※ 若干の性描写あり




 息を呑むような、ころすような、深くもぐりこむ寸での空白。きまって、先輩の指の先がわたしのふくらはぎを撫であげ、左の足首にくぐらせていた細いゴールドをあやすようにつまびく。わたしを揺さぶることのできる、たった一本のか細い弦。不躾なそのたわむれは、無意識のものかもしれないし、わざとなのかもしれない。なんであれ、彼の円い爪、猛禽類のそれのように鋭くはないのに、なぜだか治癒しがたい疵をあちこちつくってしまう短い爪にひっかかれると、わたしはいつもわたしのなかに押しとどめていた旋律のなりそこないを無様にこぼしてしまいそうになるのだった。あなたに見てほしいだけのわたしが、こんな暗闇でも、あなたに届いたこと。それが、その瞬間が、好きで。

「せんぱい……待って」
「痛いか? すこしだけ、我慢な」

 べつに万全なからだはどこも痛くはないのだけれど、痛かったとしても腰を引いてくれるつもりなんてさらさらない彼の獰猛さが、ほんのひと匙、頭の芯に痺れるような痛みを残していく。こういうときの先輩は言葉を解すだけの肉食動物なので、わたしは彼の恋人であるというよりも、彼の獲物であるといったほうが的を射た存在なのかもしれない。屈服をよしとする快楽にはどこか出来合いの空しさがあるけれど、そんなに悪いこととは思わない。わたしは減るものじゃないから。だからわたし、彼に饗される自分の非力を恥じたことなどない。
 彼がわたしよりもひとつ年上の先輩であるということ。彼がとくべつな才能を持つ、強豪運動部のエースであるということ。彼には彼を慕う同級生や後輩がたくさんいるということ。そして、彼が華やかな女の子たちにいくらか好かれているということ。そういう分かりきった事実から湧き溢れるイメージを、彼はベッドの上でもひとつもはずさずに、わたしに披露する。男のひと。自分の生まれとか、性とか、能力とか、いちどだって悩ましく思ったことのないひと。そんな彼の屈託のなさが恨めしいときもあるけれど、今はただいじらしく感じられる。だって思想のないひとって、わたしを勝手に覗いたりしない。

「ちゅう、してください」

 まぬけな、幼くて投げやりな言葉を敢えて選んで、こんなときもわたしはわたしを精密に操れているのだと確かめる。ショー・マスト・ゴー・オン。幕を引いてしまうのはまだはやい。焦らして、延ばして、もっとより良いまやかしまで先輩を連れて行ってあげたい。暗転のさなかでも、彼に捧げる芝居はちゃんと続いている。夜目のきくあなたならば、見逃すはずのない逸品の。

「なあんだそれ。かわいーの」

 脚をおろして、ふたたび登ってくる手の圧が、ふいにふとももの内側を食む。わたしの柔さが彼の指を浅く飲みこんでいることを感じる。そうして、注射を嫌がる子どもの緊張を軽やかに散らしてくれる名医のように、彼はわたしに噛みついてきた。うまいぐあいに馴染む二人の粘膜。まぶたを閉じているのに、開けたって闇は深いだろうに、どうしてか眩しさ特有の鈍痛がわたしをつつく。きっと先輩の大きな目が、夜を吸いこんでいるから。



 日づけの境目を先輩と二人で迎えるのは、これが二度目のことになる。はずなんだけれど、わたしはもったいないことに一度目の記憶を半分ぐらい夢のなかに置きっぱなしのままだ。だってほんとうの眠りに落ちていたんだからしょうがない。何もかも知らないことばかりで、わたし、なんにもうまくできなかった。あの真冬の夜、テレビでやっていた古いSF映画を先輩のとなりで途中まで見ていたことは覚えている。それが、気づくと彼のベッドの上だった。おやすみ、と朦朧とした頭を撫でられて、すっかり安心してわたしはひとりの夢に沈んでいったのだ。親を欺いて辿りついたこの部屋で、年上の恋人と、何もしない二人のままで朝を迎えるなんて思っても望んでもいなかったのに。

 何時間も経ったかもしれないし、数十分のちのできごとだったかもしれない。奇妙な重苦しさを覚えてまぶたをこわばらせたとき、わたしはきっと金縛りにあっているのだろうと思った。半分眠った頭で、闇に視線を泳がせ、腰を覆うようにしてのっそりと揺らめいている影をかろうじて捉える。なんだか、幽霊にいたずらをされているみたい。なんだか、神様に祟られているみたい。腕も脚も満足に動かず、声も出なかったけれど、わたしはその影に「せんぱい」と囁きかけたかったし、ときおり鎖骨をちくちく刺している彼の癖毛に触れたかった。すぐに分かったの。それが夢のようで、夢じゃないってことぐらい。

