4 - シークレット・ブルー




 俺、あの子と付き合うことになっちゃった。部室でジャージに着替えながら、及川が持ち前の軽薄な口ぶりでそう告げた日、俺は初めてとまともに言葉を交わした。二年の冬休みのことだった。その日は県外校を迎えての練習試合が行われた日で、年内最後の練習日ということもあり、いつにも増して黄色い歓声が体育館中に響き渡っていたのを覚えている。何も知らずに来た相手チームが失笑してしまうほどに。

「「あ」」

 そんな歓声も試合が終わってしまえば跡形もない。どっぷりと陽は暮れ、片づけも済んで誰もいなくなった体育館を最後に見回りしていると、体育館を出たところの昇降口でと鉢合わせた。彼女は段差にひとり座ってぼんやりとガラス戸の向こうの闇を見ていたが、ガラス越しに部室棟から降りてきた俺の姿を認めると慌てて立ち上がり、心底気まずそうな顔をしてみせた。が、俺だってそれなりに気まずかった。がここに残っているのは、彼女があいつの「追っかけ」だからではない。「カノジョ」だからなのだ。そう思うと、どう接すればいいのか「普通」をド忘れしたみたいに分からなくなっていた。

「鍵閉める、よね。ごめんなさい、邪魔しちゃって」

 毛糸編みのベージュのマフラーを巻きなおしながら、は口早にそう言ってガラス戸に手を掛けようとした。

「あ、待て」

 思わず咄嗟に声を掛けてしまうと、は不思議そうな顔で俺を振り返った。確かに正面玄関の鍵を閉めるつもりで降りてきたのだが、結果的に彼女を追いだしてしまうかたちになるのは不本意だった。今も部室でたらたらと髪を整えているであろうあいつのことを思い浮かべれば、なおさらに。

「外寒いだろ。しばらく開けとくから、ここで待ってな」
「でも……」
「いいから、マジで。雪も降ってっし」

 雪の降る冷たい冬の日にもはスカートの下にタイツを履くでもなく、生足にハイソックスを履いただけの姿だった。よくもそんな寒々しい格好を真冬にしようという気が起きるものだ。は俺の強引な引き留めにしばらく困惑していたが、やがてマフラーに顔をうずめながら納得したようにこくりと小さく頷いた。初めて目の当たりにする彼女のやわらかな笑顔に、つい反射的に胸が鳴る。一対一のこの状況に感じていた気まずさがいつの間にか、彼女と言葉を交わす緊張に変わっていることに気がついた。

「ありがとう、岩泉くん」

 は俺の名前をちゃんと知っていた。当たり前のことなのかもしれないが、彼女が当たり前に俺の名前を口にしていることがとても不思議で、ありえないことのようにすら思えた。そしてそんな俺の新鮮な驚きなどつゆ知らず、は思い出したようにこうつけ加えたのだ。今日の試合、速い攻撃がいっぱい決まってたね、と。
 確かにその日はクイックの連携を重点的に確認するための実践をしていたのだけれど、それは俺の名前以上に予期せぬ言葉だった。「試合を観られている」ということ、当たり前の事実をはたと思い返させる力がその素朴な言葉にはあったのだ。なんであれ、どんなものであれ、応援を力にできないプレーヤーなど最低だ。のその一言で、どこで試合をしていても着いてまわる大ボリュームの甲高い歓声を、無意識のうちにただ鬱陶しいものだと感じてしまっている自分に気づかされた。そしてそんな自分を、わずかながら恥じもした。彼女たちは試合の邪魔をしに来ているわけじゃない。思い思いに、応援をしに来ているのだから。

「……いや、こっちこそ今日も寒いのにありがとな。あんな奴だけどさ、まあ、これからも気が向いたら応援してやって」

 ありがとうなんて俺が言うことじゃないのかもしれないが、精一杯の好意的な言葉を連ねたつもりだった。けれどもの反応は、期待していたものとはだいぶ違った。いつも、いつも。彼女との距離をはかるのは難しく、適当に会話をつなぐことすら思うようにいかない。思えばあのときからずっとそうだったのだ。は困ったように、あいまいに笑いながら、だけどはっきりと首を横に振った。

「ううん。……私はただ、見てるだけだよ」

 何を言われているのか分からなかった。ただあのときのの切なげな、後ろめたそうな顔が今も忘れられないまま、彼女の印象の核に居座り続けている。



 六月も終わりにさしかかってようやく梅雨らしい雨が降った。仄暗い空から無数の細い糸が垂れているみたいに、朝からずっと気持ち悪いくらいに同じ強さで雨は淡々と降り続けていた。

