一、人と刀 - 前編

caution

陸奥守吉行(初期刀)と和泉守兼定と女審神者の三角関係です. 全体を通して薄暗いお話で、明確なハッピーエンドはありません. ゲーム内設定・世界観に対する独自解釈を多く含みます.




 長らく閉め切られていた最奥の手入れ部屋で一振りの刀剣が目を覚ました。今はなんの因果か人間そっくりのかたちを携えてはいるが、もとの容れ箱は二尺八寸とひどく大ぶりで豪快な印象を与える打刀である。手入れに要する資材と時間はそこらの重厚な太刀どもと変わりない。ほかの打刀と較べると燃費も悪いが、練度の高さゆえ献策も含め実戦向きの使いでがあり、審神者の信頼はかねてより厚い。今回の大がかりな掃討作戦にも第一部隊を率いて出陣し、誰よりも成果を収めた。
 もう何年も前、火の渦のなかから彼が姿を現したとき、彼の新しいあるじは目をまるくして「賑やかな本丸になりそうで結構」と漏らした。その言葉の意味を、彼はあるじの近侍と引き合わされてすぐ、よくよく知ることになる。和泉守兼定。彼は、この本丸では短刀の薬研藤四郎と並んで最古参の一振りである。

「遅いお目覚めでしたね、和泉守」

 なんの断りもなくおのが主君の部屋に足を踏み入れたとて、和泉守はもはや咎められることはない。日常的な無礼をすっかり許され、代わりに、障子張りの衝立の奥からあるじの――の呑気な声がかかる。来るのは分かっていた、そういう含みのある声だ。は自身が統べる刀剣たちの往来をよくよく把握しており、 本丸のいたるところにあるじの目と耳が貼りついていやがるようだ、と、和泉守は初めのころ彼女の勘の良さを気味悪がっていたが、実際それに近いからくりがあるのかもしれない。なんといっても彼女は神と係わることのできる人間なのだから。だるいからだを引きずり、長い黒髪をかきあげながら、ふた間つづきの部屋を見遣る。は和泉守に背を向けるかたちで、ソファに座り、何やら大判の歴史書を読んでいた。

「札を用意しても構わなかったのですよ」

 札は、審神者の霊力をこめて扱う。刀剣の修繕に要する時間を短縮し、人間として治療を受ける彼らの肉体的苦痛をいちじるしく和らげるものだが、和泉守はこの札があまり得意ではなかった。自分のために一枚一枚、あるじが寿命を削って、ほんものの命を吹きこんでいるように思える。それに多くの場合、部隊の長を務めることになる彼にとって、手入れの時間は戦いのあとのほどよい精神的空白となった。頭を冷やすにはちょうどいいのだ。むろん、こうも長いこと戦いに漬かっていると、身に染みた興奮はとても半日の休息ていどでは鎮まらないのだが。

「いや……あんたの手を煩わせるほどの大事じゃなかった」
「そうですか」

 あまりしつこく心配するような言葉を重ねると和泉守はすぐ機嫌を損ねるたちであったから、彼に対するの受け答えは付き合いの長さのわりに往々にしてそっけないものだった。和泉守が指揮をとる第一部隊が時空のひずみに身を投じていたのは、先月末よりこちら十七日間。久しぶりの帰還にともなう束の間の再会だというのに、顔さえ上げず、の指先とまなこは膝の上の細かな文字を追い続けている。うつむいたの、豊かな黒髪の奥にのぞく白いうなじを一瞥してから、和泉守は天窓を見上げた。欠けたところのない黄色い月光がちょうど天高く降り注いできている。

「日づけの変わるころか」
「もう変わったみたいですよ。先刻、山伏の鳴らす鐘が、っ」

 彼らはときおり、人間の姿をしているくせに、人知のおよばぬ身のこなしをすることがある。さすがは武器に宿る付喪神といったところか、戦いの場で発揮するためのその能力を、和泉守だけはこうして自身のあるじの前で飄々と披露するのである。とはいえ、出し抜けるのはたいていのからだのみで、察しのいい彼女のことを心からうろたえさせたことなど、彼にはほとんどない。初めの一度、それくらいのものだ。踏みだそうとすればすでに数歩先にいて、困惑しながらも唇のはしでほほえんでいる。それがという女だった。
 和泉守が嵐のように荒っぽくのとなりに腰を下ろし、その細い肩をつよく抱き寄せたので、彼女はひとなみに驚いて重たい資料を膝の上から落としてしまった。ごとん、と鈍い音がして、が足袋を履いた白い足先をすくめる。お互い、寝間着も同然の薄い着物と羽織りに袖を通しているだけだ。衣ごしにもわかる、のやわらかな張りを、和泉守は手のひらを撫ぜつけて確かめる。肩から、二の腕、そして腰へ。「ただいま」も言わず「おかえり」も告げられていないまま、こうも踏みこんだふるまいに彼は及んでいる。は、たっぷりとした溜め息を吐いた。熱を伝える手のこころよさによってではなく、彼の狼藉をたしなめるために。

