今はとて天のはごろもきるをりぞ君をあはれと思ひいでぬる - 『竹取物語』




 の青いまなこがもくもくと一心に教科書を追っているさまを、米屋はとなりの席からひそやかに盗み見た。ほんの一秒のすきに、掠めとった横顔のみずみずしさが、胸に染みいるときには心拍をおびやかす脅威に変わる。癖になってしまうような、淡くぴりつく痺れと少しのスリル。それはまだ、彼が恋というものを、どこにでもある身近な、地続きの、ありふれた心の変調であると軽んじているあかしでもあった。
 集中力を失っていることはシャープペンシルを握る手もとにはすぐあらわれて、米屋は突然、脳天から頭を鷲掴みにされた。彼のよそ見を矯正するように、男性教師の鈍くてざっぱくな腕力が、胸に走った繊細な痺れをたやすく蹴散らしてしまう。じかにからだを伝う居心地のわるさ。常日頃かりそめの戦闘体を痛めつけられることに慣れてしまって、今となってはむしろ生身に響く衝撃のほうに違和感を覚えてしまうぐらいだ。もしかするとこれは戦闘慣れというよりも、一種の平和ぼけではないだろうか。そんなことを最近、考える。
 顔を上げると、ななめ後ろの席に座っていた悪友の出水と目が合う。同じように仮想戦闘に明け暮れている同士であるはずが、本分の勉学に関して出水は米屋よりだいぶ要領がいい。はかったようなタイミングで、彼は口の動きだけで「ばーか」と米屋を煽った。

「手も頭もお留守になってんぞー、米屋」
「……やってますってちゃんと」
「だったら間違えるんじゃない。動詞の『なり』と助動詞の『なり』の見分け方はなんだっけ?」
「動詞のがだいたい前にある的な」

 口酸っぱく教えこんだわりにずいぶんとお粗末でとんちんかんな返答がかえってきて、担任でもある国語教師はあからさまに悲観的なため息を吐いた。言われるがまま机にひろげていた文法の識別ドリルは、授業を少しも聞いてこなかったせいでどこからどう手をつけたらいいかも分からないありさまだった。期末テストの数日前にこの惨状は目もあてられないが、米屋は今回もどこか余裕を持て余している。そもそも、定期テストの点数で認められたいことなど彼にはひとつもなかったのだ。

「先生、助動詞の『なり』にもふたつあります、よね?」

 米屋の肩が人知れずこわばる。緊張のせいではなく、一種の高揚感をみなぎらせて。左半身のすぐとなりで、彼女のかたちのいい爪が、白い指が、ここ、と教科書の一行をさしている。そういう細かなことにいちいち注意がいくのだから、恋の盲目とはなんと難儀なものだろう。

「その通り、いい質問だ。その場合も、接続の活用形が見分けるヒントになる」
「いや扱い違くねえ?」
「よしよし。米屋は基本がまるでなってない。まず品詞分解をしてごらん、ここからここまで」

 一問もまともに埋められなかったドリルをとりあげられ、かわりに米屋にはテスト範囲となるテキストのプリントが押しつけられた。これ以上つっかかっても仕方がないので、へーへー、と適当にかわして新たな課題を引き受ける。はそんな彼のとなりで好意的な笑みをこぼした。授業中であることをわきまえた、控えめなこっそりとした笑みであったけれど、米屋はそれを見逃せなかった。

『今は昔、竹取の翁といふものありけり。野山にまじりて、竹をとりつつ、よろずのことにつかひけり。名をば讃岐のみやつことなんいひける。その竹の中に、もとひかる竹なんひとすじありけり。あやしがりて寄りて見るに、筒の中ひかりたり。それを見れば、三寸ばかりなる人いと美しうて居たり。……』

