ex. さみしさを掬う

※ 8月|若干の性描写あり




 猛暑日と大雨が交互にくるような、落ち着きのない夏が終わろうとしている。
 八月の頭のインターハイを終えてから、強化合宿があり、国体のブロック予選があり、今年の夏は振り返る間もないぐらいに目の詰まった毎日だった。からだがひと夏ぶんの疲労を溜めこんでいるのがわかる。伸びをするように背中をそらしたり、腕や首を回したりすると、蓄積したけだるさをふしぶしに感じた。

「最後に一枚、いいかなあ。二人とも笑顔でお願いね」

 一眼レフを構えたカメラマンに向けて、なんも面白いことはなかったけど、極力それっぽい表情を返す。そうまでして外ヅラを整える趣味はないが、愛想はよくしとけと日ごろから監督にもコーチにも口酸っぱく言われているので、その教えに従ったまでだ。最後に一枚、と言いながら何度も何度もフラッシュを焚かれて、愛想笑いは少し頬をひきつらせた。

「取材増えたな」
「たなー。準優勝効果やろ。ほんまわかりやっすいわ」

 さっきまでにこにこ気持ち悪いぐらい笑っていた侑は、記者さんらがトレーニングルームから出て行った途端、だいぶ邪悪な目をして毒づいた。俺は練習後や休憩中の時間を奪う取材が憎いが、こいつは練習を抜けなくてはならないような取材が大嫌いなのだ。バレーボールの専門誌、地域の新聞、タウン誌、地元のテレビ局。春高に向けて、これからも取材の数は増えていくだろう。そしてきっとそのすべてが、この男とセットに違いないのだ。
 体育館に戻ると、午前中の練習は最後のメニューに差し掛かっていて、コートでは入れ替わりの三対三が行われていた。エンドラインの外側におった北さんがぎろりと俺たちに目を向ける。さっそく三対三の列に加わろうとしていた侑を制するように、北さんは「双子」と俺らをまとめて呼びつけた。

「お前ら今日はもうええから先帰れ。監督命令」
「えー!? なんでですか!?」
「選抜組はこないだのブロック大会で休み潰れたやろ、その振替や」
「はああ、大丈夫やのに……」
「大丈夫? ならお前、当然、課題は全教科終わってるんやろな」
「う、」

 痛いところをつかれて侑がぎくりと口をつぐむ。どうやら監督の心配しているのは俺らの溜まった疲労ではなく、夏休みの課題のほうらしい。コートを見渡すと確かに、共に国体選抜に選ばれたひとらはもう体育館には居ないようだった。それでも「午前練ぐらいやらせてくれたってええやろ……」とぶつくさ粘っているこいつはほんとうに骨の髄まで練習バカだ。

「じゃあ俺、もうあがります。からだ冷えてもうたし」
「ん、お疲れさん。侑は混ざるんやったらアップせえよ」

 ぐずっている侑のことは放っておいて、俺は予期せぬ半休を有り難く受け入れた。べつに、夏休みの最終日に課題がまだ半分以上残っているからじゃない。そんなものはどうとでもなる。帰れ、と言われてすぐ、頭に浮かんでしまったことが消えそうになかった。心はいつも奔放に先走ってからだを動かしたり、動きを鈍らせたりする。孵せそうにない妄想も、最近はだいぶ板についてきた。
 誰もいないロッカールームでジャージを脱ぎ、からだの匂いを確認してから、熱いシャワーを一分だけ浴びた。さっさと制服に着替えて部室棟を出ると、途端、容赦のない真昼の陽ざしが肌に刻印のように焼きついてくる。引いた汗も流した汗も、またきっと、すぐに背中に滲むだろう。
 メールではなく、電話にしようと思った。電話をして、出なかったら。そしたら大人しく帰宅して、課題の残りを片づけようと。祈るような気持ちは一体、どちらの未来を強く願っていたんだろう。呼び出し音が途切れて、通話口の向こうの空気が耳に触れたとき、心臓は鼓膜とじかにつながっているかのようにひどく縮みあがった。喜びとは違う。認めたくないが、それは少しの恐怖だった。

『もしもし、治くん?』

 交換した電話番号を初めてつかい、自分からかけておいて、通話口越しに聞くの声の近さと、その声を通した自分の名前があまりに新鮮で、動揺した。息を吸う。頭のなかを巡らせていたひとつのセリフさえろくに言えない。緊張するのは、自信のなさのあらわれだ。

