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 暦の上では夏が閉じて、九月のはじめに、ボーダーは年三回のC級隊員の入隊日を迎えた。入隊式と説明会が無事に済んだあとも、しばらくは新入隊員の指導を中心にした慌ただしい日々が続く。いちおう、そういう慌ただしさとは本来無縁の平の戦闘員だったはずが、いつの間にか組織の運営や指揮に関わる仕事を多く任されるようになった。流されながらもこの場所に、知らず知らずのうちに根を張っている。べつに、忙しさは嫌いではないし、十分な対価も受け、自分でもこの仕事が向いているとも思う。ただ、ここは根を張るにはいささか、特殊な土壌であるということだ。張った根をときに、火を放つがごとく、根絶やしにしてしまう。人ひとりの歴史を簡単に奪えるのだ。ここで何かを積み重ねるたび、いつか訪れるかもしれないその日の到来を、奥深くでおそれている。そして気づくのだ。この場所は、まるで檻のようだと。

「コンプライアンス講習のアシスタントのほうは、誰に頼むかもう決まってるのか」
「相変わらず、なかなか引き受け手がいませんね。嵐山隊は手一杯で。B級の誰か、とは思っているんですが」

 本部長室に呼びだされるのも、この時期、しばしばあることだ。新入りのC級隊員を対象とした講習会が、またひとつ、二週間後に迫っていた。マニュアル通り、俺が責任者としてそこで伝えるべきことは1から10まで決まっているのだが、問題は毎回、この講習会で簡単なスピーチを任せるアシスタントの人選なのだ。スピーチといっても、五分十分ていどのもので、正隊員としての心構えや立場、普段どんな意識をもって任務にあたっているか等々、自由に話をしてもらい、そのあと、簡単な質疑応答をこなしてもらうのが毎回の流れだった。
 頼みの嵐山隊は、みな、ここのところメディア対応に追われていて、これ以上の仕事を持ちこむのはいたたまれないありさまだ。とすれば、ランク戦のシーズンが始まる前に、B級隊員の誰かに頼むのが適当だろう。俺の持ちこんだ隊員名簿を奪って、向かいのソファで忍田さんが脚を組み替える。任務予定を考慮して「×」ばかりつけた名簿のなかから、忍田さんは即座に或る名前に目をつけた。

「これなら……、そうだな、あたりに打診してみたらどうだ」
ですか」
「以前、スナイパーの技術講習のほうに出てもらったときも上手にこなしていたし、東も近しい後輩のほうが頼みやすいだろ」

 東のほうから予定を聞いておいてくれ。そう念を押して、彼の視線はすでに、別の書類にうつっている。今はこんな地上の些事よりも、次回遠征の段取りのほうにかかりっきりなのだろう。すぐに手もとに返ってきた名簿を睨んで、髪をかきあげる。「×」と「×」のすきまに浮かぶ、彼女の名前。確かに数ヵ月前の自分だったら、何も迷うことなく、彼女にこの話を持ちかけていただろう。
 ――そうですか。残念です。……
 夏のはじめに、あんな言葉をから引きだしてしまってから、なんとなく、俺は彼女に距離を置かれてしまったような気がする。もちろん、あからさまな態度の変化はひとつもないし、こちらのただの思い過ごしなのかもしれない。たんに、この夏、二人の関係が今までとは微妙にずれてしまったことを、実感しているだけで。あの謎めいた響きの言葉、あのさみしげな表情、あの夜、おそらく触れてしまった、彼女の大きな秘密。どれも何ひとつ解けないまま、絡まった後悔と欲望は、日に日によからぬ密度を増すばかりだ。

「……俺なんかの頼みを聞いてくれるかどうか」

 ぽつりと、ひとりごちるように洩らしてしまった一言に、忍田さんは意外にもするどい反応を見せた。資料から顔を上げ、いつもの寡黙な表情が、しだいに呆れたような、疑り深い顔になる。失言だったろうか。たった一言で、忍田さんは俺に何かしらのうしろめたいことがあることを、すぐに見抜いてしまったようだ。何せこのひとは、俺が「たいがい」だということを、今までの付き合いでそれなりに心得ているだろうから。