 今、は、昔、竹取の翁、と、いふ、もの、あり、けり……。合っているかは定かではないが、ざくざくと、品詞ごとに区切れを入れながら、『竹取物語』の冒頭の一節に目を落とす。物心ついたころからよく知っているおとぎ話も、こうして勉強科目として対面すると途端によそよそしいものに変わるのだから嫌になる。もう誰もつかっていない言葉を読めるようになることに一体なんの意味があろうかと考えたところで、それこそ意味のない無駄なことだ。そんなことに頭を回して心を砕くぐらいならば、この時間を有効につかいたい。この時間。覚える気のない文法を叩きこむ時間ではなく、ととなりどうし、肩を並べていられる時間を。

「……かぐや姫って要はネイバーだよなあ、超美人の」

 不真面目で不用意で、おまけに不謹慎な発言でもあったが、巡回している担任教師はちょうど廊下側の席を回っている最中で、ぽつりと独り言のように落ちたその言葉を耳にしたのはとなりに座るだけだったようだ。助動詞の暗記にせいをだしていたの、無言でぶつぶつと活用形を唱えていたくちびるがふいに止まる。ネイバー? かわりに、彼女は米屋の発言にほんのり興味を引かれたようすで、青く澄んだ目をまたたかせた。

「じゃあ、竹やぶのなかにゲートがひらいちゃったのかな」
「向こうの女スパイみたいなもんか? やべーな。逃げろ竹取りじじい」

 今度こそ隠すことなく、がくすくすと笑う。意外なほど気さくにはなしを合わせてくれることがうれしくて、米屋はしばらく調子に乗って「かぐや姫ネイバー説」を面白おかしく彼女に吹きこんだ。ちょうど、クラスメイトたちも課題のドリルがひと段落したころで、ちらほらと周りでは声を落とした雑談がはじまっていた。
 もし美人の人型ネイバーが目の前に現れたら。もし現れたら、自分はやはり、ためらいなく彼女を殺すのだろうか。米屋はもうすっかり筆記具も投げだして、頬杖をついてのことを見つめていた。染めたのではないきれいな髪、肌、目の色。それらすべて、彼女が異邦人であることを告げている。ひとの出入りが乏しい閉じたこの街ではめずらしい。そしてめずらしいものは、米屋の好物だった。

ってやっぱ、古文とか漢文とかしんどい?」
「え……うーん、まあ。でもせっかくなら、ちゃんと覚えたいなって」
「まじめだな、そういうとこ」

 感心半分、下心半分、ほんのひとさじの不敵な揶揄をふりかけて米屋は「まじめだ」と彼女のことを評した。そういう、透度の高いひたむきさが、彼のような人間の興味を引いてしまうし、裏を返せばよるべなく、近寄りがたくもある。は首をかしげて、それから、おもむろに視線を窓の外に向けた。よく晴れた午後、高台にあるこの高校からは三門の街が一望できる。
 街をまっぷたつに割る川が流れ、街の北西にはのどかな山なみがひろがり、川と山のあいだには背の低い家屋の群れがどこまでも続き、そのすべてを従えるように、大きな、異様なほど大きな建屋がそびえている。
 界境防衛機関ボーダー。米屋も戦闘員として浅からぬ縁を持っているその組織の本部に、の目は注がれているようだった。

「ふつうだよ。……ただ、昔のひとの言葉を忘れちゃうのは、廃れた街が少しずつ壊れていくみたいで、さみしいから」

 よーし答え合わせするぞー、という大きな声とともに担任教師が手を叩いたので、ふたりの会話はそこで途切れた。が、またね、とでも言うような目くばせをしてから、黙して視線を黒板にうつす。
 ――昔のひとの言葉を忘れちゃうのは、廃れた街が少しずつ壊れていくみたいで、さみしいから。
 の言葉をすぐには飲みこめなくて、米屋はそのとき生まれて初めて、自分の無学を恥じた。
 とはいっても結局、彼の期末テストの結果は惨憺たるものであったけれども。



