六、陸奥守吉行




 陸奥守吉行が第二部隊を率いて建治元年の博多から帰還したのは七夕当日の昼下がりのことだった。
 行く先々で集めてきた物資の確認と分類、資源量の記録、積み荷の貯蔵庫への運びこみなどの仕事は留守居の刀剣たちのつとめだが、無事帰還した旨を第一に審神者に伝えるのは遠征部隊を預かる部隊長のつとめである。
 西の丸の執務室に赴くと、は彼の来訪を見越してふたりぶんの緑茶を煎れている最中だった。ちょうどいい、と思い、手土産として遠征先から持ち帰ってきた茶菓子をさっそく差しだす。は甘いものが好物だった。ところが、三口ほど菓子を食べたところで、彼女は突然吐いた。陸奥守の前で。訊けば、暑さのせいで食欲がなく朝からほとんど何も食べていなかったのだという。すぐに医者に診てもらうべきだと陸奥守は諭したが、気つけの常備薬があるからといってはまったく聞く耳を持たなかった。

「唐果物……食べたかったんですが」
「えい、えい。またいくらでもこうてきちゃるき。無理したらいかん」
「ごめんなさい」

 心から申し訳なさそうに謝られると、逆にこちらのほうがたいそう無粋なことをしてしまったような気持ちになる。は寝室の箪笥のなかから薬瓶を取りだし、白い錠剤をひとつ緑茶で流しこんだ。初めて見る薬だった。寝台で休むほどではないとかたくなに言うので、執務室のソファにしばらく彼女を横にならせることにする。大したことない、いっとき休めばすぐによくなる、と言われても、目の前で彼女が嘔吐したことなど初めてだったので、陸奥守としてもなかなか部屋を立ち去ることができなかった。
 が横になっているあいだ、陸奥守はソファのそばに腰を下ろし、彼女に遠征先でのできごとをぽつりぽつりと話して聞かせた。遠征部隊には各地に時空のひずみの予兆がないか、資材を集めるかたわら当該の時間線を見回るという役目もある。今回は何も異常は見られなかったと、道中の隊員たちの様子などもまじえて穏やかに報告し終え、彼は最後に「こっちはなんちゃあ変わりないかね」となにげなくに尋ねた。

「……じつは昨晩、和泉守がここにきました」

 すると、意外な答えが返ってきた。すこし言いよどみながらその男の名前を口にして、はひざ掛けの上に視線を落とした。和泉守兼定。違う部隊で仕事をするようになってから、彼とはほとんど顔を合わせていないように思う。何せ、第一部隊も第二部隊も、とにかく本丸を留守にしていることが多いのだ。それに、今はお互いそういう現状をどこかで望んでいるようなところもあった。気まずいわけではないのだが、今、何を話してみたところでろくなことにはならない。内側に芽生えた棘を均して、すり減らすためには、別々の任務に没頭しているのが得策だったのだ。

「ほう、あいつが」
「ええ、無断で。あなたのように」

 は目線をほんのりと流して陸奥守を見やった。口もとには彼の特権をからかうような笑みが滲んでいたが、そんな表情はすぐに溶けてなくなってしまう。最初からなかったかのように、はかなく。

「それですこし……疲れました」

 眼を逸らした先で彼女は何かを思いだしている。あの男のことをまなざしている。深いところから掬いだしたような「疲れた」の一言は切実で、きっと彼女の体調が優れないのもほんとうのところ夏の暑さのせいなどではないのだろう。は髪に手を入れ、ざっくりまとめた黒髪をおもむろに左肩に流した。ふだん香など薫きしめることのない彼女からつよく人工的な香りが漂う。まるでその奥に何かを隠しているかのように、鼻のきく陸奥守にとってその嗅ぎ慣れない匂いのヴェールはとても分厚く感じられた。
 ――和泉守、あいつ最近、札を使わんようになっちょるらしい。そんなはなしを数週間前、にした。札を使わずに手入れをおこなうと、肉体には人間のからだに特有の倦怠感や疲労が残る場合がある。疲労が残れば深手もますます追いやすい。いちど彼にまとまった休息が必要なことは誰が見ても明らかだった。本人も分かっていたはずだ。分かっていたところで、という問題ではあるのだが。

