3 - twilight isolation




 俺が一歩近づけば、は一歩遠ざかる。だけど俺が愛想を尽かせたふりをして背を向け歩きだそうとすれば、彼女は途端に困惑して、遠慮げにその後ろを着いてくる。面倒くさくて、かわいいひと。行く末の決まりきっている鬼ごっこなんて面白くもなんともないのに、喉の奥に込みあげてくるこの感覚は何だろう。さん、に、いち、ほら、もう終わり。閉じこめることはいとも容易い。この世界はどこを見渡しても「行き止まり」ばっかりなんだから。

 抱きかかえるようにして彼女をベッドの上に寝そべらせ、不安そうに俺を見上げる瞳に白々しいほど朗らかな笑顔を返す。その細い身体に覆いかぶさりながらネクタイをほどくと、は今さら視線を泳がせて動揺をあらわにした。だめだよ、よそ見しちゃ。そんな余裕を見せられたら、奪いたくなってしまう。

、集中しなよ」

 名前を呼ぶとびくりと彼女の肩が震える。その反応はとても恋人にベッドの上で名前を呼ばれたときの最適解とは言いがたい。でも、それでいい。少しくらい不都合がなければ、答えあわせも意味がないだろう。
 色んなことを知った気になっていても、自分の目で確かめなくちゃとうてい信じることはできない。色んなことをそれなりにこなしてきたとしても、今この場で、の身体の上でそれを再現することができなくては、決してホンモノにはなれないって気がしている。そうやって自分を世間知らずの「半人前」に落としこみたくなること、それがどういう感情なのか、、一緒に確かめてよ。
 こんなにも気持ちが昂ぶっているときに、はその理由をちっとも理解してくれなかった。この期に及んでやんわり逃げようとしていた両腕を、わざと必要以上に強く押さえこむ。

「なっ、にする」

 ボールを片手で握るときみたいに手のひらにぐっと力を入れると、は面白いくらいに顔を歪ませた。白い肌の奥に隠された滑らかな血の流れが、圧迫に耐えかねてじんわりと皮膚の表面に浮きでてくる。与えれば与えただけの反応がある。この世界はいつも俺に優しくて、煩わしさもどこか他人事のような距離を保ち、気味悪いほどに居心地が良かった。の額を流れる前髪を、鼻の頭で掻き分ける。だけど、違う。これじゃない。ここ、じゃない。だから、彼女の足の間に自分の左足を割りこませた。そうだ、もっと奥。ずっと。触っていい? だって、俺のこともっと知りたいんでしょ? だったらそのぶん、教えてくれないと。

「大丈夫、俺にまかせて」
「……いや、って、言ったのに」

 の瞳が、声が、とうとう涙に侵される。片方の腕を解放してももう彼女は無暗に拒むことはしなかったけれど、そのしおらしさがむしろひとつの暴力となって俺の心臓に殴りかかってくる。ずるいなあ、やっぱり。右腕をぎりぎりと締めつけたまま、もう片方の手で彼女の頬を撫でてやる。殴られっぱなしででこぼこの自分の胸を手当てする代わりに。

「本当にいやなら、もうやめるけど」

 目を見開いて彼女は押し黙る。「もうやめる」。その言葉の深さを彼女は決して知ることができない。だって、それはこれから俺がどうとでも決めてしまえることだからだ。
 いつだってはこそこそ隠れるみたいにして怯えていた。ひとを腫物みたいに扱って、一挙手一投足に震えあがる。試合で負けた翌日、こんな日は特に。彼女にとって同じベッドの上にいる俺よりも、コートの上でボールを操っている俺のほうが数段に確実で、現実で、誠実なのだ。俺は未だにその隔たりの壊し方を、分からないでいる。

 熱い体温がシャツの下でうごめいて、気持ち悪いのに続けていたい。沈黙を割るようにスカートの中に手を伸ばすと、は羞恥心に追いたてられるようにぎゅっと目をつむった。生理用品の厚みが、がさついた存在感が、下着の薄い布越しにも指のはらへと伝わってくる。しばらくそこを執拗に撫で続けていると、やがて彼女は耐えかねたように、苦しそうな息をその小さな唇から漏らした。ああ、そう、それ。今はそれだけが欲しかった。抵抗も泣き顔も駆け引きまがいの言葉の数々も、結局は不要物だ。だったらここには下半身だけあればいいのだろうか。それだって、違う。これが生殖行為だなんて、考えたこともないのだから。

 やっとこの状況を飲みこんでくれたの腕を手放す。正しく傷つく優しい世界の証明だと言わんばかりに、そこにはちゃんと、期待していた通りの痛々しい赤が鎖のように巻きついていた。



