panoramic Tokyo

※ 本編から2年後|未来捏造




 東京の夜景が箱庭のように切り取られている。
 は縦長のスリット窓に身を寄せるようにして終わりのない街の光を見下ろした。ハイウェイをふちどる照明灯、高層ビル群のおびただしい窓あかり、色彩豊かなネオンボード、今日も誰かの労働と享楽のあかしがひしめく東京。この街を照らすものたちはまだ、十八歳の二人にとってよそよそしく、遠く、妖しくぎらついている。地上四百フィートのこの高みも、今はまるで雲のような足場だ。
 いつまでもが窓の向こうに気を取られているので、勝己はすぐに痺れを切らし、背後からの目深にかぶっている地味なキャスケットを奪い去った。ふわりと、絹のような髪が彼女の横顔に落ちる。もちろん化粧なんてしていない。ようやく勝己を振り向いて、は眼下のきらめきを写しとったような瞳で彼を見上げた。ああ、この感覚、久しぶりだ。そんなあほらしい感慨を見透かされないよう、勝己はつとめて静かに彼女を見つめ返した。

「すごいね。勝己、インターンのときいつもここに泊まってるの?」

 レース編みのカットソーの上から、の腰を引き寄せる。白いシャツにデニムのショートパンツという飾りけのない服装が、いかにも撮影の仕事帰りといういでたちだ。芸能活動のため、がこちらに越してもう一年以上経つ。転校し、所属事務所の女子寮で独り暮らしをしながら、放課後や休日を仕事に充てているようだ。ずっと彼女は忙しかった。勝己もよそ見をしている暇はなかった。六月の免許取得試験が終わってひと月。やっとこうして、数ヵ月ぶりに二人で顔を合わせている。といっても、仕事終わりのをホテルの自室に立ち寄らせたという、慌ただしく情緒もない再会だったけれども。

「向こうが用意してんだよ、勝手に」

 勝己はなんでもないというふうに、広々としたダブルルームを見渡してそう答えた。インターン先が予約した部屋には違いないが、何も「いつも」こんな部屋に泊まれるわけじゃない。シングルの部屋が満席だったので、勝己に甘い事務方の人間が「たまにはいいか」と代わりにこの高層階の部屋を手配したのだった。新人未満のひよっこに対して、あからさまな特別扱い。どうかと思うが、を呼ぶにはちょうどよかった。げんきんにも、そんなふうに感じている自分もいる。今宵ばかりは。
 勝己は二年生のころからずっと同じ事務所でインターンの経験を積んでいる。彼は有名なプロヒーローのサイドキックになることには興味がなかったから(というよりも一年の時に自分にはその資質がないと判断した)、早期の独立を確約し、独立後のマネジメントを請け負ってくれる大手事務所を選んだ。選んだのは勝己だが、先に指名を入れたのは向こうだ。士傑の経営科出身の社長は豪奢な男で、勝己の派手な個性をえらく気に入っていた。様々な現場経験、他の事務所所属のトップヒーローたちとのチームアップ、コネクション、およそ勝己に必要だと思われるものはもなんでも惜しみなく与えてくれる最高のパトロン。何事もなければ来年の四月、勝己はそこでプロヒーローとしてデビューすることになるのだ。

「大事にされてるんだね、さすがエリート、引く手あまただ」
「囲い込みだろクソみてえな」
「愛だよ~」

 勝己をからかうようにそう言って、はするりと彼の腕を抜けだした。つっかけのサンダルをベッドサイドに落っことし、勝己が仮眠をとって少しシーツのよれてしまったダブルベッドに、はしゃぐ子どものやり方で身を投げる。白いシーツに絡まる、白い脚。そしてまくらを腕に抱きながら、顔を半分隠して、は勝己に向かって腕を伸ばした。反則というより、犯罪的だ、そういうの。

 外見を愛するということは浅薄な好意だろうか。勝己はと出会ってからずっと、彼女の造形を何より愛してきた。菜都は会うたび、つくしが伸びるように美しくなっていく。だけどそれは、彼女の、誰に向けるでもない武器としての美しさだ。勝己が彼女に気づかせた、よそゆきに磨かれた美しい殻だ。そういう鎧を、土壇場で、勝己の前でだけ、ほろりと彼女は脱ぎ捨てて笑む。蜜に誘われるように、勝己は、寝そべったのからだのとなりに横たわった。まくらの壁をつかって、がじゃれるようにはかない抵抗をする。こんな格好つけたベッドの上で、二人の仕草は、十五歳の夏とさして変わらなかった。