「部隊長のこと納得しちょらんのか、あいつ」
「かもしれません。……今回のことも、おそらく、あなたのこともまだ」

 あなたのこと、と言われたとき、陸奥守には和泉守が抱えていたであろう苛立ちの正体がなんとなくつかめたような気がした。そしてにはそれがどうにもつかみきれておらず、彼の前で戸惑い、その態度がさらに彼の苛立ちを育ててしまっているのだろうということも。には分からなくても、彼には分かる。けれどもそれを、自分の口から教え諭すように彼女に伝えるのは憚られた。ふたりの問題、なのだろう。かつて自分がその言葉でやんわりとあの男を排したように。踏みこんで、三人の厄介にしてはならない。たとえあのとき自分が迂闊にも口にしてしまった、彼女の真名が、あの男の苛立ちのいちばん奥底に沈殿しているのだとしても。

「……口ではいろいろゆうてもあいつはぜんぶ分かっちょる男やき、ほがあに心配しのうてもそのうちなるようになる。わしが第一部隊におったころのことじゃけど、あいつようおまさんには将器があるとゆうちょったがよ。まこと嬉しそうになあ……」

 笑いかけてみたところで今の彼女には届かない。嘘だとは思っていないが、ここでこんな昔話を披露する陸奥守をこころよくは思っていないという顔だ。うつむいていたがいつの間にか顔を上げて、なめらかに口のまわる陸奥守を見つめていた。頬にも唇にも血の気がない。やはり今日の彼女は相当な無理をしているようだった。

「陸奥、あなたはどうですか」
「ん?」
「あなたはわたしの命に着いてこられますか。第一部隊から自分をはずしたあるじを信じられますか。……わたしを、許せますか」

 さざ波が引いていくように陸奥守の頬から笑みをつくるちからが抜けていく。目を大きくひらいて、まばたきも忘れ、陸奥守は彼女のしんとした顔を見つめ返した。

「……どうしてほがなこと訊くが。許せんなんて、思っちゅうわけないじゃろうが」

 第一部隊の隊員として最後に戦地へ赴いたあの夜、陸奥守は敵の銃弾に倒れて重傷を負った。少数精鋭の危険な任務をこなしていたことは確かだが、彼の練度をもってすれば危なげなくことは運ぶはずだった。だが、どんなつわものであろうとも、戦場では一瞬の不注意が命取りになるものだ。あのとき、陸奥守はおかしかった。ずっと考えていた。考えるより先に天性の反射で動かなくてはならない戦場のただなかで、あるじが自分にあの護符を託そうとした意味というものを。
 人間から格別に大事にされるということには慣れている。先祖伝来の名刀として貴ばれてきた陸奥守吉行にはおのれをぞんざいに扱われた記憶などいっさいない。人災でいちど焼けたことはあるが、修繕のため研ぎ直され、刀の時代がとうに終わってからも文化財として元のあるじの歴史とともに丁重に保管されてきた。けれども、それはあくまで刀剣としてのおのれの来し方である。あの日、の眼に映っていた自分はなにものであったか。初めて彼女に鉄の刀身を撫でられたとき、彼女の霊力をもってこの肉体を得たとき、という名前を知ったとき……。ふたりの来し方がとめどなく脳裏をめぐり、四肢の動きはおろそかになった。そして、撃たれた。
 人間に倣うということを甘くみていたのだ。物の分際で。いやむしろ、神の分際で。

