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一体全体これをどうしたらいいのだろう。は自分が手にしてしまったものを見詰める。一輪の薔薇。それも、ただの薔薇ではない。青い薔薇。希少品種のコバルトローズ。事態が穏やかでないことは、すぐさま悟った。どうにかしなくては。でもどうにかするって、私、どうすればいいの?
は薔薇に添えられてあった小さなメッセージカード(ノートの端切れを二つ折りにしただけの代物だ)を恐る恐る開いてみた。それはとても下手な、読み難い字で書かれていた。
――メリークリスマス。あなたの大切なものの代わりに。
は自分のベッドの上に力無く座りこんだ。大事なペンダントが行方知れずになって数日が過ぎていた。彼女は授業終わりにいつも通り部屋に戻ってきて、夕食に行くまでの間に読書でもしようと思っていたのだが、どういうわけかベッドの上に有ってはいけないものを発見してしまったのだ。メッセージと薔薇、ふたつを交互に見遣りながら、は混乱した状況になんとか頭を働かそうとする。は自分が今手に持っている、美しい青の薔薇が、誰のものであってどんなに貴重なものであるかを充分に知っていた。なぜなら彼女は薬草学のスプラウト教授のお気に入りの生徒で、彼女自身も美しい植物や香り高い花々が大好きで、友人と共に何度かこのコバルトローズの世話を任されたことさえあったのだから。それにたった今、薬草学の授業で、スプラウト先生が大切な薔薇が一本足りなくなっていると嘆いていたのを聞いたばかりだ。
薔薇は摘み取って時間が経っているのか、葉先が少々枯れかけていた。それでも花びらの一枚一枚は依然として生命力に満ち溢れ、まるで造花のように一点の染みもなく、奇妙なくらい均等に鮮やかなブルーの色を宿している。魔法の花。人工を超えた魔力。確かに私はこの花をとても……欲しかった。どんな宝石を受け取るよりもこの薔薇の花束をプレゼントされるほうが魅力的に決まっているわ。そんなことを友達と話していたのを思い出す。でも、だからって誰がこんな。そしてこのメッセージも、なんとも不可解ではないだろうか。
「ねぇ、そろそろ夕食に行かない?」
友人が部屋のドアから顔を覗かして不意に話し掛けてきたので、彼女は反射的に薔薇を鞄の中に突っ込んだ。
「私……私、忘れ物を思い出して……取りに行かなきゃいけないわ」
口から出まかせで用事をでっち上げると、は友人を追い越して女子寮の階段を物凄いスピードで下りていった。
どうすればいいのかてんで見当もつかなかったが、とにかくスプラウト先生に会わなければ、と彼女は考えた。談話室をすり抜け、もどかしく思いながら螺旋階段を駆け下り、廊下を行くときも夕食へと向かう生徒を次々に追い越した。あの角を曲がって、中庭を突っ切れば温室への近道だわ――彼女は勢い良く廊下の角を曲がろうとした――
「きゃあ!」
「うわあ!」
は条件反射的に目を瞑り、バランスを崩して前につんのめってしまった。転ぶ!そう思った、しかし彼女は無事だった。なぜ? 今まさに衝突しかけた者の腕にしっかりと抱きとめられていたのだ。慌てて見上げると、鼻と鼻がくっつきそうな距離に、なんとフレッド・ウィーズリーの顔があった。
二人は目が合うと同時に頬を染めて、次の瞬間にはぱっと離れた。フレッドの隣を歩いていた双子のジョージは、二人を交互に見詰めて口笛を鳴らすと、さっさと歩いて行ってしまった。胸が痛く焼けているようで、熱を出してしまったみたいに全身が疼いている。こわい。それでも何か、見えない力が働いているかのように、はフレッドの瞳から目を離すことが出来なかった。そしてフレッドも、彼女の瞳から目を逸らすことはなかった。
「……怪我はないかい?」
たった三秒ほどの沈黙がとても長く感じられて、その短くて長い沈黙を破ったフレッドの優しい声が、さらに彼女をどぎまぎさせた。色々な事が突然すぎて、ペンダントのことも、青い薔薇のことも、彼の声に胸が高鳴るのも、どうしたらいいのかさらさら分からなかった。
「ごめんなさい、私……急いでいて……とても」
「大丈夫? 何かあった?」
フレッドは両手をの両肩に乗せた。は不安と安堵が同時に襲ってくるような奇妙な感覚を覚えた。廊下を行く生徒達は通りすがりに二人をじろじろ見ていたが、当の本人達は全く気が付かなかった。ゆっくりと、途中で何度も突っかかりながらはフレッドに全てを話し、そして最後には鞄の中の青い薔薇まで見せた。フレッドはいつもならあんなにお喋りで合いの手を入れるのも大好きなのに、このときばかりは一言も挟まず、じっくりと耳を傾けていた。
彼女が話し終わったとき、フレッドはようやっと意を決したように口を開いた。強い目。眉。真っ直ぐに澱みなき声が響いた。
「、行こう。送り主……いや、ダンブルドアのところだ!」
「えっ?」
(ダンブルドア?!)