「あ……あの、突然すみません。その、俺今日、午前で部活終わって、それで……」

 と話しているときの俺の心臓は、一匹も金魚をすくえずに破けてしまうあの薄紙のようだと思う。頼りなくて、すぐ濡れて、どうしようもなく脆い。何も閉じこめておけないこの胸を、その不甲斐なさごと隠したいと願い、ろくな手立ても見つからないまま下手を打ちまくっている。そして結局は、いつもに助けられた。そういうとき、彼女はいつも俺の欲望より一段高いところにいるのだ。

『治くん、お昼もう食べた?』
「え? いや、……まだですけど」

 ほんとう? と、の声がぱっと明るく、黄色がかって聞こえる。俺はスマホを持ってまぬけにこくりとうなずいた。声にしなければ届かないというのに、素で。

『あのね、友だちから旅行のお土産で貰った信州のお蕎麦があるの。もし嫌いじゃなかったら、今から食べにこない?』

 そんな、こんな美味いことが、あっていいんだろうかと。
 行きます、と間髪入れずに返事をする。嫌いな食いものなんてない。というより、嫌いでも迷いなく行っている。しごく自然な流れで部屋に誘われたこと。当たり前のようにが俺を「治くん」と呼ぶこと。は俺をもう、実習先の高校で出会った生徒として扱っていない。二週間前の別れ際のことを頭でなぞりながら、指先から興奮の痺れをなんとか逃がそうとした。これはきっと、あの日に対するの誠意なのだ。そう思うと、やわな胸にはたやすく穴が開きそうやった。



 二週間前の盆休み、俺は初めてと二人で出かけた。の青い車の助手席に乗り、神戸まで海と魚を見に。車のなかでずっと二人で居られるという経験。の慣れたハンドルさばき。きらきらした眼で大水槽を見上げる横顔。こんなに近くにいて、となりにおって、その手を握っていいものかと、俺はイワシの群れとの右手を交互に眺めていた。きっと、もの欲しそうに。
 地元の駅前に帰ってきたのはまだ健全な明るさを残した午後五時ごろだった。は、「買い物をして帰りたいから」と駅近くの路肩に車を停めた。俺はまだまったく帰りたくなかった。車を降りてしまいたくなかった。それは今日という日の素晴らしさのせいでもあったし、情けなさのせいでもあった。雑談のような会話をして、けっきょく手もつなげず。夏の始まりにあんな啖呵を切るような告白をしておいて、俺はまだ彼女のさみしさを埋めるどころか、暇つぶしの相手にすらなれていない。

「買い出し、大変やないですか? 俺一緒に行きましょうか」

 あのときと同じようなよこしまな気遣いは、のさわやかな笑顔にかき消された。あはは、とが口をひらく。隔たりを感じさせる明るさだった。高校生と、大人との。

「大丈夫だよ、もうだいぶ慣れたから。ありがとう」

 どくどくと自分の脈拍が、皮膚の薄いところに響く。もう慣れた、というのなにげない言葉に気づかされる。エレベーターのないあのアパートの部屋はそもそも、男手があることを見こして借りられた部屋なのだと。あほらしい。考えなしの自分の下心のせいで、もう居ない誰かの影に嫉妬するはめになるなんて。

「……さん、これ」
「あ、シートベルト? 最近、金具がだめになってて……」

 嘘をついた。ベルトの留め具をはずすのにもたついているふりをして、助手席に身を寄せたの顔を覗きこむ。自分のしたいことが、自分ひとりではどうにもならないとき、どうやってその合図を相手に伝えたらいいか俺にはわからなかった。だからまたこんな不意打ちしかできないでいる。それは俺がまだ、真正面からに許されることに怯えているしるしだった。
 一度目のキスはすんなりといった。べつにこれは不意打ちでもなんでもないのではないかと、疑うほどなめらかに。だけど二度目は拒まれた。唇をいちど離し、もういちど唇に咬みつこうとした俺を、は顔をうつむけてかわした。ぱちんと音がして、俺を拘束していたシートベルトが彼女の手によってはずされる。

「宮くん、見られちゃうよ」

 一度目のわがままと二度目の邪心のあいだ。それが俺との途方もない距離のように感じられた。宮くん、と。その呼び名が彼女にとってただひとりを名指すものだとしても、俺にとっては違う。俺にとって、俺はまだ、彼女にとってのただひとりじゃない。歪んだ苛立ちが、の見えないところに巣食ってゆく。

「……いつまでそれ言うん」
「それ?」
「なんでもないです」

 言い逃げのようにドアをひらこうとした手に、の手がかぶさる。振り向いて初めて後悔をする。なんでもないなんて、拗ねて、子どもじみた注意の引き方をして、にこんな顔をさせてしまったことに。

