五、その日

※ 若干の性描写あり




 鶴丸国永を部隊長に据えた第一部隊が延享年間に出陣して三日が経った。
 戦いに明け暮れ長らく季節の移ろいというものを感じられない生活をしていたが、七夕の節句が近いようで、本丸の軒先にはみごとな笹飾りが風に吹かれて揺れていた。何もすることがなく、酒を呑みながらぼうっと揺れる笹の葉を眺めていた和泉守に「あの笹、陸奥守さんがこないだ遠征先から持ち帰ってきたんだよ」と教えたのは堀川国広であった。かつて同じあるじに仕え、奇妙な巡り合わせでまた同じあるじのもとに宿った馴染みの脇差である。顕現してまだそれほど経っていないはずだが、戦いに出ていることの多い和泉守よりもよほど本丸の事情に詳しいようだった。

「陸奥守さんはおもしろいひとだね。必要な資源だけじゃなくて、いつも、本丸を明るくするようなものを一緒に運んできてくれる。ぼくたちにも、あるじさんにも。明日のお土産はなんだろうな」

 堀川はよかれと思って話しているのだろうが、和泉守にとってはあまり知りたいことではなかった。数ヵ月前にはともに死線をくぐっていた男が、今は本丸にせっせと七夕の笹なぞを運ぶような仕事をしているというのだ。そんなありさま、和泉守からすれば、平和ぼけもはなはだしい。
 和泉守は嘲るように軽く息を吐くと、陶製の徳利をひっつかんでぞんざいに酒を注いだ。ここ数日の彼の晩酌はだらだらと途切れのない自堕落なもので、あまり利口な呑み方をしているとは言えない。呑まれているふうではないにしても、むしろこれだけ呑んでいても酔いがうまく回っていないということが堀川から見てじつに不健康だった。別段、そこまで強いわけでもないだろうに。

「もう。兼さん、非番だからって呑みすぎは禁物だよ。今日はそれでおしまいだからね」

 へえへえ、と気のない返事をして和泉守は喉仏を晒し、最後の一杯をひと呑みで空にした。すぐさまかいがいしく徳利とさかずきを片づけはじめた堀川を尻目に、和泉守はあぐらを崩して縁側の下の草履に足を下ろす。行き先はただひとつ。堀川の世間話はほとんど右から左であったが、陸奥守の帰還があすに迫っているということだけは、今宵の彼にとって有益な情報だったのだ。

「兼さん、どうしたの。どこへ行くの」
「あるじのところだ」
「こんな夜更けに? ご迷惑じゃない?」
「今日中に伝えておきたいことがある。お前は先に休め」

 立ち上がってもやはり、すこしも酩酊したところはなく、和泉守は闇に沈んだ夏の庭を突っ切るように足早に歩いた。回り廊下を渡っていくよりもよほどこちらのほうが近道なのだ。庭の緑も月影にふちどられた輪郭しか見えず、足もともおぼろげにしか辿れないような夜のただなかを、彼は慣れた足どりでためらいなく進んでいく。あるじの居住区は西の丸の最奥である。最後に訪れたのは五日前のこと。あの日、和泉守はひどい癇癪を起こし、彼女の手をこっぴどく振り払った。
 あれからふたりは会話はおろか目が合うことすらない。だからといって別にめずらしいことでもないが、薬研はなんらかの異変に勘づきはじめているし、あの男ならなおさらだろう。分かりきっていることをいちいち諭される前に、今夜、自分の手で片をつけなくてはならない。



 彼女の部屋の前にしばし足を止め、意を決してドアをノックしたが、いつもひと呼吸のうちに聞こえてくる「どうぞ」の一声が今夜は待てども響かない。もう一度、ドアを叩く。やはり返事はない。ドアノブに手をかけると、物騒なことに鍵はかかっていないようだった。和泉守はすこし迷ったが、けっきょくは明かりの洩れる執務室のなかへ許しを得ないまま踏みこんでしまった。

「……なんだもう寝てんのか」

 執務室のソファの上に横たわって仮眠をとっているおのれのあるじの姿を見て、和泉守は内心ほっとしたような、緊張がほどけていくような心地がした。レース編みの夏らしい羽織りにくるまって、彼女は穏やかな寝息を立てている。彼女はあまりくだけた態度をとらないあるじであったから、その寝顔を垣間見たことなどもちろん和泉守にとって初めてのことだった。照明の明かりを遮って、しばらくものめずらしい彼女の無防備を覗きこむ。安らかなように見えて、眉間にはかすかに皺が寄っており、どこか寝苦しそうでもあった。疲れているのか、いやな夢でも見ているのか。この小さな生きものは、どれだけの荷を背負ってこのかりそめの砦を守っているのだろう。

「おい、起きろ。こんなところで寝ちまったらからだに障る」

 身を屈めて静かに声をかける。反応がないので肩を揺すろうとした和泉守の右手は、彼女の腕に拒まれてしまった。つかまれたのは手のひらなのに、なぜか左胸が抉られるように痛い。下ろしたまぶたにちからをこめて、彼女は胸をひらくように寝返りを打つ。ずれた羽織りの下からのぞいた真っ白な鎖骨。薄い肌着が寝乱れてくずれ、そのとき、和泉守は見てはならないものを見た。

