※高校三年生(未来捏造)




 遠く、飛行機の走る低い音に気をとられて、窓の外に目を向けた。その一瞬のうわの空を見透かされてしまったのか、ブラド先生の声はどこまでも、じれったく、苦々しいものになっていった。高校最後の短い夏が終わり、胸のうちで何かよくないものが不安定に満ちたり、引いたりをくりかえしている。溢れることも、干上がることもない。ふと頼りない現実から目を逸らし、彼のことを考えるとき、いつもわたしは自分がとても大きなものにも、ちっぽけなもののようにも思えた。

「いいか。大学のヒーロー科にすすんで四年後、同じように声がかかる保証はない」

 それはもう、何度も、手を変え品を変えて口酸っぱく言われてきた定番の忠告だった。こうべを垂れて聞きとめるしかない、生徒の将来を何より案じてくれている担任教師の正しい言葉だ。同時に、プロヒーローの大先輩として、高校卒業後すぐに華々しくデビューした成功者らしい言い分だと、わたしは思う。年に二回のヒーロー資格試験が済んでひと月、こうしてブラド先生に呼びだされるのももう三回目になってしまった。きっとわたしは今、B組いちばんの手のかかる問題児だ。自覚はあるのだけれど、何度こうして同じ説得をされても、わたしの答えだってもう変えられなかった。

「……でも、正直まだ自信がないんです。先月やっと仮免をとったばかりで、みんなよりずっと遅れてしまって」
「先方はそれでもいいと仰ってるんだ。の『個性』を買って……」
「大学からもいくつか推薦の話はきてます。わたしもっと学びたいんです、わたしに足りないものを、」
「お前に足りないのは学びじゃない、一歩踏みだす気概だ!」

 ブラド先生の大きな握りこぶしがやるせなく、けれど盛大に机の上に振り下ろされたとき、ちょうど、奥の進路指導室につながる扉がひらく音がした。重たい響きがお腹に落ちる。思わず伏せてしまった目をおそるおそるもたげると、指導室から出てきたのは三年A組を受け持つ相澤先生だった。
 それから彼の後ろに、もうひとり。深く沈んだ緑の目が、逃げ腰のわたしをはたと捕らえた。

「ブラド、声がでかい。となりまで筒抜けだ」

 心底めんどくさそうにそう唸って、相澤先生は左手でぼさぼさの髪をかきあげた。右腕には分厚いバインダーをかかえている。あの青い表紙はインターンの活動報告をまとめたものだ。わたしのはまだほんの薄っぺらいけれど、ヒーロー科の三年生ともなると人気、実力に比例してあのバインダーはどんどん厚くなってゆく。あの報告書の実績を見ただけで、ほんとうは、一目瞭然なのだと思う。つかう者と、つかわれる者の差。たとえ最高峰のヒーロー科を卒業したって、もちろん、誰もがトップヒーローの栄光を得るわけではない。
 相澤先生のおかげでだいぶトーンは落ちたけれど、それでもブラド先生の懇々としたお説教は昼休みが終わるぎりぎりまで続いて、わたしは週明けにもう一度、進路希望の届を出すことになった。変わり映えのない紙切れを一枚手にして、職員室を出る。するとそこには意外な待ち人が立っていた。廊下の壁に背中をもたれ、あの緑色の眼差しがまた、わたしをつかまえるようにまっすぐと射した。

「轟くん、まだいたの」

 情けない紙切れを四つ折りにして、すぐに、シャツの胸ポケットに忍ばせる。轟くんは表情を変えないまま、ズボンのポケットに入れていた両手を出して背中を浮かせた。十月に入ったというのに、今日は暑くて、轟くんは長袖のシャツを肘までまくっていた。いかにも筋肉質なその腕は、引き締まっていてたくましい。ひと夏の彼の、紛れもないヒーローとしての働きぶりが、今も抜けない日焼け跡としてその表面に残っている。

「ああ。どうせこのあと自習で、劇の稽古だろ」
「そっか。……あ、うるさくしてごめんね、さっき」
「うるさかったのはブラド先生だけだな」

 そう言って、轟くんは口もとだけ静かに笑う。分かるような分からないような理屈で、彼はわたしのことを十分も待ってくれていた。いつも、轟くんの優しさや気づかいは分かるようで分からないものばかりだ。分かりたくないのかもしれない。突きつめていけば澄んだ水のように無償のそれを、打算にまみれた手ですくいあげてしまうのがこわい。触れたらすぐ、この手の汚さを、潔癖なこのひとは的確に見抜いてしまうだろうから。

