夏の手前に出逢った男の子の白いブレザー姿を初めて見た。似合わないでしょ、と覚くんがブレザーの肩口をつまみながら、ほんとうに自信なさげにつぶやくから、またひとつ、わたしはわたしの好きなひとの好きなところを見つけてしまった気がした。
 初めてのデートで、覚くんのひらべったくて短い爪と、派手なマニキュアを塗ったわたしの不真面目な爪とが、こわごわと触れあったとき。あのときも、壊れそうなぐらい脈拍が暴れてたいへんだったけど、いま、二人をつないでいるのはわたしの右手と彼の左手に宿る温度じゃない。二人のすきま、わたしのiPodから伸びる、桃色のイヤホンコードがある。ひとつの音楽を大好きな男の子と分けあうことが、こんなに切ない遊びだなんて知らなかった。3分38秒のわたしのリアル。5分19秒のわたしの本音。iPodの中身は、わたしのたましいの双子だ。

「これ、さっき、最後に歌ってたやつだね」

 夕方のファーストフード店は途切れることなく低周波でざわめき続ける。それでも、きらきらとした特徴的なギターのアルペジオは埋もれずに二人の鼓膜を突いて、覚くんはすぐ曲名を確かめるようにiPodのディスプレイに指をすべらせた。100円のホットコーヒーはとっくに冷たくなってしまって、もう飲みたくはないけれど、まだここに居たい。回文をつなげるしりとりみたいに、もう少しだけ意味などない会話をしていたい。覚くんの涼しい横顔をいちど見上げてから、ディスプレイを覗きこむふりをして、そうっと彼の肩に頭を寄せた。

「うん。あたり」
「いいね、この曲。俺も入れようかな」
「ほんと? だったら、こんど会うときアルバム持ってくるね」
「んー、ありがとだけど、寮だとCD入んないんだよね。いいよ、配信で」

 覚くんがブレザーのポケットからスマートフォンを取りだして、すいすいと、親指で検索をかける。わたしのお気に入りの曲のことをその場で調べてくれている。それはとても嬉しくて、誇らしいことだけど、同時にほんの少しさみしくもあることもわたしの片割れはごまかせない。好きなひとと次もまた会えるようにと、祈りをこめてCDを貸しにゆく。そんな健気な片想いの歌があったけど、わたしと覚くんの放課後の約束はどうやらあんなふうに愛らしくは結べないみたいだ。

 駅前のカラオケボックスに二時間こもって、ほとんどわたしが好きなように歌っていたから、喉の奥が疲れてひりついている。カラオケボックスは二人にとって、いわくつきの場所だ。数ヵ月前の夏服のころ、あの場所で、わたしは覚くんと出逢った。
 彼にはすごくみっともないところを初めに見られてしまったような気がする。わたしはその日の夜、クラスの女の子たちと一緒に、街なかで声をかけてきた大学生と遊んでいた。みんな浮かれていたし、わたしも途中までは楽しかったはずなのに、となりに座っていた男の子がさりげなく手を握ってきたとき、何か薄気味悪いものがお腹の底からせりあがってきて、突然に何もかもが嫌になってしまった。わたしは、わがままなところがある。機嫌が良いのでもなく悪いのでもなく、深く考えもしないまま、ときどき、何もかもを断ち切って投げだしたくなってしまう。それで、脳をじかに震わすJ-POPの洪水から逃れるように席をはずして、トイレにも辿りつけず、非常階段の前でうずくまっていた。薄暗いなかで彼らがすすめてきた甘い飲料も、あれはほんとうにソフトドリンクだったのか、今になって思えば得体の知れない液体だった。

「そこ、退いてもらっていーい?」

 そのとき、階段を塞ぐようにしゃがみこんでいたわたしの前に現れたのが、覚くんだった。もちろんこのときはまだ、お互いに名前も何も知らない、赤の他人の二人だった。
 俯けた視界に一体何センチぐらいあるのか、大きな、焦げ茶色のローファーがにゅっと覗いて、同じ年頃の男の子に声をかけられているのだとなんとなく分かった。ハンカチで口もとを覆いながら、熱いまぶたを上下させて見あげる。――「なんか死にそうだったから」と、あとになって覚くんはそんなふうに言っていたっけ。とにかく、わたしの情けない様子をひと目見て、覚くんはあの大きな背を屈めてくれた。同じ目の高さに、彼の着る麻のベストに、このあたりでは誰もが知っている鷲のエンブレムがちらつく。ぼんやりとした意識の奥で、白鳥沢の子だ、と思った。

