agent of light

※ 「Panoramic Tokyo」から2年後|未来捏造




「若いねえ」

 ハンドルを握るのマネージャーは、バックミラー越しに後部座席を一瞥し、溜め息とともにそんな一言を胸の奥深くからこぼした。シルバーのワゴン車が零時を過ぎた山手通りを往く。年少の恋をからかうようなその短い言葉に、はむっと口を尖らせながら、夜景の鏡に映していた左手をおろした。確かに少し浮かれていた、そんな自覚がにもあったのだ。だけどこのふわふわとした幸福感はけっして「若気の至り」なんかじゃない。はそのまま大人しく引き下がるどころか、運転席の背にもたれかかり、席と席のあいだから左腕を伸ばした。ひらひらと、薬指にひかる細いリングを世話焼きな彼女に見せつけるように。

「おばあちゃんになっても好きだもん」
「だーから、それが若いってこと」
「若いとか若くないとか、そんなに大事なこと?」
「まあ、が思ってるよりはね」

 デビューのころからを世話してきたマネージャーに、いまさらに対する遠慮などもちろんありえない。むしろをこの業界で正しく育てようと思うあまりに、彼女はときおり、口うるさい熱心な教育者のような立場からものを言う。今夜だって、仕事帰りに恋人の泊まるホテルまでワゴンを走らせてくれたのは奇跡に近い譲歩であった。だいたい、勝己に会うのにいちいち許可がいるのはどうかと思う。最低限「見られる仕事」をしているという自覚ぐらい、二人とも持ち合わせているというのに。……たぶん。

「正直ハタチまでは恋愛は我慢してほしいんだけどな。も変な記事書かれて仕事に影響出たら嫌でしょ?」

 の左手を見下ろしながら、彼女は諭すように言う。仕事。片手で足りてしまう、の大切な世界のひとつ。

「……それは嫌だけど」
「でしょう。だから、絶対に外でコレしちゃだめだよ。いいね」

 反論する間もなかった。路肩にわざわざワゴンを停めて、彼女はの呑気な指先を指先で噛んだ。こうして恋人から贈られた指輪は、マネージャーの苦言ひとつで、一時間も経たずにの薬指から没収されてしまった。自分の指一本すら思うままには扱えないと知った、高校三年生の、夏の真夜中。
 あの日、「これしとけ」と手ずから指にすべり落とされた細身のリングを、はけっきょくほとんど指に嵌めていない。若いねえ、なんて言うのだから、てっきり高校を卒業すれば、ハタチになれば自由が手に入るものだと思っていたのに、むしろ歳を重ねるほどにあの薬指の宝ものは遠ざかるばかりだ。それに、何より悔しいのは、自身がその不自由について納得しかけているということだった。だって、仕方がない。「仕方がない」が雨のように降りやまなくて、いつしかそれが日常になった。も、勝己も、霧雨のような疎ましさに、いちいち傘をさしている暇もなければ細やかさもなかったのだ。
 二人、傘もささずにゆっくりと濡れてゆく。この雨は一体いつになったら止むのだろう。



 「大人」と呼べる年齢になって初めて迎えた夏が、とくに何ごともなく仕事ばかりで流れ去ろうとしていたころ、勝己から宛てに一枚の映画鑑賞券が贈られてきた。添えられていたメモ用紙にはいくつかの日付が並んでいる。おそらく、勝己の予定が空く日なのだろう。勝己のデートの誘い方は、だいたいいつもこの調子だ。ただ、何かのチケットをわざわざ贈ってきたのは初めてのことだった。
 なに観るの? 時間のとれそうな日を返信するついでにそう尋ねると、勝己はすぐに〈オマエの大根演技〉と失礼なメールを送り返してきた。うとうとしながらベッドの上でスマホをいじっていたのに、その一行の着信でまぶたが一気に軽くなる。が出演する新作映画が公開になってもうだいぶ経っていたが、都内のシネコンではまだ上映が続いていた。
 久しぶりに連絡があったかと思えば、勝己のほうからこんな奇妙なデートに誘ってくるなんて、槍でも銛でも降るんじゃないだろうか。そんなことを思いながら迎えた一週間後の約束の日は、予想に反して雲ひとつない青空がひろがる一日だった。スタジオの天窓から画のような夏が覗いている。まぶしくて、は思わず左手をかざした。まっさらな、飾らない指先をひろげて。