「俺はいい判断だと思う」

 二人並んで教室までのぼってゆく階段の途中で、五時間目の始まりを告げるベルが鳴った。もう三年生の二学期ともなると、学校にいてもあまり時間に縛られない毎日が続いている。最近は文化祭準備にあてがわれる自習が多くなっていたけれど、事実上ヒーロー科の生徒は自由参加のようなもので、各自の都合で課外活動に赴いているひとも多く居た。

「え?」
「進学するんだろ」
「あ……うん。そのつもりで、一応……」

 どこかの窓が開いているのか、漂うようにキンモクセイのほの甘い香りが鼻をかすめた。さっきの会話はやっぱり彼の耳にも届いていたのだと気づかされ、また急激に、恥ずかしくていたたまれないような気持ちがつのってゆく。折りたたんで隠してしまった自分自身の将来が、情けない左胸と一緒にぞくりとざわついた。

の『個性』を欲しがる事務所は多いだろうが、今すぐサイドキックとして他人にこき使われるより、体術の訓練を積んで、ある程度ひとりで自在に使いこなせるようになったほうがいい」

 進学をすすめる轟くんの分析はまったく正しくて、冷静で、だけどそれは、ついさっきわたしに根気強く地方の事務所への就職をすすめたブラド先生の正しさと、そっくり同じたぐいの正論のようにも感じられた。どうしてだろう、すすめられている進路はまったく正反対のものなのに、そこにこめられているわたしの見立ては二人ともこわいほど正確で、隙がないのだ。わたしだけがわたしを見過っているのかもしれない。今もまだ、身のほど知らずの夢を直視できないまま。
 轟くんの言葉になんと答えるべきか迷い、足の歩みがもたついた。轟くんがひと足先にのぼった階段の上で立ち止まる。慌てて顔を上げたが、遅かった。

「悪い。口を挟むつもりで言ったわけじゃ」
「ううん、違うの、ありがとう」

 気を遣わせてしまったことに気を遣って、わたしはまた、とりつくろうような笑顔をつくってしまった。もたついた数段を急いでのぼり、ふたたび轟くんのとなりに肩を並べる。三年生の教室が並ぶ廊下は文化祭前の活気に満ちていて、わたしたちの気まずい沈黙などすぐに溶けてなくなってしまうだろう。それなのに、ひとつ折りのスカートに入れたシャツの皺を指で伸ばしながら、わたしはざわつく胸のみなもに身を浮かそうと必死だった。

「でも、なんていうか、大学に進学するのはわたしにとってそんな、大そうな選択じゃないの。轟くんにそんなふうに言ってもらう資格なんて、ほんとは……」

 数メートル先で、ガラリと大きな音を立ててA組の教室のドアがひらく音がした。わたしは口をつぐみ、目を上げ、轟くんと一緒になって廊下の奥を見やった。ああ、もしかしたら少し前から二人きりを「見られて」いたのかもしれない。轟くんのとなりに居ると、現実味のない軽薄な視線をよく受けとる。ドアから顔を覗かせ、わたしたちに向かって大きく手を振る芦戸さんのきらきらした眼は、そんな、浮かれた好奇心と善意をまったく隠そうともしていなかった。

「そこのお二人さーん! 稽古もう始まってるよ! はやくー!」

 大げさに振られた桃色の手に、小さく、手指を振り返す。ちらりと轟くんの横顔を盗み見ると、彼はどこか、話を中断されて困ったようなニュアンスを眉に浮かべていたけれど、わたしにはこの軽やかなお節介が今は何より有り難い助け舟だった。行こうか、とわざとらしく首をかしげる。ああ、とうなずいてくれた轟くんは、やっぱり少し腑に落ちない顔をしていた。



