7 - 天の河




 、オイカワくんって子がお迎えに来てるわよ。ノックもせずにお母さんが部屋にやって来てそんなことを言うので、出掛ける前からいらぬ汗をかいてしまった。すぐさま携帯を確認するけれど新しい連絡は入っていない。慌てて巾着に荷物を詰める私を尻目に、お母さんは「あんた、すっごい美男子とお付き合いさせてもらってんのねえ。今度うちにお呼びなさいよ」なんてうっとりした声で呑気に話し続けた。ごめんなさいお母さん。は悪い子なので、お母さんもお父さんも居ない間にその美男子をもう何回か部屋に呼んでいるのです。口が裂けても言えないけれど。

 身支度を終えて玄関に飛びだすと、ドアを開けた瞬間、待ち合わせの時間も場所も無視した人影と眩しすぎる西日がわっと視界の中に飛びこんできた。なんでこんなドッキリみたいなことするんだろう。間抜けなシャッター音と、スマートフォンを片手に持ちながらにっと笑ういたずらな表情が、私をからかうように渇いた空気にきらめいていた。

「激写」

 カメラレンズの向こう側からひょいと顔を出して、及川は得意げにピースサインをして笑ってみせた。浴衣姿の及川はいつもと雰囲気がまるで違う。やんちゃな笑顔をしていてもどこか涼しげで、その表情すらいつも以上に大人びているように見えた。胸が苦しいのは、年に一度の固い帯のせいだけじゃない。

「……うちに来るなんて、聞いてない」
「そうだね、言ってないし」
「言ってよ……!」
「別にいいじゃん、の浴衣姿、一番乗りしたかったんだから」

 こんな勝手をしておきながら、さらりといじらしい台詞を言ってのける。そんな彼にほだされてしまう自分も自分だ。鼠色の地に白の格子柄の浴衣は彼にとても良く似合っていて(きっと何を着ても着こなしてしまうのだろうけど)、滑らかなダークブラウンの髪も艶やかに映えている。さりげなくも見事な立ち居だ。私はと言うと、高校入学の歳にお母さんから譲り受けた白地に青と紫の撫子柄の浴衣に、今日は今年初めて袖を通した。帯と巾着と、下駄の鼻緒は紺色で揃えてある。前日の夜に「明日のお祭り、一緒に行こう」と電話で誘われ大急ぎで箪笥から引っ張り出してきたのだ。そのせいで、今日は朝からてんやわんやだった。

、下駄歩きにくくない?」

 玄関前の段差を降りるたどたどしい私の足取りに、及川はちょっと心配そうな顔をした。こういう目ざとさというか気遣いには掛け値なしでどきりとしてしまうものだ。

「徹こそ」
「俺のはほら、ぺったんこ」

 ひょいと片足を上げて見せてから、彼は「手、つないでおこうか」と自然な仕方で右手を差しだした。異論があるはずもなく黙ってその手につかまると、及川は満足げににっこり笑って歩きだした。歩幅は小さく、私たちはいつもよりもゆるやかなときの流れを歩いた。

 私の家のある住宅街から河川敷まではゆっくり歩いても十五分ほどの道のりだった。色とりどりの屋台が連なる夕暮れの土手道は行きかう人々の幸福に火照り、思い思いの興奮と熱気とで溢れんばかりに賑わっていた。すれ違う女の子たちが、あるいは男の子たちすら、浴衣を着こんだ及川を目で追うように眺めるので最初はむずがゆかったけれど、それも陽の明るいうちだけだ。やがてすべてが闇に染まる。高校に上がる時期にちょうど市の中心部の分譲マンションから今の家に引っ越してきた私にとっては、このあたりのお祭りにさして馴染みがあるわけではなかった。それでも漂うソースの匂いや湿った草の匂いを嗅いでいると、どこからか懐かしさが込みあげてくるから不思議だ。私の幼き日はかつてここにはなかったけれど、今ここには確かにある。かすれた思い出のコードを乗せて。