ちゃん、時間大丈夫? 気にしてるけど」

 一日の撮影を終え、髪をほどいてくれていた馴染みのヘアメイクスタッフと、鏡ごしに目が合う。彼女の奥には掛け時計が映っていて、はあからさまに何度か反転する針のかたちを確認していた。急ぐ必要もないのに、気持ちだけがはやっていたのだ。

「大丈夫、だいぶ余裕」
「次は入ってないよね?」
「うん。今日はこれからデートなの」
「あら! それならお化粧落とすんじゃなくて、薄く整えなおそうか。うんとかわいくしてあげる」
「えっ、でも」
「時間あるならまかせて。ま、もとがかわいいんだけどねえ」

 マネージャーが近くに居たら、そんなことでメイクさんの手を煩わせるんじゃない、と叱られたに違いない。ただでさえ近ごろぴりぴりしているのだ。そんなの気がかりをよそに、ひとまわり年上のヘアメイクアーティストはコットンにリムーバーを浸みこませていた。ついさっきまで延々と流れていたCMソングの鼻歌なんてうたいながら。

「デートってもしかして、噂の彼とでしょう」

 そして、歌を口ずさむ透き間で軽やかに、当然の質問が待っている。あいまいに頷こうとして、ん、と唇に冷たいコットンを押しつけられた。真っ赤な紅が魔法のように解けてゆく。ゴシップ好きの彼女にとって、こちらの答えなどすっかりお見通しのようだ。
 ひと月ほど前、長らくと勝己につきまとっていた「噂」が、とうとう週刊誌のネット記事になった。勝己が上半期のヒーロービルボードチャートに名を連ね、は映画の公開を控え、狙いすましたようなタイミングだった。もちろん、悪い意味で。
 記事自体はほとんどネット上に流れてしまった噂そのものと大差のない内容だった。問題は、そのあとだ。のファンも、勝己のファンも、それぞれに二人の共通点を探しはじめたのだ。休みの日が被っているだとか、身につけているものが揃いのものだとか。なかでもがいちばん堪えたのは、或る映画雑誌のインタビューを槍玉にあげられたことだった。はそこで、演技の世界をこころざしたきっかけについて話した。あの文化祭の、クラス劇のことを。

 ――中学二年生の文化祭で、初めてお芝居というものに触れました。『三銃士』のコンスタンスの役に、クラスの子が推薦してくれて。全然ヘタクソだったんですけど、とにかく演じることが楽しかったんです。あの舞台がわたしの原点だと思っています。……

 二人の噂がネット記事になるずいぶん前に受けたこのインタビューはけっきょく、が中学の同級生だった勝己との出会いについて話しているのだと決めつけられた。その通りといえばその通りなのかもしれないが、何かが決定的に捻じ曲がっていた。は、勝己との恋の始まりを言いふらしたわけじゃない。そんな「つもり」はなかった。甘かったのだ、考えが。

 ――やっぱり付き合ってるんだ。
 ――これって匂わせ? ショックかも。

 どきりとした。スマートフォンを伏せる。見てはいけないと思ったし、同時に、目を逸らしてはいけないとも思った。あのときの胸がしんと静まり、胸騒ぎとは真逆の、思考が凍ってしまうような感覚。自分はとんだ大根役者だと思った。観客の目に映る自分をコントロールすることもできず、何より大切だった思い出を、舞台袖に仕舞っておくこともできない。

「……噂って、嘘をほんとうにするけど、ほんとうのことは嘘にしちゃうよね」

 そよそよと化粧筆が頬を撫でている。くすりと鏡のなかで年長者が笑っている。二年前の夏、バックミラー越しに指輪を一瞥した、マネージャーの瞳のやわさをは思いだしていた。

「この世界では嘘にも価値があるのよ、ほんとうのことと同じぐらい」

 そんなのわからない、と口を尖らせたら、わかるわかる、と気楽なおまじないのように唱えられた。結びの文句は決まってる。もう少し大人になったらね、と。ハタチになったにとって、それはちくちくと耳を刺すような痛い言葉だった。



 映画館までマネージャーのワゴンで送ってもらい、帰りは勝己の車に乗せてもらう、と降り際に告げると彼女はあからさまに怪訝そうな顔をした。過保護な監視を離れて、映画館のパウダールームではピルケースのなかからあの指輪を取りだした。ためらって、迷って、それでも今日はこれを嵌めようと決めた。勝己が、スクリーンに映る自分を見てくれる。こんな幸運めったにないのに、となりの席で澄ました自分を演じていては、つまらないだろう。
 待ち合わせ場所の専用ラウンジに、約束の時間になっても勝己は姿を見せなかった。彼が慌ただしく到着したのは、映画の本編が始まって数分が経ったころだ。ラウンジにつながる扉がひらいて勝己が現れたとき、はほっと胸を撫で下ろした。楽しみにしていた約束が仕事のせいでつぶれることは、今までにも何度かあったのだ。

