※近親相姦|若干の性描写あり




 左手に一冊の本を抱えながら右手でその扉を叩く。すると、呼吸を整える間もなく部屋の中から「どうぞ」と声が返って来たので、カルトの脳内はにわかに真っ白になった。何回もこの扉を叩き、開き、そして言葉を発する練習をしてきたというのに。どうやら何の意味も無かったようだ。
 カルトがその部屋の扉を開くと、アームチェアに座って本を読んでいた部屋の主――つまりカルトの第一の兄であるイルミ――が彼のほうを見遣った。ついぞ驚くということを知らないその瞳は、深夜零時近くに末の弟が意を決した表情で自室に訪れたとしても、全くもって動揺することは無かった。ただただそれは、ついさっきカルトが通り抜けてきたあの洞穴のような迷路のような廊下と同じに、出口のない仄暗さを湛えているだけなのだった。

「どうしたの、カルト」

 無味乾燥なその瞳、ボクを呼ぶその声、その仕草のひとつひとつ、その長い黒髪、その存在!どうしてこの人は頭の天辺から爪の先まで澱みなく忌まわしいのだろうか、とカルトは背筋に悪寒を覚えながら考える。それは全く、カルトにとってはとてつもなく悩ましい嫌悪感であった。なぜならその最も忌まわしいものの手の内にこそ、彼にとって最も愛しいものが有るからだ。

「……あの、」
「ん?」
「これを……この本を姉様に返したくて」

 着物の袂に隠していた一冊の本を、彼はおずおずと(あるいは向こう何年か分の勇気を振り絞って)兄に見せた。彼の手のひらに乗せられた安物のペーパーバックは、彼の兄が撫でている金刺繍の施された革表紙とは似ても似つかない、大層みすぼらしい代物だった。題字は消えかけ、栞紐の先は解けて広がっており、ページの端はところどころ折れ曲がってしまっている。

姉様はどこにいらっしゃるの」

 兄の波立たぬ瞳のみなもの奥に、か細い感情の澪が刻まれるのをカルトは見逃さなかった。けれどもその流れ星のような一瞬のひらめきが何を意味するのか、彼にはそれを推測するだけの知識が無かった。血の繋がったこの兄に関しての、正しく、明瞭で、信頼しうる知識が、彼には未だに一つも無いように思われた。

「カルト、こっちにおいで」

 イルミは重厚な装丁の本を閉じ、テーブルの上に置くと、空になった手のひらをひろげて薄情な声色でカルトを呼び寄せた。
 ――イルミ兄様がボクのことをああやって呼び寄せるとき、兄様は決まってボクをご自分の膝に座らせる。
 幼い頃は一番上の兄が自分だけを膝の上に乗せてくれることを酷く喜んだ。母に着せられた女物のドレスや着物、女の子としての髪型や薄化粧、叩き込まれた可憐な立ち居振る舞いや言葉遣い……全てが疎ましかったが、兄の膝の上でそれらを褒められると決して悪い気はしなかった。特に「お前は姉さんよりも女の子らしく、美しく育つだろうね」などと言われると堪らなかった。(イルミ兄様はお姉様よりもボクのことを好いてくださっている!)その能天気な勘違いは、今考えてみれば恋のようなものだった。姉が貸してくれる薄っぺらなペーパーバックの中にあるような恋と同じだった。兄の瞳の中に自分だけが映し出され、そして兄の唇から自分を讃える言葉が紡がれ、兄の手のひらが自分の髪の毛を撫でるとき、表向きは何の動きもないありふれた夕食後の団欒が、胸の内では咀嚼した文章の装飾を借りて、たった一つの劇的な意味を持つ一瞬となった。この普通ではない家で、普通ではない人間として、普通の家や普通の人間と一切関わることなく育てられたとしても、カルトにはありとあらゆる感情とありとあらゆる経験を手にしているという確かな感覚と自負があった。この家こそが彼にとっての宇宙であり、それが窮屈だとか退屈だとか感じたこともなかった。そう三番目の兄が、この家を飛び出すまでは。

 三番目の兄の不在は兄弟のバランスを著しく狂わした。長兄の異常な依存癖と支配欲は本来のターゲットを唐突に失い、次にその余りある欲望を向けられたのはカルトではなく彼の姉のほうであった。
 彼の唯一の姉であるは奔放な性格で(三番目の兄の性格は姉譲りだろう)、暗殺の仕事をしに出掛けると最低でも一週間は戻って来ないし、出先で別の案件を抱えてさらに飛び回り数ヶ月単位で家を空けることも少なくなかった。そして彼女は本が好きだった。かといって愛しているわけではなかったように思われる。なぜなら、彼女の部屋は確かに本棚だらけだったけれども、綺麗に整頓されているとはとうてい言い難く、本はどれも「平等に」乱雑に扱われていたから。世界一汚らしい図書館。カルトは姉の部屋を密かにそう名付け、姉が家に居るときは頻繁にその部屋に通っていた。が、それも三番目の兄が出奔する前までの話である。

 ―― 何してるの、二人で。
 ―― ……カルトの気に入る小説を選んでいるところよ。邪魔しないでちょうだい。それともあなたが私のボロボロの本を読むとでも?
 ―― ……イルミ兄様、
 ―― カルト、この部屋に入るなと言ったよね。
 ―― イルミ兄様、でも、
 ―― いつからお前はそんなに聞き分けの悪い子になったの?

