※レイプに関わるトラウマ表現あり




 専攻の研究分野ではないが、トリオン研究の息抜きに大学の図書館で遠い異国の戦史について調べていると、何かを髄まで知るということはとどのつまり、その対象の来歴を知ることに尽きるのではないかという気がしてくる。歴史学のすべては積み重ねであり、どんなに古い時代の資料であっても、捨て置いていいものではない。その点、トリオンの分析や実験というものは、ときおり今までの実験や仮説がすべて台無しになるような進展があるし、何より、トリオンそのものの実態には過去も未来もなく、不動だ。それを発見する人間の営みのほうに、過去と未来が伸びている。
 歴史を持たずに生きている人間などいない。だけどこの町には自分の歴史を明かそうとしない人間が大勢いる。明かそうとしない人間が多ければ、必然的に、探ろうとする人間は少なくなる。そしてその理由を、明かさず、探ろうともしない理由を、みなが分かちあっているのだ。手に負えないほど広く、淀んだ空気が、この町を支配している。何かを髄まで知ることを、暗黙に禁じあうような、そんな張りつめた空気が。


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「夏の夜の匂いがします」

 十字路で他の連中と別れ、二人になった夜道で、はプラタナスの匂いを吸いこむように、のどかな深呼吸をした。腹いっぱいに焼肉をたいらげて、ひどく満足げに、心地よさそうに。お互いの情報交換の機会になればいいと思い、ときどき、面倒をみているスナイパーの後輩を適当に何人か連れて、食事に行くことにしている。ふだんはみな隊単位で動いているが、実践になると隊を横断した指揮が飛ぶことも多い。こういう場が案外、非常時のスムーズな連携に役立つものなのだ。
 気持ちのいい風が頬を切る。中高生連中はいっせいに夏休みを迎え、俺も、ひとつ論文が片づき、解放感のある夜だった。俺とは細い並木道を、最寄り駅ではなく大学キャンパスの方面へと歩いていた。この通りを抜ければ、の住むアパートはすぐそこのはずだ。

「ああ……もう三ヵ月か。一人暮らしも、だいぶ慣れたんじゃないか?」
「はい、おかげさまで。ありがとうございます、たくさん相談に乗っていただいて。すっごく助かりました」
「それは良かった。俺も学部生のときはこのあたりに住んでたんだよ」

 はこの春、ボーダーと提携している公立大学に入学し、市外に越した親元を離れて一人暮らしを始めた。提携大学はいくつかあるが、ここは三門市内にキャンパスをひらいているからボーダー隊員にとってはいちばん勝手がいい。学部は違うが俺も長く籍を置いているから、単位の取り方や引っ越し手続きのことまで、互いに色々な話をした。キャンパスからほど近いのアパートも、彼女が見つけてきたいくつかの候補のなかから、相談を受けて、俺がすすめた物件だった。
 なだらかな傾斜のついた並木道をのぼりきり、ひらけた暗い景色の奥に、アパートの窓の明かりが浮かびあがる。となりでがひたりと足を止めたので、別れの挨拶の気配を感じとり、俺も足を止め、彼女に向き直った。

「それじゃあ、俺はここで……」

 がしゃり、と地面に何か軽いものが落ちる音がして、俺はのんきな口を噤んだ。二人の足もとに、キーホルダーのついた鍵がひとつ転がる。そして、それを拾いあげてやる間もなく、俺の視界からふっとが脱落していった。とっさに腕を伸ばすが間に合わない。かろうじて片腕だけを絡めとったが、その甲斐もなく、彼女は糸が切れたようにアスファルトの舗道に崩れ落ちた。
 つい一分前まで、にこやかに他愛のない会話をしていた明るい後輩が、見る影もなく震えてうずくまっている。との付き合いは長くもないが短くもない。そのあいだ、一度も見たことのない彼女の姿だった。ただならぬ異常を察知して、俺は彼女の腕をつかんだまま、すぐとなりに膝をついた。


「あ、す、すみませ……」
「どうした。立てるか?」

 こくこくと首を縦に振ってはいるが、の脚からはすっかり力が抜けていた。彼女の震える手の代わりに落ちた鍵を拾いあげ、アパートを見上げる。こんな車道の真ん中に、長く座りこんでいるわけにもいかない。エレベーターのない古いつくりのアパートだったが、彼女ひとり抱えて、階段をのぼりきれないこともないだろう。

