きしきしとうめくソファに折り重なりながら、「ずっとあなたとこうしたかった」という一言を耳にささやかれたとき、私はようやく彼というひとの本性に触れた気がした。真夜中の静けさを切り裂く水音よりも、ずっとおどろおどろしく、今にも擦りきれそうな彼の声が私に浸みていく。ぼんやり見上げた薄暗い天井、切れかけの蛍光灯の不快な点滅が、からだじゅうに溢れかえるあらゆる感覚を逆撫でるようだった。まばたくたびに光の粒が落ちる、二人のぼりつめたこの一点から、私は彼と出会った日のことを見下ろしている。くだらない感傷がまるで運命のように感じられる。あの日、彼とさいしょの視線がまじわりあったあのとき、もしかしたら私は彼の瞳の奥で、今日の日の私と目を合わせていたのかもしれない、と。
 ――長いまどろみから引き揚げられて、ようやくはっきりと、私は私を生きようとしている。


1




 ひび割れた町の傷口を癒やすように、午後から降ってきた綿雪がうっすらと積もりはじめた。温暖な気候に恵まれたこの町で、まともに雪が積もるのはめずらしい。朝の天気予報では「五年ぶりの積雪」に警戒が必要だと言っていた。ゆるやかに死に向かっている灰色の風景が、踏みしだかれることのないまっしろな雪に覆われていく。徐行運転する弓手町線の車窓から、私は、線路の向こうを眺めやった。有刺鉄線に囲まれた廃墟と瓦礫の山、無人の舗装路。壊死したこの町並みが、舞い散る雪よりもずっと見慣れた、私の日常そのものだった。
 鈴鳴駅の東口を出て、来馬くんにもらった手描きの地図をたよりに、まだ正月気分の抜けない駅前の商店街を歩いていく。アーケードを過ぎて数分、町ビルのはざまにボーダー鈴鳴支部はひっそりと佇んでいた。見た目は比較的新しく、中に入ればすっかり小ぎれいで、むしろ調度も何もなさすぎる。だけど、怯みはしなかった。「できたて」の支部であるということは、事前に聞いていた。というよりも、だからこそ私のような人間がここに呼ばれたのだ。

「ごめんくださー……い」

 なんどノックしても応答のない二階の事務所のドアを、おそるおそるひらいてみる。なかには短い廊下があり、目の前にはおそらく事務室につながるドアと、突き当たりにもドアがひとつ、もう一方の突き当たりにはさらに階段が続いていた。誰の返事もないのにこれ以上足を踏み入れてもいいものか躊躇していると、奥からどたどたと荒々しい足音が近づいてくるのが聞こえて、私はとっさに階段に視線を注いだ。誰かが来る。にわかに心臓が騒いだ。
 はたして事務所の廊下に降りてきたのは私の見知らぬ男の子だった。本部にすら長いこと顔を出していないのだから、新設の支部に馴染みの顔などなくて当然だ。べつに驚きもしない。ただ、私はそのとき、息を呑んでかたまった。彼が上半身裸で、肩にかけたバスタオルで髪をかきながら階段を降りてきたものだから。
 目と目が合うまで、彼は私の存在に気づいてもいないようだった。油断した、どこかアンニュイな雰囲気のある切れ長の一重まぶたが、ようやく私を見とめ、私とまったく同じにぴたりとかたまる。私たちは数秒、間抜けなほど大きく目をみひらいてお互い見つめあっていた。

「お、お邪魔してます……あの、わたし」

 なんとか先に声をかけたけれど、名乗ることはできなかった。ドアノブにかけたままだった手を動かした途端、彼は目覚めるように踵を返し、何も言わずに階段を駆け上っていってしまったのだ。待って、と引き止める間もないぐらいに素早く。ひとり残され、とっさに湧いてこなかった恥ずかしさや緊張、ほんの少しの怖ろしさが今になって胸をむしばむ。鼓動を諫めているうち、今度は、階下から慌ただしい足音が聞こえてきた。振り返り、ようやく安堵する。だいぶ焦ったようすの来馬くんが、重たそうなかばんと手さげの紙袋を抱え、階段を駆け上がってきたのだ。

さん! ごめん、ゼミが少し長引いちゃって……」
「来馬くん。よかった、会えて」
「寒いのにホントにごめんね。どうぞ入って、すぐにお茶淹れるよ。美味しい大福、買ってきたんだ」