「お前一体何をしたんだ。女性相手にあまりやんちゃは困るぞ」
「それ、忍田さんに言われたらおしまいですね」

 生意気な。そう言って、忍田さんは大きな溜め息をついた。俺は、こんなときも心の奥底のほうで、彼女に対する気まずさよりも、ある種の好機を見てとってしまう男だから、きっと悲しいかな、忍田さんが見抜いた通りの性根を隠しもっているのだろう。にそれとなく聞いておきます、と言い残して、席を立った。
 結局のところ俺が欲しかったのは口実なのだ。俺から、彼女にこの仕事を振るに足る動機。身内が向こうの世界で生かされている可能性を、「残念です」の一言で切り捨てた人間が、この組織に居るということを、どう理解して、納得するべきなのか。領分を踏み越えず、ただ、心優しき“師匠”として、それを聞きだす正当な理由が、俺は欲しかっただけなのだ。



 翌日、合同演習のあとにに声をかけると、このあとは防衛任務が入っているというので、夕方以降あらためて隊室に立ち寄ってもらうことにした。俺の隊は今日、任務もなく、ほかの三人の姿は朝から見かけなかった。おかげで仕事も研究もはかどるはずが、どうも身が入らない。ノートパソコンと睨みあいながら、何度、小さく表示されているデジタル時計の進みを確認しただろう。まったく集中できていない。後輩との面会の約束をひとつ控えているだけの男の心持ちとして、ここまで注意力を失ってしまうのは果たして正常だろうか、異常だろうか。検討するまでもない。
 約束の六時を少し過ぎたころ、はこの部屋のドアをノックした。今日の仕事はすべて済んだあとのようで、彼女はもう隊服を着ていなかった。俺も、今日はずっと出勤時に着ていた私服のままだ。思えば、トリオン体に換装していれば、もう少し手持ちの作業に集中できたのかもしれない。今さら遅いが、そもそも、そんな当たり前のことすら思いつかなかったのが、今日の自分の身のほどなのだ。

「せっかくのお話ですが、わたしは向いていないと思います」

 俺の持ちかけた講習会の話をすべて、ただ黙って聞いてから、ははっきりとそう答えた。意外な反応だと思う自分と、どこかでこんなふうに断られることを予想していた自分とが、胸中でせめぎあっている。だけどいずれにせよ、向いていない、という言葉にはまた、簡単にはほどけない謎めいた質感がともなっていた。分からないことが砂のように積もり、脳裏にばらばらと吹き荒れ、けっして風がおさまらない。俺は、コーヒーカップの持ち手を爪先でなぞる、彼女のかよわい仕草を見やった。今まで通りのふりをして落ち着かないのは、お互いさまなのかもしれない。

「忍田さんは、名簿を見てがいちばんの適任だと推していたよ。俺もそう思ってる」
「そんな……」
「もちろん何か予定があるなら断ってくれていい。大学の講義や、個別演習の都合は把握してないからな」
「それは、大丈夫ですけど……」

 歯切れわるくは押し黙る。落とした視線の先には、コンプライアンス講習でつかうスライドを印刷した資料があった。こんな説明会を始めたのは二年前ぐらいからだろうか。俺が入った設立時はもちろん、が入隊したころも、まだこの手の意識は徹底されていなかった。社会的責任、倫理観、規律……彼女の頭のなかにはいま、そんな、真っ当で、かわいた単語たちが巡っているのかもしれない。やがて、きゅっと閉じていた唇をひらいて、は消え入りそうな声をつむいだ。

「わたしには、命の価値がわかりません」

 さみしくて、頼りない声だった。資料の上に手を置いて、彼女はそれを俺に突きっ返した。

「だから、こんな講習で偉そうに心構えについて話しても、空虚を見透かされてしまいます。向いてないんです。この仕事だって、ほんとうは……」

 だんだんと彼女の声が震えていく。解けない言葉がどこまでも降り積もる。不誠実な俺には、彼女の抱える誠実な痛みが、それこそが命の価値の証左に思えてならない。彼女はけっして、からっぽではない。だけど、おのれは空虚だと、俺にそう告げる。自分自身にも、そう言い聞かせるかのように。彼女は一体、その「空虚」に、何を孕んでいるのだろう。彼女の空虚は、どんな秘密で満たされているのだろう。

「……命の価値なんてものは、誰も自信をもってわかったなんて言えない。むしろボーダーに在籍する人間こそが、悩み続ける、問い続けるべき問題だ」
「違う、違うんです……」