「……陸奥、もう帰ったんですか……」

 いかにも親しげな呼び名がむなしく不在を名指す。目をこすりながら、ようやくまぶたを持ち上げ、とろりと眠気を溶かしていた瞳が冴え冴えとした厄災を湛えるまでの数秒間。突き放すようにほどかれた手で、和泉守はなぜか彼女の腕を押さえつけていた。彼女の拒絶も、彼の征服も、それはほとんど衝動的な行為で、互いに悪手と言わざるをえない身勝手なふるまいであった。

「いずみ、」

 声を詰まらせながら、彼女は落ちかけていた羽織りを引き上げた。つかんだ二の腕にどくどくと鼓動が走っている。これは自分のものなのか、それとも彼女のものなのか。

「すみ、すみません。こんな格好で。暑さに負けてしまって……」

 しどろもどろになってまで彼女がまっさきに謝るべきところはそこではないと思った。それに、謝らなくてはならないのは、この場にあのときのことを詫びにきたのは、そもそも和泉守のほうだったのだ。今すぐ腕の拘束を解いて、肩を剥きだしにしたあるじから顔をそむけ、なんにもなかったというふうを装わなくては。そう思いながら、彼はソファの背面から身を乗りだし、もう片方の彼女の腕もまた無慈悲につかんでいた。頭と四肢がばらばらに熱を帯びていく。それは戦闘とはまったく異なるたぐいの昂ぶりだった。

「……和泉守、どうしたの。酔っているんですか」

 充血した双眸の狂おしさのせいか、きつく漂う酒の匂いか、はたまたこの狼藉にていのいい理由が欲しいのか。そんなことを尋ねながら、この期に及んで疑問符をそっくりかたどったような声がうらめしい。そう、感じている自分がいる。ほとんど痛めつけるように重たく覆いかぶさり、彼女の脚のあいだを脚で割ったとき、ようやく彼女はことの甚だしさを飲みこんでにわかに半身をうごめかせた。だが、それも詮無いことだ。

「あいつじゃなくて悪かったな」

 唸るように唇からこぼれたその言葉は、思いがけず彼の抱えている苛立ちのかたちそのものだった。胸が空くと同時に激しく痛むのは動悸のせいだ。酔っているのか、と問われ、ようやく心身に酒気がなだれこんできたような気がする。ああ、ていのいい理由が欲しいのは、お互い様だな。しだれる長い長い黒髪の紗のなかで、和泉守は彼女のきつく睨みをきかせているような強気な貌を見下ろした。無礼講などでは済まされない一線が、いま、目前にちらついている。越すも越さぬも、おのれ次第。

「和泉守、離しなさい」

 あの日呼んだその名前を、今度はまったく違う声色で発する。。その声はいつの間にか漂っていた互いの霊気と絡みあい、彼女は背中をびくりと浮かせたが、その名を口にした和泉守自身も言いようのないこころよさを覚えた。いとおしいという気持ちと、憐れだという気持ちが同じ泉から湧きあがってくる。喩えていうなれば、いま、彼女は贄のようであった。神に差しだされる人間の、選ばれし、極限の神々しさと哀しさが瞳に宿っていた。

「はあ……なるほど、こういうときに役に立つんだな、人間の名前は。どうりであいつが知ってるわけだ」

 言い終わるか終わらないかのうちにの張り手が和泉守の頬を叩いた。二の腕を上から締めつけられているために、手のひらにはまったくちからが入っていない。ぬるい。刀などとうてい振るえないだろう細い腕。ひとなど殺したことはおろか、傷つけたことすらないだろうか弱い腕。はなからふたりは分かり合えぬ。それを悟ったとき、和泉守は人間のさがというものをひとつ理解できたような気がした。そして、そこに身を投じてみたいとも思った。肉の隔たり、不可知の心。それらを持て余した人間どうしの営みをなぞってみたい。
 女のつたない張り手をくらった世にも情けない神の座など、要るものか。

「和泉守、いず、」

 が何かを訴えかけるように彼の名前を呼ぶたび、彼もまた、訴えをはねつけるように彼女の名前を呼びかえす。ひとくちに名前といっても、重みの違いは歴然としていた。俺にはほんとうのところ名前などないのかもしれない、とさえ彼は思った。うつろに響く記号では、ひとまねの行為は止められない。それなのにどうだ。彼女の薄いところを撫でながら「」とつむぐだけで、そっぽを向こうと躍起になっている彼女の細胞ひとつひとつが、なかば強制されるかたちでこちらを向くのだ。彼女の名前は彼女そのものだった。彼は何度も、何度も、彼女の肌にその名前を塗りたくった。こわばっていた肉がしだいにほぐれていくまで、しつこく、こいねがうように。
 ソファの上ではどうにもうまい具合に動けないということがわかり、和泉守は初めて、つねに閉ざされていた襖の向こうの部屋へ辿りついた。本で埋もれた執務室とは違い、彼女の寝室は寝台のほかには小さな文机と箪笥がひとつずつあるだけの簡素な部屋だった。畳の上に羽織りも、肌着も何もかも落とし、執務室から延びる薄明かりだけを頼りに彼女の奥の奥をこじあける。はひどい頭痛にでも耐えるようにきつく目を閉じたり、ぼんやり開けたり、唇を噛みしめたり、震わせたりして、全身を襲う刺激になんとか耐えているようだった。

