5 : a road mirage




 お気に入りの白い麦わら帽子が初夏の風に舞い上がった。生暖かいおだやかな気流に乗り、高くゆるやかに弧を描いて、それは思いがけず遥か遠く石畳に落ちてかのひとの腕に拾いあげられた。休日の真昼の街はにわかに騒がしく、彼の微笑みだけがまわりの空気を巻きこんで蜃気楼のように静かに漂っているように見えた。驚きよりも先に、懐かしさよりも先に、胸の奥深くを掴んで離さぬものがある。この邂逅をなんと言い表せばよいのだろう。遠い昔の短い思い出しか持ち合わせない二人にとって、晴れ晴れとした装飾をほどこすほどにはこの瞬間もまた確かなものではないはずだ。見つめあう、幻を掴むように私からそっと、手を伸ばす。喧噪のなかでも彼の足音だけが聞こえる気がする。指先が触れるのを待たずに彼の腕が私の手首を強引に引っ張った。よろめき前のめりになった頭にぽす、と不意に麦わら帽が返される。手のひらで帽子を押さえながら、ああそうだ、と思った。私は生まれて初めて太陽の真下であなたの眩い笑顔を見ている、と。

「お久しぶりです、さん」

 その瞬間――彼の声を覚えていたのか、思い出したのか、あるいはもう一度鮮やかに出逢ったのか。どうあれ紛れもない彼だけの癖のある尖った声が、私のなかに渦巻いた大仰で急ごしらえな言葉の行き場の全てを封じてしまった。そうしてただ彼のどこかさみしげで、少し照れた、私の遥か向こうに在りし日を見据えるような目元の緩みだけが、喧噪のなかでひときわ密やかにちゃちな二人を繋ぎあわせていた。



「本当に、抜けてきて大丈夫? 仕事で来ているんでしょう」
「今は団長の直属班で動いているんです。滞在している間は多少融通が利きます」

 でも一応、内緒っすよ。人差し指を立ててジャンは少年の日のようにあどけなく笑ってみせた。なるほど、兵団のマークが入った隊服のジャケットを脱いでいるのももしかしたら単に蒸し暑いからというだけではないのかもしれない。大通りに居ては一緒に来ている仕事仲間の茶々が入るかもしれないと足早に歩きながら彼が言うので、私はひとつ路地を入ったところにあるこぢんまりとした喫茶に彼を連れて行った。ポットで頼んだのはいつものような甘いフレーバーティーではなく、苦みのある彼好みのあの味。年下の男の子のために背伸びをしていたあの日の私を辿りかえすようにその苦みを舌にすりつけると、二人きりの密室の窒息しそうな行き場の無さが、あの言いようのない行き止まりの多幸感がどこからともなく忍び寄ってきて、今このひとときの二人を再び包み込んでくれるような気さえした。

「そう。……そうね、あなたはもう、新兵じゃないんだものね」

 二人の隔たりを紛れもなく途方もない時間が流れた。彼のてきぱきとした慣れた返答が、あのときより少し長く切りそろえた薄い茶色の髪が、少年味を残しながらもとっくりとした落ち着きを纏う彼の雰囲気が、そして舌に残る変わらぬ苦い茶葉の味さえ、それを改めて思わせる。ハンカチを取りだす間もなく、目頭に溜まった水が静かに溢れた。指で拭ってもとうてい追いつかない。あー、とジャンはちょっと困ったように声を漏らして、テーブルの向かいから少し身を乗りだすとシャツの袖口で私の目をそっと塞いだ。彼の手つきは、彼の風貌からは予想もつかないほどに優しい。思えばいつもそうだった。私が彼を手懐けていたのではない。彼が私を飼い慣らしたのだ。

「泣かないでください。さんと話をしたいのに」
「そんな……あなたが生きているかどうかさえ、分からなかったのに……」
「いくらでも知る手立てはあったんじゃないですか?」
「そんなこわいこと、できるはずない」

 目頭にあてがわれた彼の指に左手で触れ、人差し指と中指と薬指をまとめて手のひらにぎゅっと、強く握る。自らの生き死にをさらりと会話のなかに織り込むようなその態度に、またしても長い時の流れを感じずにはいられなかった。

 彼に渡した自室の鍵が同封されたあの手紙を受け取ったとき、私は自分でもびっくりするくらいに泣いた。人間はこんなに泣けるものかと思った。それも感情的に号泣するようなことはできず、何か月もの間、彼の文面を思い出すたびに今みたいに気づかぬうちに泣き濡れていたのだ。私よりもジャンのほうがよっぽど大人だ、最初からずっとそうだ。あんなたった一枚の紙切れに過不足なく想いを込めてしまえる。私はそのことを少し、羨んだのかもしれない。悔しかったのかもしれない。よほどローゼまで足を運ぼうかと、家出まがいの計画も立てたが、結局そうすることもできずただベッドルームでめそめそしていた私に彼を憎んだり恨んだりする資格などはなからないのだ。憎んだり、恨まれたり、することはあったとしても。

 ジャンの指が私の手のひらを振り払って、かわりに私の指をすくいあげるようにして持ち上げた。彼のやけに神妙な面持ちにどきりとして、ようやく懐古の涙は流れ終わる。こんなふうにされるまで自分の左手の薬指にあるもののことをすっかり忘れていたなんて。ジャン、と伺うように声をかける。彼はちらりと私を見て、そうしてすぐに視線をもとに戻した。

