きに駆け寄ろうとして、踏み出した足が止まる。
 振り返る。まだ、天童くんと話していたかった。何を話したいわけでもないけれど、もう少しふたりでいたかった。名残り惜しいような想いを押しこんで、ゆっくり息を吸う。自分でもその離れがたい気持ちをどこに隠したらいいのか、分からないまま。

「天童くん、じゃあね、お先に。あの……インターハイ、おめでとう」

 ルーズリーフをめくることもなくじっと目を伏せていた天童くんが、わたしのつたない言葉に顔を上げる。そして、彼は何も言わずに幽かに口もとを緩めた。ぎゅう、と、心臓が塞ぐ。今まで感じたことのないような脈拍のちぐはぐを、彼にも先輩にも、誰にも悟られたくなかった。もう、心から何も零さないように。その一心で、顔を俯け、駆け足で教室を出ていく。こんなにも息をしにくいのは、急に速めてしまった足のせいだと思いたい。先輩のとなり、閑散とした廊下を歩きながら、どうにか呼吸を元通りにすることだけに気をつかう。
 どうしよう、困った。
 最後の天童くんの表情が、ぎこちなく鳴る左胸から追いだせない。

「いま一緒にいたの、友だち?」
「友だちというか……同じクラスの子です」
「へえ……」

 生徒会室に着くと、先輩はわたしを先になかへ導き、後ろ手に生徒会室の鍵を閉めた。いつもそんなことはしないのに、と、恋人とふたりきりで居るとは思えない嫌な予感がつう、と背骨を流れる。部屋の電気をつけようとした腕を制されて、薄暗い密室のなかでわたしは先輩と向き直った。重たく冷たい空気を吸いこんだ彼の瞳。こんな暗がりでも、獣のそれのように鋭く光っている。

「昨日、男バレの試合観に行ったんだって」
「……はい、誘われたので」
「誰に?」
「それは、茉莉とか……」
「さっきの男、バレー部だよね」

 それから、先輩は人が変わったみたいに、わたしのことを疑い、なじり続けた。
 いつもすぐに既読のしるしをつけて、すぐに返信をするのに、どうして今日だけなんの連絡もよこさなかったのか。教室で彼とどんな話をしていて、どれぐらい一緒にいたのか。迎えに行ったときにあんなに驚いた顔をしたのは、何かやましいことがあったからじゃないのか。挙句、いつもこの場所で行為の先を拒むことを引っ張り出し、それすらも疑いの燃料にして、嵩に懸かって日ごろのわたしの態度を責めた。取りあげられたスマートフォンからは男の子の連絡先がひとつ残らず削除された。先輩の番号だけを、残して。
 それは、優しい恋人の、優しさをわたしのために与え続けてくれていた恋人の、何かの我慢の限界だった。きっかけはひとつでも、原因はひとつではないのかもしれない。子どもじみた癇癪を引き起こしたのはわたしだ。ごめんなさい。ごめんなさい。もう、二度と彼とは話しません。とにかく怖くて、疲れ果て、わたしはばかみたいに涙を溜めて、謝り続けた。
 わたしを抱きしめる腕を、もう優しさの具現とは思えない。あとには見知らぬ象りの、恐怖だけが残った。



 その日をさかいに、わたしはどこか縋るような気持ちで、天童くんのことを目で追いかけはじめた。
 もう一度彼と話して、今度こそ、あのとき聞けなかったことを聞いてみたいと、ひそかにそんな夢を見ていた。だけど、教室で彼に話しかけることなんてできない。あまたの視線が交錯する場所で、ひとりとひとりになるのはとても難しい。それにもし、彼と話したことを、先輩に知られてしまったら。それを思うと、勇気を振り絞ろうとか、機会を見計らおうという気持ちも持てなかった。だから、黙してまなざすこと。冷たくも、熱くもなく、日々に紛れるような温度で見つめ続けること。そして時々は左胸に巣食う、わたしに宛てた彼の表情を想いだすこと。ぼんやりではなく、明らかに。それだけを、来る日も来る日も、繰り返していた。

 六月の終わりに梅雨を絵に描いたような冷たい雨が降った。新しい季節の坂をのぼってゆく熱気が、一時的にすっかり洗い流されてしまう。暑さが落ち着くのはありがたくても、へそを曲げた初夏の棘に肌を冷やされるのもあまり好い気はしない。そんな冴えない一日だった。

