5 - あの子のほとり




「ほら一年もっと声出せー、二年しっかり足動かせー、三年もここ一本集中するよー」

 例えばもうすぐ午前中の練習が終わる、いちばんみんなが疲れていて気持ちが散漫になっているとき。及川がチームに向かってあの澄んだよく通る声を響き渡らせると、それぞれ学年ごとに揃う「はい!」という返事と共に第三体育館が一気に緊張感を取り戻す。練習を見学しているとときおり訪れるこの瞬間が、私はたまらなく好きだった。背筋がぞくりと疼く。チームメイトの誰にもできない、あるいはコーチや監督にすらできないことを、彼はたった一声でやってのけてしまうのだから。チームを率いているというのは、「主将」であるということは、こういうことなのだろう。及川の統率力は、頭ごなしの強制力ではない。相手の側からこのひとになら束ねられたいと思うように、徹底的に部員ひとりひとりを懐柔していくような力だ。花巻は及川のこの能力を「宗教じみててえげつない」と言っていた。自分もその一員のくせして言葉はあれだけど、その通りだ。

「おら、主将にもっと楽させろよ! お前ら!」

 及川の声が体育館をまとめあげたあと、副主将である岩泉くんの特大ボリュームの怒号が続く日もある。及川の淡々と手厳しい声とは違って、岩泉くんの声はいつも熱っぽくて荒々しい。彼の声はチームに、及川が声を掛けなければどうにもならなかったついさっきまでのふがいない現状を反芻させる。こうやっていちばん肝心なときに副主将が率先して主将を立てている姿は、普段の彼らを知っていると少し不思議な光景でもあるかもしれない。私は逆にバレーをしている姿を先に見ていたから、コートの外での彼らの、じゃれあうような(と言うと本人達はいたく嫌そうな顔をするのだけれど)独特の距離感のほうが新鮮だった。コートの上にはコートの上にしかない関係がある。だからこそそれははかなく、そして力強いのだ。



 正午を少し過ぎたころの刺すような日差しをガラス扉の向こうに眺め、外に出ていくのをためらってしまう。腕時計を確認すると、学校前のバス停にバスが着くまで中途半端に時間が空いていた。午後の学習塾の時間までは充分あるけれど、日曜日はバスの本数が平日よりも少なく、今ここを出ても炎天下でじっとバスを待つはめになるだろう。どうしたものかと突っ立っているうち、後ろから女の子たちのざわめく声が近づいてきた。振り返って見ると、体育館の出入り口付近に他校の女の子の集団が溜まっていた。

「あー…及川さんならたぶん出てきませんよ。今日は部室棟で主将会議と、あとローカル誌の取材のひとも来てたんで、終わったらそのまま練習再開すると思います」

 後輩の男の子がひとり不運かなギャラリーに囲まれ、事務連絡のようにつらつらと及川のスケジュールを述べる。すると彼の説明に、女の子たちは一斉に「えーっ」と残念そうな声を上げた。お話できると思ったのに、とか、直接お手紙渡したかったのに、とか、盗み聞きするつもりもないけれど大声で話しているので筒抜けだった。なんとなくその場に居づらいような気になってしまって、甲高いその声に気圧されるようにして重たいガラス扉を両腕でひらいて外へ出た。体育館の外は正午の陽射しが皮膚にべたりとまとわりつくような、どこにも逃げ場のない暑さだった。

 玄関を出たすぐのところにずらりと並ぶウォータークーラーの前では、一年生の部員たちがいくつもジャグを並べて午後の練習のためのスポーツドリンクを作っていた。ぱきぱきと氷を製氷器から取りだす音。ポカリスエットの粉末のちょっと酸っぱい匂い。そういえば見学中からずっと水分を摂っていなくて、喉がからからだ。手持ちのペットボトルもない。そう思って、踵を返した。第三体育館と部室棟をつなぐピロティに、自販機があることを思い出したのだ。



 午前の練習が終わってしまってピロティはとても静かだったけれど、自販機の前にはちょうど先客がひとり立っていた。昼時の部室棟から漏れ伝わる遠い声の波に揺られながら、彼の名前を呼ぶ。何の考えもなしに、「岩泉くん、お疲れ様」と。すると名前の主は腰を屈めてペットボトルを取りだすついでにこちらを振り返り、少し驚いたような顔をしてから「おう、お疲れ」としなやかに返してくれた。

「ようやくまた、夏らしい格好になったな」

 そういえば、今日はちょうどあのときとまったく同じ格好だ。グレーの半袖シャツ一枚に、ベージュのカーディガンを腰に巻きつけている。しぶとかった内出血も何も永遠に残るわけではない。そんな当たり前の事実に安堵する気持ちに混じって、わずかなさみしさをも感じた自分がおそろしかった。こんなことをしていたらきっともう、だめなのに。あの錠のような痛みが、止まる術もなく転がっていくしかない二人を辛うじて引きとめているように感じられたのだ。