「悪い、仕事がずれこんだ」

 ソファシートのとなりに腰を下ろしながら小声でささやく、勝己の息がかすかに弾んでいた。急いで来てくれたのだろう。プロヒーローにとってスケジュールなどあってないような変則的なものなのだから。

「うん。お疲れさま」

 同じように、小声で一言返す。勝己の横顔をうかがうと、彼はサングラスをVネックの襟口にひっかけ、もうまっすぐスクリーンに集中していたので、は背筋が伸びるような思いがした。これは思いのほか、緊張する。
 の四本目の出演作になるこの映画は、旬の若手俳優を主演に据えたロマンチック・コメディで、はそのなかで主人公の恋人を演じていた。そんなに出番があるわけではないが、ラストまで主人公の内面に大きくかかわる役どころだ。にとって、今まででいちばん公開館数の多いメジャーな作品への出演でもあった。人もまばらな夜の映画館で、恋人がわたしではないわたしを見ている。知り尽くした映画の内容が何も入ってこなくて、ふわふわとした不思議な時間だった。
 二時間後、エンドロールを見終えてより先に立ち上がった勝己は、サングラスをかけ直す隙間でめざとくの指先にひかるものを見つけた。がキャスケットを慎重にかぶりなおすのを待ってから、勝己の腕が彼女に差し伸べられる。

「……お前これ、いいのかよして」

 てっきりエスコートでもしてくれるのかと思えば、そういう気づかいではないようだ。勝己の親指のはらがピンクゴールドの細いリングをなぞる。薄青いレンズの向こうで、勝己は遠い六等星に目を凝らしているみたいな、小難しい顔をしていた。

「いいのかって?」
「……いや、知らねえけど。めんどくせぇことになんじゃねえの」

 おざなりな口ぶりの背後には、きっとひと月前のあのネットニュースの騒ぎが潜んでいるに違いない。まさか勝己からこんな遠回しな苦言を聞くとは思わなかった。知らない間に彼だけ大人たちの側にさっさと身を移しているようで、は耳が熱くなるのを感じた。

「勝己までそれ言う? 自分で渡したくせに」
「渡しただけだろ。しろとは言ってねえ」
「なにその屁理屈。ていうか、『これしとけ』って言いました!」

 なんなら強引に手をとり、自分でこの指にリングを通したくせに。二年前、きっと互いに少しの背伸びをして交わしたはずの指輪が、今になってなぜか子どもの証のように扱われ、納得がゆかない。抗議の視線を突きさすと、勝己はそのまなざしをあしらうように目を伏せ、髪をかいた。

「お前がいいならそれでいい」

 指先のなごりがかすかに絡みあった腕を、うながすように引き寄せられる。突き放すでもなく、苛立っているのでもなく、それは彼なりにを尊重する言葉だった。なんだか拍子抜けしてしまう。恋人をなだめるやり方としては素っ気なくても、十四歳のころからお互いを知る二人には、それだけできっと適切な譲歩だった。
 映画館を出て少し歩き、勝己は、仕事の関係でよくつかうという料理屋にを連れていった。今年の春、勝己は雄英高校在学中から世話になっていた事務所を離れ、自分の名を冠す事務所を構えた。独立したのだ。それ以来、彼は今まで以上に多忙を極めているように見える。あの勝己が、こんな洒落た店で仕事の交渉をするようになるなんて。偉大な夢はひとを大人にするものだ。

「映画、どうだった?」

 カマンベールチーズを挟んだ揚げだし豆腐をつつきながら、いちばん聞きたかったことを聞いてみる。勝己は箸をとめ、ペリエをひとくち飲んでからぽつりと感想をこぼした。

「最後が良かった」

 と、たった一言。それだけのことで、は気恥ずかしさがこみあげてきて、自分はずいぶんとこの男に飼い慣らされてしまったものだと感じる。映画のラストシーン、自分の消えない過去について吐露する主人公を、恋人があっさりと受け入れる。知ってたよ、と。そんな一言で、苦いコーヒーに角砂糖があっという間に溶けてしまうように、わだかまっていたものがほどけてゆく。穏やかなハッピーエンドだった。