「わしが許せんかったのはわし自身じゃ」

 あの日の出陣について和泉守が書いた報告書と、が政府に提出した総括には、すこしの内容の齟齬がある。和泉守は陸奥守が敵に撃たれた瞬間を見ていない。だから撃たれた状況については「不明」とだけ記した。ところがが書いた総括では、陸奥守は練度の低い隊員をかばって重傷を負ったことになっている。戦場でのふるまいに少しでも不可解なところがあれば政府から即刻刀解の命がくだされるからだ。は、なぜその日に限って陸奥守の動きが鈍っていたのかを、よく心得ていた。だから報告を改ざんした。刀剣が人間にくだることは許されない。
 時の政府にとって彼らは戦争兵器である。だがにとっては違う。それだけではない。
 が陸奥守吉行のことを一振りの刀として戦地に送りだすことができなくなったとき、彼もまた、戦場で刀としてふるまうことができなくなったのだ。



 あれからもう、ひととせの月日が経つが、あいもかわらず陸奥守吉行は第二部隊の部隊長として長期遠征の仕事に従事しているし、この本丸の第一部隊を率いて最前線に赴いているのは和泉守兼定である。時間遡行軍との戦いはまだいっこうに終わる気配をみせないが、この世界にはこの世界なりの日常と、平和というものがある。みな、それに慣れてゆく。そして慣れればそのぶん、動かしたくもない頭が動いてしまう。彼が最近ふと思うのは、この戦いが終わったあと、自分は一体どうなるのかということだった。歴史を守れたにしろ、守れなかったにしろ、そのときは肉体を失い、また冷たい鉄に戻ってゆく。この肉は依存している。人間と同じかたちをしていても、よすがにできるのはこの場所と、あるじと、そして何より、戦争だけなのだ。

 日没間近の道場は静かだった。ひとけのないその場所で、長い髪も結ばず一心不乱に木刀を振り回している男がいる。きのう前線から帰還したばかりだというのに、まったく一日ぐらいじっとしていられないものか。陸奥守は道場の扉に背をもたれ、しばらく彼の剣さばきを眺めていた。しなやかで猛々しい、荒くれものの斬撃。型にはまらぬがゆえ手合わせではよく「調子がでねえ」と言って途中で投げたりしているが、これが戦闘においてはめっぽう強い。彼は今や、この本丸のあるじにとって随一の愛刀である。貫禄ある太刀筋を、陸奥守はあのころを懐かしむような気持ちで目を細めて見つめていた。

「用がねえなら帰ってくんねえか。気が散る」

 やがてひたりと、和泉守の豪儀な剣先が止まる。彼はもの言わず見学していた陸奥守をねめつけて、あからさまに不快そうな態度をとった。まあ、それもそうだろう。とくに面白味もない鍛錬の様子をじろじろと無言で見られていたのだから。陸奥守は「すまん、すまん」となるべくにこやかに笑った。ことを治めるためにもちいる表面的な笑顔。とはいえ、そんなとってつけたような温厚さなど付き合いの長い彼にはけっして届きはしないのだが。

「久しぶりに相手しちゃろうかと思うて」
「遠征部隊の隊長様なんかじゃあ、肩慣らしにもなんねえな」
「それはどうかの。わしにゃあ、今日のおんしは大振りばかりで隙だらけにみえゆうけんど」

 和泉守がにらみをきかせたまま好戦的に笑う。それを合図に、陸奥守は組んでいた腕をほどき、壁の刀掛けから適当な木刀を一本とりあげた。剣を合わせる前に、たったいま思いだしたようなそぶりでふところからとりだしたのは、あの赤い髪飾り。陸奥守は昨晩これを、あるじの寝室で拾ったのだ。

「これ、おんしのじゃろ。髪しばっちょけ」

 お互いほんものの感情をふたりの隙に落とすものかと意地になっているような顔をしている。貼りつけたような笑顔も、まばたきひとつしない無表情も、それこそが動揺の証明であると知りながら。和泉守は髪飾りを見、それから陸奥守の目を見、彼の指が差しだす赤い紐を素早く手に取った。何も言わず、手に取ったというより、ひったくるような手つきであったけれども。

