※『ひみつ遊戯』の角名と軽音部彼女




 世にも涙ぐましいデートの話をしよう。
 午後三時三十分。一週間の終わりの生物の授業を受けたあと、北館三階の準備室Aで恋人と落ちあう。帰りのホームルームが始まるまでの十分間を、この場所で彼女と過ごすために。カエルの解剖もそこそこに、授業中、何度も時計を見上げて待ちわびていた。カーテンの向こう、今日も秋晴れの空の下を分けあうことはできない。だけど薄暗い空き教室で、すきまを縫うような密会をくわだてることはできる。
 それが今の二人にとって、せめてもの永遠のつくりかただった。

「すな、ねえ、見て見て」

 ――おまえの彼女、「角名」の発音が漢字やなくて、ひらがななんよな。
 治は面白いことを言う。けど、その通りだと思ったので、ちょっと笑った。それ以来、俺にとっても自分の苗字の響きは、彼女に呼ばれるときだけ特別なものに変わった。すな。お互いむりに下の名前を持ちだすより、今はこれが適切な愛称に違いない。
 デートの基本はまず手をつなぐところから。そんな段取りはすぐに無視して、彼女はいつでも自分の興味に正直にふるまう。手のひらをすり抜けていった先で、はスカートの裾など気にせず散らかった床にしゃがみこんだ。彼女の手が何かを拾いあげる。それははじめ、俺にはただの白い布きれに見えた。迷いなく頭にそれをかぶって俺を振り返った彼女と、面と向かってまみえるまでは。

「どう、花嫁さんみたい? ダーリン」

 突拍子もない言葉と、飾りっけのない黒髪を覆うレースつづりと、ふたつが合わさってやっと理解する。埃っぽい床に落ちていたその白い布きれの意味を。
 年に一度の文化祭が近づいているせいか、近ごろこのへんぴな準備室にも新鮮な空気が出入りしているような気配を感じる。以前訪れたときと荷物や机の配置が微妙に変わっているから、ひょっとすると褒められた待ち合わせ場所ではなかったかもしれない。の拾ったそれも、誰かがどこかの段ボールをひらいたときにこぼれ落ちたんだろう。近づいて、彼女の頭を撫でるようにオーガンジーの布地に触れる。三文芝居を引き立てる、まがいもののウェディング・ヴェールだ。

はあんまり似合わないんじゃない、こういうの」
「あ、ひどい」
「ギターと結婚しそう」
「それ言うならすなの恋人はバレーでしょお」

 挑むような眼をして、はぜんぜんこわくないふくれっつらをしてみせる。似合わない、というのは髪飾りをつけた彼女の見た目のことを言ったわけではない。「花嫁さん」とか「ダーリン」とか、ふざけているにしても彼女の口から飛びだすにはあまりに不釣り合いな言葉だったから。はそういう甘いだけがとりえの砂糖菓子のようなことは滅多に言わない。まあ、歌うことはあるかもしれないが。
 進級してクラスを違えてから、ほんとうに、とにかく時間がない。同じクラスって有り難いことなんだと思い知った。何をせずとも、喋らずとも、毎日一緒に居られるだけで充たされるものははかりしれない。そもそも同じクラスでなければ、出会うものも出会わなかっただろう。偉大だ、こんなつまらないことが。よくも、悪くも、授業と部活に縛られている俺たちにとって。

 のことを初めて意識したのは、去年の六月の、校外授業の日だった。行きのバスのなかで、目立ちたがりの連中がカラオケ大会をしようと騒ぎだしたのだ。俺は眠くてだるくて、歌うのもごめんだったので、寝たふりをきめこんで小刻みに揺れる窓ガラスに頭を預けていた。或る曲のイントロが、スピーカーから流れだしてくるまで。その瞬間、思わず、狸寝入りを忘れて首をもたげた。そっと見渡したバスの車内、マイクを握って立っているクラスメイトがひとり。それが、だった。