「わたしもラストがいちばん好きだな。あれ、最初のごはんの会話のとこ、全部アドリブなんだよ」
「だろうな。自分の好物並べやがって」
「あは、とっさに嘘ってでないもんだね」
「まあ上出来だろ。お前にしちゃ」

 うつむいたまま、ふっと勝己が笑みをこぼす。それは、とても機嫌のいいときの勝己の笑顔だった。
 そのとき、は勝己の首すじから耳の裏にかけて、うっすらと裂いたような傷跡がひろがっていることに気がついた。仄明るい照明が、彼の白い肌に赤い擦傷を浮かびあがらせている。思わず手を伸ばしてしまいそうになり、はすんでのところで思いとどまった。が二時間の映画のなかに、数分の演技のなかに、自分の存在を閉じこめるように、勝己の身体には彼の戦いの跡が絶えない。それをこわいとか、心配だとか、思ったとしても、口にするのは無意味なことだろう。なぜならそれは本心のようでいて、本心ではないから。
 彼にまつわることのなかに、彼の存在にとって不要なものは何ひとつないと思える。はそういう、勝己の繊細な、危うい造形が好きだった。そしてその危うさのなかに自分が在ることを、心のどこかで支えにしていたのだ。



 軽い夕食を済ませ、は勝己の運転するセダンに乗り込んだ。どこに向かうのかは尋ねなかったが、アパートまで素直に送り届けてくれるわけではないということは分かっていたし、も真夜中の帰宅は望んでいなかった。たとえ彼女のマネージャーが切にそれを望んでいたとしても、だ。
 勝己がを導いたのは、事務所からの独立を機に越したという彼の新しい住まいだった。マンションの五階の角部屋、玄関でヒールを脱ぐやいなや、は勝己に身体を抱きかかえられた。うわあ、と、びっくりして思わず色気のない声がの唇から洩れる。初めて踏み入れる彼の部屋に興味津々だったのに、どうやらそんな悠長な物色はやっていられそうにない。は勝己の着ていた、ざっくりとしたワッフル編みのサマーニットの上から、彼の胸を撫で、鎖骨と、あの薄い傷跡を辿るように首に腕を回した。どことなく彼を煽るように。

「今日、まともな化粧してんな」

 伏せた横顔を捕らえるように彼の首が傾いで、こもった距離で見つめあう。なんだ、気づいていたのか。はプライベートでほとんど化粧をしないから、よそゆきの薄化粧を勝己にさらすのは久しぶりのことだった。

「うん、メイクさんがデート用にって……あっ、勝己のことは言ってないよ?」

 言わなくてもバレバレだったけど、とはつけ加えなくていいことだろう。勝己が呆れたように眉間にしわを寄せる。彼がを抱えたまま歩きだすと、ひとりでに廊下やリビングの照明の明かりがふわりと点き、物の少ないシンプルな室内をほのめかした。

「私用にプロつかってんなよな」

 勝己のベッドは二人寝そべっても余りあるサイズのダブルベッドで、紺色のシーツが神経質なほどきれいに整えられていた。この熱帯夜に、一日中あるじを欠いたベッドルームがちょうどいい温度で充たされている。彼がほんとうに恋人を連れてきたかったのは、この部屋、このベッドの上なのだと思うと、彼の用意周到さがかえってかわいらしいような気さえした。

「お説教はいいから、もっと恋人らしいこと言って」

 それならいっそ用意してあるものを全部、見せてみてほしい。まわりの大人たちが言いそうな利口で、正しい言葉は抜きにして。勝己は胸もとのサングラスをベッドサイドに置いて、を見下ろした。こんなとき、彼が何を考えているか分からない。物言わぬ瞳の艶。ほんの数秒の静寂を、彼はとびきり甘やかなものに変える。