「治くん」

 が初めて、俺を呼んだ。出席番号順に行儀よく並んだ生徒名簿を読みあげるようにではなく、順序を逸して、こんなところに躍りでた問題児を、深く突き刺すように名指して。

「今日は楽しかったよ。また、デートしようね」

 あの日の「また」の口約束を、は意識していただろうか。あれもこれも、きかん気の俺をたしなめるような意図が少しもなかったわけではないと思う。それでもとにかく、二度目のの部屋だ。あの日のように強引な口実はもう要らない、それだけで、俺は少し自分の背が伸びたような気さえした。



 駅前からはやる気持ちでバスに飛び乗り、降りるまでのバス停の数を指折り数えながら窓の外を眺めていた。あとふたつ。近くの十字路に差し掛かったところで、黄色い看板のドラッグストアが見えてくる。のアパートが近いことを知らせる派手な看板が、それ以上の意味を帯びて、今の自分の目には映った。誰かの押した「降ります」ボタンで、俺は目的のバス停のふたつ前で下車し、そのドラッグストアに駆けこんだ。に電話をかけたときと同じぐらい、衝動的な、けれどかたくなな意思に導かれて。
 途中下車したバス停ふたつぶんの残りの道のりは、走ってのアパートに向かった。炎天下、慣れない道に少し戸惑い、エントランスに着いたころには部室棟で浴びたシャワーはあまり意味のないものになっていた。

「いらっしゃい」

 玄関で俺を迎え入れてくれたは、無造作に髪をまとめ、無地のTシャツにショートデニムというあっさりとした格好をしていた。見るたび彼女は印象を変えるような気がする。異性の化粧や服装のからくりなんて俺には一個もわからない。だけど、教育実習中の黒のパンツスーツも、再会した日のロングワンピースも、二週間前の青いスカートとレースのブラウスも、何着とったってはかわいい。ただ、かわいいの一言すら言えないのに、どんなときも好きなひとがかわいいというのは、けっこう苦しいことだと学んだ。

「……めっちゃええ匂いする」
「そんなたいしたものじゃないんだけど、治くんお蕎麦だけじゃ足りないかなって思って、ちょっとだけ」

 俺を部屋に招きながら、あんまり料理は得意じゃないんだけどね……、と、は照れくさそうに頬をかいた。彼女はざる蕎麦と、豚肉と野菜の炒めものを食卓に用意してくれていた。すきっ腹に極度の高揚感と緊張感がなだれこんで、腹が減ってるのに空腹感が押しやられていく。それでも、どんなときも、めしは美味い。美味かった。

「よかったあ。いっぱい貰っちゃって、食べきれそうになかったから」

 は俺の半分も蕎麦を食べられていなかった。ひと口すすっては麦茶を飲んで、つけあわせの冷やしトマトを食べたり、薬味の大根おろしだけをつついたりしていた。

「蕎麦嫌いですか」
「好きだけど、夏はあんまり食欲なくて。ひとりで食べても美味しくないし」

 ほどけるように笑って、は俺を見つめた。このあいだ、水族館のレストランで昼めしを食べたときもはこんな顔をしていた。考えてみたら俺は、いったい一年のうち、たったひとりで食事する機会がいくらあるだろう。記憶を辿ってみても、すぐには見つからない。家と学校を行き来するだけの世界で、俺はまだ「ひとりで食べても美味しくない」というさみしさすら知らないのだ。

「治くんとご飯食べるの好きだなあ。きもちいい」

 ただがっついているだけの食事を、そんなふうに有り難そうにまじまじと眺めないでほしい。蕎麦も、炒めものも、けっきょく俺がほとんどたいらげてしまった。ごちそうさまでした。手を合わせて口にする。ほんとうに、またとない御馳走だった。
 こんなにたくさんを貰ってしまって、これ以上を望むなんて欲どしすぎる。
 そんな控えめな気持ちになって、食後の、からになった食器を二人で片づけているときだった。

「治くん、スマホ鳴ってるんじゃない?」

 スマートフォンの振動音に先に気づいたのはだった。昼間のワイドショーを流すテレビの音にまぎれ、確かに一定間隔のバイブの音がする。どうやら電話のようで、放っておいても鳴りやむ気配がない。カウンターにガラス皿を置いて、部屋のすみに転がっていたエナメルリュックのもとにしゃがみこむ。かばんを漁ると、走ってきたせいか、スマホはずいぶん奥深くに沈んでいた。ジャージやら財布やらをかきわけ、真新しいイルカのストラップを引っ張って釣り上げる。それは侑からの着信だった。きっと、先に学校を出たはずの俺が帰宅しても居ないので、探りをいれにきたんだろう。