「なにこの曲、知らなあい」
「あ、でも好きかも」
さん軽音でヴォーカルなんやて。さすが上手やなあ」

 周囲のざわつきも右から左へ流れて、の歌う声だけが俺の体内に落ちていく。気取らないなめらかな声と節。彼女は堂々と、まだあまり知られていない気怠いロックチューンを歌いこなした。俺はべつに音楽に詳しいわけではないし、テレビや動画サイトを見る暇なんてないから、流行りのバンドにもアイドルにも疎い自覚がある。けど、その曲のことは知っていた。毎朝聴くラジオで、そのころ毎日のように流れていた曲だったからだ。
 四月のはじめ、地元からこっちに出てきて稲荷崎の学生寮に入り、生まれて初めての親もとから遠く離れた生活が始まった。慣れない環境で、共同生活も上下関係もとにかくストレスが溜まる。ひとりの時間が欲しくて、俺は毎朝、起床時間の三十分前に起きて走った。息苦しい四人部屋を抜けだし、寮のまわりを何周か、スマホにつないだイヤホンを耳につっこんで。
 短い間奏のあいだ、と目が合った気がした。それだけ俺が考えなしに彼女を凝視していたということかもしれない。まばたきも鈍くなる。目をつむるたび、まじわった視線の熱が剥がれ落ちてしまいそうで、もったいなかった。

「さっき歌ってたの、ラメルズ?」

 バスが目的地に着いて、ぞろぞろと列をつくって移動している道中、俺はわざと歩みをゆるめてに声をかけた。彼女と言葉をかわすのは初めてのことだった。馴れ馴れしかったかもしれないが、は目をまるくしながらも気さくにこたえてくれた。

「うん。かっこいいよね」
「というかさんがかっこよかったから」
「ほんまに? うれしい。ありがとう」

 うれしい、という言葉と、ほんとうにうれしそうに目じりをゆるめた顔と。彼女の美しいところは、良いこともやなこともしっかり俺に見せてくれるところだ。女きょうだいのなかで育ったから、彼女たちがふだんどれほど気を遣って、裏表をつかって、男に接しているのかよく分かってる。は思いついたように顔をあげ、今度は彼女のほうから俺に質問を投げた。

「すなくんってスポーツやってる?」
「ああ、バレー部」
「やっぱり」

 うなずいて、その先には「背、高いもんね」とか、「訛ってないもんね」とか、そういうありがちな言葉が続くと思った。ところが彼女はうかがうような上目づかいで、照れくさそうに予想外の返しをした。

「ハッカのな、すってする匂いがする。スポーツがんばってるひとの匂い」

 列の前のほうから友人に名前を呼ばれて、彼女はじゃあね、と言ってそれきり駆けていった。
 確かに俺はこのとき、腰をやや痛めていて、制服の下に人知れず湿布を貼っていたんだけど。
 俺はこれに、このの言葉と仕草に、なぜかとてもやられてしまい。
 自分でもよく分からなかった。たったひとつささいなことでも、疑いなく積み上げていたものを崩されて、俺の積み木を崩した彼女ともう少し話をしてみたいと思った。もう少しが、もっと、もっとが、ずっとになって、じわじわと延びてく俺の欲望は、幸運なことにいつしか彼女をつかまえた。彼女は俺の彼女になった。今はまだ、俺だけの。

さ、うちの連中、ライブに誘った?」

 文化祭では小講堂をつかった軽音部のライブステージがある。彼女にとってのライブはきっと俺たちにとっての試合みたいなものだろう。たわむれのヴェールを脱いで、は髪を手櫛でとかしながらうなずいた。俺のほうを見ずに、水垢のついた窓ガラスをうっすら鏡がわりにして。

「うちって、バレー部のひと? うん、土曜日、食堂におったひとにはチケット渡したよ」
「俺に渡してくれたらこっちで捌いたのに」
「けど、自分の部活のことやもん。すな、一緒に遊びにきてね」

 ――角名の彼女って、喋らんほうがかわいいよな。なあ。
 侑は失礼なことを平気で言う。に興味があるんだかないんだか、とかく侑はもてるから、自分の前で少しも好意をちらつかせたり猫をかぶったりしない異性はつまらなく見えるんだろう。誰とどこで何をしていようと彼女の自由だし、自由だと思えるけれど、誰かに彼女のことを好き勝手あれこれ言われるのは、どうも歯がゆい。それが的外れであっても、あるいは的を射ていたとすれば、なおさらに。
 ――ばかいえ、歌ってるほうがかっこいいんだよ。
 そんなのろけた反論をぐっとこらえた。反論は彼女本人にしてもらうことにしよう。祭りの日のステージで。