「どこの部屋? ひとりで戻れる?」

 覚くんは、彼のことを知れば知るほど部活中心の生活をしていて、放課後に大勢の仲間とカラオケで騒いだりするようなひとじゃなかったし、このときもクラスの体育祭の打ち上げを途中でこっそり抜けようとしていたのだとあとになって聞いた。学生寮には門限というものがある。門限と忙しい部活動のせいで、わたしだってそう頻繁に覚くんと会えるわけじゃない。だから、わたしと覚くんなんて、ほんとうは落ちあうはずのなかった二人なのだと思う。偶然を運命に変えるのは、いつだって後づけの恋のちからだ。
 彼の背後の、部屋番号のプレートをさした人差し指をすぐにひっこめ、わたしは覚くんの顔をまじまじと見つめた。細く、ささやかな半円を描く眉のかたち、まんまるい瞳は浅くくぼんでいて、どこか翳った印象のある皿眼だった。口角の下がった特徴的な薄い唇が、言葉をためらって、ぼんやりひらいている。見ず知らずの男の子に声をかけられ、岸辺に辿りついたように安堵していたのはなぜだろう。安っぽい蛍光灯の下にしゃがみこんで、わたしたち、路地裏で身を寄せあう野良猫みたいだった。

「……戻りたくない」

 ぽつりとつぶやいた言葉が息の熱ですぐさま溶けて、声が届いたのか自信がなかったけど、覚くんはぐずったわたしのわがままを汲んでくれた。覚くんが右手の中指で遠慮げにわたしの肩をつつき、立ち上がるよう促す。にぶい頭痛をこらえてなんとか腰を上げると、覚くんはズボンの布地で拭った手で、わたしの肩を引き寄せた。男の子とは思えない、綿のような軽い引力だった。

「すみません。この子迎えにきたので、かばん渡してもらえますか」

 わたしの指さした部屋のドアをためらいなく押し開け、口から出まかせのその場しのぎを彼は堂々とやってのけた。他人の興に、平然と踏みこむ。こういう態度も「嘘」だと言うのなら、彼はなんにも臆することなく平然と嘘をつけるひとだった。ゲームセンターでとったぬいぐるみとか修学旅行で買ったお守りとかがいくつもついたぺしゃんこの学生かばんを、受けとるというよりひっつかんで、階段を降り、夜の街に出る。突然の逃亡劇にわたしの頭はすっかり目覚めた。足早な彼の背中になんとか追いついて、彼の持つわたしのかばんの、手さげのチャームに指を引っかける。信号の赤と一緒に、ようやく彼は立ち止まってくれた。

「あ、あの、もう、ひとりで大丈夫だから、ありがとう……」

 風のない、青い匂いのする湿った夜だった。覚くんの眼は、薄暗いカラオケボックスの廊下と夜の街路ではまったく違う色を宿しているように見えて、わたしを驚かせた。彼は優しいひとだけど、彼の優しさには棘がある。ひとを傷つけるのではない、自分自身を護っているような痛々しい棘が。

「いいけど……。俺も悪いやつだったらどうするつもりだったの?」

 あんまり男を信じないほうがいーよ、と覚くんはわたしにかばんを渡しながら、どこか投げやりな口調でつけたした。誰かを信じるとか疑うだとか、今まで深く考えもしなかったことを初対面の男の子に諭されている。奇妙に、おぼつかない夜だった。だけどけっきょく、あのとき覚くんのことをすんなり信じてしまった自分の考えなしの無防備のおかげで、わたしは彼と出逢えたのだから、不運と幸運とはまったく紙一重だと思う。
 翌日、朝の教室で、一緒に遊んでいた女の子たちに「あのひとだあれ」と興味津々に詰め寄られたとき、わたしはもう、得意げにこう答えていた。「わたしの好きなひとだよ」と。天童覚くん、という。彼の名前を知っただけで、新しい大陸をひとつ発見したような、偉大な開拓者にでもなった気でいた。恋は無敵だった。はじまりの、そのときだけは。



 夏の手前に好きになった男の子と高校最後の夏を越えたら、一体どうなるのだろうと人並みに夢見ていたけど、けっきょくわたしたちにとって八月はそんなにドラマチックな季節ではなくて、つまらないことにわたしはまだ処女のままだ。歯がゆいだけの四十日。浮足だって買った新しい水着を覚くんに見てもらう機会もなく、きっと人生最上の日になるはずだと、彼を部屋に招いた一日も、思い描いていた進展など程遠くてむしろ気まずくなってしまった。もう、寝る前に覚くんから届いたメールを読み返すだけの恋は終わりにしたいのに、現実はなかなか上手に転がってはくれないものだ。

 曲が終わり、ひとかたまりの音が途切れ、覚くんが首を傾いでイヤホンをはずした。覚くんの手からイヤホンを返してもらうとき、カウンター席に座っているわたしたちの後ろで妙にタイミングのいい笑い声が起こって、覚くんの眉がほんのわずかに持ち上がった気がした。振り返ると、通路を隔てた四人席に座る女の子のひとりと目が合い、すぐに逸らされた。羨ましいことに、彼女たちは覚くんとお揃いの白いブレザーを着ていた。

「……あそこに座ってるの、覚くん知ってるひと?」

 イヤホンコードを巻き取りながら、尋ねてみる。覚くんは彼女たちのほうを見向きもせず、振り返りもしなかった。初めて会ったときの、見知らぬ大学生からわたしを攫ったときの覚くんのことを、なぜだか思いだす。彼の目があのときと同じ温度をしているように見えたのだ。