「……わたしの手を煩わせたくないんじゃなかったんですか」
「ああ? ……ああ、仕事残ってんのか」
「仕事はないけれど……」

 仕事のあるなしの問題ではないでしょう。はそう言いかけたが、襟の着崩れから首尾よく和泉守の右手が入りこんできて、さすがに平静の声を失った。刀身のある彼の顕現は人間の身長としてはかなり高く、体格も立派なほうで、こうして背中からを抱いているとまるで彼女のからだを呑みこまんとしているようだった。うなじに口づけながら、ふくらはぎから手をすべらせて、和泉守がの足袋をたやすく脱がしてしまう。足の指のこそばゆさが背中の熱と絡んで、心臓がざわめいた。彼はよく心得ているのだ。刀剣らしからぬ嗅覚と、経験で拓いた、「そこ」までの道筋を。
 初めては、引きずられるようにして辿りついた。何に引きずられてしまったのか。いささか原始的すぎる感情ではあるが、本人は「嫉妬」という表現をつかった。ひとかどの人物の愛刀として名を馳せた刀剣たちばかりが集まっているからか、元来、彼らは審神者の第一の従者として身を立てたいという想いが潜在的に強いらしい。和泉守にはそれに加え、この本丸に早くに顕現したという古参としての矜持もいくらかあるのだろう。長期の出陣が度重なり、疲労を抜くため第一部隊から和泉守をはずした五日目の晩、彼は初めてこの部屋に無断で押し入った。その先は、今、彼がしていることと、さして変わらない次第だ。

「もう、いいかげんに離れなさい、和泉守」
「勘弁してくれ……あんたの命で半月も方々回ってたんだ。すこしぐらい労ってくれたっていいだろう」

 入りこんできた手が着物の襟口をむりにくつろげようとするので、腕をつかって胸を閉ざした刹那、おそろしいちからで手首をつかまれてはソファに押し倒された。ふたりなだれこみ、の上にのしかかるのは、はなから抵抗する気を削ぐほどにびくともしない肉の錘だ。和泉守は頭の切れる聡明な刀剣だが、目に見えぬ思惑が飛び交うような時代に修羅場をくぐってきたからか、自分の曲げ方を知らないような融通のきかないところもあった。とはいえけっして、彼は野蛮なやからではない。まだかろうじて理知の光が残っている和泉守の双眸を、は願いをかけるように見つめ返した。手首の拘束がゆるみ、自由になった両手で、青白い彼の頬をつつみこむ。冷たかった。ほんとうに彼は万全、治ったのか。ほんとうにこれには温かい血が通っているのか。そんな不安がよぎるほどに。

「……明日にしましょう。ね、」

 頬を撫でていると自然と彼の顔が近づいてくる。唇が重なりそうになる寸前に、はふっと視線をはずして壁掛けの振り子時計を見上げた。零時半。本人はすばやく、さりげなく針を確認したつもりだろうが、和泉守にはのかすかな焦りがコマ送りのように精妙に見てとれた。

「寅の刻に陸奥守たちが帰ります。出迎えなくては」

 気づかいに満ちた彼女のよそ見が呪わしい。それなりの理由をもって訴えかけることは正道だが、が口にしたその名前はおそらく一等の禁句だった。瞬間、和泉守の苛立ちが閾値を超える。そうした彼らのあいだの機微を、ほかならぬ審神者が、彼女が、心得ていないはずがないのに、なぜ。この状況、この言葉。理性を試されていることは百も承知で、和泉守はがおのれにかけているであろう期待と懇願を裏切りたくなった。裏切らねばならないと思った。何よりその名前ひとつで引き下がるような自分を、自分に、けっして許すわけにはいかない。
 宥めるように頬をさすっていたの手を払いのけ、和泉守は逆に、彼女の頬をゆったり撫でかえした。血の温度が通う、人間の肌だ。自分の手のひらがことさら冷たいからだろうか。熱くて暖かくてたまらない感触が、求めるように手の皮膚に吸いついてくる。

「……いや、だめだ。ますます今夜抱きたくなった」

 和泉守、とが刺々しくささやく。咎めだてを無視して、まるで浮石のように手ごたえのないのからだを抱きかかえると、腕のなかのそれは夏の夜にまるで冬の朝を迎えたように縮こまって震えた。こんなところで妙に生娘じみた反応をするが、肌を擦り合わせる様式ならば、ふたり、あらゆる道をきめ細やかに開拓してきた。今さらどこにも、ふしぎはない。和泉守は腕のなかの親愛なるあるじに向けて、わざとらしく嘲るような笑みをおくった。これは従者としての無礼ではなく、人間を模した、男と女の情そのもの。
 本で埋もれた書斎を抜け、和泉守はあるじをきつく腕のなかに閉じこめたまま、足早に奥の間の寝室へと消えていった。









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2017.8