フレッドはの手首をぐいと掴み、構うことなく駆け出した。真っ赤な夕陽が沈む音と一緒に。
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「恋とはときに偉大な過ちを犯すものじゃ」
ダンブルドアは自分で呟いた言葉に自分で納得するかのように、ゆっくりと深く頷いた。の瞳はまんまるく見開いたまま、なかなか戻らない。だって、何もかもが有り得ないからだ。校長室がどこにあるかも、入室するのに合言葉が必要なことも知らなかったし、もちろん合言葉がどんなものであるかも知る由は無かったのに、フレッドが校長室に辿りつくとひとりでにガーゴイル像が動いて中からダンブルドアが出てきた。しかもにっこり笑いながら「君をちょうど呼ぼうとしていたところだったよ」なんて言うのだ。自分の平穏無事な学園生活のなかで、まさか校長室に足を踏み入れることがあろうとは。は無意識のうちに隣に座るフレッドの手を強く握りしめていた。ダンブルドアは二人の固い結び目を見て、なお一層きらきらと眼を輝かせた。
「ミスター・ウィーズリー。君は素晴らしい勘と推理力と、情熱を持っておるの。グリフィンドールに十点ほど与えても差し支えなかろう」
口髭をさわりながらダンブルドアが言うと、フレッドはにやっと口角を上げた。校長相手に全く臆するところもなくいつものようにひょうひょうとしている。彼はもしかしたらここに何度か来たことがあるのかも知れない、とは思った。だってこの学校の誰よりもたくさんのとんでもないことをやらかしているんだもの。
「ペンダントはここにある」
ダンブルドアが静かにを見据えた。ダンブルドアはローブのポケットから銀のペンダントを取り出した。のものだった。
「お取り……今しがた血みどろ男爵がピーブズをここに連れてきてのう。ピーブズはもはやわしが何かを言う必要がないくらい憔悴しきっておった。ミス・、君の写真を欲しがっていたようじゃよ」
は久方ぶりに自身のペンダントを手に取り、ロケットを開けた。そこには家族と一緒に笑顔するが居て、こちらに向かってやわらかく手を振っていた。
「先生、私……意味がよく分かりません」
「ピーブズはわしの知る限り、二、三十年に一度のペースで思いついたように恋をするんじゃよ。とびきり魅力的で、チャーミングな女生徒にのう」
ぽっぽっぽ、とダンブルドアの後ろに見える奇妙な銀色の道具が音を立てている。いくつもの歯車が芸術的に噛み合わさって、くるくると回りながら微かな蒸気を発していた。
つまり事のあらましはこうだ。ピーブズはに惹かれていた。ピーブズはの写真が欲しかった、そして写真を盗ってしまった。それと引き替えに、薔薇をクリスマスプレゼントにして。……
は何かを言いたくて口をぱくぱくさせたが、ついに適した言葉が思い浮かばずに俯くしかなかった。自分の頬が熱く火照るのを感じていた。ダンブルドアはそんなを慈愛に満ちた表情で見詰め、言葉にならなかった彼女の想いを見事に汲んで話し続けた。
「人は人に恋し、人を愛する。それ以上でも以下でもない。ピーブズのことは放っておくがよい。今は混沌でも、生きた魂はいずれあるべき場所へと戻っていくじゃろう」
ダンブルドアは立ち上がって机の周りをゆっくりと歩き、額縁の中で眠っている歴代校長を眺めながら言った。ああ、若き日の固い結び目ほど美しいものはない。繋がる二人の手のひらを、指先を、彼がどれほどいじらしい気持ちで目に留めていたことか。どんなに偉大な魔法使いでも、遠く過ぎ去ってしまった思い出をやり直すことは決して出来ないのだから。
「薔薇はスプラウト先生がショックでマンドレイクのお守りを放棄する前に、わしからさりげなく返しておこう。さあ、二人とももうお行き。夕食の時間が終わってしまう」
ダンブルドアは微笑み、両腕をひろげて二人に出ていくよう促した。とフレッドは同時に立ち上がった。
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「つまりピーブズは、俺のライバルだったわけだ」
校長室を後にして誰も居ない廊下を歩きながら、フレッドはまるで独り言のように気兼ねなくそう呟いた。不思議に穏やかな気持ちが心を支配していた。さっきまで恥ずかしかったことが、きっと恥ずかしいと思っていたことが、急に自然なことのように感じられるときが来る。絶対に言えないと思っていた心の奥や伝えられないと思っていた焦燥が、いとも簡単に満足のゆくかたちで昇華されていくのが分かる。ひとつの「大切」を共有したこと。共に過ごしたこと。今や、はフレッドの言葉の意味をあれこれ考えることも、どうやって返そうかと思い悩むこともしない。する必要が無い。ただ彼に向かうべき言葉がぽんと舌に乗っているから、それを押し出せばいいだけなのだ。なんてシンプルなこと。どうして今まで気付かなかったの。は足を止めた。の首もとできらりと銀のロケットが光った。
「ありがとう」
全てを。全てを包んで。フレッドが微笑んだ。色気を帯びたたおやかな表情は、また瑞々しい感情を胸に吹きこんでくれる。フレッドはおもむろにを抱き寄せた。重なりあう二人のシルエットの、その大層な美しさを、世界中の誰も見ていなかった。
「ところで、今週末って空いてる?」
耳元で柔らかなアルト。腰に回された腕の感触。は尋常じゃなく速まっていく鼓動とは裏腹に、それらを心地良く感じていた。恥ずかしさを超えた高鳴りがある。どう名付けたら良いのか知れないけれど。
「ホグズミードの日ね」
フレッドの胸に頭を預けながら彼女はくすりと笑った。彼女の声に媚びた色はなく、むしろきりりと澄んでいて、ひとつの確信と喜びのなかを駆け抜けていくようだった。
「私を誘うの?」
「君さえ良ければ」
「……私のことが好き?」
「骨の髄まで夢中さ」
――素敵。
彼女の最後の言葉は、フレッドが痛いくらいに彼女を抱き締めたせいで潰れて消えてしまった。
誰も居ない廊下。怖いくらいの静けさ。一人のひとの温かさの内で溺れそうになっている。ただならぬ、ままならぬ感覚をは知った。その苦しさの意味。その苦しさの彼岸を。
そして、極上の恋の味を。