「お陰様で」

 そう応えると、なんだそりゃ、と言って岩泉くんは手にしていたペットボトルのキャップをひらきながら小さく笑った。肩にかけたタオルで岩泉くんが顔を拭う。ついさっきまでのハードな練習の名残が、湿った髪やくたくたの練習着、ほんのり漂う汗の匂いの中にまだ散り散りになっているようだった。岩泉くんがごくごくと豪快に喉を鳴らす横で私も財布から小銭を取りだし、彼が手にしているのと同じラベルのボタンを押す。ガコン、という音と共に目当ての飲料水が取りだし口に落ちてきて、それを拾いながら、立ち上がると自販機の横の掲示板がふと目に入った。一枚だけチラシが貼られている。来週の、この近くの土手で開催される花火大会のお知らせだった。

「及川と行くんだろ、それ」

 ペットボトルを開けるのも忘れてしばらくぼうっとチラシを眺めていると、岩泉くんがぽつりと何気ない言葉を投げた。当然そうだろう、というような口ぶりで。

「え、ううん? そんな話してないよ」
「は、だってあいつ浴衣がどうのって……」

 途中で口ごもった岩泉くんの、しまった、という表情を見てお腹に冷たい水がさっと一筋に落ちていくような心地がした。まだペットボトルに口なんかつけていないのに、だ。わけもない疑心暗鬼に囚われて落ちこむよりも、ここで岩泉くんと気まずい空気を作ってしまうことが耐えられず、気づけば口角を上げて笑顔を作っていた。たとえ強がりに見えていても、押し黙るよりはましだった。

「及川は女の子いっぱい持ってるからなあ」

 彼が私の見ていないところで何をしているのかなんて分からない。実際目に見えているだけでも、カノジョが居るとか居ないとかはお構いなしに、及川の周りには親しげな女の子が絶えなかった。そんなことでいちいち胸を痛めていても仕様がないし、だいたい自分が果たして胸を痛めていい立場に居られているのかも、あまり自信がない。いつまでたっても隣で手をつなぐ二人の距離より、体育館の上から彼のトスを眺める距離のほうが、私にはしっくりくるような気がしてしまうのだ。いい加減、そんな言い訳したくないけれど。

「いや……そこまで軽くねえよ。あいつも」

 岩泉くんの口ぶりには、口が滑ったことを埋め合わせているような後ろめたさはなかった。適当に場をつなぐために発せられた言葉ではないとすぐに悟る。だって岩泉くんは私の何倍も及川のことを見ているし、知っているのだから。

「岩泉くんは信じてるんだね、及川のこと」

 嫌味とも僻みとも取れる言い方をしてしまった。私の知らない彼への確信を聞かされるよりも慌てて取り繕ってくれたほうが、もしかしたら安心したのかもしれない。そんな我侭な想いが頭を過った。ピロティの影の下を風がさっと通り抜けていく。じりじりと肌に浮かんでいた汗が吹かれて、コンクリートの焼ける夏の匂いが胸に届いた。

「私はあんまり、信じられないときがある。情けないし、苦しいけど」

 無意識に右手で左の二の腕をさする仕草をしてしまい、してしまってからはっと気がついて後悔する。どうやらこの動きが癖になってしまって、未だ抜けきらないみたいだ。本当の姿はどうだとか、何が正解だとか、そんなことはどうでもいい。とりたてて仲が険悪なわけでも、すれ違っているわけでもない。ただ、自分なりにひたむきに見てきたはずのものがあまりにも脆く、こんな些細なことで崩れてしまうのかと思うと、漠然とさみしいだけなのだ。
 岩泉くんが無表情のままがしがしと手のひらで髪を掻いた。そしてもう一口、がぶりとお茶を飲む。喉仏が大きく上下して、500mlのペットボトルがあっという間にもう半分にまで減っていた。

「なら、俺と一緒に行くか」
「……え?」

 あまりにもさりげなく、あまりにも自然な素振りだったせいで、聞こえなかったわけじゃないけれど何を言われているのか分からなくて思わず聞き返してしまった。しらじらしい小芝居で稼いだ数秒間、無意識のうちに作ってしまった余白では、有効な対処法などとても考えることはできない。岩泉くんの眼がじっと、私に向けられる。