「とにかく、部屋に入ろう。悪いが、俺が開けてもいいか? 二〇三だったよな」

 頼りない掠れた声で、はい、とはつぶやいた。彼女の肩を抱き、一歩ずつ段差を確かめるように、ゆっくりと階段をのぼってゆく。そうしているうちだんだんと、彼女の脚は力を取り戻してきたが、切迫した呼吸のほうはなかなかもとには戻らなかった。
 二〇三号室のドアを開けると、玄関には部屋の明かりが、擦りガラスの嵌めこまれた引き戸をつうじて延びていた。冷房は切られており、蒸し暑く、誰かが居る気配はない。一人暮らしではめずらしいことではないが、おそらく家を出るとき照明を消し忘れたのだろう。
 思いがけず踏み入れた後輩の部屋で、狭いキッチンに立ち、コップ一杯の水を用意している自分がおかしい。はだいぶ落ち着いて、しきりに謝罪を繰り返した。俺が何度なだめても、ずっと、ひどく憔悴しきった様子で。

「……わたし、だめなんです。もう四年も経つのに、兄の死を受け入れられなくて」

 四年――。この町の住人で、その年月が何を意味しているのか分からないやつなど居ない。その日からかたく口を閉ざしてしまった人間が、ここにはごまんといるのだから。彼女が、あのときの侵攻で家族を連れ去られたらしいということは、なんとなく、出会ってから今までの会話のなかで察してはいた。とはいえもちろん、こんなふうに面と向かって切りだされたのは初めてのことだった。俺たちは、そんな話をする仲じゃない。

「ばかみたいですね。自分の不注意ってだけなのに、兄が帰ってきたんじゃないか、って一瞬思ったら、腰が抜けちゃいました」

 ありえないですよね。ほんとに、ほんとに、ありえない……。
 はぎこちなく笑ってこうべを垂れた。あの取り乱した様子、今の話しぶり、不自然な笑顔……様々な違和感が胸に押し寄せて言葉に詰まる。憶測の域はでないにしても、アパートの下でしゃがみこんでしまった彼女は、どう見ても何かに怯えているようだったのだ。兄の話がほんとうであれば、それはまるで彼との再会を待ち望んでいるのではなく、恐れているかのように。あるいは兄のことなど関係なく、何かに悩まされているのかもしれない。そんなこともちろん、迂闊に訊けるはずもないが。

「……。もし、今夜ここに留まりたくないなら、うちの研究施設に来ないか。寝る場所ならいくらもあるし、俺もどうせ今から大学に戻るつもりだったから、ついでに送っていくよ」

 彼女の言葉を鵜呑みにはできないということを告げる、だいぶ遠回しな提案だったが、はふわりと顔を上げ、予想外にもほんの少し緊張がほぐれたような表情を見せた。どうやら俺の憶測はだいぶ的外れなものだったらしい。ただ、その的外れが、ようやくいつもの柔らかい笑みを彼女に思いださせたようだ。は俺を見上げ、はっきりと首を横に振った。

「いえ、大丈夫です。すみません、ほんとうにお騒がせして……」
「気にすることじゃない。……じゃあ、俺はそろそろ」

 おやすみ、と気丈さを取り戻した後輩に別れを告げて、俺は彼女のアパートをあとにした。内鍵がかかる音を、念のため確認してから。
 彼女の前では、とにかく安心させるため何食わぬ顔を装っていたが、何かを知ってしまったようで、あるいは、何も知らなかったのだと突きつけられたようで、胸がざわついている。数年の付き合いの、スナイパーという任務をつうじた師弟関係。それだけの二人ではきっと、今日のできごととは出会えなかった。ひとりの夜道は、生ぬるい風さえもやけに涼しく感じられて、そんな自分が鬱陶しかった。プラタナスの湿った匂いが、不穏な思考にまとわりつき、脳裏に充満していく。
 ああ、なんだこの不快感は。