「わ」

 嫌な予感のする足音がどたどたと近づいてきて、俺はとっさに、彼女の腕をひっぱっていた。よろめく重みを抱きとめて、積まれた段ボールと大道具のベニヤ板の裏にしゃがみこむ。ほどなくして準備室のドアがひらいた。言い合うような女子の声がどっと流れこんで、二人きりの空間はあっけなく引き裂かれてしまう。

「ちょっとお、ないやんか。ここに積んでたんやろ」

 薄い壁板一枚を挟んで、生々しく届く声に息をのむ。心臓のとなりで、が肩を震わせたのが分かった。おそらく、彼女たちの探しているものが何なのか、すぐに察しがついて。

「ええ、うそや、持ってき忘れただけやと思ったのに」
「まさか廊下で落としたんちゃうん」
「そうなんかなあ……」
「昼に開けた段ボールってこれ?」

 ああでもないこうでもないと喚く声を耳にしながら、二人のあいだでつぶれていた白いヴェールを二人同時に見おろし、そして顔を見合わせる。彼女が思いがけず不安げにまなこを揺らしているので、俺はむしろおかしさがこみあげてきた。なんだこのかくれんぼは。子どもじみていて、無意味で、お粗末で、それなのにお互い別様に真剣で。いま、世界中の誰にもこの小さないたずらを見つけられたくないと思った。

「……すな、」
「し」

 右手のひとさし指を唇の前に立て、左の手のひらで立ち上がろうとしていたの腰を制する。彼女の膝がしらが床にこすれて少しの物音がしたけど、壁の向こうには届いていなかったらしい。甲高い会話にかき消されたしじまの物陰で、俺たちはしばらくそのまま息をひそめた。あとどれぐらいの時間が残されているだろう。慌ただしく去っていった上履きの靴音は、終わりの線を引くチャイムの音が迫っていることを知らせていた。この物足りなさが、だけど、いつのまにか癖になっている。俺ってどこか、おかしいのかもしれない。

「……どろぼうしちゃった」

 彼女たちの気配がすっかり遠のいてから、は落胆したように声をもらした。どろぼう。大げさな言い草にふきだしてしまうと、キッと迫力なく睨まれる。俺とじゃれるため、落ちてたものを先に自分のおもちゃにしたのはのほうだというのに。

「あとで俺が返してくるから」
「なんで?」

 なんで? なんでって、なんだよ。……呆れたみたいなようすで、なんも分かっちゃいない彼女に、臓腑の奥から乱暴な気持ちがこみあげてくるのを感じた。性的興奮と少し似ている、この感じ。俺は薄汚れたヴェールをの腕から奪い、その不機嫌な顔を覆うように白いレースを彼女の頭にかぶせた。やあ、と非難のうめきもつぶれ、はかない紗をつうじてはたと目が合う。心のなかで念じる一秒、二秒、三秒。貴重な十分間のうち、もっとも贅沢で有意義な三秒のつかい道だ。彼女を静かにさせる方法を、俺は知っている。

「いいからもう少し、俺の花嫁でいてよ」

 レースのすきまに指をいれ、できるかぎり慎重に無垢な覆いをすくいあげてやる。神に誓いを立てる作法など知らない。この手つきはすべて、目の前のひとりに捧げられている。彼女は相変わらず呆けた顔をしていたが、それ以上、俺を睨んでくることはなかった。何しろ、二人とも目をつむってしまったので。
 ずっと彼女の腰に据えたままだった左手で、恋人を引き寄せる。チャイムの音がぷつりと溢れる。鳴り終わるまでの二十秒。俺たちの短い永遠。
 こんなときふと、考えてしまう。
 俺にもし、未来の結婚相手とやらが居るとしたら、それは今ここにいて、俺と気持ちのいいキスをしてくれる彼女よりもイイ女だろうか。その女との恋は、ここにある一閃のような彼女との日々を追いこしていくものだろうか。それとも俺はいつか彼女をすっかり忘れて、彼女のくれたすべての輝かしさを忘れて、そのたびに新しい何かを至上のものとして受け入れ、生きてゆくだろうか。
 それだけは嫌だな。薄目をひらいて、神様の前ではとてもできない、彼女の切ない顔を見つめる。
 埃っぽいウェディング・ヴェールの純白も、何もつけていないまっさらな薬指もまぶしい、今だけの俺の花嫁。









THE END

2018.3
♪ 2way traffic - RAMMELLS