 ヒーロー科に編入して二度目の秋、高校生活最後の文化祭が十日後に迫っていた。出しものの準備をしながら、あいまに細々と舞いこんでくるインターン活動をこなす日々は、いまだに仮免許しか持っていないわたしにとってもそれなりに忙しかった。
 A組とB組合同でひとつの舞台をつくると決定したときは、まだ少し他人事のように感じていたけれど、演目が決まり、役回りが決まり、わたしはどういうわけかその只中に放り込まれて、今、歯の浮くような台詞をなんとか舌に馴染ませようと悪戦苦闘している。それも、ほとんどのシーンで轟くんと一緒に、だ。
 遠慮のこもった彼の腕が、わたしの背中にまわる。この瞬間いつも、わたしたちを見守っているみんなの空気がほんのり色づくのを感じる。そんななかでも轟くんはいとも容易く、決まった台詞を決まった抑揚をつけて口にした。それが巧いのかどうか、わたしには分からない。ただ、演技というものは、けっして嘘だけでは成り立たない。他人になりすます彼のなめらかな所作に触れていると、そんな不思議な心持ちがした。

「はい、カットカットぉ」

 大事なシーンをひとつ終えて、芦戸さんの澄んだ声と乾いた手の音が教室に響きわたる。彼女はこの舞台の演出を担うひとりで、毎日ああでもないこうでもないと熱を入れて、わたしたちに演技の指導をしてくれていた。指導というより、彼女の感性から繰りだされること細かい注文だろうか。

「ねえ物間、やっぱりここの演出、変えようよ。なんかしっくりこない」

 もうひとりの演出はB組から物間くんが担当していた。身ぶり手ぶりの多い芦戸さんとは対照的に、彼は教室のうしろに下げた机のひとつに座り、優雅に足を組んで舞台を俯瞰していることが多い。でこぼこコンビだけれど、でも、気が合わないわけではなさそうだ。

「奇遇だね。僕もそう思ってたところだよ」
「でしょー! やっぱクライマックスは口づけだよ! 話題性! 王道! 本格ラブストーリーがやりたくて、せっかく二人に主演お願いしたんだもん!」

 ――お願いさん! 一生のお願い! 去年の「ベストカップル」なんて、これ以上ぴったりの配役ほかにないんだよ!
 一ヵ月前、芦戸さんに食堂でこの役を頼まれた日のことを思いだす。彼女はあのときも、今みたいに勢いよくわたしに想いをまくしたてた。去年のこと、わたしと轟くんの初めてのまともな接点のこと。思えばあれから、あの接点すら、わたしたちをつくっているのは「なりゆき」ばかりだ。後夜祭で差し伸べられた手に手を触れたとき、今と同じようにまわりの空気が色めき、さわいだ。たった数秒で離れた手なのに、どうしてだろう、みんなの目に見えるわたしたちの手は、あの日からずっと指先をつないだままでいるみたいだ。

「まあでも、そういう演出は、主演二人の意思を尊重しないとね」

 物間くんが長い脚を組み替えて、わたしにうかがうような視線を向けた。促された意思をかき集めているうち、先に物間くんに応えたのはなぜか轟くんのほうだった。

「ふりだろ。俺はべつに構わねえが」
はどう? 平気かな?」
「う、うん。わたしも、轟くんが大丈夫なら……」

 ひゅう、とからかうような口笛を吹いたのは教室の後ろで大道具の準備をしていたA組の男の子たちだった。わたしはいつまでも慣れないけれど、轟くんにとってこんなささいな冷やかしはきっとなんともないんだろう。手をつなぐのも、背中に腕を回すのも、見せかけのキスをするのも、きっと。

「あ、でも待った、その演出だと観に来た轟のファンが卒倒するんじゃねーか?」

 次のシーンのために黒板の脇で控えていた一佳ちゃんが口笛を制するように声を挙げる。面倒見のいい彼女らしい、公正で他人思いな意見だと思ったけれど、いったん盛り上がってしまった男の子たちにはあまり響かないようだった。

「あれかー。ばっちり親衛隊できちゃってんもんなあ、最近」
「……そんなん気にしてたら何もできねえだろ」
「出た、モテ発言」
「はー、やっぱ違うね。うちのツートップは」
「あれ。つうか、そのツートップのもうひとりは?」

 その会話を耳にした途端、心臓のまんなかに釘を打ちつけられたような、磔の不自由な痛みが胸から全身にひろがった。A組の教室に足を踏み入れたとき、誰の存在よりも、彼の不在がわたしの目にはよく視えていた。本人が居るわけでもないのに、会話のなかに彼を見つけてしまっただけで、半身にびりびりと弱い電流が流れているように感じる。ついさっき、ブラド先生とあんな話をしてきたばかりだからかもしれない。そういえば、白紙の進路希望届はまだ、左胸のポケットにおさめたままだ。