 話の途中で、ひゅ、っと喉の音を鳴らして、が声を詰まらせる。
 反射的に席を立ち、俺はサイドテーブルを回りこんで、向かいのソファに座る彼女のそばにひざまずいた。荒く小刻みになってゆく呼吸。手の震え。力なく何かに怯えているような、まっしろな横顔と、潤んだ瞳。――あの夏の夜と、まったく同じだ。
 愚かな俺は、今になってはっきりと悟った。彼女は癒えない傷を負っている。誰にも見えず、誰にもさわれない場所に、その傷を隠している。他人からも、自分自身からも。俺は何も知らないで、ただ知りたいという欲望だけで、その見えない傷を抉りだすようなまねを、してしまったのだ。

「……わ、わたし……兄に……兄、に、ずっと、し、死んでしまえって、思って……そしたら、そ、」
、大丈夫だよ。無理に話すことはない」

 身を守るように背中をまるめ、強張った彼女のからだを、俺はその場に、二人掛けのソファになんとか横たわらせた。仰向けになってぼんやり俺を見上げる、不安げに揺れた瞳のきわから、つっと涙の透色がこめかみに落ちていく。悲惨だった。彼女のことを知りたいという我欲に突き動かされ、あげく彼女を泣かせた自分の浅はかさが。

「ごめん。ごめんな。最低だ、俺は」

 彼女が瞳をひずませると、涙は勢いをましてまなじりから溢れだす。は震える両手で口もとを覆うと、俺の「ごめん」をはねつけるように激しく首を横に振った。こんなに苦しそうにしながら、まだ、自分のことに手一杯にならないでいる。なれないのだ。彼女はずっと自分ではないものに囚われて、自分を食いつぶされてきたのだろうから。

「わたし、また……東さんに、」
「いいんだ、それで。もっと俺を利用してくれ」

 とっさに口を突いたのはそんな大仰な言葉だった。その一言がどんな意味をもって彼女に響いてしまったのかは、俺には知るよしもない。濡れたまつげのまばたきが、また、ひと筋の涙を送りだす。ほんの少し親指を動かすだけで、その苦しげな涙を拭ってやれるのに、できない。してはいけない。利用してくれ、なんて言っておきながら、一体この関係のまま、俺は彼女に何をしてやれるというのだろう。
 はそのまま目を閉じた。あとには、嵐が過ぎ去ったあとの、凪いだ呼吸の音だけが続いていた。



 あまり寝心地もよくないだろう、くたびれた固いソファの上で、は存外に深く眠りに落ちた。少なくとも、俺にはそう見えた。疲れが溜まっていたのかもしれないし、こうなってしまうとき、彼女はいつも眠りの世界の奥の奥へと避難するものなのかもしれない。照明を仄暗く落とした二人きりの隊室のなかで、彼女の眠るソファを離れ、ひとり作戦机に着いていても、頭をつかう仕事などできるわけがない。彼女を起こさぬよう、静かにキーボードを叩いて、ひたすらトリオン研究のデータ整理をすすめた。
 ブランケットにくるまって寝息を立てている彼女は、まるで安らかな午睡でもしているようで、ついさっきまでの混乱のほうがむしろ夢まぼろしのようだった。だけどけっして消えはしない。彼女の見えない傷が、俺の脳裏からも。
 数時間が経ったころ、東さん、と名前を呼ばれて、俺ははっと顔を上げた。薄暗いなかで、俺もいつの間にか目を開けたままうつろな単純作業に耽っていたようだ。立ち上がると、つられたようにもゆっくりと身を起こした。ずっと同じ姿勢で寝入っていたからか、右の頬だけほんのり赤い。寝起きの気ゆるい表情で、は俺をぼうっと見上げた。

「気分はどうだ」
「はい……もう、大丈夫です」
「そうか。よかった」

 ブランケットの奥で、はほんの少し寝乱れていて、Tシャツの襟口からは左の鎖骨がのぞいていた。視線をはずして彼女のとなりに腰をおろす。革張りのソファのおもてには、彼女の生々しい体温がうつっていた。

「帰るなら送っていくよ。腹が減っているなら、下の食堂がまだ開いてる。なんなら、仮眠室を取ってもいいし、このままここに泊まっていってもいい。ひとりで居るのが不安なら、俺も今日は帰らない」

