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 ――最近のピーブズはどうもおかしい。あの様子はまるで、恋をしているみたいだ。

 フレッドは憂鬱な気持ちでつい十数分前の出来事を反芻する。ピーブズときたら、朝っぱらからポルターガイストのくせして玄関ホールの甲冑に派手にぶつかり、酷い癇癪を起していたのだ。ナイトの甲冑が崩れるけたたましい金属音、キーキーと泣き喚くピーブズ、数秒で駆けつけたフィルチの怒鳴り声……今朝の目覚めは最悪だった。

「ピーブズが恋? ゴーストですらないのに?」

 黒髪のドレッドヘアがトレードマークの青年、リー・ジョーダンは、スコッチエッグを頬張りながらフレッドの言葉に首を傾げた。確かにピーブズは生粋のゴーストというわけではないらしい。つまり一人の人間だった試しもないのだ。いつの時代かふらっとホグワーツに迷い込んでしまった混沌、煩雑な寄せ集めの魂。何か騒ぎを起こしていないと気が済まない一種の現象のような生き霊で、空き教室から廊下、廊下から大広間へと飛び回っては、絶えず誰かを困らせ怒らせ泣かせてしまうのがお好みだ。目の前に居るのが生徒ならばたとえ誰であろうとも、嬉々として尻を突き出し、行く手を妨害するだろう。そういう奴だ。だけれど俺は見た。確かに見た。あいつが火曜の夕暮れに、人気のない男子トイレの鏡の前で髪を整え、蝶ネクタイの歪みを気にしているのを。

「まあ正直あいつ、並のゴーストより感情が有り余ってるからな」

 シリアルをかっこむ手を止めて、フレッドの双子の片割れ、ジョージ・ウィーズリーがニヤリと笑った。

「ほら、ピーブズは生き霊なのさ……きっと女に飢えた不細工男の怨念でも取り込んじまったんだ」

 ふと大広間の天井を見上げた。抜けるような青空の輝きの下でくるくるとピーブズが旋回していた。さっきまでの不機嫌をもう忘れてしまったのだろうか、小さく鼻歌でも歌っているようだ。むしろフィルチを朝から上手い具合に苛立たせることができて嬉しかったのかも知れない。

「とにかく何かある」

 天井から視線を戻すと、フレッドはぴしゃりと言い放った。その声には明らかな、全く絶対的な確信が滲んでいた。この手の勘を外したことはないさ。彼の悪戯っぽく上がった口角からは少々の悪意と好奇心が溢れていた。

「ひょっとしたら『血みどろ男爵』以上の弱みだ。弱点だ。俺たちにとっちゃ大いに好都合。あいつを黙らせられるからな。それをちょいと探ってみても―――」

 そのとき、フレッドの瞳がジョージとリーの背後を通るひとりの女生徒をはたと捉えた。すぐさま口を噤み、ひろがっていた悪戯な表情は影をひそめる。そして次の瞬間にはすましたような朗らかな声が愛しげに彼女の名を呼んでいた。

「ああ――、おはよう」

 通りすがりの可憐な美少女は突然向けられた声の矢に大きな眼をさらに大きくしたが、彼の顔を確認するとにっこり笑って「おはよう」と明るく返した。キャンディのような甘ったるい瞳に見詰められ、フレッドの脳髄には稲妻が走る。――そう、これが、癖になっちまうんだよな。彼女はジョージとリーにも軽く会釈すると、くすくす笑いながら同級生達と共にレイブンクローの長机へと消えていった。フレッドは熱に浮かされたままの表情で遠のく後姿を見詰め、彼女に聞こえないよう、ひゅー、と小さな口笛を鳴らした。

。今日もイイ女だ」

 その呑気でうっとりとした物言いに、ジョージとリーは「やれやれ」と言いたげな顔でお互いに目配せした。兄パーシーの彼女がレイブンクローの監督生、ペネロピー・クリアウォーターだと分かったときには「頭でっかちのレイブンクローをガールフレンドにするくらいなら、スリザリンの強気なお嬢様のほうが断然好みだね」なんて言っていたくせに、今となってはその頭でっかちに夢中だ。もっともがいかほどの成績を収めているかなど知る由もないが。

「次のホグズミードに誘う」

 なにがなんでも、という口調だった。クリスマス休暇前の最もロマンチックな週末だ。ゾンゴでクソ爆弾やら長々花火やらを買い溜めるよりも有益な過ごし方があるに決まっている。

「ステビンズと付き合ってるらしいぜ」

 リーが暗い声で釘を刺した。三人ともレイブンクローのテーブルでに自分の隣の席を促しているステビンズの姿を眺めていた。その勝ち誇ったような高慢な顔は、学内でも随一のとびっきり可愛い女の子をはべらす喜びを、愚かなほどに隠し切れていなかった。

「噂だろ。それにたとえ本当だとしても、あんなバカただの遊びさ」

 ソーセージにかぶりつきながらフレッドはけろりとした様子で、かなり冷やかな物言いをした。ジョージとリーは再び見合って、肩をすくめる。曲がりなりにも首席候補に「バカ」とはね。こりゃ相当だよ。
 午前九時の鐘が鳴り、開け放たれた窓から一斉に何百羽ものフクロウが流れ込んできた。生徒達は反射的に顔を上げる。フクロウの群れに紛れてしまったのか、もう何処かへ消えてしまったのか、ピーブズを確認することは出来なかった。雪のようにはらはらと、長机の至るところで白い封筒が舞い降りる。いつもの朝のいつもの光景。淡い冬の匂いを連れてくる清々しい風。かぼちゃジュースを一気に飲み干して目を閉じると、走り去って焼け焦げた稲妻がまだ胸の奥でくすぶっていることに気が付いた。上品な残り火。たったの数秒も、やすやすと余韻は抜けない。ああ、やっぱりイイ女だ。間違いない。