 週が明けた月曜日、午後の会議に出席する前に隊室に寄ると、オペレーターの人見が「さんからの預かりものです」と言って手さげの包みをひとつ、俺に差しだした。聞くと午前中にがここに来て、「先日のお詫び」として菓子折りを置いていったらしい。あの夜も、あのあと届いたメールでも、さんざん謝罪と礼の言葉を重ねられたのに、それも飽き足らずにということだ。律儀というか、気にしいというか。

「東さん、お茶にしましょうよー。ちょうど小腹がすいて」
「ばか。東さんの貰いもんだろ」
「ははは。俺はこれから会議だから、お前たちで先に分けるといい。俺もひとつ貰っていくよ」

 小荒井たちのいつものやりとりを笑ってかわし、箱に詰まった小包装のどら焼きをひとつつまんで隊室を出た。会議が始まるまで三十分と少しある。会議室に向かう前に、俺はそのとなりの資料室に足を運んだ。資料室といっても、パソコンがいくつか並んでいるだけだ。隊員証とパスワードをつかい、ボーダーのデータベースにアクセスする。確認したかったのは、四年前の、あの近界民侵攻の犠牲者名簿だった。
 ――「兄の死」という言い方が引っかかっていた。あのとき、抱いた違和感をひとつずつ精査してゆき、ふるいにかけ、最後に残ったのは彼女の発したその一言だった。何かの拍子に彼女から聞いていた、家族をネイバーに「連れ去られた」という話と、あのとき彼女が洩らした「死」という表現が、うまくつながらないのだ。大切な人間が向こうの世界に引きずりこまれたことを、「死」と言い表す者と、俺はボーダー内で出会ったことがない。少なからず向こうの世界を知っている人間の集まりだ。些細なようで、決定的な違いがそこにあることを、みな心得ている。
 俺の違和感を逆撫でるように、彼女の兄とおぼしき男の名前はやはり、死亡者リストではなく、行方不明者の一覧のほうに連なっていた。画面上に横一列に並んだ、その名前と、住所と、生年月日をカーソルの矢印でなぞる。彼女の兄が、俺と同学年であることを知り、心臓がみょうな音を立てた。

「あらら、東さん。こそこそと愛弟子の身辺調査ですか」

 突然、背後から覗きこむような影が差し、振り返ると、缶コーヒーを手にした迅が興味深そうに俺のパソコン画面を見つめていた。おそらく同じ会議に呼ばれたのだろうが、相変わらず神出鬼没だ。この厄介な男に、追っている違和感を悟られぬよう、敢えてカーソルを動かさず画面に視線を戻した。

「このあいだ、お兄さんのことを気に病んでいるふうだったから、少し心配になったんだ」
「心優しき“師匠”として?」

 面白がっているような、嫌な口ぶりだ。その心配は「師匠」としての領分を踏み越えている、とでも、迅は言いたいのか。そう言われてしまえば、少し弁えを欠いていたと自覚せざるを得ない。髪をかきあげ、押し黙る。
 なぜこんなに、あのときの彼女の、たった一言を気に留めているのだろう。単純な好奇心とは違う。一度知ってしまったことを捨て置いておけない、戦史研究の姿勢に少し似ている。もちろん、彼女を知りたいという欲望が、そこまで行儀の良いものだと気取るつもりはないのだが。

は、目の前でお兄さんを連れ去られてますからね」

 迅はのんびりと、当たり前のように彼女の下の名前を口にした。二人は確か高校の同級生だ。俺には見えない関係の網の目があるだろう。迅は、俺からマウスを奪うと、なんの躊躇もなく彼女の兄の名前をクリックした。画面が切り替わり、彼の写真と目が合う。その途端、何か急激に、罪悪感のようなものが湧きあがってきた。

「ここ見てください、備考のところ。拉致時に重度負傷の可能性、って。お兄さんが自分をかばって、ネイバーの攻撃をもろに受けたらしいです。光線状のトリガーがお兄さんの脇腹を貫通。それで、そのまま持ってかれた」
「やけに詳しいな」
「おれはの心優しき“友人”ですから」