 目ざとく間の悪い自分自身からなんとか気を逸らそうとして、早口になり、つい余計な感情までこぼれてしまった。は首をかしいでふしぎそうに俺を見つめている。おそらくまだ、頭が眠気に浸かったままなのだろう。

「いや……すまない。最後のは、踏み越えた発言だったな」
「……何をですか?」

 本人はなんの他意もなく尋ねているのだろうが、その問いかけは、俺からしたら誘導尋問のようなものだった。その思いがけないちぐはぐが可笑しくて、ふと笑ってしまうと、彼女はますます首をかしげて俺をつぶさにのぞきこんだ。あんまり知らない顔をされると、奥底で、どうしようもない性分が疼きだす。そのむずがゆさをはぐらかすように、落ちる髪をかきあげた。

「そうだな……心優しき師匠の分を、ってところかな」

 迅のあの嫌味な言葉を敢えて借り受ける。あのときから、そうか……さすがにあり得ないと信じたいが、妙な未来を覗き見られていないといい。そんなふうに願う時点で、たったひとつの未来を思い描いているのは自分のほうなんだろう。はようやくはっきりとした笑みを見せて、ブランケットの端で口もとを隠した。

「そんなことないです、東さんは優しいです。すごく」

 たいそうな的外れに、かえっていちばん射抜かれてはならない的を射抜かれてしまったような気がした。彼女がそうやって自分を誤解してくれていることが、嬉しくもあり、もどかしくもある。だけど何より、彼女がその誤解をとても大切そうに、満足そうに抱いているということが、今の俺には居心地が悪かった。そんな言葉で、知った気になってほしくはない。俺はこんなにも、のことを知らないのだから。

 ささやかに波立つ互いの笑みが途絶えてしまえば、ここにはもう何もないのだと気づかされる。ずっとこの部屋に居たから忘れていた。いま、薄暗い密室に、思いがけず二人きりで居るのだということ。こんなタイミング、滅多に訪れるものじゃない。

「好きだ」

 けっして言うつもりのなかった言葉がなんとも自然に舌に馴染んでしまって、俺を見つめて目をまんまるくした彼女とは反対に、その一言は自分自身を落ち着かせた。するりと、呆けたの肩からブランケットが落ちていく。こんなにはっきりと感情を言葉に孵してしまったのだ。もう、誤解もくそもないだろう。

「東さん、」
が抱えているものを、よかったら、俺にも一緒に背負わせてほしい」

 彼女よりも何年も長く生きているくせに、この感情に対してとるべき定石を何も持ち合わせていない自分が情けない。ただただ、彼女のことをもっと正しく、愚直に知りたいと思う。古い戦記を読むように一方的に紐解くことなどけっしてできない、とらえどころなく、はかなく、謎めいた彼女の知られざる歴史を知りたいと思う。そして、それを知ってしまったとき自分が負うべきものを、まっとうに負わせてほしい。それが今の、偽らざる俺の欲望だった。
 ゆらゆらと揺れる瞳の奥を隠すように、彼女が目を伏せる。手で手を握りこんで、は震える息をそこに吐きつけながらつぶやいた。こわかったんです、と。

「……ずっと、こわかったんです」

 やっとほんとうのことを、彼女自身の口から、こうして告げられるときが訪れた。そう思って、俺はやや前のめりになって彼女の声に耳を傾けた。優しく、彼女が見たまぼろしのように、優しく……。だけどもう、優しさが何なのかも、分からない。

「こわかった?」
「……あの夜、から。きっとわたし、東さんのこと、好きになっちゃうんだろうなって思ったから。でもそんなの、身のほど知らずで……」

 はそう言って、ふたたび俺を見上げた。つややかな黒目が弾丸のように俺を撃ち抜く。
 この告白がまったくの不意打ちなのは、俺があまりにこういう場面に疎くて、野暮な男だからというだけなのか。やっぱり俺には、彼女のことがまるでつかめない。こわい、という一言から、彼女の抱える長大な物語が始まるものだとばかり思っていた。身構えるべきものを履き違え、揺さぶられた理性を再装填しようにももう間に合わない。だったら残る道は、ひとつだけ。
 身のほど知らずは、俺のほうだ。









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2019.1