1 : bad boy
理科室の実験台はベッドではない。
それをこの獰猛な男にどうやって分からせたらいいだろうか。がそんなことを悠長に考えているうちにも、彼の行為はなだからな稜線のようにとどこおりなく、積みあがった時間の上をすべっていった。つやつやとした黒い天板はかたくて冷たくて、上体を預けてしまうと頭部と腰骨が痛み、彼女の身長では足を床につけることもおぼつかない。自由の利かない脚のあいだをとられれば、身を起こすに足る隙すら奪われてしまう。こんなやり方で、こんな場所で、誰が「気分」になどなれるものか。何も、ヴィランとの格闘のいろはじゃないのだから。相手の抵抗をいなしたいのなら、もう少しましな誘導の仕方があるはずだと、は思う。まして自分は、彼の恋人なのだ。
「……かっちゃん」
そのとき、なぜかとっさにの口をついたのは彼の昔なじみのあだ名だった。下の名前がカツキだから、最初の一音をとって「かっちゃん」だ。とはいえ未だにこの呼び名をつかっている人間はそう多くなかったし、ももっぱら、彼の言葉や態度をからかいたいとき、彼に対して照れ隠ししたいとき、その呼び名をつかっていた。二人は幼なじみでもなんでもない。かつての「かっちゃん」の王国をは知らない。だからこそ、苦し紛れのわりに、それは最良の選択だった。その一言は、どうやら下手に「やめて」だの「いたい」だの訴えるよりよっぽど彼の「気分」を削いだらしかった。据わった目が、いぶかしげに鋭く釣り上がる。スカートの裾をすりあげてゆるやかに押しつけられていた腰の動きが、ぜんまい仕掛けみたいにぴたりと止まった。
「萎える呼び方してんな」
思いもよらない相手から幼く呼びつけられ、刹那にはその呟きの意味をはかりかねた勝己は、ひとまず唸るような声を発して弛んでしまった空気を蹴散らした。しごく面倒臭そうな顔で、あまり言うことをきかない己れの癖毛をかきあげる。拘束の解かれた片手を、はすかさず彼の屈強な肩口にかけた。かといって物理的効果はまったくないのだけれど、これが格闘ではないのなら、少しくらいの牽制にはなろう。なってくれ。
「萎えてよ。ここどこだと思ってるの?」
「お前がガタガタ騒がなきゃバレねぇんだよ黙れ」
傍若無人を絵に描いたような言葉を吐いて捨てる。慣れっこといえば慣れっこではあるけれど、身勝手さに拍車がかかっているのもまた事実。それは別に彼の機嫌の良し悪しとはかかわりのないこと。二月の高校入試が終わってからの勝己は学校だろうとお構いなしに、まさにやりたい放題だった。進学先が決まってしまえばこっちのもの、という魂胆が見え見えであきれてしまう。もう彼がこの場所で積み上げるポイントゲッターとしての日々はとっくに終わりを告げたのだ。空き教室の鍵を締め、恋人を手籠めにするなど、今の彼にはきっと造作もない暇つぶしなんだろう。
話があるからすぐ帰らないで待っててね、と念を押していたのはのほうだったのに、主導権は簡単に勝己の手に渡ってしまって、なかなか取り返すすべがない。は悶々と、ことのしだいを反芻する。下駄箱のところで待ち合わせたはずが、靴を履き替え、そのまま上靴を捨てていくと言った彼にくっついて裏庭に回ったのがまずかった。薬草畑へと降りる理科準備室の裏口が物騒にも開いていたのだ。悪さの隙を見逃す彼ではない。の手首を掴み、土足で勝己は理科室に踏み入った。最後に思い出つくっとこーや、と冗談にもならない下卑た笑みをこぼしながら。
「あのね、勝己」
応答はない。かわりにざらついた舌が首筋を這う。
はすっかりボタンが消え去って、だらしなくひらいた勝己の学ランの前立てに何気なく指をすべらせた。実のところ彼のボタンはひとつ残らずの手中にある。卒業式が済んで、最後のホームルームが始まる前に、が勝己のクラスに乗りこんですべて頂戴したのだ。調子のいい男の子たちが、愛されてるなー勝己、とはやしたてるなか。彼に淡い憧れを抱く女の子たちが、戸惑いを含んだ瞳で二人を遠巻きに見つめるなか。勝己はじっと黙っていて、もまたくだらない意地だと思いながら、もくもくと金メッキのボタンを回収した。勝己が勝己なら、この男と付き合っているもで、顔に似合わずあまりかわいげのある気性とは言えない。勝己のそれとはかたちも発露も違うが、癇癪もちなところは案外似たものどうしだったのだ。
もう一度、勝己、とは呼ぶ。それでも彼は無視を決めこむので、はたまらず彼の胸もとをぽんぽんとこぶしで叩いた。赤くちらつく舌が彼女と少しの距離をとる。たちこめる肌の匂いが、いつの間にか理科室にしみつくアルコールランプの匂いなんかよりもずっと、二人の嗅覚を生々しく支配していた。
「ねー聞いてる?」
「だぁ、黙れって」
「わたしも、合格したよ」
「あァ?」
「前言ったオーディション! 春休みに東京行って撮影するの」
話があると言って彼を引きとめた、ようやくその核心を口にして、は少しだけこの状況を受け入れることができた。態勢も劣勢も、何も変わってはいないのだけれど、なんとか最低限のことは成し遂げたのだ。けれどほっとしたのも束の間のこと、やっとの想いで告げた報告に、勝己の反応は素っ気ないものだった。この男に何も期待してなんかない。ただ予想はしていた。それよりも、ということだ。は途端に不安になり、セーラーの赤いスカーフをほどかれたことにも反応できなかった。