「顔見せろ」
「やあだ、すっぴんだし」
「見飽きとるわ」

 嘘だ。見飽きてなんかない。まくらを剥いで、の頬に指を伸ばす。まじまじと彼女を見つめる。ここに居る、と思う。当たり前のようで当たり前ではないことを確かめる。思いがけず、のほうから唇が近づいて、二人はひとつに重なった。表面張力のようなささやかで確かなちからが働いている。は自分がそうされているように勝己の頬に手を添え、満足げに指をすべらせながら彼の目の奥に言葉を注いだ。

「勝己、おめでとう、ほんとうに」

 すぐに追いこしてやる、と勝己がに宣言したのはちょうど二年前の夏だった。彼の感覚からすれば、前進しているときでさえも、理想を目指す旅はいつも耐えがたくもどかしい。勝己だってまさか、ほんとうに「すぐ」そのときが来るとは思っていなかった。誰もが決められた課程をこなさなくてはならない世界と、本人次第でいくらでも飛び級できる世界とでは、流れている時間の質がまるで違う。そうは心得ていても、それでもの歩幅は、勝己が思っていた以上に身軽なものだったのだ。今ようやく、飛び級の世界に、彼もまた足を踏み入れようとしている。からの祝福を胸におさめるように、勝己は、今度は自分からの唇をかすめとった。綿あめを食むようにやわらかくそういうことを繰り返しているうち、の細い腕は勝己を求めるようにすっかり彼の首に巻きついていた。

「そういえば、ちょっとだけ噂になってるよ、わたしたち」

 触れそうで触れないもどかしい距離で、がそんなことを囁く。は、めずらしく気の抜けた勝己の瞳を愉しそうに見つめていた。勝己の眼。興奮するといつもより少しだけ緋色が濃くなって、それはますます獣めく。

「……は、なんで」
「卒業アルバムの写真とか、誰がネットに流すんだろうね。みんな探偵みたい」

 溜め息をついて、はひと足先にゆるりと身を起こし、乱れた髪に指を入れた。
 ショートパンツのポケットから彼女が取りだしたスマートフォンが震えている。間もなく日付が変わる。朝になれば二人、別の夢がある。同じ夜、相似の夢は、そう長く見ていられない。

 中学校時代の二人は、それこそ噂の二人で、周りから囃したてられたり憧れられたりするような周知の関係だった。卒業アルバムのスクラップのページには修学旅行で撮られた勝己とのツーショット写真が紛れている。アルバム委員のいたずらなのか、頼んでもいないはからいなのか、ピンク色のカラーペンでいくつかのハートが飾りつけられたものだ。今さらそんなものを槍玉にあげられ、憶測であれこれ言われるぐらいなら、いっそ今の二人が明るみに出てしまえばいいのに。凶暴な空想をしながら、勝己もまたを追うように上体を起こし、彼女のえりあしに顔をうずめた。

「ねえ、まだいいでしょ? 泊まらないよ。自分でタクシー呼ぶし、もうちょっとだけ……うー、わかってるけど、でも……」

 がベッドの端でマネージャーにわがままを言って粘っているあいだ、勝己は黙って彼女を膝の上に乗せ、懐かしくて新しい恋人のかたちをところかまわず確かめていた。しっとりと手にすいつく二の腕とか、薄っぺらい腰回りとか、熱い膝の裏側とか、土踏まずのくぼみだとか。勝己の脚のあいだで、が不服そうに電話を切る。駄々をこねても、どうやら期待していた効果は得られなかったらしい。

「……ごめん行かなきゃ」

 を背中から抱きすくめたまま、勝己は大人しくうなずく。もとより隙間のような逢瀬だ。勝己はの体温を刻みこむように、今一度腕にちからをこめた。

「会いたかった」
「わたしも。会えてよかった」
「無理させたな」

 自分でも似合わないと思うが、そんな言葉が自然と口をついていた。がくすぐったそうに笑ったのは、天然記念物よりも出くわすことのない勝己の殊勝な態度のせいか、彼の低い声が耳をあやすように触れたせいなのか。は勝己の腕をほどき、ベッドの下のサンダルに両脚をおろした。まっすぐ背を張って立ち上がり、デニムパンツの後ろポケットにスマートフォンを押しこむ。

「ううん。勝己も、朝早いんでしょ? 今度またあらためて会おうよ、合格のお祝いもちゃんとしたいし」

 ぺたぺたと歩きだしながら、が夢見る口調でそんなことを言う。今度、今度、と言っているうちに数ヵ月が経ってしまった今日までの離れ離れの日々を思うと、次に会うのもいつになるかは分からない。分からないけれど、彼女の言葉にする「今度」はその場しのぎの口約束ともけっして違う。そう信じられることが、会えない距離をいつも慰めた。


