3 : blackout

※ アルミン視点




 閉室間近の資料室から追い出され、薄暗がりの廊下を数冊の本を抱えながら歩く。壁外調査を二日後に控えた非番の日を、僕はいつも通り資料室の一角を陣取り心ゆくまで文字を追うことに費やした。朝から晩まで、飲まず食わず、微動だにせず。それが苦にならないのはそもそも差し込む陽射しの動きも、喉の渇きも空腹も、一切の疲れも何も感じないからだ。書物を読んでいると僕は自分のなかにあるあらゆる尺度という尺度を落っことし、真っ白でなんのひっかかりもないすべらかな玉のような世界の住人になる。周りのすべてが見えなくなるし、聞こえなくなるし、気にならなくなって、一体どれほどの時間を消費したのかも覚束ない。文字を覚えたころから今に至るまで変わらない僕の悪い、いや便利な癖だ。

 頭の上から急いた足音がして何事かと見上げると、ジャンが階段を降りてくるところだったので目を見張った。この階段を降りた先にあるのは閉じてしまった資料室と正面玄関だけだったからだ。彼も今日は一日非番だったはずだが、だらしなくボタンの二つ開いたシャツと寝癖のついたままの髪の毛を見るに、どうやらせっかくの休日をずっと部屋にこもって過ごしていたようだ。もったいない。もちろん、資料室で日がな一日資料を読むことに明け暮れていた自分が言えたぎりではないのだけれど。

「ジャン、もうすぐ閉門だよ。どうかした?」

 踊り場を折り返して僕のことを目に留めたジャンに問いかける。ジャンはちょっとも驚きもせず、アルミンか、となにげなく僕の名を口にした。灯りのない広い階段に、彼の背にある小窓から真っ直ぐ橙の陽が延びていた。

「すぐ戻る。今日中に早馬に託さねえと」

 髪をかきむしりながらジャンが口早にそう言ったのと同時に、僕の目は彼の掌中にあるものを認めた。それは何の変哲もない白い封筒だった。

「早馬って……まさか手紙?」
「ああ。慣れねえことして手こずっちまった」

 擦れ違いざまに彼の淡い笑みを含んだ答えを聞いたとき、宛名の見えないその封筒の行き先がはっきりと脳裏に浮かんできて、次の瞬間には僕は咄嗟に彼の腕を引っ掴んでしまっていた。「おわ!?」とジャンが突然のことに間抜けな声をだす。彼が机に向かって手紙をしたためているところなど一度だって見たことはないが、時折まるで何か眩しいものでも見るような眼つきで便箋を眺める彼とは出くわすことはあった。本人は隠しているつもりなのだろうけど、新兵の仮眠室は大部屋でそんなにこそこそできるものでもない。「心当たり」のある人間には一目瞭然だった。あれは手紙を書いた人間への、慈しみと憐みの表情だと。

「駄目だよ、それは絶対に駄目だ」

 廊下はぞっとするほど静まり返っていて僕たち二人以外に息づくものは何もなかった。広場で訓練をしていた兵士たちもとっくのとうに引き上げてしまったのだろう、外からも誰の声ももう聞こえてこない。ジャンは突拍子もない僕の言葉に、眉をひそめて幾つかのまばたきを返した。それはどこか、わざとすっとぼけているような様子にも見えた。

「それ、家の彼女に宛てた手紙だろう。君から近づいたら言い訳がきかなくなる」

 つとめてはっきりとした語気でそう言いつけると、掴んでいる彼の腕が手のひらのなかで強張るのを感じた。察しの良い彼であればもう僕が何を咎めているのか気がついたのかもしれない。その非難の矛先がここにさらけだされた行為を通り越して、その奥にひろがっているものに向けられているのだということを。

 団長に引き連れられてあの家に共に赴いた日から、ジャンはもう何回内地と兵団の間を行き来しているのだろう。彼の口から直接に話を聞いたことはないが、一度だけ団長とジャンがそれらしい話をしているところを耳にしてしまったことがある。団長の執務室に頼まれていた書類を届けに行ったとき、その先客がジャンだったのだ。執務室の扉越しに僕は、今度彼女のところへ行くならこれをしていくといい、と団長がジャンに語りかけるのを聞いた。きっと香油か何かを渡そうとしていたのだろう。こういう柄にもないことをするとさんは嫌がるんじゃないですかね、とジャンが笑いながらやんわりとその申し出を断る声が続けて聞こえてきて、それはなんだかとても生々しく艶めかしく脳に響き、僕は思わずその場をしばらく離れなくてはならないほどの不気味さを覚えた。それが誰も知らない間に色んなものを受け入れ、噛み砕いたジャンの紛れもない日常だったからだ。

 今思えばあれは団長が仕組んだことだったのかもしれないが、とにかくあのとき僕は彼にとって唯一、彼の変化に「心当たり」のある人間となったのだ。それがどういうことか。どういう意味があるのか。今まさに、証明されなくてはならないのだろう。彼の腕を強く締めつけなおして、迫力のある三白眼に負けぬよう目を開ける。ジャンは少し声を詰まらせたが、それを掻き消し隠すように、軽い溜息と一緒くたに口をひらいた。

