一、人と刀 - 後編




 審神者の寝台の下に髪留めの赤い紐が落ちている。陸奥守吉行はそれをつまみあげ、そばの行灯の明かりにかざした。鮮やかな朱色にからまった、細く、長い長い黒髪。白いシーツは不自然なほどまっさらで張りがある。ついさっき、ここに来るまでのあいだにひとりの女中とすれ違ったが、彼女がこそこそと隠すように腕に抱えていたものはなんだったか。陸奥守はふっと思い立ち、上体をかがめて寝台の上のクッションに顔を近づけてみた。幾重にも重なった甘い香りがする。こんな真夜中に寝床を直さなくてはならない理由が、その香りのなかにはあからさますぎるほどに詰まっていた。
 ふたつ向こうの間で扉をひらく音がして、陸奥守はとっさに手にしていた髪留めをふところに仕舞いこんだ。さっきまで詮索まがいのことをしていたと気づかれてはならない。何食わぬ顔で寝台の上にあぐらをかき、陸奥守は寝室に入ってきたをやさしく迎え入れた。まるでこの部屋のあるじであるかのように、自然な態度で。

「なんじゃ、もうええがか」

 朗らかにそう問いかけながら、陸奥守は寝台から降りて、片口と硝子のさかずきを乗せた盆を手に取った。慣れた手つきで酒を注ぐ。するともまたなんの疑問も差し挟むことなく陸奥守のとなりに腰をかけ、彼からさかずきを貰いうけた。ふたりの所作はじつになめらかで、どこにもぎこちなさがない。審神者とその初期刀の距離は、ときに、長年連れ添った夫婦のそれのようである。
 陸奥守吉行はがみずからの手で初めて顕現させた刀剣であり、能力によって適材適所をよしとする方針の本丸にあって、日ごろより格別の扱いを受けている一振りだった。絶え間ない戦いのさなかにある審神者にとって、初期刀は右腕であり、相談役であり、精神的な支えでもある。つねに近侍として手もとに置いておく手もあるが、陸奥守はひとところにじっとしていられない性分のようで、或るきっかけで第一部隊から彼を退かせたあともは彼に外征の任を与え続けていた。
 しかし、深手を負うような戦いの最前線に陸奥守が出向くことは、おそらくもう二度とない。

「ええ。みな、布団にもぐった途端にぐっすりでした。よほど疲れていたんでしょうね……今回は悪いことをしました」

 ひどく申し訳なさそうにそう応じ、は陸奥守が注いだ寝酒にそろそろと口をつけた。
 陸奥守が率いている第二部隊はおもに長期の遠征任務に従事しており、ひとたび出発すると三日から一週間は本丸に帰れない。今回は第一部隊に援軍を送るなど慌ただしい時期だったこともあって、陸奥守以下の隊員にはまだ十分な練度に達していない短刀たちを数名つけた。はおそらくそのことをずっと気にしていたのだろう。第二部隊を出迎えてから今まで、は陸奥守そっちのけで疲弊した短刀たちの手当てに奔っていた。彼女はどうも短刀たちに対して過保護なきらいがあるようだ。陸奥守はさかずきの酒を一気に飲みほして、過剰に反省しきった様子のをからかうように笑った。

「ほがぁに子ども扱いしのうてもええやか。あいつらも隊員として立派に働いちゅうがやき」

 人間はいつも、人間の尺度でことをはかろうとする。人間にとって見た目というものは強力な判断材料になるようで、気をつけていないとすぐ、は短刀を幼い子どものように世話してしまうのだった。そのたび、陸奥守は彼女のことをそれとなく諫めている。幼い貌をしていたとて、彼らはひとりびとり剣を振るう者たち。刀の前では誰もが平等な命のやりとりをするのだから。空になったさかずきを陸奥守の手から取り去りながら、は彼にちからなくうなずき返した。

「……そうね、失礼しました。部隊長さま」

 冗談めかしてが頭を下げる。気づくと、東向きの明かり障子がぼんやりと白みはじめていた。お互い、一睡もしないうちに間もなく夜が閉じるようだ。夜明けの薄もやのなかで、のやつれた横顔はぞっとするような霊気に包まれていた。この世のものとは思えない白い相貌。陸奥守は深呼吸にも似た小さなあくびをかみしめながら、真新しいシーツの上であぐらを組みなおした。

「報告書はいつまでやったかの」
「先月から規定が変わったみたいなので、遠征分は月末にまとめてで構いませんよ。近ごろは戦績もまめに催促すると渋い顔をされますからね。それだけ各地で衝突が絶えないということ……」

