6 - 遠い夏の花火




 しゃく、しゃく、しゃく、しゃく。サンダルの薄いソールが土手道の砂利を踏みしめていく。しゃく、しゃく、しゃく、しゃく。幼い歩幅の足音が二つ。祭りのあとの怠惰なざわめきと、ほのかな火薬の匂いの中を。

 ――おいかわ、遅い。

 前を歩いていた岩ちゃんがとうとう立ち止まって振り返り、急かすように俺の手を引っ張った。屋台で食べ漁った綿あめやチョコバナナのせいで、どちらの手のひらも汗とは違う不快なべたつきを残していた。年に一度の、近所の花火大会の帰り道。お腹はいっぱいで、首に提げたがまぐちのお財布は空っぽ。幼き日の二人はもう眠気に襲われはじめていて、岩ちゃんはちょっと機嫌が悪かったし、俺は宵闇と夢の区別がおぼつかず浮き足立っていた。瞼をこしこしと擦りながら、岩ちゃんに引きずられるようにして砂利道をまた、歩きだす。

 ――岩ちゃん、岩ちゃん。
 ――あー? なんだよ。
 ――あのね、七夕の日に花火したら、天の河が見えなくて織姫と彦星が会えなくなっちゃわないのかな。

 花火が終わったあとの夜空は少し煙たくて、斜がかかったような紺色をしていた。花火はとても綺麗だったけれど、肝心のお星さまはちらちらと瞬いているだけで、帯をなす星々の連なりを頭上に見つけることはできなかった。一年に一度しか会えないのに。河を渡らないと会いにいけないのに。素朴な疑問をぶつけると、岩ちゃんは目をまんまるくして俺の顔を見た。そうしてぽかんと口を開けたまましばらく黙っていたけれど、やがてどこか自信なさげに視線を逸らして、頬を指で掻きながらこう言った。

 ――……おれ、織姫と彦星が一緒に見てるんだと思ってたよ、花火。

 ぽつり、と岩ちゃんの言葉が透明な真水に沈んでいく水銀のように、澱みなく混じりけなく一筋に体の真ん中を落ちていった。どこに行き着いたかは分からない、ただ、拡散することなく俺の中のどこかへ着地したとのだということはちゃんと分かった。たとえずっと同じものを見ていたとしても、肩を並べて同じ花火を見ていたとしても、こんなに違うことを想っている。こんなに別々のことを感じとっている。そういう、そういうものなんだ。新鮮な驚きの底できらりとさみしさが光った、小学四年生の七月七日。

 それでもやっぱり家に帰って軒先の笹の葉に仲良くぶら下がるふたつの短冊を読んでみたら、そこには全く同じことが書いてあって、お揃いで、幼心にもなんだか可笑しくて笑ってしまった。ほっとしたのかもしれない。そういう、そういうものなんだ、と。同じものを見据えて、別のことを考えていても、やがてまた同じほうを向いている。きっと彼とは、そうやって歩いていくんだな。あのボールをあの場所で一緒に、追いかけている限り。

 バレーが上手くなりますように。あのころから、俺たちが短冊にこめる願いはとても一途だ。



 七月初めの練習を朝から晩までみっちりこなしてくたくたになって第三体育館を出る。時刻はもう七時を過ぎていたけれど、それでもまだ夏の夕暮れ空は完全には暗くなりきっていなかった。部員たちが全員出払ったのを確認してから部室とコーチ室の鍵を閉め、岩ちゃんと肩を並べてのろのろ正門に向かって歩いていく。お互い疲れ切っていて、こんなときはとりたてて会話などしないものだ。

「あっ、及川くんやっと来たぁ」

 十数メートル先の正門横に立っていた女の子二人組が、歩いてくる俺たちの姿を見つけるなり明るい声をあげた。二人はこの近くの女子校のセーラー服を着ていて、外灯の弱い光の下では一瞬判別ができなかったが、よく見るといつも試合を観に来てくれている馴染みの顔だった。ロング髪の子と、ショートカットの子。名前は……いつだったか教えてもらったはずだけれど、ぱっとは出てこない。きっと今日の練習も観てくれていたんだろう。午前中だけが観に来ていたことしか、把握してなかったけれど。

「あらら、ずっと待ってたの? ごめんね遅くなっちゃって」
「んーん、全然。お疲れ様。あっ、これ差し入れ。岩ちゃんさんにも」
「……あ、っす」

 隣で岩ちゃんが無表情のまま軽く会釈をする。女の子が練習や試合終わりに待っていて、俺が何かを貰い受けるついでみたいに自分にもそれが与えられること。もう慣れっこなのだからいちいち何も考えてなどいないだろう。ロング髪の彼女が寄こしてくれたのは近くのコンビニで買ったであろう、紙の容器に包まれた温かいからあげだった。これはけっこう、嬉しい。もう意味分かんないくらいお腹空いてるし。ありがとう、と言って笑顔で差し入れを受け取ると、彼女はきらきらとした目で俺を見上げ小首を傾げてみせた。まるで何かをおねだりするように。