 そのせいか今日の昼休みの教室はいつもより密度が高く、騒がしさがこもっていた。斜め前の席でクラスメイトの女子たちがファッション雑誌を開きながら浴衣の話をしている。隣の席にだらしなく座っている花巻はさっきっからスマートフォンを弄り続けていて一言も喋らない。俺は俺で昼休み中に花巻のノート(正確には花巻が進学クラスの友達に作ってもらった有り難いテスト対策用ノート)を写さなくてはならないので、ずっと無言でひたすら手を動かしているだけなのだが。わざわざ頭に叩きこむために手書きで写しているというのに、全く文字列が頭に入ってこない。ただ意識の上辺を滑っていくだけで、意味も分からずひたすら積み重なっていく暗号のような文字の羅列に心底げんなりした。

 このところバレーをしているとき以外、表面的には作業していても脳みそが追いついておらず、結果的に「ぼんやりと」非生産的な時間を過ごすことが多くなった。今だってクラスメイトの女子の声を耳に入れながら、心は違う何処かへ飛ばされたまま浮遊し続けている。原因は分かっているようで、突き詰めるにはまだ何かが足りていない。いずれにせよ、らちがあかないとはこのことだ。音楽でも聞いていたほうがまだ集中するか、と思いたち鞄から音楽プレーヤーを取りだそうとしたとき、すぐそばの廊下側の窓ががらりとひらいた。

「いーわーちゃん、マッキー」

 この学校で一人しか使っていない特徴的なあだ名で呼ばれ、二人いっせいに顔を上げると、声の主は廊下からひょいと顔を出してひらひらと手を振っていた。さっきまでバックグラウンドミュージックのようにとりとめもなく聞いていたからか、及川の来訪によって近くにいた女子たちの声色とその場の空気がほんのりと移ろうのがよく分かった。同じ学校の同学年ともなれば他校の奴らのようにはもう及川にはしゃいだりしないが、たとえあからさまな幻想を抱かなくともヤツの周りよりもはるかに垢抜けた顔立ちは、彼女たちにとってやはり愛でるに値するものなんだろうと思う。認めるのは癪だがそれは幻想でもなんでもない、れっきとした事実そのものだから。

 今そっち行くね、と言って及川は教卓側のドアから5組の教室に入ってきた。へらへらとしながら近づいてくる及川を見遣ってまっさきに目に飛びこんできたのは、見覚えある黄色に赤いロゴの、タワーレコードのCD袋だった。

「これ、俺が無理言って又借りしちゃったんだ。ごめんね」

 そう言いながらも特に申し訳なさそうな様子もなく、及川は俺のノートの上に持っていた袋を置いた。包みを開けなくても分かる。惨めなほどに解る。それが先週、に貸したものであると。だとしても、俺は今からこの指を自然に動かして、この包みの中身を確認しなければ。数秒後には目を上げてまた憎まれ口を叩かなければ。「岩ちゃん?」とまた声を投げかけられる前に止まった時間を取り戻さなければ。この日常は脆くも崩れ去ってしまう。いとも簡単に。幸いその手の所作に俺は慣れきっているようで、殆ど完璧に「いつもの素振り」をすることができた。と、思う。

「つーことは、延滞料金はお前持ちだな」

 そそくさと包みを鞄に仕舞いながらそう言うと、えー、と及川は不服そうに口を尖らせてみせた。それはヤツのよく振りまく表情だった。

「何それ、マッキーこのひとこわいよー、取り立て屋みたい」
「俺を巻きこむな、痴話喧嘩に」

 しっし、と煙たそうに花巻が手を振るのと同じタイミングで、ぶつくさ垂れる及川の眼前に三本の指をつきつけてやる。いつも通りのあしらい方、いつも通りの、いい加減擦り減ってしまいそうなくらい使い古した掛け合いのリズムで。