 へらりと笑い、「会議に遅れちゃいますよ」と言い残して迅は先に資料室を出ていった。迅の言うことはいちいち、冗談なのか本気なのかはかりづらい。見てくださいと言われた文字列もろくに確かめず、俺は名簿を閉じた。それが、自分の抱いた違和感ではなく、彼女の抱える過去に対する、せめてもの誠意だった。
 は、あの近界民侵攻から一年以上経ったころ、みずからボーダーに入隊してきた。身内の不慮をきっかけに、ボーダー隊員を志す者は多く、もその部類なのだと漠然とそう思っていた。迅が言っていた、「自分をかばって」という見立てが彼女のものなら、「兄の死」という表現は、自分自身を責めた言い方なのかもしれない。また、そんな憶測が脳裏をよぎった。
 定例の会議は一時間ほどで終わり、冬島さんと二三、事務的な話をしてから降りてゆくと、ちょうど、訓練施設のほうからちらほらとスナイパーの後輩たちが出てくるところだった。合同演習が終わったころあいなのだろう。会釈をして過ぎてゆく後輩たちの人波のなか、まっすぐ俺を見つけるまなざしがある。その視線はきらきらとまたたいて、俺の足を止めてしまった。

「東さん! お疲れさまです」

 の声は澄んで、思いのほかよく響き、駆け寄ってくる彼女と、立ち止まっている俺とを、廊下を歩いていた数人が物珍しそうに交互に見やった。軽く手をあげて、彼女の会釈に応える。いつものように、そう、まったく普段のとおりに彼女と接している自分がぎこちない。それは、目の前の彼女ではない彼女のことを、頭のすみで考えているからだ。弾んだ息を飲みこんで、は晴れやかな表情で俺を見上げた。

「あの、午前中、隊室のほうに伺ったんですけど……」
「ああ、人見から聞いたよ。どら焼きありがとう。美味かった」

 会議前に摂った甘味のことを思いだしながら、そう伝える。はほっとしたように目を細め、両の手のひらをふわりと合わせた。

「よかったあ。蓮が教えてくれたお店なんですけど、わたしも、あそこのどら焼き大好きなんです。ちっちゃくて、色んな味があるんですよ。作戦会議とかしながら、みんなで食べやすいと思って……」

 お気に入りの菓子について嬉しそうに話す彼女の声が、だんだんと遠ざかっていくような気がする。いつもどおりの、人懐こい彼女の前で、数日前のできごとをいたずらに蒸し返すのは気が引けた。よく知りもせず、他人の過去を勘ぐってまで、どうしてこんな思いに駆り立てられているのだろう。ただ俺は、どうしても彼女に、「人殺し」をしてほしくなかった。こんな組織に身を置いているからこそ、まぶたの裏側で、現実の死を追い越してほしくはなかったのだ。

、ひとついいか」

 訓練施設から流れでた人の波が途切れて、廊下に静けさが戻る。お喋りだったが口を閉じ、俺の呼びかけに耳を傾ける。俺は彼女を見つめ返して、つとめて淡々と平和な話題を押しのけた。

「……わかっていると思うが、侵攻で生け捕りにされた者たちは、ネイバーにとって有用で、向こうでも生かされている可能性が高い。不確定なものを無理に受け入れる必要はないよ」

 慎重に、なるべく予断を排した言い回しで。データベースや、迅の証言から得た情報が、言葉のすきまに忍びこまないように。少し時間はかかったが、あの夜、何かに怯えていた彼女に対して、俺はできるかぎり適切な助言をしたつもりだった。みるみるうちに温度を失っていく彼女の目が、表情が、一度胸に染みついた罪悪感を、さらにくっきりと浮かびあがらせる。
 は薄く唇をひらき、愛想笑いにも満たない、力のない笑みをつくった。

「そうですか。残念です」

 失礼します、と小さく頭を下げて、は俺の横を足早にすり抜けていった。虚を突かれ、一拍遅れて彼女を振り返ると、彼女の隊服の紺色が、すでにラウンジの中央階段に消えてゆくところだった。
 あの夜のこと。いま、投げかけられたの言葉。彼女だけが知る、彼女の歴史というもの。俺は何か、とてつもない思い違いをしてしまったのではないか。そう悟った瞬間、後悔と欲望が、胸のうちで複雑に絡みあってほどけなくなってしまった。俺もたいがいな人間だ。一度試して間違ってしまえば、どこまでも、次こそは正解が欲しくなる。この手に、確かなものをつかみたくなる。
 もう、隠しようもなく、俺は彼女のことを知りたくなっていた。









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2019.1