 自分を褒め続けてくれていた兄の口から初めて自分を非難する言葉が発せられたとき、自分の髪を撫で続けてくれていた兄の手のひらが乱暴に姉の手首を掴むのを見たとき、カルトは兄の瞳に最初から自分の姿など一切映し出されていなかったのだということに気が付いた。それはカルトにとって兄の瞳が、声が、仕草が、黒髪が、存在全てが、唯一無二の激しい嫌悪の対象となった瞬間だった。
 あのときあの部屋から一冊の小説と共に閉め出されて以降、カルトは姉の姿を一度も見ていない。返し損ねたその一冊の小説を、彼は擦り切れるほど読み返した。それは詩を書く少年の物語だった。少年は自らを詩の天才であると自負し、あらゆる感情は言葉の組み合わせに過ぎないと傲慢にも思っていたが、恋の苦しみのさなかにある人間を目の当たりにし、美しかった恋の観念が滑稽な思い込みの産物でしかなかったことを知るのである。そして少年は直感する。人はみな、この思い込みなしには生きることは出来ない。――逆に言えば、生きるということは、思い込むことなのであると。
 促されるようにして何年かぶりに兄の膝の上に腰を下ろしながら彼は、手にしていた小説の内容を今一度反芻した。この意味深な小説を残したまま姿を消した姉を、カルトは恨んでいた。そして何より、愛していた。

「カルト」
「はい」
「お前の姉さんは死んだよ」

 その言葉は今までと何ら変わりのない抑揚で生み出され、そこに痛烈な事実が乗せられているような素振りは全く存していなかった。カルトは反射的に首をもたげたが、兄の瞳は今までと同じようにただ空虚な闇を孕んでいるだけで、再びそこに感情の水脈を見いだすことは出来なかった。

「……ど、して」
「オレの子供を産んでしまったから」

 イルミはカルトの手からあっけなく本を取り上げ、擦り切れた表紙を一瞥すると「こんな本を貸すなんてね」と小さく、冷たく呟いた。死と、生と、本の話をなだらかな稜線を描くように語る兄は、その冷静さゆえにもはや狂気でしかありえなかった。死体も死に顔もない。血の匂いもしない。墓碑すらない。ただ乾いた兄の言葉だけを絶望として機能させなくてはならない。これが死、なのか。死とはこんなに抽象的なものなのだろうか?

「カルト、あれの名前は二度と口にしてはいけない」

 前頭葉を押さえつけるようにして乗せられた手のひらは、いやな熱を頭蓋骨にまで伝わらせる。その重たい微熱を感じながらカルトが想像していたのは、姉の死ではなく、姉と兄の性の交点だった。「子供」とはそういうことだ。十中八九生きてやいないその幻の交点を、姉と兄が愛し合った(少なくとも行為として。もちろんそれだけでカルトの胸を掻き乱すには充分なのだけれども)ことを証明してしまうその仮初の生を、彼は必死に思い浮かべようとした。それは具体的なかたちを伴ってなくてはならなかった。具体的な質量、体温、手触り、匂い、表情を持っていなくてはならなかった。

(その身体のすみずみまでボクの想像力が及ぶなら、ボクはこの死を死として受け入れられるだろうか。)

 けれども見えない「子供」はまるで無感動な静物のようで、彼になんの修飾も許さなかった。受け入れ難いものはそのまま受け入れ難いものとしてしか彼の前に現れなかった。

姉様は死んだんじゃない。決して死んだんじゃない。殺されたんだ。殺したんだ。この家が。違う。お前が……)

 カルトは自分でも訳の分からないまま突然すっくと立ち上がり、脳を掴むように頭を支配していた兄の手のひらを押し退けた。(お前が姉様を殺したんだ。)カルトは糾弾するような口ぶりで絶対的な兄を追い込む夢を見た。その一秒にも満たない刹那に確かに見た。けれどもいざ口を開けてみると、咥内でとぐろを巻いていたはずの言葉は全て兄の瞳の迷宮の中だった。眼力とは生まれながらの才能だ。イルミの瞳には真実を濾過する力がある。しかし煩雑な魂を失った言葉というのは往々にして陳腐なものだった。

「……お兄様はボクを愛せばよかった」
姉様ではなく、)

 そうすればこんなことにはならなかった。そうすればこんなふうには思わなかった。カルトが崩れるようにイルミの足元に跪いたのは彼の意志のようであって意志ではない。かといって束縛であるとも言い難い。この家でこの家の住人として生きるということは、そういうことだった。カルトはアームチェアに腰を下ろしたままのイルミの右膝の上に額を寄せた。まるで接吻を施すかのように。

「哀しいの?」

 カルトは降り注ぐ声の意味、そしてその単語の意味を考える。(確かにボクは哀しいのかもしれない。けれどもイルミ兄様の問いかけは、本当に「哀しいのか否か」をボクに尋ねるためにあるのだろうか。)そのたった一言の簡単なのか複雑なのか分からない、何物も寄せつけない排他的な響き、一人の人間の運命を遥かに超えた予言めいた声の不気味さは、哀しみをまるで一つの小説として扱っているかのように彼に届いた。起きなかったことのように起きたことを語るということ。有り得ないことのように有り得てしまったことを語るということ。イルミはカルトの手首を捻るようにして引っ張り上げ、無理矢理に自分のほうを向かせた。この人の手のひらからは小説の匂いがする。おぼろげに霞がかった、あの乱雑な部屋と同じ……。

「じゃあ、忘れさせてやろうか? 跡形もなく」

 ――哀しむということはね、カルト。あなたに心があることを証明するのよ。これは他のどんな感情にもできないことなの。

 きつく握り締められた左の手首が激しく、強く脈を打つのを感じながら、カルトはこの家を出て行こうと、否、出て行かなくてはならないと思った。









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