「三日滞納で学食三日分な」
「学食?! むりむり、そんなお金ないし」
「なら部活後のアイスバー三日分」
「うげ……」

 及川は言葉を詰まらせ、わざとらしくうなだれた。それ以上の異論は出てこないようだった。結局ぶーぶー言いながらもいつだって俺にも、誰にだって丸めこまれる及川は、おそらくはそういった自分の態度が周りを喜ばせ、周りを惹きつけるのだと充分理解しているに違いない。そう改めて思い返すと、腹が立つ。ほいほいと二つ返事で簡単に従うでもなく、話の腰を折るほどしゃしゃり出て逆らうこともしない。及川のこの甘え方というか構われたがりな性格は、まるで潤滑油のようだと思う。なくてもいいのかもしれないが、あればよりスムーズに日常のあれこれが上手くいくような。コート上での存在感とはだいぶ違うが、どちらにせよ及川は人を「盲目」にする術に長けている。

 及川がどんなときにどんな経緯でどんな会話をしてから俺の貸したCD類を受け取ったのか、そんな知りもしないし聞けもしない二人のことに意識が回ってしまいそうで、慌てて思考を振り払う。幼馴染だからといってもちろん四六時中一緒に居るわけじゃない。互いに隠していることもある。絶対に。

「あ、そうだ岩ちゃん」

 じゃあまたあとでね、と言ってその場を去ろうとしていた及川は、何か思いついたように俺と花巻のほうを振り返った。いかにもついでという雰囲気で、右手で髪を無造作に梳かしながら。
 ――そのとき、気がついてしまった。及川の首筋、ちょうどシャツの襟に隠れてしまうあたりのところに、あの日の理科室で俺が彼女の二の腕に見留めたのと同じような不自然な内出血があることを。
 息が詰まる。一度見つけてしまったら、見て見ぬ振りをするのは容易ではなかった。むしろ不可能だった。身体中が同じ速度で脈を打った。どくどくどくどく、と。動悸と、冷や汗と、手を伸ばしたくなるような衝動。決してこの感情のありかを悟られてはいけない。ヤツにも、そして自分自身にも。

「あのさ、男が浴衣着たら変かな。どう思う?」

 及川はネクタイの結び目に指を掛けながら、珍しくほんのり照れくさそうにしてそう言った。驚いたのはその何の脈略もない質問のせいではない。その問いが、その言葉がどうしてか、ただ俺一人にだけ発せられたものだったからだ。「又借り」も「浴衣」も首筋の痣も全部、試されているわけではないのだからどんな反応をしても結局は同じことだ。この会話だって「浴衣に変もくそもねーだろ」といつものようにぶっきらぼうに返せば、「だよね、俺ならなんでも似合っちゃうし」とこれまたいつもの神経を逆撫でする答えが跳ね返ってくる。ひとつもそれらしい言葉や仕草はなく、おもてに現れるものは何も変わらない。何も。だからこそ分かる。その奥に、波風を立てぬようにと抑えこまれた、感じたことのない熱の胎動があることを。

と行くんかね、花火」

 教室を出ていく及川の後ろ姿を見届けてから、花巻がぽつりとひとりごとのように呟いた。毎年、七夕の日に近くの土手で小さな花火大会が開かれる。それこそガキのころは一大イベントだった。花火大会に向けてこつこつと小銭を貯め、当日は及川と二人で片っ端から屋台に寄って遊び倒し、夏の始まりを告げる花火を見上げた。八月の七夕祭りのような派手さも規模もないが、小さいころの鮮明な思い出が蘇るのかはたまた刷りこみか、及川はその花火大会を妙に気に入っていて毎年なんだかんだ足を運んでいる。中学に入ってからはバレー部の仲間で適当につるむのが恒例になっていたが、別にいつも約束を交わしているわけでもない。なんとなくそうなっているだけなのだから、あいつの気まぐれでいつそうならなくなっても不思議じゃないだろう。

「つーか、長くね? 及川にしては。あいつ美人掴まえてはフッてフラれて繰り返してたろ」
「……はあ、知らね。いちいち把握してねえよそんなもん」
「いやはや、キューピットとして誇らしい限り」

 うすら寒いことを言って花巻は腕を組み、うんうんと無表情のまま大袈裟に頷いた。芝居がかった物言い。胡散臭いキューピットだが、それでも引き合わされた二人はこうして今も続いている。目に見えないところでもつれあいながら、どこに流れつくかも分からない、あるいはどこまで行っても出口などない、流れの中をもがいて、溺れて。

 あんな奴でもまだ、俺に盗られるものがあると思っているのか。独り相撲の不安も、疑心暗鬼の見当違いも、すべてしっかりと掴まえておかないからだ。ザマアミロ。









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2014.6