「綺麗ですね、これ」

 私の左手を握ったまま彼の親指のはらが薬指にあてがわれる。それは少し乱暴な仕草だったのかもしれないが、私は未だ彼にそれを許していたし彼もまた許されていることを知っていた。鋭かった瞳にささやかな笑みがさす。自分自身のその素振りの“変わらなさ”を懐かしく思い返しているかのように。

「……俺の薄給じゃ一生買えそうにねぇ指輪」

 大粒の誕生石がはめ込まれたプラチナのリングにやや不躾な手つきで触れながら、ぽつりと彼が呟く。その声は自嘲のようにも、ほんのりとした皮肉のようにも、どこかほっとしている安堵の声のようにも思えて、涙にふやけた私の頭をぐらぐらと混乱させた。きっとそのどれもが彼の本当、なのだろう。今さらどうなることも望んでいない二人なのに、こうやってまるで昔の恋人同士みたいに言葉を交わしているのも、少しこそばゆいような気がする。あんなの恋でも、愛でも、なかっただろうに。似たような言葉と、似たような行為はたくさんあったかもしれないけれど。それでも作りもののなかで一筋のまやかせない光を、ただひたむきに追っていた。それを恋だとか、愛だとか、今さら名づけてもいいものだろうか。私は未だにそんなくだらないことを、迷って、彼を想う夜を捨てられずにいる。

「来月、結婚するの」

 無理やりにでも笑顔を作らなければならないと思った。ぎこちなく頬を動かしてほほ笑むと、そうですか、と言ってジャンは睫毛の影を落とした。そっと指が離れていくのを名残惜しく感じる。彼の分厚い皮膚の乾いた温もりが、好きだった。

「おめでとうございます」
「ありがとう」
「……どうぞ末永くお幸せに。心から祈ります」
「うん。私も、あなたの幸せを祈ってる」
「え? ……いえ、俺にはそういう幸せは」
「だめよ」

 ティーカップの取っ手に指を絡めようとしていた彼の手の動きがはたと止まる。私を見据えてぽかんとする彼の無防備な手を、祈りを捧げるように両手で引き寄せる。さっきからちらちらとカウンターの奥に居る店主が何事なのかとこちらを見ているようだが、もう気にしない。こんなさびれた喫茶室で若い兵士と町娘が二人でいるなんて、憲兵団のエリートならまだしも彼が調査兵団だと知られたら好奇の目で見られても仕方がないだろう。これってやっぱり、悪いことなのかしら。彼にとっても、私にとっても。あんなに純度の高い二人きりは、もう一生訪れない。

「あのときみたいに、ちゃんと約束して。誓って。幸せになるって」

 何事かと構えていた彼の眼に気づきの色がふと差して、それから気が抜けたように口元を緩めて彼は小さく息を吐いた。幸せなんてどんなかたちでもいい。約束はただ守るためのものでもない。今ならそう思えるのだ。約束は、約束をした瞬間にすでに果たされているものなのだと。未来を確かめるためのものではなく、ひとえに今この瞬間のためのものなのだと。ジャンは一度頭を垂れてからすぐに首をもたげた。本当に、さんって我侭ですよね、と言って。呆れかえっているかのようなその声色が、私の心にあるものを全て理解してくれていた。

「分かりました。お約束します」
「何に誓って?」
「何にしましょう。何がいいですかね」
「そうね……私の幸せに、なんてどうかしら」

 戯れにそう合いの手を入れたら、ジャンは存外にもきっぱりと首を横に振った。

「それはちょっと……少しくらい嫉妬させてくださいよ」

 私に両手で片方の手のひらをがっちりと拘束されたまま、彼は小さく朗らかな笑みを覗かせた。冗談にならないような曖昧な冗談をちらつかせて、彼はこの期に及んで私の胸を高鳴らせる。だったら私にも、少しくらいの冒険をさせて。

「じゃあ、こうする」

 手を解いて、彼の目の前で、ゆっくりと指輪を外してみせた。どうせ一瞬の悪ふざけならば、私たちはもっと本気になるべきなのだ。久しぶりに束縛から解き放たれた左手は踊りだしそうなくらいに軽やかで、私をあのときのとっても自分勝手で、とっても熱っぽい、手のつけられない火の玉のようだった少女のころに連れ戻してくれる。再び差し出されたまっさらな手を、彼は不思議とひとつも驚くことなく、迷うことなく手に取った。あのときと同じ、射抜くような真面目な瞳が、私をたちどころに支配してしまう。私たち、悪い子だ。だけど決して間違ったことなどしていない。だって私を映す彼の両目はいつも、正しかった。

「ジャン、幸せになって」

 その呼びかけに、ジャンは瞳だけでおごそかに頷いた。たとえ内地育ちの平和ボケ女の世迷言だと思われたとしても、ありふれた空っぽの決まり文句のようだと思われても、こうせずにはいられない。この一言が私の紡いだ編み目のなかで二人だけの模様を作る。そして彼の編み目のなかにもきっと同じ模様が浮かび上がるのだと、私はずっと昔から知っていたような気がするから。

「お約束します。あなたと出逢えた、運命に誓って」

 押しつけられた唇は薬指に見えない誓いを立てた。自然になのか、敢えてなのか、私が避けようとしていた言葉を、はっきりとあなたは言ってのけてしまう。今このときだけは、私はあなたのもの。あなたは私のもの。だから今日は時間の許す限り、別れるための再会を二人で噛みしめよう。今度こそ。生きていればまた逢える、そう思いながら、永遠に別れるための再会を。








In my fantasia, your presence continues around forever.

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