「うん、同じクラスの子」
「えっ……そうなんだ」
「無視していいよ。俺なんかがこんなかわいいカノジョ連れてて、驚いてるだけだから、たぶん」

 そろそろ行こうか、と言って、覚くんはスマートフォンをかばんの外ポケットに突っこんで席を立った。お決まりの別れの合図だったのに、いつものようなさみしさも忘れ、彼と一緒に立ち上がることもできなかったのは、きっと「かわいい」と言われたからでも、「カノジョ」だと言われたからでもない。彼のその言葉のなかにわたしの知りえない彼の影がなびいた気がしたからだ。ろうそくの灯のように頼りなく、ふっと消えてしまうはかない影。ひとつ呼吸をしたときにはもう、わたしの目の前から、彼を覆い隠していた薄もやは散っていた。

 帰りの道はいつも、二人とも口数が少なくなる。だけど、駅前のロータリーからはバスに乗らないで、きまって二人の分かれ道まで歩けるかぎりを一緒に歩いた。錆びついたガードレールの内側を手をつなぎながら、ぽつりぽつりと次に会える日のことを尋ねてみたけど、覚くんからは不確かなこたえしか返ってこなかったし、わたしも頭のすみでは違うことを考えていた。さっきの女の子たちのさえずる声が耳に残ってこびりついている。悪意ではない、もっと奔放な残酷さを孕んだ笑い声。覚くんと分けあった大好きなあの曲のきらめきも、こんなことですっかり色褪せてしまった。

「……あ、覚くんのバス、もうすぐ来るね」

 わたしたちのほかに誰もいないバス停の電光掲示板が、あと三分で彼の乗るバスが到着すると告げている。
 青緑色のベンチに腰をかけ、わたしは、立ったままでいる覚くんを見上げた。覚くんはわたしのとなりに座らなかった。ただ、何も言わず腰をかがめて、彼はわたしに上手なキスをした。だんだんと無口になっていた覚くんに、少しの予感はしていたけれど、それでも喉が痺れる。そろそろ慣れないとって思うけど、いつまでも慣れてしまいたくない酩酊の心地が、そこにはあった。眠りの際で踏みとどまる、夢の端っこに立っているような感覚。ここに裂け目がある。わたしと、覚くん。くっつくのも、混ざるのも、どうにでもなれる可能性を持て余して、今はまだ。
 喉から、顎の線、耳の輪郭。一個一個なぞるように覚くんの指のはらがうごめいて、ゆきどまりで耳の裏から包むように、わたしのピアスホールに触れる。気持ちいいけど、別れ際にこんなふうにつぶさに触れられたことはなかったから、戸惑った。キスだけじゃない。わずかだけど、彼の手のあまやかな動きはその先のたくらみをわたしに想像させた。

「どうし、たの?」
「……ん、女の子って精巧にできてるなと思って」

 女の子、と覚くんが口にしたとき、思いがけず胸が苦しくざわついた。彼はその言葉のなかに、どんな宇宙を溶かしているのだろう。からだを、皮膚をねっとりと覆うこころよさにうずもれていたいのに、心はどこにでも、我こそはとでしゃばってくる。髪を撫でようと浮きあがった彼の手を、甲から押さえるようにして包んだ。肌寒い風が頬を掠める夜に、なぜか汗ばんでいる手のひら。翳ってゆく季節に逆らう熱がここにある。温もりというほど穏やかにはなれない、凶暴な。

「……わたし、そんなにちゃんとしてない」

 覚くんがわたしの言葉を咀嚼するようにまばたきをして、口の端をほのかに持ち上げた。覚くんの笑い方は眉が一緒に下がるのでどうしても困っているみたいな印象になる。張りつめた視線をふいにはずして、覚くんの顔がふたたび近づいてきた。

「ごめんね、俺もちゃんとしてない」

 でもちゃんと話すから。もう少し、待ってて。

 何を? ひたいにひたいを押しつけられると、低い声の響きや、鼓膜の震えが、ぐっと傍に感じられる。もう、目と目は合わない。かわりに触れたその場所が、互いの感情を宿していく。バスの走行音がかすかに聞こえてきて、覚くんはすぐに顔を上げた。九月の夜は思いがけず深い。まぶしく車道に延びるヘッドライトの灯りが、目を眇めた彼の大人びた横顔を照らしていた。
 寮の門限。ナンパしてくる大学生。放課後の笑い声。女の子という容れもの。わたしたちはたくさんの紐で束ねられていて、二人になるのは難しいけど、だからこそ誰もいないバス停まで、一緒に歩いてみたりすること。
 iPodの中身についてでも、気になる週刊漫画のはなしでもいい。きみにまつわることを知りたい。きみをかたちづくるものを知りたい。お互いのちゃんとしてなさを、わたしたちはまだ、ちゃんと知らない。









後編 →

2017.11