 朝日に急きたてられて目覚めるなんてままあることだったけれど、夕暮れの太陽が眩しくて目を覚ますのはとても厳かな体験だと思う。半日ぶんの時間差が、こんなにもシーツの色を変えてしまった。滴るような光が、白いシーツと咽仏、瞳の中を稲妻のように駆けて、髪の毛の一本一本に至るまで濡れてゆく。薄目を開けて狸寝入りをしながら、の背骨の曲線を見ていると、そんな映画のワンシーンのような一瞬が頭を駆け巡っていった。恋人と迎える夕暮れって、濡れている。汗や体液とは違う、何かで。

 の部屋はとても小さい。ベッドと机と本棚だけで満杯という感じだし、ポスターもカレンダーも貼ってない真っ白い壁は味気なくもさみしくもあった。おもむろに寝返りを打つ。ベッド脇のサイドテーブルには、卓上カレンダーとアラーム時計、鏡、読みさしの文庫本、音楽プレーヤー、そして数枚のCDが歌詞カードだけ取り出された状態で無造作に積まれていた。

「へぇ……、ってこんなの聴くんだね」

 何もかもがおっくうでシーツの繭から抜けだせないまま、趣味の良いデザインのCDジャケットに手を伸ばすと、ちょうど部屋着のTシャツを着終わったがこちらを振り返った。橙色に染まる小部屋の中で、水色のTシャツと細い腕だけが、潤んだ視界の中でもよく映える。は乱れた髪の毛を手櫛で整えながら、ふっと笑って顔を崩した。

「おはよう」

 夕暮れどきの、朝の挨拶。意味なんてどうでもいい。唇の動き、それだけで欲情する。もう一度同じことを繰り返したいと思ってしまう。至極まっとうな、ちやほやと甘やかすようなセックスをしたあとのは、ぐずぐずにほぐれた心の欠けらを宿したような、優しいとろけたまなざしをする。カーペット敷きの床に座っていると、ベッドに寝そべったままの俺の目線とはちょうど同じくらいの高さで、こうやって改めて至近距離で彼女の顔を見ていると芸もなく「かわいいなあ」なんていう感想が湧いてくる。彼女の手が伸びてきて、俺の髪を撫でた。指先で前髪を弄ぶように。

「自分のベッドみたいにくつろいでるね」

 やわらかな指の感触に目を閉じると、はくすくすと笑って「猫みたい」と俺をからかった。こんな大男に猫だなんて、見境のない盲目な形容。だけど今はそれがくすぐったくも、恥ずかしくもない。二人だけの共通言語を意味もなく転がすのは気持ちの良いことだった。六月の夕暮れは時の流れがゆるやかで、自然と行為も緩慢になる。この間延びした時間が好きだ。コートの中の緊張感とは、正反対の。

 はずっと自分だけ一方的に俺のことを知っていたんだと思っているだろうけど、俺だってそれなりに一方的にのことを知っていた。は目立たないけど美人だったし、一年のころから欠かさず試合を観に来られれば、さすがに顔を覚える。別に試合の後に写真や握手をせがまなくっても、だ。名前を知ったのは二年の初夏。いつの間にかマッキーが試合会場で彼女を見つけると声を掛けるようになっていて、「付き合ってんの」と軽口を叩いたら「ないない、はお前一筋だから」とさらりと返されたのだ。ぼんやりと感じていた熱っぽい視線が、たったひとつの名前を得たとき、一度も言葉を交わしたことなどなくとも彼女はもう他人ではなかった。とっくのとうに出会っていたということ。。彼女の名前を口にすると、その事実が、すとんとお腹に落ちてきた。

「これ、貸してよ。俺もこれ聴きたかったんだよね」

 手にしていた一枚のCDをの前でちらつかせてみせた。すると俺の髪を無造作にいじっていた彼女の手の動きが、急にぴたりと止まった。

「それ、岩泉くんの」
「……へ?」
「岩泉くんから借りてるの。だから、徹にも貸してくれるんじゃない?」

 その名前にまさかこんな場所で、こんな状況で出会うとは思っていなかった。との二人だけの空間に亀裂が入ったかのような違和感を覚える。シーツと身体の間に残っている汗も、はっきりと冷たく感じられるほどの。