 来馬くんはてきぱきと部屋の明かりと暖房をつけ、私を事務室の奥にある応接スペースへ案内してくれた。スチール製の本棚、四人掛けの皮張りのソファのセット、ローテーブルの上にはボーダーの資料らしきものが入った段ボールが置いてある。整理もなにもまだ行き届いていない。コートを腕にかけたまま、私はしばらく、雑然とした部屋のなかを見まわしていた。

「来馬先輩、オレが用意します」

 本棚に並んだファイルの背表紙をなにげなく眺めていたとき、来馬くんが居るはずの給湯室のほうから彼の名を呼ぶ声が聞こえてきた。顔を上げると、いつのまにか、ついさっき出くわした男の子が何食わぬ顔で階下に戻ってきていた。今度はちゃんとトレーナーを身につけている。それでも、髪の毛はまだ濡れているだろうか。

「あれっ鋼、来てたんだ。いや、こっちはいいよ。それよりほら、向こうでさんに挨拶してくるといい。前から言ってただろう、本部所属の……」

 私のことを話している。それが分かって、彼らの会話から意識を逸らすようにやっとソファに腰を下ろした。大人しく膝に手を置いて待っていると、ほどなくしてあの男の子がぬっと給湯室から顔を出し、私は彼とふたたび目を合わせた。年下なのだろうが、ませた目つきをしている。朴訥な眉のかたちも、トレーナーの剥げかけたロゴプリントも、彼の歳ごろの無防備さそのものという感じがするのに、なぜかその佇まいは私に大人びた印象を刻みつけた。

「……あの、さっきは失礼しました」

 小声でそう言って、彼は私に短く頭を下げた。いちど唇を閉じて、誠実な間をとり、また口をひらく。

「鈴鳴支部、アタッカーの村上鋼です」

 それが、二つ年下の鋼くんとの出会いだった。
 新しく設立された鈴鳴支部で、事務の仕事を手伝ってくれないか――去年の末、学科を越えた同学年のとある集まりの席で、私は来馬くんと出会い、そんな話を持ちかけられた。来馬くんは大学に入学してからボーダーに入隊し、支部に籍を置きながらB級ランク戦に挑戦しようとしている、何から何まで奇特なひとだった。僕以外の隊員がみんな優秀で、どうせなら上を目指してみたいと思ったんだ、と来馬くんは照れくさそうに、謙虚に、だけどどこか自慢げな調子で私に説明してくれた。そしてその「優秀な隊員」のひとりが、鋼くんだったというわけだ。
 その日は、手伝いを任せれた仕事について来馬くんから詳しい段取りを聞いたあと、来馬くんと鋼くんを含めたランク戦に参加する隊員のみんなと近くのファミリーレストランで食事をした。彼らはみな数ヵ月前に入隊したばかりで、全員が正隊員に上がったのもつい最近のことのようだった。こんなに短期間で昇格するなんて、謙虚な来馬くんが「優秀だ」と言うのもうなずける。私はすぐに彼らのことを気に入った。そしてささやかな憧れを抱いた。やる気に満ちていて、何より楽しそうに自分たちのことを話しだす、彼らの生き方に。

「村上くんは、県外出身だったんだね」

 二杯目のカフェラテに砂糖を入れて掻きまぜながら、となりの席の鋼くんに話しかける。頬張っていたフライドポテトを飲みこんでから、彼ははい、と頷いた。ちゃんと目を見て、はっきりと物を言う。彼は丁寧にひとと話す男の子だった。

「去年の夏に、地元でスカウトしてもらいました」
「どうして支部所属を希望したの?」
「希望は特に……どこでもいいと言ったので」
「どこでも」
「はい」

 こともなげにまた頷いてから、鋼くんは炭酸水をひとくち飲んだ。彼の喉仏が目の前でゆるりと上下すると、私の舌にも炭酸の淡い痺れがうつるようだった。投げやりなところのない「どこでもいい」は、きっと彼の大らかさのあかしだ。

「もしかして、村上くんってあの事務所に住み込みしてるの?」

 気になっていたことを訊くと、彼は目をまるくして、少し動揺したそぶりを見せた。どうやらさっきの締まらない出会いのことを蒸し返してしまったらしい。

「あ……いえ、あの、借りてるアパートは別にあるんですけど……今はランク戦の準備が立て込んでて、防衛任務がある日は、三階の仮眠室でときどき寝泊まりしてるので……」

 なぜか自信なさげに鋼くんの声が小さくなってゆき、そのかわり、向かいの席に座っていた別役くんの大きな笑い声が耳にかぶさってくる。いつのまにか、テーブルの一角で、私と鋼くんは二人きりで話しているような切り離された会話のなかに居た。