 この独特の疼き、足りなさの全てをフレッドはよく知っていた。どう楽しむかも、どう手懐けるかも。そして、どう満たすのかも。



 二限続きの変身術の授業を終え、山盛りの宿題を脇に抱えながらフレッドとジョージはごった返す廊下を歩いていた。次の教室に向かう途中、擦れ違いざまにスリザリン生の些細な愛憎のもつれ(「あなた、彼に気があるの!?」)に口笛で冷やかしをいれ、地下牢から出てきた弟ロンの眉が不格好に焦げていたので(おそらく魔法薬学でやらかしたのだろう)「お似合いだな!」と優しく微笑みかけてやった。二人が道をゆくと、いくつかの羨望の眼差しとか、いくつかの熱っぽい視線とかに出くわすことがよくあった。燃えるような赤い髪、長身、同じ顔が並んで二つ。ただでさえ目立つ二人は、更にその規則を恐れぬ大胆な行動力と持ち前のユーモアとささやかなクィディッチの才能とで、嫌というくらいその名をホグワーツ中に轟かしていたのだ。

「おい、あれを見ろよ」

 ジョージがフレッドの二の腕を肘で突ついた。フレッドは廊下の隅でコソコソとゾンゴの新商品を試している下級生にかなり話し掛けてみたかったが、ジョージが顎でしゃくったほうを見遣ると、そんな思いも吹き飛んだ。授業が終わって人気のなくなった温室からピーブズがそっと顔を出したのだ。にたにたと薄気味悪く笑いながら、地に足がついてもないのに今にもスキップしだしそうなほど満足げだった。またとないチャンスかもしれない。何しろこのポルターガイストは神出鬼没で今を逃せばいつまた出くわせるか分からない。二人は目配せするまでもなく、中庭を隔てて向こう側に見える温室へと同時に駆け出して行った。

「ピーブズ、ご機嫌だな」

 フレッドは息を整え、温室の上空を漂っていたピーブズにできるだけ友好的に声を掛けた。実に爽やかに、あたかも偶然通りかかったかのように。不意を突かれたピーブズは素っ頓狂な悲鳴をあげて一回転した。傍を通っていた数人が何事かと怪訝そうな目で二人とポルターガイストを見遣った。ピーブズが生徒を驚かすのは日常茶飯というかあまりに当たり前のありふれた出来事だったけれど、ピーブズ自身が驚かされることは滅多になかった。というか、見たことが無い。それこそ『血みどろ男爵』にばったり出くわしでもしない限り彼は驚かないだろう。だいたい最も悪戯しがいのある休み時間にひっそりと温室のまわりをぷかぷか浮かんでいるだけなんて、明らかに行動が不自然すぎる。気がかりだ。ますます怪しい。

「手に持ってる花はなんだい?」

 ジョージがにっこり顔で尋ねた。ピーブズはさっと手を後ろにやったが、半透明のボディは何かを隠すにはあまり適していなかった。授業の合間の隙をついて温室から幾ばくかの花を盗んだに違いない。ピーブズは言葉では敵わないことを察したのか、これ以上詮索されることを恐れたのか、べーっと舌を出して「おせーっかいおせーっかい!」と叫びながら温室をすりぬけて逃げてしまった。深いブルーの、大ぶりの見事な薔薇が、彼の後ろ手にちらりと光った。

 三限の薬草学の授業を待つ二年生たちが廊下に集まりだしたので、フレッドとジョージはそこを立ち去るしかなかった。次の授業は死ぬほどつまらない魔法史だ。現に教師自身さえもう死んでいるわけだが――。冬用ローブを身体にしっかりと巻きつけ直し、寒空の中庭を対角線上に突っ切りながら、二人は来た道を急いだ。そろそろマフラーも欲しい。首筋から冷水のような鋭い風が入り込んできていた。

「……プレゼントに一輪の花。泣かせるね」

 皮肉な言葉を溜息と共に吐きだしながらフレッドは言った。

「盗品じゃなけりゃな。ありゃ、コバルトローズだ。スプラウトが命の次に大事にしてる」

 少し不穏な口ぶりで言うのはジョージだ。確かにバレたら相当ヤバい。丹精込めて育て上げた貴重な薔薇が一本なくなっていることに気が付いたら、高齢のスプラウトは下手すりゃそのままショックで倒れてしまうだろう。そんな事態に至ったら温和なダンブルドアもさすがに奴を追い出す気になるかもしれない。まあそれはそれで有り難いが。フレッドは呑気に思った。

「しかし、相棒。一つ確実に分かったことがあるぜ」
「なんだよ」

 階段を足早に駆け上がりながらジョージはぶっきらぼうに尋ねた。ステンドグラスから射し込む陽射しが水銀のようにとろりと溶けて、色とりどりの影を壁や床のあちこちに作り出していた。ローブのポケットに手を入れたまま、その鮮やかさを踏みつけていく。魔法史がせめて合同授業であればいいのに。フレッドは持ち前の無責任さでそんな都合の良い願望を抱いた。そうすれば会える。いつだって会いたい。今、すぐにでも。

「恋とは偉大な過ちなのさ」









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