「岩ちゃん?」

 その言い方は別に刺々しくもなかったし、責めたてるようでもなかったと思う。ぬるま湯のような心地良さは全く拭われてしまったけれど、俺の目は依然として酔ったみたいに焦点も合ってなかった。は表情ひとつ崩さずに「うんそうだよ、岩泉くん」と頷いた。十何年も一緒にいても分かってないことは沢山あるものだな。そういえば取りたてて音楽の話なんか滅多にしないかもしれない。だって俺と岩ちゃんがわざわざ顔をつきあわせて音楽についてあーだこーだ話をするなんて、可笑しいでしょ。幼馴染としても、友達としても、チームメイトとしても、なんだとしても。

「仲、良いんだ」

 の手の甲に指を這わせた。ぐるりと手のひらを巻きつけても指二本ぶんくらい余裕がありそうな、細っこい手首を掴む。そのまま腕を引っ張ると、一瞬の躊躇も抵抗もなくの顔が近づいてきた。気づかれたのかもしれない。今、俺がしたいことを。

「別に……、それ言うなら徹のほうが仲良しでしょ」

 幼馴染なんだよね、と鼻と鼻がぶつかりそうな距離で彼女は言う。なんだかはぐらかされたような気がして、だけど気に入らないという顔をしてみたところではもう俺の表情を見ていない。俺の黒目だけを、じっと見据えている。

「そりゃそうだけどー」
「そりゃそうですよ」

 口調を真似て彼女は俺の詮索をからかってみせる。呑気に「徹ってやっぱり、眼おっきいね」なんてつけ加えて。そんな使い古された褒め言葉を言う唇ならば食べてしまいたい。するだけ野暮な我慢などせずに、自然なタイミングで目の前に浮かぶの唇を舐めあげた。途端、濡れそぼった夕暮れの光に浸かったの瞳が、あらかじめ用意してあったかのようなスピードで、本当にびっしょりと濡れてしまう。あーあ、なんで女の子ってこんなに、弱いんだ。自分には無いものをそこに見つけるたび焦がれることを止められない。大切にできる保証なんてどこにもないのに。

 鼻先にの皮膚の匂いを感じながら、水色のTシャツの裾を捲りあげる。手のひらに彼女の柔い肌が吸いつく。頭は異次元に飛ばされたみたいに空っぽで、この瞬間はバレーのことなんて完全に忘れてる。ねぇ、。俺は今サーブの打ち方も、トスのあげ方も、サインの出し方も分からない。だとしたら俺の何が確実で、何が現実で、何が誠実なんだろう。言ってみてほしい。もし、言えるものなら。

「……着たばっかり、なのに」

 彼女を再びベッドの中へと引きずりこんだ。崩れたTシャツも、ショートパンツから伸びる足も、訴えているように思える。「もっと」って。都合のいい勘違いなんかじゃない。ベッドの作法はいつだってあまのじゃくなものだし、彼女はとうにそれを学んでしまっている。ほかでもない、俺の所作から。

「だから脱がせるんだよ」

 言葉は舌によく馴染み、まるで数週間前から台詞とト書きがあったんじゃないかと思えるくらいに、するすると溢れてきた。
 ふとしたときに不思議に思う。どうして俺は彼女と一緒にシーツの隙間に寝そべっていて、どうして俺は彼女の肌に触れたいと思ったり、彼女の体液を飲み干したいと思ったりするのだろう、と。具体的な欲望も単純に見えて実はそうじゃない。複雑に絡みあっている。乱反射する光はきれいでも、それぞれがてんでばらばらに屈折しているだけなのだ。

 胸からゆっくりと上半身のラインをなぞっていた右手を彼女のTシャツの中から取りだして、の左腕を強く掴んだ。俺の身体の下で、は殆ど悲劇を受け入れるかのような顔で俺の行動を眺めている。もう消えかけてはいるものの完全には隠すことのできない、過去の小さな痛み。赤かったか、青だったか、いずれにせよに似つかわしくない汚い色。俺のしたことが残ってゆく。こんなにも真っ白なキャンバスの上に。

 謝るつもりだった。あの日のことを、あんなふうにずる賢いやり方で彼女を押し倒してしまったことを。けれども舌の上に用意されていた言葉は、「ごめん」の一言ではなかった。

「俺にも同じことして」

 のしたことを、俺に残して。何だって受け入れるけれど、できることならなるべく見苦しくて、汚くて、痛々しいものを。が小さく頷いたような気がして、伸びてくる彼女の両腕が俺の首をそっと引き寄せると同時に、瞼を閉じた。閉じるしかなかった。それ以上、その行為を見ていたくなかったから。
 どうしてこんなときでさえ、俺よりものほうが苦しげな顔をするんだろう。そんな顔を見るくらいならいっそのこと、その手のひらでひとおもいに首を絞められたほうが、マシなのだ。









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2014.5