「わたし、体育館履き置いてきちゃったから、先行ってて」
「あ、うーん。わかった」

 女子更衣室を出たところで茉莉たちと別れて、ひとり教室へと小走りに駆けていく。
 その日、六限の体育の授業はグラウンドが使えず、男女合同で体育館を仕切って行われることになっていた。午後の体育はいつもだるいけれど、ネットの向こう側を盗み見られると思うとうれしさがこみあげる。だって、男子の授業は今、バレーボールだ。
 教室前の廊下の壁にかかっている体育館履き入れのナップサックを手にとり、紐をフックからはずす。そのまま体育館へ急ごうとしたとき、教室のドアが勢いよくひらいて、その乱暴な音に反射的に肩が跳ねた。びっくりして振り返る。振り返ったときにはもう、わたしは抗いようのないちからで左腕を引っ張られていた。

「え、て、天童くん」
「ちょっと来て」

 わたしの腕をつかんだのは天童くんだった。
 衝撃でナップサックを荷物掛けの下に落としてしまい、拾おうとしたけれどそんな猶予は与えられない。彼はわたしを誰もいない教室のなかへ引き入れ、素早くドアを閉めた。腕にきりきりと圧迫がつのる。壁際に追いこまれ、腰をかがめた天童くんに、わたしはほとんど強制的に視線の自由をからめとられた。

「あのさ、なんで見てくんの。あれから」

 あっさりとした調子で、小さな小さな的の中央を射貫くようなことを訊く。怒気や苛立ちは纏っていないのに、厳しく、有無を言わせぬ問いの立て方。彼の言う「あれから」、きっとあの日、「おめでとう」という言葉に静かな笑みを返してもらって以来、彼の横顔しか映してこなかったわたしの目に、こんな距離で、真正面から彼の真剣な表情が押しつけられている。非常事態だ。困惑を宥められないまま、はくはくと無為に唇が震えた。

「天童くん、痛い……」
「言いたいことがあるなら言いなよ。毎日睨まれて気持ち悪いから」

 素っ気なくて、容赦がない。取り付く島もない。一方的な怒りや蔑みをぶつけられているわけではないということは、それぐらいのことは分かったけれど、彼の真っ向からの問いに真っ向から答えるには、まごつく思考の弾きだす言葉がすべてあけすけに過ぎる。言えない。とても。言いたいことはたくさん、あるはずなのに。

「……じゃあ、だって、天童くんだって、」

 ずっと、聞きたかった。あの放課後、髪に触れ、頬を撫でた手のまぼろし。そのまぼろしと同じ生ぬるさを孕んだ目。それをつかって、天童くんだって。いつも。いつも、わたしを見てた。そんな気がする。あんな温度で、誰もわたしのことを見つめたりしない。見つめられたりしない。確信の一歩前で、ずっとそんなふうに感じていた。
 まばたきの合間に水が充ちる。腕の拘束がやわらいで、ジャージの上を天童くんの大きな手のひらがすべり落ち、ゆるやかに離れていく。離れたその手は軽くこぶしを握っているように見えた。それが彼のためらいなのか。思案の呼吸なのか。薄くひらいた唇は、いったいどんな感情を喩えているんだろう。

「俺に睨まれてて、気持ち悪かった?」

 友だちでもない。ほとんど言葉を交わしたこともない。毎日、同じ教室で息をしているだけのたった数か月のクラスメイト。それなのに、彼は自分とわたしを強引に結びつけた。彼しか持たない、わたしと似た、体温を溶かした瞳をつかって。

「そうじゃない……けど……」

 そうじゃない、とはっきり口にしたあと、消え入るような「けど」をこぼした。その先にあるものを自分でもうまくつかまえられないで、あいまいに黙りこむ。天童くんはそれを許さなかった。所在なく足もとをうろつかせようとした視線を、すぐさま矯正するみたいに、彼の手と指が頬に添えられる。耳の裏から顎の線まですっぽり覆ってしまう、迫力ある彼の手のひら。そこにはやっぱり、浅い眠りの手ざわりを凌駕する、現実の確かなぬくもりが宿っていた。思いだすように気がついてしまう。わたしはずっとこの手に、羊水に浮かぶ胎児のごとく、匿われていたのだということ。

「けど何? 聞こえない」

 どのみち喉が痛いほどからからで、予期せぬ事態に竦みあがり、わたしは声が出なくなる寸前だった。だけどそんなもの、声なんて道具、はなから必要なかったのかもしれない。静かに、もっと首尾よく、ふたりは何かを交換しあえる。気持ち悪くなんかない。なめらかに続く毎日の、たったひとつのひずみ。彼の誘いも、わたしの渇きも、ひたむきに同じものをまなざしていたはずだ。
 沈黙を引き金にしてゆっくりと近づいてきた唇に、わたしはなんのためらいもなく、自然とかかとを浮かしてこたえた。ささやかな重みに縛られる。不安定なつま先立ちを、天童くんの腕が神妙に支えてくれている。その安らかさに、今度こそ充ちた水をこぼしながら、わたしは、気の抜けたチャイムの旋律を遠くに聞いた。









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2017.5.20