「花火。七日だろ、ちょうど午後練もねえし」

 七月七日。確かにその日の部活は午前中だけだったはずだ。部外者なのにバレー部の事情に詳しすぎる自分もあれなのだけれど、一年生のころから帰宅部のくせして、帰りしなに運動系クラブ用の連絡ボードの前でバレー部の欄を確認するのが日常だった。そして昨日見た連絡板には彼の言う通り「7/7、点検作業、午前練のみ」という殴り書きがしてあったことを、残念ながら私の頭はばっちりインプットしてしまっている。

「あ、花巻とかも誘ってってこと? それなら、」
「いや、違う。二人で」

 きっぱりと言い放たれた。見事なまでの玉砕で、もうどうにも答えようがなくなってしまう。視線を足元に落とすと、暑苦しい焦茶色のローファーは少し埃っぽくてだらしがない。さっき風を受けて涼しくなった背中に、また嫌な汗が滲んでくるような気がした。私、岩泉くんのことも何も知らないんだな。ふと、そう思う。当たり前だけど誰にだって、誰にも見せていない、星のない夜のような闇がある。きっと。

「……二人、はちょっと……」

 そう言うよりほかになかった。髪を触る。前髪を掬う。顔のまわりに手を運ぶのって防衛本能の表れなんだって、いつかのテレビ番組で言っていたっけ。まったく、今の私にとっては忌々しい情報でしかない。自分を守ろうと必死になっている。一体、何から? 例えば、岩泉くんの強い瞳から。自分の迷いや弱さから。及川の、近くて隔たったその存在の重みから。

 岩泉くんのほうをおそるおそる窺うと、彼は私の視線に気がついたのかそれとも目が合う瞬間を待っていたのか、私の困り果てた表情を見てにっと笑った。いたずらっ子のようなあどけない笑顔が、ささくれだった心にじわりと広がっていく。混乱しているうちに、岩泉くんは手にしていたペットボトルをごつんと私の頭の上に乗せた。及川に対してもそうだけど、もしかしたら岩泉くんは言葉より先に手が出てしまうタイプなのかもしれない。

「ほら。充分信じてるべ、及川のこと」

 ペットボトルの底で脳天をやわく押さえこまれながら、そんな間抜けな格好をしたまま彼の言葉を何度も身体じゅうに駆け巡らせる。単純明快な、充分信じている、という言葉を。頬が熱いのはその響きのせいなのか、はたまた大真面目になって想像してしまった、「二人」のまぼろしせいなのか。

「……岩泉くん、もしかして鎌かけた? いま」
「さあな」
「あー、もう、絶対そうだ。ずるい、本気にしちゃったじゃん」

 頭の上の間抜けなペットボトルを手のひらで払いのけながら、見えない熱を誤魔化すように笑ってみせると、代わりに岩泉くんはさっきまでのいたずらな笑みをすっと仕舞いこんでほのかに神妙な面持ちになった。結局、せっかく買ったのにまだ開けてもいないお揃いのペットボトル。ほんの少しの間にも、夏めく温度のせいで、ペットボトルを掴んでいた手のひらは随分と水滴で濡れてしまっている。

 岩泉くんが首の裏を手で押さえながら視線を外す。伏せた目をふちどる男の子の、その生まれたままの、なんの手入れもされていない短い睫毛が美しかった。

「いいよ、だったら本気で考えとけよ」

 夏のさなかに寒いはずなどないのに肌が粟立つ。思考なんかとうてい追いつかないけれど、体は正直に彼の言葉と同じ速度で何かを感じとっている。岩泉くんの瞳が持ち上がり、だんまりしたままの私の脆い双の目を捉えた。思わずたじろいでしまいそうになるほどの迫力なのに、その目の奥にぼんやりとあたたかな灯が点っているように感じられる。それが誰のための何のための優しさなのか、簡単に自惚れられるほど私の優しさは確かなものではないけれど。

「そしたら少しは楽になんだろ」

 彼の言葉と共に、汗をかいたペットボトルが指先を滑って手の内から転げ落ちた。二人きりの理科室で大量の試験管を割ってしまったときのように、動揺が目に見えるかたちになってより一層の動揺が全身を襲う。慌ててしゃがみこむと岩泉くんもまた同じようにそこに膝をついて、濡れたペットボトルの上で半ば無理やり、半ば偶然めいた仕方で、二人の手のひらが重なった。

 岩泉くんの大きな手に包みこまれた右手が、自分のものではないみたいな不思議な熱と痺れを持つ。しゃがんだままの目の高さで、わざとらしく視線がぶつかり合い、初めて彼の感情の底を覗いてしまったような気がした。透明で、明るくて、浅いプールのように揺らめいて。もしもその澄んだ水に足首を濡らし、思い出も絆もひとつもないという素振りで無心にじゃれあうことができたなら、それはどんなにか真昼の眩しさに満ちた幸福な戯れなんだろう。









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2014.6