「かけなおすなら、ベランダに出たらいいよ。窓閉めたら声聞こえないから」
「いいです。たぶん大した用じゃないんで」
「そう? ……あれ、治くん、これ落としもの……」
「え、あっ」

 だめだ。とっさにそう思って伸ばした腕は逆効果だった。が腰をかがめて拾いあげたのは、俺のかばんのおもてに押しこんでいたドラッグストアの袋だった。ひったくるように奪ったせいで、袋の中身がフローリングの上に転がり落ちる。の目が大きくみひらいて、俺は、地獄のような瞬間を味わった。
 の目の前にさらしてしまったのは、まごうことなきコンドームの箱だったのだ。

「……すみません」

 そう、絞りだすのがやっとだった。内側の、心臓の音がうるさくて、自分のか細い声などつぶれてしまっている。気まずい。死にたい。ぞっとするほど血の気が引いて、それから、頭がぐらぐらと煮立つような後悔がつのった。
 ドラッグストアを見かけて、反射的にバスを降りた一時間前の自分を呪いたい。べつに、の誘いを勝手に拡大したわけじゃなかった。むしろ俺は、のなかにどんな欲望があるのかを考えただけだった。だけどそんなの、責任を相手になすりつける言い訳に過ぎない。相手の欲望のなかに、自分の汚さを隠しただけに過ぎない。ただと、少しの会話をしながら食事をともにするだけで、こんなにも胸が窮屈になるのに。俺は俺の幸福を計り間違えていた。

「どうしてあやまるの。大事なことだよ、避妊するって」

 淡々と、の声がする。それでも顔を上げられない俺のとなりに、は脚を折ってしゃがみこんだ。つるりとしたの白い脚。花の匂い。その手が、俺の視界のなかで、避妊具を拾いあげる。目をつむってしまいたかったが、にまじめな顔で覗きこまれてしまえば、視線を合わせるしかすべがなかった。

「わたしのこと考えて、買ってきてくれたんだよね。ありがとう」

 あっけにとられている間もない。そしてなぜか、その言葉と一緒には身を乗りだすようにして、俺を抱きしめた。
 のその慰めは、的外れな、俺をかばう優しさだったに違いない。俺はただ、に触れたいという凶暴な欲を、そこにこめていただけだ。のことを考えながら、自分のことを考えた。二人のことを。それなのに、そんな自己中心的な欲望を「ありがとう」とはいたわる。俺よりもずっと年上のくせして、ずっと小さなからだを、俺にあずけてくれている。
 じゅうぶんな幸福。じゅうぶんな優しさ。じゅうぶんな二人。だからこそ、その先があるのか。
 おそるおそるの細い腰に腕をまわして、彼女の薄手のTシャツに唇を押しつけた。シャツごとその奥にある、やわらかな肌を食むために。くすぐったいのかは耳もとで笑っていた。耳たぶを噛まれ、そのあとはもう、何をとっても性をわかちあう行為だった。



 何かを知る手段として、言葉は有能ではあるが、万能ではない。皮膚から得られる情報がこんなにもあることに、俺はに触れて初めて気づかされた。薄いTシャツ一枚で、ひとはどれだけ多くのことを隠すのか。だとしたら一枚のシーツの上で、俺たちはいったい、いくつの隠しごとを孕むだろうか。ここにはすでにある。二人の、誰にも言えないこと。
 ソファのある部屋から、擦りガラスの引き戸で隔たれたの寝室に俺たちはうつった。開けっぱなしの引き戸から漂うクーラーの冷気だけでは、どうしようもなくて、二人ともあっという間に汗まみれになった。熱をすくうようにのくぼみに舌を這わせると、彼女の肌は粟立ち、彼女の指は俺の髪の毛をくしゃりと乱した。しょっぱいのに、甘い。それから苦い。色んな匂いと味がまわって、舌があほになる。

「あ、だめ」

 が遠くでそんな懇願をしたような気がした。はっきりしない。何しろ、自分の呼吸の荒さが聴覚を奪いかけていたから。のなかの感触はとても形容しがたく、腰をすすめるたび俺は打ちひしがれ、半身に滲むように快感が満ちた。錯乱とはこのことだ。の腕が伸びてきて俺の首を引き寄せる。は、は、と短く息を吐きながら、彼女は頬を真っ赤にして何かに耐えていた。