 の小言を遮るようにして、陸奥守は彼女の名前を呼びつけた。本丸広しといえども審神者のことを呼び捨てる刀剣は数えるほどしかない。そもそも、多くの刀剣が彼女の名前すら知らないのだし、あるじの名前を知らないということを疑問にも思わないのだ。人間とは出自の異なるたましいなのだから、そんなことには興味がない、といったほうが正しいかもしれない。陸奥守もあるじの威風を慮って、多勢の前でその名を口にすることはなかった。閉鎖的なこの空間でこそ、秩序は繊細かつ重たい。根の深いところでそれをわきまえている刀剣は、むろん、彼が知る限りもう一振り居たはずなのだが。

「わざとらしい忘れもんじゃ、和泉守の」

 ついさっき拾いあげた男と女の情事のなごりを、すっとふところから取りだす。陸奥守はそれをに渡すつもりで差しだしたのだが、彼女は彼の手のなかの赤をじっと見つめるばかりで、けっしてみずから手を出して受けとろうとはしなかった。ことさら血相を変えて隠すことではないが、できることなら見つかりたくはない。彼女にとって、和泉守との縁はそういうものなんだろう。

「あら……あなたから彼に渡しておいてくださいな」

 口もとの不自然な笑み、逃げるように逸らされた視線。誤算なのだ。彼女にとっておそらく今宵、和泉守がこの部屋で自分を求めたことも、この紐を落としていったことも、それに気づかなかった自分も、それに気づいてしまった陸奥守も。ほうか、と溜め息まじりにささやいて、陸奥守は手のひらの赤い髪飾りを胸もとへ仕舞いなおした。彼女から返せばただの失せもの以上の何ものでもないだろうに、酷な命だと思ったが、自分も見て見ぬふりをしなかったのだから考えてみればお互いさまなのかもしれない。

「あいつようやく帰ってきちゅうがか」
「昨日の明け方には。それから半日以上、手入れ部屋に籠もっていましたけど。どうもわたしの手助けはあてにならないようなので」

 ふたり分の酒器をいそいそと片しながら、はなんとも気のない調子でそう答えた。札をかたくなに拒むことといい、あれもみょうなこだわりを持つ男だ、と陸奥守は思う。戦いの最前線に赴くことを誰より望んでいるその一方で、本丸の最奥、つまり誰よりも審神者の手もとにありたいという思いも、彼はおそらく隠し持っている。それが刀剣の冥利なのだと思えば無理のない感情ではあるが、この本丸の組織上、あるじのそばで武功を立てることは不可能だ。……というようなことを、淡々と彼の前で口にしたときはものすごい剣幕で怒鳴られた。お前に言われなくてもわかってんだよ、と。はっとした。そっくり同じ言葉を、彼は別の男からも吐き捨てられたことがあったのだ。伝・長曽祢虎徹と、明治元年の鳥羽に出陣したときのことである。

「……のう

 腕を組み、深いところから名を呼ぶと、は片づけの手を止めてふたたび寝台の上に座した。言いにくそうに口をひらく陸奥守はめずらしい。そんな彼を、はふしぎそうに見つめ返していた。

「こりゃあ告げ口みたいで、あんまり好かんのやけど……あいつ、いっぺん灸を据えたほうがええぜよ。おまさんとは違う香の匂いが、ここにもぷんぷんしちょる。行く先々でおなごをつかまえちゅうんか、それともつかまっちゅうのかは知らんけんど。ほがなところ、なんちゃあ変わっとりゃせん、昔から……」

 話しているうち余計な感傷が入りこんだ。言い過ぎたと思ってすぐさま口を噤むが、遅い。昔。昔、とは一体なんだ。蓄積された記憶や印象が、眠気とまじって混沌としている。あわてて顔を上げると、は目をまるくし、それからくすりと穏やかな笑みをこぼした。膝の上の細い指先をほんのすこし遊ばせながら。

「わたしの匂いだけならまだしも、ですか」

 その時代、その土地、歴史あるところにはかならず人間たちが生きている。彼らのことを知らねば守れるものも守れないので、データに頼らず、聞きこみと見分はけっして怠らないようにと、第一部隊を率いている時分はよく言われたものだ。だからだろうか。誰よりも戦に出ている男からは、誰よりも人間の匂いがする。この本丸のあるじをも巻きこんで、日ごとそれは強く、濃くなっていく。彼の纏う匂いはもう、実践から退いてしまった自分にはとうてい敵わない、彼だけの「生きざま」と呼べるものになっていて。

「……それがいっとう問題じゃと、ゆうてええかね。このわしが」

 彼女は何も、あれの我儘に付き合っているわけではない。彼女はそこまでお人好しでもなければ、こちらの機嫌を伺い、流されるような性格でもない。
 は、と陸奥守が自分を笑うような溜め息をつくと、はおもむろに彼の腕をくずし、片方の手を両の手のひらで包みこんだ。そしてすっと真剣な熱のこもった目をして、言った。あなたがわたしに言ってはいけないことなど、なんにもありませんよ、と。
 焦燥の究極には、彼女への不信ではなく、彼女への揺るぎがたい信頼がある。









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2017.8
(二話目からは過去のお話です)