 米屋がと出会ったのは、まだたった数ヵ月前のことだ。クラス替えをしたばかりのよそよそしい教室で、「去年の春、三門に戻ってきました」と彼女は自分のことをまっすぐ紹介した。は、独特の抑揚をつけた、鉄琴のような涼やかな声の持ち主だった。
 米屋は持ち前の気安さで、仲間うちにさりげなく引きこみつつ好奇心をもってに話しかけたけれど、彼女のことは分かるようで分からなかった。話せども彼女はどこかつかみどころがなくて、誰にでも分け隔てなく明るく接するわりに、あまり自分から自分のことを話そうとしないふしがあった。このめずらしい容姿だ、きっと、前のクラスでも寄ってたかって色々聞かれてうんざりしているのだろう。そう思い至ってからは、誰のふところにもするりと入ってゆける性格の米屋も、彼女に踏みこむことがこわくなった。
 いい感じに煮詰まってきてんな、と出水には近ごろ冷やかされてばかりだ。
 そりゃ、できることなら、彼女を手に入れてみたい。誰にもとられたくない。だけどそれ以上に、今は、彼女に幻滅されたくないと思う。まわりのほかの男と同じだと、切り捨てられたくはないと思う。
 のらりくらりとした気持ちで彼女を追いかけて、物足りない恋の楽しさを飼い慣らし、気づけば夏休みはもうすぐそこだった。



 期末テストが済んで、夏休み前最後の学校行事は、毎年恒例のクラス対抗の球技大会だった。
 B級以上のボーダー隊員であれば参加義務はとくにない行事だったので、体育ぎらいの出水は当然のように欠席していたが、米屋はそうもいかなかった。二年B組の男子チームはどの球技もほとんど米屋の双肩にかかっていたのだ。
 出ずっぱりだった午前中の試合をすべて終え、水をかぶってびしょ濡れの髪を拭きながら校舎裏手の自販機置き場のほうへひとり歩いていくと、スロープの下のベンチにがぽつねんと座っていた。まだ女子のほうの試合は残っているのか、ここで友人と待ち合わせをしているのかもしれない。米屋が自販機に近づくと、ははっと顔を上げた。暑さのせいか彼女は少しぼんやりとした表情だった。

「よ、お疲れさん。やっぱバスケとサッカーの二連チャンはきちーわ」

 へらりと笑って話しかける。それから、ポケットのなかの小銭を自販機に入れた。スポーツ飲料の500ミリリットルのペットボトルを選んでボタンを押す。そのとき、背後に気配を感じたのでふと振り返ると、がとんでもなく近くに立って自分を見上げていて心臓が跳ね上がった。思わず腰が引け、自販機に肩をぶつけてしまうほどに。

「おわ、どした?」

 背伸びしたに顔をのぞきこまれ、米屋はさすがに動揺が隠せなかった。水飲み場でせっかく汗を流し、クールダウンしてきたのに、またからだじゅうが熱を帯びてゆく。耳の裏から鼓動が聞こえる。血のめぐる音。見つめてくる青い眼が、今ばかりはひとの心を食う魔物のそれのようだった。

「……米屋くんだ」
「……えーと」
「ごめん。さっきの試合でコンタクト落としちゃったから、確信がもてなかった」

 と軽く言って、は一歩下がって頬をかいた。そういうことか、と合点がいったと同時に、ぶわりと背中には汗がにじむ。不可抗力にせよあんな距離で数秒、誰にも邪魔されずと見つめあったという事実のせいで。
 米屋はようやく自販機の受け取り口からペットボトルをとりだして、一気に半分ほどスポーツ飲料を喉に流しこんだ。冷たさが喉にも腹にも、頭にも染みる。そのあいだもは米屋の顔とか、セットの崩れた髪とか、上向いた動く喉とか、ぎこちないようすそのものを興味深そうに眺めていた。

「米屋くん、髪の毛おろしてると別人みたい。おかしい」

 ぼやけた視界のせいで、いつもよりぐっと近しい距離で、が屈託なく笑いかけてくれる。それは喜ばしいことだったけれど、付き合いの長い女友達からは「髪おろして黙ってればそこそこかっこいいのに」とからかわれ慣れていたので、「おかしい」と言われるのは腑に落ちない。腑に落ちないというか、へこむ。こんなときに限って、カチューシャは水飲み場で別れた友人に託してきてしまった。米屋はうらめしいような気持ちで、水に濡れた髪をがしがしとかいて、はりのない前髪をなんとかかきあげた。