「そっか、そうだったんだね」
「すみません。もうあんなこと、ないですから」
「え、いいんだよ。気をつかわないで」
さんにも気持ちよく事務所をつかってもらいたいんです。これから、よろしくお願いします」

 鋼くんはうっすらと笑んで、律儀に頭を下げた。高校生らしからぬ細やかな気遣いが行き渡った態度だ。こんなふうに頼まれたって、これから、私は一体彼に対して何ができるのだろうと申し訳なくなってしまうほどに。
 高校二年生の春、クラス替えで出会った友人に誘われ、私はボーダーの入隊テストを受けた。部活動に参加するような軽い気持ちで本部の訓練に通い、なんとか正隊員になることはできたけれど、B級ランク戦に挑戦したのは高校三年生の夏の一度きりだ。受験勉強に専念する前の、最初で最後の引退試合のような感覚だった。ほんとうはもっと、あの場所に私は居たかったのかもしれない。だけど、流されるまま行き着いた場所に、ひとりとどまっているちからも度胸も、私には足らなかった。代償に手に入れた志望大学での生活も、それなりに楽しいし、充実している。けれど、来馬くんの熱のこもった勧誘をけっして断れなかった、それもまた答えだ。どんな答えを導いてもどこか他人事で、私は私を生きていない。
 夜の九時ごろファミレスを出ると、雪は止んでいたが、歩道はすっかり厚みのある雪の絨毯に覆われていた。夜だというのにどことなく町が明るい。十字路で来馬くんたちと別れ、私と鋼くんは肩を並べて駅へと向かった。さっきまでとは質の違うほんとうの二人きりが、出会いたての男女をたちまち無口にさせてしまう。お互い会話を途切れさせながら東口に着くと、改札前には嫌な予感のする立て看板がでていた。走り書きの赤い文字がぱっと目に飛びこんでくる。

「あ……雪で電車止まってるみたい」

 看板から、改札奥の、時刻表示のない電光掲示板へと目を上げる。雪の降らない町に、めずらしく積もるほどの雪が降ったのだ。西口のほうに出て徒歩で帰るはずの鋼くんも臨時の立て看板を覗きこみ、それから、心配そうに眉を下げて私の顔をうかがった。まるで、自分のことのように。

「大丈夫ですか」
「うん。まだお店もひらいてるし、そのへんで時間つぶすよ」
「それならオレも待ちます」
「気にしないで、ほんとうに」
「でも終電まで動かなかったら、危ないですし。そしたら事務所の空き部屋つかってください。送ります」
「そんな……」

 思わず、言葉に詰まってしまった。高校生の男の子がさも当然のように「送ります」と言い切り、日づけを跨ぐまでまだ三時間近くあるというのに、なんのためらいもなく「終電まで」などと口にするものだから。虚を突かれた私の前で、鋼くんは急に顔色を変えた。しまった、と思ったときには遅い。お互いそんな気持ちで顔を見合わせていたのだと思う。

「……すみません、オレ」

 邪魔ですか。消え入りそうな彼の声が私の胸に染みてしかたなかった。あわてて首を横に振る。年下の男の子にこんなふうに萎れられたら、もう、つまらないためらいは溶けて消えていた。

「ううん、ありがとう。じゃあ、コーヒー一杯だけ付き合ってもらおうかな」

 それから電車が動くまでの一時間、私たちは駅前のコーヒーショップでたわいのない話をして過ごした。雪の夜道で無口になったように、たどたどしく会話をつなげて、だけど不思議と気まずさや居心地のわるさは感じなかった。あとになって思えば、あの日の私たちは少し浮かれていたのだ。この出会いと、これからの予感のようなものに。

「村上くんって、なんていうか、無欲な子だね」

 話題と話題のちょっとしたすきまに、今日一日の感慨をこめて、私はそんな一言をのんきにこぼした。彼は私の言葉の意味を汲まなかったのか、あまり反応を見せず、何も返すこともなく、ただ目を伏せてぬるいコーヒーをすするばかりだった。変なことを口走って、戸惑わせてしまったかもしれない。とりつくろつように私はすぐ、当たり障りのない天気の話をした。
 ――そういえば、三門に雪が積もるのは五年ぶりなんだって……。
 朝の情報番組の安い受け売りが、まだ何も知らない二人をかすかに優しくつないでいた。









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2018.10