 腰のくびれに冷たい外気が触れるのを感じて、自分の寝間着の乱れを知る。倦まず弛まず、わき腹から胸のふくらみまで撫でさすられると、とても寝息のふりではおさまらない熱い吐息が溢れそうになった。《木兎先輩の目にはいま、何が見えているの?》カーテンを閉め切った真夜中の密室、どこにもまともな明かりはなかったけれど、先輩の指先はわたしのおうとつを器用に這いずりまわり、真昼の日なたに投げだすようにわたしをあっけなく拓いてしまった。皮膚の上は冒険に満ちている。山のような発見があって、波乱があって、すがすがしいほど。胸のいただきに蛇が絡みつけば、まぶたの裏にちかちかと星が降り注ぐこと。臍のくぼみの奥に、下腹部の洞につながる細道があること。尾てい骨からすきまを縫って、肉の円みを丁寧にほぐされると、肺から喉もとへ御しがたい甘い嘔吐感がせりあがってくること。やがてふとももの付け根に、未知のぬかるみが湧きあがって、たまらず縋るように腕を闇のなかへ伸ばしたとき、先輩はわたしの無力な腕を引き継いで自分の背中に迷いなく爪をひっかけさせた。金縛りはいつの間にか解けていたらしい。それなのにわたしは胡乱な石のままだった。ああ、このひとは、一枚も二枚もうわて、なんだ。わたしをわたしじゃないみたいに扱うのだから。その分厚いからだのなかに、わたしの思い及びもしない未来がすでに幾重にも折り重なっていて。

(おはよ、……起きる?)

 耳たぶに唇をつけながら優しく吹きこまれたそれは、起きるか起きないのか、そんな単純な二択というよりも、もっと解きがたい謎を秘めているように思えた。起きる、って、一体どういうことだろうか。そんな素朴な不安と好奇心を掻きたてる、先輩の悪びれもしない穏やかな声音が骨にひびく。もしかして彼もさえざえとした四肢を残して夢うつつを行き来するような空想を泳いでいたのかもしれない。そう、思ってしまうぐらいの。
 すこし、迷った。だけど、勇気がなかった。おそるおそる首を横に震わす、消極的なわたしのそぶりを、先輩はちからの抜けた笑みで受けとめてくれた。表情を読みとれたわけじゃないけれど、耳を湿らす息の残り方が、わたしに彼の軽やかな笑顔を想像させたのだ。

(いいよ、じゃあもうちょっと、寝てな)

 俺が、やる。あの夜に意味のようなものがあるとすれば、ただそれだけだった。彼はべつに優秀な教師でも善良な船頭でもないから、わたしはただ彼の好みの動きに合わせて跳ねたり沈んだりしていただけだったけど、それでも彼はわたしに多くを教え、わたしを遠くへ導いてくれた。恥ずかしいなと思ったのは夜が明けて、午前六時のどうしようもない明るみに身を預け、寝息を立てている彼の肉体に目を落としたとき。みすぼらしい情事の痕で傷ついた彼の立派な肩甲骨を見て、ようやく、真夜中のあれこれがすとんと臓腑に落ちてきた。よくも、悪くも。
 それからわたしは、三日にいちど、爪にやすりをかけている。かどが尖ってしまうから爪切りは使わない。硝子のやすりを小刻みに爪先に滑らせ、けっして光のなかに佇む彼に、夜のなごりを残さないように。
 彼とのことは夢じゃない。そんなの、わたしがわたしの内側で確かめることだから、ひっかき傷なんていうわざとらしいしるしを彼になすりつけたくなんてないのだ。



「なあ。どうして、これ、脚にくっつけてんだ? 腕につけとくやつじゃねえの」

 単純な疑問なのか、それともじゃれあいのひとつなのか。くるまっていた焦げ茶色のブランケットをめくりあげ、先輩の汗でしっとりした手がわたしの脚をつかむ。まだ淡い余韻のなかに横たわっていたわたしは、びっくりして、しゃっくりのような変な声をあげてしまう。足先、ベッドの端に、先輩はすっきりした顔をして腰をかけてた。今しがた階下のキッチンから持ちだしてきたミネラルウォーターのペットボトルを手に持ち、ぱきりと気持ちのいい音を立てて蓋をあけながら。