「っあなた、何をしているのか、わかっているんですか」

 呼気まじりのたどたどしい言葉を拾いつ、の上体を抱き起こす。衣服をすべてとりはらった彼女は大男の彼からしてみればまるで少女のように小さく、脆く、生白かった。無造作に流れる互いの黒髪がとても邪魔だ。和泉守はの髪をひっつかんで顔を上向かせた。それでも逃げようとする焦げ茶色の瞳に、むりやり注ぐようにささやきかける。

「……ああ、わかる、手に取るようにな」

 自分がしていることの手管も、この行為がふたりにとって取り返しのつかない意味を帯びるということも。腕も脚も喋る口もなかったころの記憶というのはまったくはなはだ役に立つ。思えばあのころはあるじのことであればなんでも知っていた。腕も脚も喋る口もなかったがもどかしいことはひとつもなかった。今は違う。今は、おのれのあるじのことなど何も知らない。もどかしいことばかりが募る。これが自由の代償なのだろうか。

 耳たぶに声を寄せる。があだっぽく息を吐いて首を横に振る。それは否定ではなく肯定だった。小刻みに震える細い腰が最後の圧をかけ、跳ねるように上擦る。ほら、言葉の記号など、こんなにもあてにならない。

「俺はなにものだ」

 ひとまね。冒涜。殺し合い。自分という未知の容れもの。その問いかけが聞こえたのか、聞こえなかったのか、の指がほんの一瞬、和泉守の顎の線を掠めた。頬を撫でたかったのかもしれないが腕はすぐにうらぶれて、はそのままいっさい脱力した。
 大量にあふれたふたりの粘液がシーツに染みをつくっている。その薄汚さに寒気を覚えながら、ようやく和泉守は、執拗に抱きつぶしていた彼女のからだから身を離した。



 おそらく体力などみじんも残っていなかっただろうに、ことが終わって先に寝台から這い降りたのはのほうだった。彼女は畳に落ちていた羽織りをまとうと、箪笥のいちばん上の小棚から薬瓶をとりだし、白い錠剤をひとつぶ飲みこんだ。なんの薬か知れないがだいたいの見当はつく。それから彼女はグラス二杯の水を用意して、寝台脇のランプ台にそのひとつを置いた。なんとか起き上がってひとくちの潤いを乾ききった喉に与える。今日中に彼女に伝えておきたかったことはついに伝えられず、もつれあっているうちに日づけはとうに変わっていた。

「折ってくれ」

 まるで病にでも侵されているかのような掠れたひどい声であった。はランプの明かりを灯し、コップを手にしたまま寝台の端に腰をかけた。ひどく乱れた髪が彼女の横顔をほとんど隠してしまっている。

「あなたを責めてはいません」

 彼女の声も同じように掠れていて、朝ぼらけのようにはかない。それでも「責めていない」というきっぱりとした宣言はそのときだけ和泉守を救った。ほんのひととき、その先に続くまるで見当違いのなぐさめを聞くまでは。

「先日わたしに尋ねましたね。なぜ陸奥守を第一部隊からはずしたのかと……ずっと、気にしていたんでしょう。彼の怪我のこと、部隊長の責任だと」
「……は、」
「わたしはあのとき、あなたを部隊長に任命したこと、まったく後悔していません。あなたには隊をまとめる才があります。あなたの代わりなど誰もできません。だからどうか自暴自棄にならないで、これからも歴史を守るため、一生懸命働いてください」

 耳に髪をかけ、はほのかな慈愛を口もとに浮かべながら和泉守を見据えた。仮面のようなとりつくろった表情で働きを讃えられたところで一体何を喜べよう。自分があるじのことを分からぬように、あるじもまた、こちらのことなど知った気になってまるで見えていない。腕を伸ばし、和泉守はの羽織りの襟口につかみかかった。水の入ったコップが彼女の手からすべり落ちる。ふたりの体勢は、果たして元の木阿弥となった。

「……俺の機嫌でもとっているつもりか」
「和泉守……お願いです、落ち着いて」
「いいから今すぐ折ってくれ。嫉妬で気がくるいそうだ」

 叫びかけた和泉守を宥めるようにはうなだれた彼の頭を撫でた。穏やかな手のひらが首の裏から、長い髪をするりと梳いて、耳、最後に頬に触れる。「俺はなにものだ」。そうつぶやいたあの一瞬が彼の胸によぎった。

「愛刀を折るあるじがどこにいますか。あなたはわたしのもの。けっして死なせませんよ」

 何も分かってなどいないくせに、すべてを分かっているような大それた束縛をする。その日、和泉守はあるじから罰のような許しを受けた。ひととして及んだ行為を、刀として不問に付されたのだ。それもただの刀ではない。彼女にとって無二の、かけがえのない刀として。









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2017.8