「そうだ、あのね及川くん、来週の花火良かったらうちらと一緒に行かない?」

 ほとんど頭を回さずに会話をしていたせいで、思わぬ不意打ちを食らってしまった。来週の花火、と言われて咄嗟に返す言葉が見つからない。なるほどこのための待ち伏せと気の利く差し入れだったのか。

「みんなでわいわいって感じだけど……だめかな?」

 ロング髪の彼女は両手のひらを組んで腕をぶらぶらさせながら、ちらりと岩ちゃんのほうを見遣った。どうやらバレー部の仲間もお誘いの勘定に入っているらしい。というより、ダシにしているのか。ああ、どうしたものだろう、これは。確かに特定の相手がいなければ断る理由もないのかもしれない。こうやって近づいてくる女の子たちと遊ぶことも今までなくはなかったし、まだ当日の予定が入っているわけでもない、だけど。

「あー……どうだろ。先約作ったらカノジョにおこられちゃうかもしれない」

 逃げ道のようにとの関係を口にしてしまって、多少の罪悪感が背を駆けあがるけれど他にどうしようもない。別にひけらかすことでもないけれど、必要以上に隠すことでもないのだから。やっぱりそっかあ、と言ってロング髪の彼女は残念そうに肩を落とした。やっぱり、って何がやっぱりなんだろう。女の子の情報網はおそろしい。

「及川くんのカノジョさんっていつも試合に来てる子だよね」

 ショートヘアの女の子が、髪の毛はこれくらいで、色白で細くて、青城の制服で……と身振り手振りを加えながら俺に問いかけた。なんだ、いつの間にやらがっつりバレている。もしくは直接、に声を掛けたことがあるのかもしれない。どうして女の子って、こんな片田舎のカノジョ持ちだと分かっている男をわざわざ待ち伏せしてまで追いかけるんだろう。次の順番でも待っているのか、追いかけること自体が楽しいのか、それとももっと違う感情に動かされているのか。かつてのもその中の一人だった。その情熱の出どころもその幻想の眩さも分からない俺には、もしかしたらのいちばん大切なものを理解してあげられる日なんて永遠にやってこないのかもしれない。そして自分自身のことも。そう思うと、やりきれなかった。

「そーだよー。かわいいでしょ?」
「あっ、ノロケられたし」
「でも本当にかわいいよね、あの子。超お似合い」
「ふふ、自慢のカノジョだもん」
「「いーなー」」
「……及川、バス」

 岩ちゃんが盛り上がりかけた会話を制するようにぼそっと口を挟む。俺の二の腕に軽く肘鉄砲を食らわせて。いつもの乱暴な合図を助け舟に、ようやく俺は彼女たちにさようならの手を振ることができた。彼女たちは駅のある坂の上へ、俺たちはバス停のある坂の下へ。坂の上からばいばーい、とひらひら手を振りかえす二人に向かって「お祭りで見かけたら声掛けてねー」と何気なく叫んだら、女の子たちには「リア充爆発しろー」と返されるわ岩ちゃんには後ろから膝蹴りされるわでさんざんだった。蹴られた太腿に鈍い痛み。さっきまで喋るのも怠いくらいだったのに、まだ幼馴染に蹴りを入れる余力があるとは驚きだ。



「……のこと誘うんならさっさと誘えよグズ川」

 岩ちゃんの急かしも虚しく結局バスを一本逃してしまい、蒸し暑い夜のバス停で十五分の待ちぼうけを食らうことになってしまった。貰ったからあげをあっという間にたいらげ、スクイズに残っていたぬるいスポーツドリンクも飲み干し、ベンチに座ってうだうだ時間を潰していたときのことだ。岩ちゃんのほうからの話をするなんて初めてのことだった。バレーのことなら事細かく説教もすれば話し合いもたっぷりするけれど、色恋沙汰に関しては俺が誰と付き合おうと誰にフラれようとお構いなしだった岩ちゃんが、こんな口出しをするなんて。あからさますぎるって気づいてないなら無防備だし、気づかれても良いと思っているなら挑戦的だ。岩ちゃんのくせに。

「たまには誘われたいじゃん」
「……知らねえけど。午前に部活入ってりゃ向こうから誘いにくいだろ」
「そういう遠慮がイラつく。まあ三年集めて行くのもいいよね、去年みたいに」