「あんまり、あんひとに無理をさせたらいかんぜよ。……人間は脆いきね」

 言うつもりのなかった言葉がふいにのぼってくる。これもひとつの嫉妬なのか。いや、この感情はもっとおどろおどろしい。もっと、出口がないのだ。嫉妬のようにたやすく、感情の入口を決められるようなものではないから。
 はけっして自分の口から和泉守との関係を明かすことはなかったが、あれからときおり、夜更けになると不自然に部屋まわりの人払いをすることがあったり、起き抜けの彼女から和泉守の刺すような霊気がうっすらと感じられることがあったりして、いつしかふたりのあいだで「そのこと」は公然の秘密のようになっていた。それは、いい、べつに。影に触れれば背すじに冷たいものが走り、考えぬこうとすれば息苦しくなる。それでも、それがの選択なのであれば。
 問題はいつも、自分のほうだ。自分という器を与えられてしまった以上、それを度外視することはかなわない。

「ご丁寧に説教しにきたってことか。そういうお前はどうなんだよ、ひとのこと言えた義理か」

 肩のあたりで長い髪をゆるく束ねながら、和泉守は陸奥守の「説教」を鼻で笑った。あえて挑発するような言い草で、こんなやりとりがみょうに昔を思い出させる。肉体を得てからの時間などそれ以前に比べれば微々たるものであるのに、この空洞のなかを時がすり抜けていくたびさかのぼって感傷の味を知ることになるのだ。

「……わしとはそういうんじゃないき。ご期待に沿えず悪いのう」

 同じことなのかもしれないと思った。お互いにないものねだりなのかもしれない、とも思った。これほど近づくことを許されながら自分がけっして彼女を抱こうとしないのも、彼がゆく先々で女の軽薄な匂いをからだに染みこませてくるのも。操でもなければ反抗でもない。ただ何かを待っているし、何かをおそれている、ふたりは似たものどうしだ。

……ねえ。なら、お前はなにものだ陸奥守」

 結んだ髪をうしろに流し、和泉守は木刀を持ちなおした。燃えあがるような夏の西陽のなかでも彼のまなこは涼やかな浅葱色をしている。陸奥守ははじめのころ、この目がはっきりと苦手だった。
 刀の本分は、斬ることであり、その本分を見込まれて生きている、いや生かされているこの生は、やはり斬ることを意味にするよりほかないのではないか。それ以上の価値を、彼女が自分に求めているとしても。求められているとしても。そんなことを、遡行軍のなんでもないつまらない銃弾に撃ち抜かれてからずっと、ずっと、ずっと、考えている。考える時間が有り余っているということは退屈なことだ。同じ場所を何度も往復しているに過ぎないのだから。

「わしは“もの”じゃないぜよ」

 木刀を手のひらになじませながら、和泉守の問いの一撃をかわすように、陸奥守はぽつりとうそぶいた。人でもなく、刀でもなく、はぐらかしておくのがきっと正しい。と、そのとき、和泉守の研ぎ澄まされた霊圧を感じ、陸奥守は素早く顔を上げた。触れればそれだけで肌に切り傷をつけられてしまいそうな、逆立った気配。思わず一歩、本能的なあとずさりをしてしまう。霊気ではない。これは殺気だ。

「構えろ。お前を久々にただの“もの”にしてやる」

 まるで真剣を突きつけられているかのような、鋭い緊張感がふたりきりの道場にみなぎっていく。自然と呼吸が揃い、うっすらとお互いそっくりな笑みを湛えて、ふたりは剣をまじえるための間合いをとった。
 奇妙に匿われ、生ぬるく生きながらえている今を、陸奥守は恨まない。おのれを戦場から遠ざけようとするを恨まない。だが願わくはいつかまた、この空洞をじゅうぶんな時間が通り過ぎたとき、彼女の守り刀として血と火薬の匂いにまみれてみたいと思う。彼女のためではなく、おのれのため。なにものだろうと、別にいい。刀を振るうことのできないあるじを、今度こそこの手ですくいたいのだ。









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2017.8