「ん? わっ」

 オートロックのドアに手をかけようとしていたに、勝己はベッドサイドに置きっぱなしだったキャスケットをかぶせた。乱暴にそうしたせいでの目の前が一瞬まっくらになる。タイミングをはかれず危うく渡し損ねるとこだったが、今しかないとようやく決心して、勝己は彼女の左手を奪った。カーゴパンツのポケットから無造作に取りだしたリングを、菜都の薬指に通す。まるで「ついで」のようなやり方だったけれど、彼にとってそれは今日いちばんの使命だった。

「これしとけ」

 はっ、とが息を呑んだことが、勝己の心臓に伝わる。彼女の細い指にぴたりと嵌まったその指輪は、ピンクゴールドの華奢なリングに一粒だけダイヤモンドがあしらわれているシンプルなデザインのものだった。十八歳の高校生にとっては安くないが、ヒーローの卵としては高くもない。インターン活動で得た報酬を使うあてもなく、なんとなく預金通帳を眺めていたら、思いついた。渡したいから、渡しただけ。なんの記念でも、告白でもない。ただ、与えるのであれば左手の薬指。それだけは譲れなかった。

「言っとくけど、ただの虫除けだからな。二年したらもう少しマシなやつ買ってやる」

 二年、それは、勝己がインターン先と交わす予定の契約年数をさしている。順調にキャリアを重ね、最短ルートで事務所から独立するのであれば、二年後がひとまずの目安になるだろう。そんな野望をが汲んでくれるかは知れないが、その勝己の照れ隠しは、自分を追いこむ枷のようなものだった。そのときこそ、「追いこしてやる」と言った十六歳の夏の宣誓が成就すればいい。いや、するのだ。

「……これも囲い込み?」

 しばらく呆けていて、やっと口をひらいて、何を言うのかと思えば。勝己の二年間。の二年間。何が待ち受けているかも分からない、ひとりとひとりの道。縛ろうなんて思いもしなかった。勝己はの冗談をいなすように、彼女の頭を軽くこずいた。

「……んな安モンに効力ねえよ。好きにしろ」
「そこは愛って言ってよね」

 しらけるなあ、と笑いながら、はくるりと勝己を振り返り、彼の目の前で薄明りの照明に左手をかざした。ジュエリーのことなんかひとつも知識がなくて、ショーケースにずらりと並ぶなかからその指輪を選んだのも適当な直感ではあったけれど(だいたい勝己がに何かを贈るときはいつもそうだ)、のまっしろな指に控えめなゴールドはちょうど品よく華やいでみえた。とてもきれいだ。そうやって素直にのろけるのは、やっぱり、勝己の趣味ではなかったけれど。

「ありがとう、一生の宝物にする」
「だから、有り難がるようなもんじゃねぇって」
「そんなことない。だって、二年経ったら勝己の気が変わっちゃうかもしれないもん。わたしは、今がずっとうれしいよ、きっと」

 キャスケットのつばをもちあげて、帽子の下でがいたずらっぽく勝己を見つめた。 思いつきのような薬指の束縛が、今が、の熱っぽい言葉で、彼女の人生に消えがたいしるしとして残り続ける。その彼女の確信は、とても強いし、とても美しい。だけれど、かえって彼のうちには幼い欲が芽生えた。そんなふうにはなから「今」をいつくしむような態度をされると、あまのじゃくなこの男は、まだ見ぬ「これから」に一刻も早く駆けだしていきたくなってしまうのだ。両手いっぱいの大博打を、約束された未来のようにきつく握りしめ。

「……お前がそれを捨てようと失くそうと知ったこっちゃねえけどな、」

 重たいドアを、にかわって開けてやる。ばかみたいな気づかいだと内心思いつつ、彼女の「これから」のために誰もいないホテルの廊下を見渡してから、を送りだす。深夜の廊下はしんと静まりかえっていて、勝己の声もどこか神妙にとうとうと響いた。

「俺を見くびってんじゃねえぞ」

 年を重ねても、大人になっていく歩みの途上で、夜景の見えるホテルの部屋でロマンチックな贈り物をしても、勝己は勝己だ。恋人に告げる愛の誓いとはとうてい思えない荒っぽい言葉の、ほんとうの彼の質感を、は眩しさに目を細めるような表情で受けとめた。そうでなくちゃ、勝己じゃないよ。どんなときも予測不可能に爆ぜる、劫火のように苛烈で、鮮やかな、わたしの大好きな男の子。

「お手並み拝見いたします、ダーリン」

 彼女の瞳のなかにはまだ宝石のような大都会の夜が残っていた。ほの暗い廊下で、不当なほどのまなざしがきらめいている。勝己にはそう見える。なんといっても、恋をしているから。
 ばいばい、おやすみ。は背伸びをして、勝己の頬に顔を寄せた。「また明日」はしばらくおあずけだけれど、二年後なんて意外と、すぐにおとずれる。薬指を光らせた左手で小さく手を振って、は軽やかに彼女の夢のなかへと帰っていった。









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2017.6