 十年のバレー生活の中で、今のチームがいちばん居心地が良かった。同学年は誰もが努力を惜しまないし、互いに尊敬しあえる仲間だと信じられる。いわゆる「友達」ではないのかもしれないけど、なんだかんだ一生だらだら続きそうな関係だなあと思っている。

 小学校の高学年に上がったころから、俺の周りにはちらほらと女の子たちが集まってくるようになった。自分で言うのもなんだけど、年の離れた姉やその友人に物心ついたころからちやほやされてきたせいか、女の子の集団に放りこまれるのも女の子と話したり手をつないだりするのも、あんまり恥ずかしいと思ったことがなかった。そうやって照れもせず女の子たちと接しているうち男友達はだんだんと減っていって、小学校のときはもっぱらからかいの的にされたし、中学のときは煙たく遠巻きにされていた。高校に入ってからも気の置けない友達はなかなかできなかったけれど、それを孤独だと思ったことは一度もない。俺にはバレー部の仲間がいたし、隣にはいつも岩ちゃんが居た。それだけで良かった。バレー以外のことに頭を回すのがこわかった。そんな暇があるならバレーをしろと、絶えず意地悪な神様に追いたてられているような気がしたから。

 ブロロロロ、と排気ガスを盛大に吐き出す音がして顔を上げたけれど別のバス停へと向かうバスが通り過ぎただけだった。スマートフォンの明かりを灯す。目当てのバスが来る時刻までまだあと五分くらいの間があった。

「そんな悠長なこと言ってっと、俺が誘っちまうぞ」

 岩ちゃんの声が薄闇を裂くように響いた。隣を見遣ると、彼は意外にもしれっとした表情で俺を伺っていた。背景に沈んでいた蝉のうるさい鳴き声が急に俺たちの周りを取り囲むように聞こえてくる。じわり、じわりと汗が滲んで、その代わりにゆっくりと岩ちゃんの言葉が心にも体にも染みこんでいく。

「ダウト」
「外れ」
「嘘だ。岩ちゃんはいつも俺に、なんでも譲ってくれるもん」
「はぁ? ンなこと言いながら牽制しまくってたのはどこのどいつだよ」

 牽制。そのたった一つの単語に、ぐっと次の言葉を押しこまれてしまう。いつも通りの口喧嘩だったらこんなにすぐに負かされることはないのに、さりげない嫉妬を見破られたことに不意を突かれ、あっけなく形勢を奪われた。自分の余裕の無さに否が応でも気づかされる。周到にCDを奪って、浴衣の話をして、首元の内出血を見せて。だってこわいじゃん。が盗られるのも、岩ちゃんに盗られるのも、大事なものが一気に失われてしまうみたいで。そんな子どもじみた駄々みたいな焦燥を見抜かれていたことが堪らなく恥ずかしくて、でもどこかで、ほっとしている自分もいて、気が抜けたらなんだか不思議と笑えてきてしまった。

 こんなときふと、遠い夏の日の花火のことを思い出す。原風景というやつなのか、あの日味わった、輝かしいさみしさと安堵を。十何年一緒に居たって分からないことはたくさんある。知っていることと知らないことはいつも表裏一体だ。些細なことまで知れば知るほど、知らないひとつひとつの重みが増していく。岩ちゃんだって今、俺の全てを見透かして話しているわけじゃない。そういう、そういうものなんだ。ずっとそうやって、歩いてきた。

「……岩ちゃんなら大切にできそうだね、のこと」

 両膝の上に両手のひらを乗せて足先に視線を遣ると、かたちだけのはずが本当にしおらしい気持ちになってつい卑屈なことを口走ってしまった。閉じ込められたみたいな、風のない夜。臆病な本音がどこにも消えずにここに残る。こんなときこそ理不尽なくらい横暴な岩ちゃんの怒声が欲しいのに、岩ちゃんはいつも肝心なときほど静かな声で話した。あるときは諭すように、またあるときは迷いをこめて。

「お前だって、できるよ」

 かっこつけてんじゃねーぞ。頭を押さえつけるようにして、岩ちゃんが俺の髪をくしゃりと撫ぜた。わし、わし、わし。せっかく部活終わりにセットし直した髪があっという間に崩れていく。同じ大輪の花火を見上げて、織姫と彦星の違う物語を思い描いたあの日のように、岩ちゃんの言葉が混じりけなくするりするりと俺の奥底へ辿り着いた。

 ねえ、岩ちゃん。岩ちゃんは知らないかもしれないけれど、俺って本当にグズでどうしようもないヤツなんだよ。岩ちゃんの言葉みたいに真っ直ぐに、のまま愛せない。どうしても俺のかたちに歪めたくなる。自分のかたちが一体全体、どんなものかも知らないで。









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2014.6