2 : "un pour tous, tous pour un"




 爆豪勝己とは、中学二年生のとき互いに一クラスメイトとして出会った。出会ったといっても、クラスが替わってすぐさま仲良く話すような相手じゃない。男と女、クラス内にできあがる友人の輪も重なることなく、特別すれ違うこともない。ただ、勝己は何をやらせても一番をとってしまうようなクラスの中心的な生徒で、そもそも誰彼構わずに話しかけられるような男じゃなかった。そういう、暗黙の階級ピラミッドのようなものは、暗黙のくせしてクラス中の人間が理解するところのものなのだ。

 そんな二人が言葉を交わすようになったきっかけを作ったのは勝己のほうだった。彼にどういう意図があったのか今となってもには知れないが、夏休み直前の学級会でちょっとした事件が起きたのだ。
 その日、学級会の話題は、なんといっても文化祭で上演するクラス劇の配役を決めることだった。教師不在の話し合いの場では、ふだんからの発言力が大いに物を言うものだ。学級委員長を務めていた勝己は、まったく無駄なく、さっさと話し合いを進めていった。演劇部と英語劇クラブのひとたちをまず立たせ、主役のまわりから次々に配役を決めていく。みんなをまとめあげるその手腕といったら、実に見事な「強引さ」だった。

 ワン・フォー・オール……オール・フォー・ワン……。

 はいちばん前の自分の席で、ぼうっと配られた台本に目を通していた。タイトルの下につけられた副題を、指先でなぞって黙読する。ほんらい『三銃士』は主人公ダルタニアンの壮大な立身出世の冒険譚だが、担任の国語教師のはからいで台本の物語は分かりやすく切り取られ、単純な事件解決ものに内容がすりかわっていた。とすれば、主役と三銃士の三人の次に大事なのは、敵に誘拐されてしまうヒロインのコンスタンスだろう。黒板の前に立ち、教卓に肘をついて台本をめくっていた勝己が、さっそく口をひらく。勝己の声は、いつも誰にも邪魔されなかった。彼が発言すれば自然と、耳を傾ける静けさがそこに生まれるのだ。

「コンスタンスはがやれよ」

 突然も突然、なんの前触れもない指名だった。けろっとした様子で、こともなげに、勝己はそう言ってのけたのだ。は心臓が口から出るかと思った。クラス中の視線が、その瞬間すべてに集中する。顔を上げると、すぐ目の前の教壇の上に立っている男と視線がぶつかる。そのとき初めては、勝己とまともに顔を合わせた。

「えっ?」
「いいだろ。ハイ決まり。次」
「まっ、待って! なんで、わたし……」
「は? お前、顔しか取り柄ねーんだから適任だろうが」

 誰にも文句は言わせないというような、あまりにも横暴な物言いに、は返す言葉もなくしばらく呆けるしかなかった。もっともこのときの彼に何を言っても、けっして取り合ってはもらえなかっただろう。勝己はそれ以上、に目をくれることもなく、淡々と白いチョークで彼女の名前を黒板に書きだしてしまった。かくして、はものの数秒で、生まれて初めての舞台で大役を務めることになったのだ。

 それはにとってだけでなく、他のクラスメイトたちにとっても、多分に衝撃的な采配だったらしく、学級会が終わってすぐの女生徒たちの色めきぐあいと言ったらすごかった。その日の帰り道、仲の良い友人たちと立ち寄ったファーストフード店で、延々と二時間はこの話をしていただろう。当のはというと、ヒロインの役などあてがわれたことがすでに容量オーバーで、それ以上の詮索をできるような余裕は残されていなかったのだけれど。

「まあ言い方は爆豪らしいけどさ、かわいいって言ったんだよ、のこと」
「……でも、なんか早く決めたがってたし、きっと席が目の前だから目についただけで」
「あの口の悪い男が女子のこと褒めたんだから、素直に喜べよそこは」
「喜べない! 演技なんてしたことないのに……というかあれ褒めてたの……?」

 自分ひとりではどうにも良いように噛み砕けない一言でも、他人事の友人たち、クラスメイトたちにとっては面白い噂話のプラットフォームに過ぎない。話にはどんどん尾ひれがついて、独り歩きし、いつぞや、「二人は付き合っている」という事実無根の噂になって返ってきた。夏休みに舞台の準備で学校に集まっても、演技の稽古をしていると、無難に力仕事を任されて大道具をこなしている勝己とでは、そこまで言葉を交わす機会もなかったけれど、そのぶんたまに転換と出番の確認事項を交わすだけでも、にはクラスメイトたちがみな自分たち二人を好奇の目で見守っているような気がしてならなかった。

 意識されているということに、とにかく意識が回ってしまう。心臓の痛みをばかばかしいと振り払ってみても、勝己の姿を目にとめるだけで、いつしか反射のように胸が鳴るようになった。これを恋と呼ぶには、どうも安っぽく、内実がない。相手は、自分の意見など無視して勝手にことを運んだ男だというのに。認めたくない。そう思えば思うほど、は出口のない感情にのめりこんでいった。

 その一方で芝居の経験は、にとってけっして押しつけられた貧乏くじではなかった。
 初めての舞台での演技は、とてつもなく難しく、そして思いのほかには楽しいものだった。お腹の底から声を出すことの、少しの気恥ずかしさと気持ちよさ。自分の身体をつかって、奇想天外な物語を紡ぐ愉悦。大勢で何かをつくることの達成感。勝己が最初に口にした通り、にはさしたる取り柄もなかった。演技も下手だし、運動音痴のせいか、広い舞台の上を立ちまわることにもなかなか慣れない。だけど、自分の至らなさを気に病むことすら忘れてしまうほど、芝居は彼女にとって夢のような作業だったのだ。