「あー……そういや、は来週の三門まつりとか行く? 河合たちがはしゃいでっけど」

 偶然の二人きり、目下気になっている子をデートに誘うのにこんな絶好のチャンスはもうないだろうに、流れるようにクラスメイトの名前を差しだしてしまって、そんな自分を今すぐタコ殴りにしたい気分だった。だけど現実はさらに非情だ。さっきまであんなに楽しそうにしていたのに、はその米屋の問いかけに対してしゅんと肩をすくめてしまった。

「ううん、行けない。夏休みはおばあちゃんの家でずっと過ごすから……」

 昼休みを告げるチャイムの音が校舎のなかから聞こえてくる。自販機が数台並ぶ、この壁の向こうには生徒たちがきっと溢れているのに、ここにいる二人はまるで漂流者のように切り離されたどこかで息をしているような気がした。助け舟は、どこからも訪れない。米屋はうるおしたばかりのくちびるをいちど結んで、落胆の気持ちを喉の奥に押しこめるようつとめた。

「……そか。ばーちゃんどこ住んでんの?」
「たぶん言っても知らないところだと思う。うーんと遠くの国の、小さな街だよ」

 ほらまた、はぐらかす。これ以上先には入らせてもらえない。目には見えなくてもそういう、立ち入り禁止区域をかこむ鉄線のような境があって、彼女は誰と親しくはなしをしていてもたったひとりその向こうに佇んでいる。ほんの少しでもいい、オレを呼んでくれれば、手を招いてくれれば、こんな鉄線など引きちぎってでもそこまで飛んでゆくのに――。いつだって、彼女は依りかからず、しゃんと背筋を伸ばして立っている。そこから伸びゆくのはただ、月光のような青いまなざしだけで。

「帰ってくる、よな?」

 ペットボトルのキャップを閉じて、だらりと腕をおろす。考えもなく、どこからともなく、そんな不安が米屋の口を突いていた。ぽかんとかすかにくちびるをひらいていたの表情を見下ろして、すぐ、それがだいぶ独りよがりな問いかけであったことに気づかされる。遠くの国、とあっさり告げられて、なんとも身勝手に弱気になったものだ。真夏のたった四十日、と会えないと突きつけられただけで、まるで永遠に別れ別れになってしまうようなさみしさと退屈に襲われた。地続きだと思っていた想いが、いつの間にかもう、あっけなく離陸しそうになっている。

「いや、なに言ってんだオレ。わりい、忘れて」
「米屋くんはずっと三門にいるの?」

 とりつくろおうとして発した言葉はの声にさえぎられた。ガラスのように透き通った、そのくせ奥にあるものを覗かせない瞳が、不思議そうに米屋を見上げている。一体自分は何を尋ねられているのだろう。ずっと? この夏のこと、それとも今までのこと、あるいはこれからのこと。彼女の問いの射程はそのすべてのようでもあったし、そのすべてを覆すもののようでもあった。皮膚のおもてにだらりと大粒の汗が流れてゆく。コンクリートの地面からせりあがってくる熱は痛いくらいだ。
 結局わけも分からないまま、ああ、と応えてしまった。きっとオレはずっとここにいる。物心ついたころから、この夏の終わりまで、そして季節が変わったとしても、漠然と。するとは大きく目をみひらいて、それから、とびきり美しくまつげをしばたたかせて笑った。

「すごいね、ボーダーのお仕事がんばって」

 水中から太陽を見上げているように、きっと滲んだ彼女の視野のなかで、自分は一体どんな顔をしてその言葉を受け止めただろうか。
 二人だけの校舎裏で、があまりに美しく笑んだせいで、彼女の居ない、長くて暑い三門の夏を、米屋はそんな答えのない思いに囚われて過ごすはめになった。









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2018.6