「抱きたくなった」

 最初からそのつもりだったくせに、欲望のでどころをうやむやにして、勝己の通った鼻筋がの喉もとに触れる。薄いワンピースの胸のボタンをはずしてゆく、指先のたわむれを感じながら、は目を閉じた。指輪を嵌めた左手を、彼の癖毛に忍ばせて。
 十五歳のころ、初めてのセックスは勝己の実家の、彼のベッドでのことだった。今になって思えばずいぶんとませた中学生だと思うが、あのときの勝己の思いつめたようなカオは、とても大人びたものには見えなかった。特別なことなどない。少し派手で悪目立ちしていたが、二人どこにでもいる、セックスを知ろうとした幼い恋人同士でしかなかった。内申点を気にしたり、放課後の掃除当番を煩わしく思ったり、制服のスカーフの歪みを五分ごとに確かめる、あのころたまらなく不自由だと感じていた毎日が、今となっては気楽で自由な日々だったと思いかえすことができる。ホテルのベッドでも、寮部屋のベッドでもなく、正真正銘、勝己のベッドで、こんなに安らかに抱きあったのはいつぶりだろう。あのころみたいに親の居ぬ間を探らなくてもいいと思えば、少しは大人になった気がするだろうか。だとすれば大人になるって、とても些細なステップだ。
 耳もとで、と勝己がささやいた。その呼びかけは届いていたが、目はつむったままでいた。何しろすべては終わっていて、幸福な怠さにまだ浸っていたかったから。

 そしてもう一度、自分の名前が鼓膜を震わす。手が窮屈で熱い。がうっすらまぶたをひらくと、暗くてほとんど輪郭がぼやけていたが、となりに横たわる勝己が彼女の手を握りこんで甲に口づけているようだった。

「……ん」
「愛してる」
「……、……え」
「俺と結婚してくれ」

 寝ぼけていた頭に、新鮮で神妙な、勝己の告白がじわりと流れこむ。さながら寝耳に水。重たくまばたきしていたは、そのせいで、いっさいの眠気が吹き飛んでしまった。

「な、え、え」

 動転するが身を起こすと、勝己もまた彼女を追うように起き上がり、ベッドサイドのランプを点けた。そしてはすぐに気がついてしまう。照らされた自分の左手の薬指に、昨晩までとは違う、真新しいひかりが宿っているということに。
 ――二年したら、もう少しマシなやつ買ってやる。
 その宣言を忘れていたわけではないけれど、彼の誓った二年後がまさかこんなふうに訪れるとは思ってもみなかった。

、落ち着け。今すぐの話じゃねえ。お前の答えはいつでもいい」
「……そ、でも、」
「お前にも色々と事情があんだろ。こっちの都合で無理させるつもりはねえよ」

 勝己が真剣な目をして言葉を重ねるたび、いよいよ彼が本心からその願いを口にしているのだということが明るみになっていくような気がして、は困惑しきりだった。小さいことや大きいこと、いろんな想いが脈略なく湧きあがる。裸同然のかっこうで眠る真夜中に、なんで。こっちの都合って、なに。結婚って、一体どういうものなの。まだ何も、分からない。

「……いつまで、待っててくれる?」

 すり替えられた指輪に視線を落としてつぶやく。こんな暗がりでも、それが二年前の贈りものとは桁の違う宝飾なのだと一目で分かってしまう。やわらかく結った一本のリボンのようなデザイン。きらめくダイヤの粒が薬指をつつみこみ、結び目にはひときわ大粒の輝きがあしらわれている。今にもほどけそうな繊細なエンゲージリングに、勝己は永遠をこめたのだ。

「……ほかに行くあてなんかねえって、今さら」

 勝己は唸るようにそう答えると、に背を向けてベッドに身を横たえてしまった。今さらって、わたしたちまだハタチなんだけどな。あいかわらずせっかちな男だ、とは思う。ほかに行くあてがないのなんてお互い様だと、心の深いところで分かっているだろうに。

「勝己。さっきの、もっかい言って」

 しばらくの沈黙のあと、勝己は振り返っての左腕をつかみ、彼女を引き寄せた。ぶあつい裸の胸に閉じこめられながら、は彼の鼓動を探していた。

「愛してる」

 凡庸で特別な、愛の言葉のなめらかな発話。二人、仄暗い自負があるのだと思い知る。相手に自分が拒まれることなんて、今や微塵も考えられないこと。何者でもなかったころ何よりの憂いであり、何よりの焦りであったことが、いつの間にか消えてしまっている。わたしたち、遠くへ来たのだ。追いつきたい、置いてゆかれたくないと、降る雨に脇目もふらず、ひとりきりの昼と夜をがむしゃらに走っているうちに。
 だから、あと少しだけ待っていてほしい。二人をとりまくうるさい雨があがり、この指輪を左手の薬指に、心おきなく、したいときにすることができるまで。
 難しいことは考えず、今はまだ、二人の夢を見て束の間の眠りにつきたい。明けてしまうのが惜しいと思える、短い夜を重ねていたい。
 ひかりを溜めたエンゲージリングが、きつくかたく、勝己の手のひらの闇に握りこまれていることを確かめてから、は静かにまぶたをおろした。









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2018.8