 夏休み明けの文化祭本番は、台詞をひとつ飛ばしてしまうだとか、転換に少し手間どるだとか、多少のハプニングはあったものの、おおむね大成功で幕を閉じた。
 祭りのあとの夕暮れの校舎を、めいめいに充実感と疲労のせいで興奮した面持ちのクラスメイトたちが、一緒になって下駄箱へと降りていく。そのなかに、勝己の姿はなかった。彼はひとり教室に残って、それも学級委員長の務めなのか、文化祭の活動報告の紙にさらさらとペンを走らせていた。けっして優等生という柄ではないのに、意外なところで真面目であったり、やることはきちんと平均以上にこなし、変に気のつくところがある。はなんとか息をととのえ、ここまで来たら後には引けないという気持ちで、その横顔に声をかけた。

「爆豪くん、打ち上げ行かないの?」

 ひとり戻ってきてしまったのは、忘れ物をしたせい。そういうことにしては自分のロッカーを開けたけど、大したものは入ってなかった。仕方なく、持ち帰りたくもないノートを一冊、鞄にしまう。もはや舞台の上でする演技の何倍も、彼の前での立ち居ふるまいがにとって難儀だった。

「カラオケ行って騒ぐだけだろ。くっだらねえ」

 ペンをくるりと回してを一瞥し、勝己はまた澱みなく手を動かした。中心に居る人間ほど周りとは慣れ合わないし相容れない。台風の目のようなもので、彼の内側には何ものにも侵されない固く閉ざされた海がある。おかしな話だ。誰よりも声の大きな、支配者が。

「あの、おつかれさま」
「おー」
「あと、……えっと、ありがとう」

 言うか、言うまいか、迷ったけれど結局言ってしまった。ありがとう、と口に出したらもう、最後まで言い切るしかない。はロッカーを閉じて、不思議そうに後ろを振り返った勝己に視線を合わせた。一瞬のこと。あとは夕暮れていく窓の外か、自分の足もとを見ていた。それ以上、彼の顔を見ていたら、言いたいことの半分もまともに伝えられない気がしたのだ。

「その、舞台とかやったことなくて、さんざん演劇部のひとたちの足引っ張ってしまったけど……お芝居するの、すごく楽しかったから。爆豪くんが推薦してくれなかったら、きっと立候補もしなかっただろうし。あのときは、びっくりしたけど」

 静けさが緩慢に間延びしているように感じられた。ひこうき雲のように、の心のあらわが後を引き、教室にいつまでも漂っているようで居たたまれない。どんなふうに今、自分は彼の目に映っているだろう。脚は震えていないか。声は上擦っていなかったか。頬は、赤くないか。もっとさりげなく、もっと丁寧に言葉を選んで言いたかったのに、気持ちが先走って追いつけなかった。やがて勝己が、何も言わずにシャープペンシルを置く。そしてなぜか、その空っぽの手が差し出され、の頭も手放しに真っ白になった。

、手ぇ出せ」
「……手?」

 いいから、と勝己が急かすので、はおそるおそる彼の席へと近づいた。彼がそうしたように、己れの手を差し出す。すると勝己は、の手のひらを裏返し、甲を上にして彼女の手をやわらかく握りしめた。今になって思えば、彼の派手な「個性」を知っていながら、なんとも無警戒に手を差し出してしまったものだ。熱くて、厚い。わけもわからず、ただ、つながりあっている。ちらっと顔を見上げられ、はいよいよ、気が遠のきそうだった。

「このシーン、辛気臭ぇよな」

 ぽつりと彼が言葉を洩らす。その一言ではほんの少しだけ落ち着きを取り戻せた。こうしていることの意味がひとつ、解けたから。それは、舞台の上で何度も演じた、ダルタニアンとコンスタンスの別れ際の一幕だった。手をとり、コンスタンスの手の甲にむさぼるような口づけを落とし、ダルタニアンは情熱的に呟く――ああ、あなたに会わないほうがよかった! 実際は二人とも手袋をしていたので、こんなふうに温もりを感じる結び目はなかったのだけれど、これは確かに、あの一場面のアンコールだった。

「そう、かな」

 数少ないロマンチックなシーンのひとつであり、そして、コンスタンスの最大の見せ場でもある二人きりのシーンだ。はこのエピソードが大好きだった。だから、彼女はあいまいに首を傾げてみせた。そのとき、二人こうしていることの意味がもうひとつ、解けたのだ。

 わたし、好きだよ。

 その言葉は生まれなかった。世界から消えてしまった。勝己が奪ったのだ。カタン、とわざとらしくも控えめな音を立てて勝己が立ち上がる。立ち上がれば、彼はよりもずっと大きい。はすっぽり、夕陽に伸びる勝己の影に覆われてしまった。

「俺ならこうする」

 彼が強引に書きかえてしまった、物語の続き。つくりものではない二人のその先が、夕暮れにまみれてひどくまばゆい。目をつむってしまったのに、どうしてだろう。光は続く。どこまでも美しく列を成して。
 ゆるりとまたたき、酔いのまわったまなざしで、は勝己の、鮮やかな鳶色の瞳を見つめた。
 彼の瞳の奥はかすかに笑っていた。は初めて、この男の奥底にも、怠惰な優しさが眠っていることに気がついた。









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2016.6