「ごめんね、わたしも久しぶりで……」

 だめ、とは、動くな、ということだったらしい。同じ姿勢を保っていても、頭んなかと、からだのなかの具合は絶えずめまぐるしく動いている。本人は無意識なんだろうか、「久しぶり」なんていう言葉をつかって、俺を嫉妬と劣等感に狂わせる。このセミダブルのベッドで幾度もを抱いた男はどっかにいて、それは変えられないことで、だからといって今ここにある二人の行為が霞むわけじゃない。頭ではわかっていても、だめだ。頭でわかろうとしていることがすでに、だめだ。に処女であってほしかったなんて思わない。それはじゃない。そもそも、のさみしさを埋めると、大口を叩いたのはお前じゃないのか。

さん、俺もう……」

 呻くような声で告げる。経験のない俺にも、これがあっけないほどに早い限界だということはわかっていた。の潤んだ目がゆっくりとまたたく。自分の肉体の情けなさに愕然としながらも、肉体そのものは昂るばかりで、初めてのセックスはどこまでいってもちぐはぐだ。この歯車がいつか噛みあう日が来るのだろうか。今の俺にはそれを待ち望む余裕すら、ない。

「うん。きて」

 の腕に、身構えるようなちからがこもる。俺は逆に脱力して、にしがみついたまま全身を震わせた。自分の目に涙が溜まっているのがわかって、顔を見られたくなくて、の肩口に顔をずっとうずめていた。するすると滑りわるく、しだいに意識が高いところから戻ってくる。背中にまわっていたの腕にうながされるまで、俺はのなかに居座り続けていた。作法も何も、知らないで。

「……治くん、コンドーム替え、よ?」

 している最中、は俺に経験があるかどうかついに訊くことはなかった。訊くことではないと思ったのかもしれないし、訊かなくてもわかってしまったのかもしれない。きっと、その両方だろう。
 その日けっきょく、俺たちは買いたてのコンドームの包装をあとふたつ開けてしまった。ふたつめのそれは、の手のなかと口のなかであっという間にだめになった。みっつめは、それでもいちばんましだった。ましと言っても、自分の頭のなかにあったその行為と、いちばん近いことをできたというぐらいの意味だ。が何を感じていたのかは知れない。俺は夢中だったし、は抵抗も否定もせずそれを許してくれた。すべてを終えて、お互いに疲れきったからだをベッドの上に投げだしたころ、薄いカーテンの向こうの空は、赤みがかった日暮れの色をしていた。いつ、五時の鐘が鳴ったんだろう。の白い鎖骨に夕陽の影がかすかに浮かぶのを、俺は何か、みごとな景色のようにぼんやりと眺めた。

「……俺、もらってばっかりやな」

 身も蓋もない感想がぽろりと口からこぼれ落ちる。この夏、初めての運転する車で遠出をして、部屋にあがり、初めてのセックスを経験して、考えるのはそんなことだ。の顔が近づいてきて、俺の前髪を梳かすように指を散らす。あまり、伝わらなかったようだ。やっぱり言葉は万能じゃない。

「じゃあお返しに、お皿洗いでもしてく?」

 くすりと笑って、がささやく。昼めしの片づけの途中でこんなことになってしまったから、俺がからにした皿やコップが今もキッチンにはそのままになっているはずだ。視界をうろつくの指に指を絡めて、俺はを見上げた。

「しますよ、全然」

 目を合わせ、おおまじめにそう答えると、は笑みをつくったままかすかに眉を下げた。絡めた親指を撫でるように動かされる。じゃれあう指と指がしっとりと汗っぽい。部活のあととは全然違う、嫌な気持ちのしない汗のぬくもり。

「わたしのこと、ずるいと思う?」
「え……なんで」
「わたしなんだか、治くんを支配してるような気持ちになるの」

 妙な言葉を残しての指先が離れていく。彼女は身を起こし、ベッドの下でまるまっていた下着を慣れた手つきでつけなおした。おろした髪の毛に指を入れてばらばらと束をすくっては肩におろす。その髪のすきまに夏の終わりの陽が透けていた。
 これがほんとうに支配なら、こんなふうに胸がざわつくこともないだろう。
 それは違います。そう、投げかけるかわりに、俺はの背中を抱きしめた。は、とが息を呑む。「久しぶり」に情事のあとのだるさを負ったその背中に、じかに胸を押しつけ、必死に念じた。ずるいのは俺だと。
 のとなりにいるときの俺の心臓は、一匹も金魚をすくえずに破けてしまうあの薄紙のようだ。頼りなくて、すぐ濡れて、どうしようもなく脆い。
 だけど、あのさまよう赤い金魚をすくえたとして、きっとそれもひとつの季節にしか留まれない、弱くてさみしい生きものなのだ。









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2018.8
2018年発行・再録本より