「……分かってる。けど本人にせがまれてんだよ、しょうがねえだろ」
「それでも駄目だ。彼女の父親は厳格な人間だって有名じゃないか。どうせ隠してるんだろう。だったら、慎重を期さなくちゃ」
「ああ、だからちゃんと直接届くように手配して、」
「雇われの馭者なんかあてにできない」
「……んな大袈裟な」
「大袈裟じゃないよ。君が楽観的すぎるだけだ」
「は? 別に俺は、」
「だいたいこれ以上彼女に深入りして、何の得があるの?」

 その言葉に、ジャンの顔色がさっと変わった。できうるかぎり辛辣に、そうしないと容易く焼き切られてしまいそうなくらいに彼の熱は僕に迫っていた。彼は些細な感情をやり過ごすのがあまり得意なほうとは言えない。そのくせ肝心なところで肝心な想いを溜めこむから、こんな仄暗い廊下の隅で僕なんかに通せんぼをくらうはめになるのだ。

「……離せ、アルミン」

 ジャンの声がいちだんと低く、暗くなったのは、何も夕暮れの落下のせいだけではないだろう。彼の足元に降る橙の光は既に鮮やかさを失い、刻一刻と僕たちは闇の際に追いやられてゆく。もう少しで、あともう少しで僕たちは真っ黒な世界の住人になる。本を読みふけっているときとは真逆の世界だ。足がすくんでがんじがらめの、ひとつも身動きの許されないほんものの闇。進んで飛びこむことを決めたのは、自分だ。

「いやだ、離さない」
「おい、」
「あの家の寄付金はばかにならない額だよ。兵団との関係も深い。それがもし君の不注意で解消されでもしたら、ジャン、君の処遇にも……」
「だから分かってるって言ってんだろ!」

 怒号と共に乱暴に腕を振り払われ、僕は情けないことに後ろに身体のバランスを崩した。階段の手すりに背を打ち、危うく尻もちをつきそうになる。はぁ、とジャンは苦しそうに余裕のない息を吐きながら、片方の手にじっと握りしめていた白い封筒を左胸に押し当てた。まるで呼吸を整えるように。ああ、大袈裟なのは君のほうじゃないか、ジャン。

「……救われんだよ、この一通だけで、あのひとは」

 あのひと。あの女。彼女のこと。僕は知らない、誰も知らない、ジャンと彼女の二人だけの何かが育まれていること。そんなことを今さら訴えられたって、土壇場でほだされるくらいならばはなから呼び止めたりなんかしない。僕には僕の考えがある。そしてここからは決して無遠慮な誤解でもなければ、「心当たり」ある者の責任ゆえになじるのでもない。これはただの、僕の本心。揺らいで、時に大きく小さく気ままにかたちを変える、暗闇のなかの一本の灯火。

「そう、救おうとしているんだ。彼女を愛してもいないくせに」

 ジャンは俯いたまま僕の言葉に耳を傾け、それを呑みこむ前に顔を上げた。わなわなと震える双眼は、「お前に何が解る」とでも言いたげだったが、それが口に決してのぼらない理由もまた同時に悟っているふうでもあった。こんなにも聡明にすべてを理解していても、ひとは正しく行動できないときがある。ひとがひとであるというのは、きっとそういうことなのだろう。

「傲慢だね。それにひどく、浮かれてる。見損なったよ」

 殴られても仕方のないなんとも挑発的な言い方をしたし、実際彼の拳は僕に向かうことを厭わないというふうに絶えずぎゅっと握られていた。それでもついに彼は手を上げることなく、ただ僕が根負けして目を逸らすまで、じっと僕を見詰め返すだけだった。

 先に行っているよ、と冷たく呟く。返事はない。その代わり、立ち尽くしたままの彼を置いて再び階段をのぼりはじめた僕の耳には、びり、びり、と紙を破りさる音が鋭く届いた。
 僕は振り返らなかった。僕は一足先にもう、その闇のなかから抜け出していた。



 それでも次の日の夜明けごろ、僕は仮眠室の窓からジャンを見た。朝霧のなかを駆け抜けて伝達用の早馬を携えた馭者に、一通の手紙を託す彼の姿を。あの手紙のなかに何が書かれていたのか、僕が知る由もない。ただあれ以来ジャンが彼女からの手紙を読む姿を見たことはなかったし、非番の日を使って内地に赴くというような素振りを見せることもなくなった。彼と彼女は人知れず始まり、人知れず終わったのだ。

 あの日、抜き足差し足こっそりと仮眠室に戻って来たジャンに僕は大胆にも、おかえり、とベッドに横たわったまま声を掛けた。今でもはっきりと思い出せる。ごめんね、のつもりで呟いたあの一言にジャンがぎょっと眼を見開いたこと。そしてバツが悪そうに恥ずかしげに頬をかきながら、だけれど妙にすっきりとした表情で、ただいま、と静かに返してくれたことも。









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