「……あっそ」
「すごくない? 恥かかなかったもん。それに倍率、雄英と同じくらいだったんだよ」
二ヵ月前、一緒に初詣へ行った帰り道に「オーディションを受けてみようか迷ってる」という話をがしたとき、勝己はあっさり「やめとけ」と言った。恥かくだけだからやめとけ、と。それは全国からデビュー前の十代の少女を募った、新発売のフレーバーティーのCMオーディションで、にとっては人生で初めての「試される」経験だった。高校受験なんかよりもずっと、彼女にとっては重たく自分を賭けた出来事だったのだ。それをこの男、あっその一言で一蹴する気か。余計に彼の嗜虐心を煽ると分かっていて、つい、ねだるような視線を投げてしまった。勝己がの顎に指を添える。口の端に祝福とは似ても似つかないほのかな嘲りを宿して。
「先延ばしにしただけだろ」
「……どーゆうこと?」
「撮影で恥かくんだよ、ド素人のはりぼてが。その場でクビかもな」
「そっ……そんなことないし! ていうか、おめでとうのひとつぐらい言えないわけ? わたしだって、ちゃんと……」
の非難めいた声が理科室に響く。けれど、ひとつも表情を崩さない勝己を眼前に、見切り発車ながら威勢よく発した言葉はだんだんと弱々しく縮こまっていった。
わたしだってちゃんと、がんばったのだから。
言いたかった言葉の前であわれにも唇を噛み、喉もとでブレーキを踏んでしまう。がんばってるとか、がんばったとか、いちばん認めてほしい相手が彼女にとっていちばん高い壁でもあった。がんばった? 思い返せば一体、自分は何をがんばっていたというのだ。受験勉強もおそろかにして、ほんの十分足らずの面接で、あれこれ大人たちに質問されただけだ。そう考えたら急に、は、さっきまでの浮かれた自分の思考回路が恥ずかしくなった。ねだる相手を、ねだるものを、徹底的に勘違いしている。そんな自分が、情けなくて。
「?」
目を伏せ、急に黙ってしまったの耳に、勝己は物欲しげにひらいた唇を寄せた。鼓膜が濡れる。の不機嫌をなだめ、場の空気を軌道修正するように。あんなに「気分」じゃないなんて、どうやってこの状況から抜けだそうかとあがいていたのに、今はもう、こうしてこの男から曲がりなりにも欲されているということが、唯一自分を慰めてくれているような気がしてしまう。場所も行為もなりゆきも脇道に追いやって、はようやく自分から、恋人の首に腕を巻きつけ、頬に頬を寄せた。なんで、なんでも、なんだっていい。彼と居るだけで何も要らないと思える、そういう「かわいい」ときの自分を、なんとか必死に思いだそうとしながら。
「おい、お前らそこで何してる!」
――そのとき、野太い声が、鍵をかけたはずのドアの向こうから聞こえてきた。
がちゃがちゃと、乱暴にドアを開けようとする音。開けなさい、と怒鳴りつける声。思わず、まんまるい瞳を二人、ゼロ距離でかち合わせる。控えめに脚をひらき、少女の太もものあらわに少年の大きな手があてがわれ、もはやどうにもごまかしのきかない態勢で、二人は絡みあっていた。一気に頭が冴える。勝己は素早く身を離し、の衣服の乱れを正した。
「……やべ」
こういうときの機転は、さすが、ふだんどんなに猫をかぶっていても、根っからの不良少年だと思わされるものがある。……やり方は、置いておくとして。
鍵のかけ方が甘かったのか、勢いよくドアがひらいた瞬間、勝己の手のひらからは灰色の煙と火花がふわりと溢れた。彼が今日で役目を終えた、のセーラー服のスカーフを、なんのためらいもなく燃やしてしまったのだ。その手に宿った「個性」をつかって。文字通り教師を煙に巻いているあいだに、勝己は自身のスクールバッグを背負い、にも鞄を抱えこませ、その彼女ごと己れの腕に抱きかかえた。こうして悠々と、そして目が回ってしまいそうな荒業で、勝己は逃走の準備をととのえてしまったのだ。
「掴まっとけ、」
返す言葉もなかった。首を縦に振る間さえない。あとは目をくらましている教師の横をするりとすり抜け、もと来た道を戻るだけだった。三十秒にも満たない鮮やかな逃走劇。涼しい顔をして裏門へとひた走る勝己を、彼の腕のなかで、はあっけにとられて見上げていた。なんとも子どもじみた向こう見ずなやり方で、彼は大人の真っ当を鼻で笑ってしまったのだ。
「……ヒーロー失格でしょ、信じられない」
「うっせ」
お前が騒ぐからだろが!
に与えられたのはけっきょく、そんな理不尽な怒号だけだった。一世一代の挑戦を打ち明けてみたところで、「がんばれよ」も「おめでとう」も「よかったな」も何もない。爆豪勝己という男は、そういうひとだった。彼の学ランにしがみつきながら、はけれども、ほんの少しだけほっとしている。どうやら彼は、履きつぶした上靴と一緒くたに、自分をここへ捨て置く気はなさそうだ。どうやら彼は、あの燃やしてしまった赤いスカーフと同じように、自分をここで使い捨てる気はなさそうだ。
彼の腕のなかに居るだけで幸福だとは思えなくても、今はそれがささやかな合格祝いなのだと、は自分に言い聞かせた。