「爆豪は今週ずっと向こうだろ。今、士傑の上京組がインターンで東京来てっから、事務所の意向でチームアップの予行だと」
「あ、それヘッドニュースで見たわ。そっちはそっちで、まあ相変わらずモテモテだわな」

 物間くんが場をおさめるように手を叩いたので、男の子たちの雑談はそこで途切れた。次のシーンにわたしの出番はない。一佳ちゃんと入れ替わるように身を引いた教室のすみで、集中力のないわたしの頭はもう、目の前の舞台とは別のことで塗りつぶされそうだった。東京から帰ってきた彼に、今日のことをなんて話そう。ひそやかな恐怖と期待が混ざりあい、まぶたの裏に濁った未来を描いていた。



 彼と、爆豪くんと初めて言葉をかわした日を、わたしはきっと生涯忘れたりなんかしない。ヒーロー科に編入して間もない初夏の、右も左も分からない合同演習の授業のときだった。運が良かったのか、悪かったのか。雄英最大の面積を誇る森林演習場をつかったサバイバル訓練で、爆豪くんがはじめに目をつけたのがわたしだった。動きも、「個性」も、繰りだされる攻撃も、分かっているのに、まるで動けない。グローブを嵌めた右手で首から地面に押しつけられたとき、覆面の奥の目と目が合い、からだじゅうに熱の嵐が吹きあれた。きっとあれは生まれて初めて感じたほんものの「殺気」だったのだろう。

「……お前の『個性』、視えてんな」

 情けないことに、このまま戦闘で痛い目を見るよりは確保テープを巻かれたほうがいい、となかば諦めていたわたしには、訝しげにつぶやかれた彼の言葉の意味をすぐには汲めなかった。草と土の匂いに混じる、嗅ぎ慣れない、毒々しいほどに甘い芳香。息苦しさと、その不吉な匂いと、ただならぬ彼の存在の重みに、わたしはたちまち委縮して、まともな思考判断を失っていった。

「……視えてるって、」
「甘いんだよ警戒が。補助能力は悟られたら終わりだろうが」

 手のちからも、じりじりと焦がすような視線も、少しもゆるめないまま辛辣な言葉を吐き捨てる。
 今から何世代も前、超常がまだ異常であったころ、わたしの持っているような「個性」は「透視」だとか「千里眼」だとかいう名前で呼ばれていたらしい。やっとの思いで雄英の普通科に入学し、二度の体育祭を経て、わたしはブラド先生にヒーロー科への編入をすすめられた。そのとき初めて、自分の「視える」範囲が空間的なひろがりだけでなく、わずかながら時間の幅を持っているということを自覚したのだ。十三年、この「個性」と付き合ってきてやっと。
 それを、爆豪くんはほんの数秒にも満たない接触で見切ってしまった。わたしの拙い対処の仕方で、わたしが自分の何を視ていたのかすべて見通した。これがトップヒーローになるような人間のたぐいまれな眼力なのだと思った。それともわたしの初めての戦闘相手がことさらに化けものじみていただけなのだろうか。今となっては、そうかもしれない、なんて思う。

「貸せ。俺がうまく使ってやる。テメェひとりじゃ無駄死にするだけだろ」

 はやくこの、凶悪な爆炎の予感を絶えずちらつかせる大きな手を退けてほしくて、わたしは彼の手首をつかんでこくこくと頷いた。彼のからだの下から這いだして、苦しさを押しだすように咳をする。生理的なものか精神的なものか、目尻から涙がとまらなかった。
 爆豪くんのその脅迫じみた言葉は、もちろん正義感にあふれた優しさでもなければ、へっぴり腰の新入りに対する憐れみでもなかった。彼の頭のなかにはいつもひとつのことしかない。わたしはただ、手折られるまでの猶予を彼に与えてもらったに過ぎない。だけどその時間は、たったひとり立ち尽くして死を待つよりも、ずっと多くの気づきをわたしに与えてくれた。
 あれから結局、貸しっぱなしだ。わたしの「個性」は、あの不遜な、唯一無二のヒーローに。









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2018.5