「俺が見つけてやったやつだろ、これさ」

 先輩の太い人差し指がチェーンとくるぶしの僅かなすきまに入りこむ。やだ、やめて。脚を縮こまらせ、まくらに半分顔を隠したまま先輩を見上げて訴える。彼にとってはなにげなくても、わたしにとってそれは性感帯をいじめられるような危険な行為だった。
 日づけを跨いで、ゴールデンウィークが今日で終わる。先輩の家はしんとしていてひんやり冷たい空気に浸っていた。一週間弱のお留守番。バレーボール部の合宿がほぼ重なって、先輩だけ、家族旅行に置いて行かれてしまったのだ。どこに行ったのって訊いたら、あいまいだけど、北欧の国の名前のようなものが彼の口から出てきた。あのとき家に招かれたのも確か、お父さんの海外出張にお母さんが着いていっちゃったとか、そんなタイミングだったはず。しばらく運動部の寮で夕ご飯を食べるって、むしろ嬉しそうにそう言っていた。先輩の家って、自由で、気楽で、ちょっとしたお金持ちだ。金銭感覚とか常識だとか目をまるくするような価値観の違いはないんだけど、段差みっつぶんぐらい、ふつうより贅沢でゆとりがあって、そんなところが彼の根っこにも染みこんでいるような気がする。吹き抜けの天井とウッドデッキとBMWとオーディオコンポのある家で育ったら、わたしも、都心の真ん中でこんなふうに無邪気にすくすく育っていたのかな。わたし、先輩の不便と不自由を知らない、きっと永遠に知りえない無垢なところがとても好き。

「変、ですか」

 上体を起こして、先輩からペットボトルを受けとりながら、応える。先輩は大きくあくびをしてブランケットのなかにもぐりこんできた。とても眠たそうだ。夕方までバレーボール部の主将として部の強化合宿に参加して、夜は、恋人をベッドに招き入れて、大した体力だと思う。わたしのようななまけものと違って、彼は、休みのない生活というものに慣れきっている。

「変とか、どうとか、そーゆうこと俺に訊くなよなあ」
「先輩おしゃれしないもんね。甘えてるから」
「ん、なにが」
「甘えてる。生まれつきに」

 寝っ転がってわたしに視線を投げてくる先輩の髪を、ふわふわと重さのない手で撫でていく。先輩は何も分かってないみたいに首をひねって、だけど、それ以上この話が続くことはなかった。こんな他愛のないのろけもくみ取れないなら、どうせ本音を言ったって伝わりっこないね。たったひとりのひとのため、自分を用意することの愉しさ。先輩に見つけてもらった宝物だから、先輩にだけ、見てもらいたいんだよ。男のひと好みの下着をつけるより、そのほうがずっと、上等な気持ちになれるから。

「すこし、寝るかあ」
「もう寝ちゃうの? ……やだ」

 まくらもとのスマートフォンをちらりと確かめるそれは、きっと好きなひとにされたらいちばん切ないよそ見の仕草だろう。蓋したペットボトルを投げだして彼のとなりに寝そべると、先輩の腕がぬっと伸びてきてわたしの首根を引き寄せた。眠たそうだった眼が、ほらもう、すこしだけ冴えている。動物的なニュアンスを湛え、独特に撓んだあの大きな眼が。

「どうしたのおまえ、今日、めーちゃくちゃかわいいなあ。なんのサービス?」

 引き寄せられた距離をつかって、わたしは、自分から彼に口づけてみる。花のまわりを飛び回る蝶のようにそうする。あとは、勝手に追いかけてくるもの。じょうずに捕まえてもらえるとは、限らないけれど。

「お願い、まだひとりになりたくない。しないでください」

 しないで、と言って、して、を乞う。木兎先輩ってティーン雑誌の見出しに乗っかってしまうような「男子」そのものだから、火をつけるのは笑っちゃうぐらい簡単なんだけど、皺くちゃのシーツの上で彼に火をつける役回りにありつくのはきっとそんなに容易いことじゃない。大役を謳歌しているいま、無敵の夜を、まだ目を閉じて終えたくはない。ひとりの夢ならばいつだって見られるのだから。
 呼吸をちぐはぐと交わしながら、野生の乱暴な手つきで、先輩はわたしをふたたび仰向けにしつらえた。そのまま、その手ではじいて、かき鳴らして、揺さぶって。わたしはすぐ、自分が自分でなくなってしまうそのときを想像してしまう。弦が一本、切れちゃうみたいに。それってすごく、すてきなことだ。









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2017.9.20