「ずーっと昔、岩ちゃんとここの花火を見に来たときにね」

 太陽は転がり落ちるように沈んでゆき、今や及川の表情はずっと続く提灯の明かりを頼りにしなければ窺えなかった。いつもとは違う場所で、いつもとは違う服を着て、いつもとは違う光に照らされている。それだけのことなのか、それとも二人にとっては大きなことなのか。横顔が優しい提灯の灯に点されて、温かく浮かび上がった。良かった、ちゃんと、美しい。

 及川は私の知らない幼少時代の思い出を楽しげに話して聞かせた。小学四年生の夏、一緒に花火を見て、その帰り道に七夕の伝説の話をしたこと。及川は花火の光に掻き消されて二人は出逢えなくなってしまうんじゃないかと心配し、岩泉くんは二人揃って幸せに花火を見ているもののだと思っていたこと。ロマンティックでかわいらしい昔話に、私はときおり相槌を挟みながら穏やかに耳を傾けた。

 連なる屋台の賑わいが少しだけ遠のくと、土手の斜面にはブルーシートをひろげて今か今かと空を見上げているカップルやら家族連れやらの丸っこい背中がたくさん並んでいた。どこからともなく太鼓の威勢の良い音が漂うように耳に流れこんでくる。いつの間にかとっぷりと辺りは闇に包まれていた。

ならどう思う? は、織姫と彦星はちゃーんと出逢えるんだと思う?」

 及川は私を導くように土手を少し降りてゆき、ぽつぽつと点在するガードレールのひとつに軽く腰掛けながらそう問いかけた。草むらに足を踏み入れると、草と土の匂いがより一層強く感じられる。おろしたての浴衣を着ている身としてはガードレールに座るのは少々憚られたけれど、慣れない下駄に早くも疲れていた足には確かにこの辺りで休息が必要だった。彼の隣にそっと、腰を下ろす。一番星の光りはじめた夜空に視線を遣りながら。

「私は……」

 その続きを紡ぐことができなかったのは何の考えもなかったからではなく、及川が不意に私の顎に指を掛けたからだった。言葉を失う。彼はかすかにひらきかけていた私の唇に人差し指をそっと押しつけた。そんなことをしたら唇に塗った滅多につけないグロスが、彼の指にうつってしまうのに。呆気にとられていると及川はへらっと笑って、「ごめん、やっぱり聞けない」と弱々しく呟いた。指先が離れてもなお、私の言葉は彼の仕草に吸い取られたままなかなか戻ってこない。釘づけだった。その触れ方にも、視線の遣り方にも、息づくすべてに。

 名前を呼ばれると同時に一陣の夜風が吹いた。後れ毛がふわりと河の流れの海へと続くほうへなびいてゆく。及川の顔はぞっとするほど白く、触れれば冷たいのではないかとすら思われた。自分から問いかけたくせに私の答えを閉ざしてしまう、そんな我侭さも、気まぐれも、あるいは臆病さも、あなたをあなたの輪郭にする一部なら喜んで受け入れたい。気持ちだけが先走って歯止めがきかなかった。ずっと、あなたの隣を許されるようになってから。空回り続けた歯車がむなしく空を切る音だけが、いつも胸に響いていた。

「他に行きたいところがあるなら、無理してここに居なくてもいいんだよ」

 紛れもなくあなた一人の下した決断が、ついさっき歩きにくそうにする私を気遣って手を差し伸べたときみたいに、優しく私に委ねられる。だけどこの諭すような優しさは、決して私をいたわるためのものではないんだろう。及川はゆっくりと視線を外して、眼前の昏い川面を眺めた。私の顎を無遠慮に掴んだ右手で、前髪をさらりと掻きあげながら。

「俺のとこからよそ見されたら、もう気が狂いそうになる」

 俺、弱虫だからさ。流麗な仕草とは裏腹に、そんな身も蓋もない残酷な言葉で私を試している。彼の言葉を咀嚼するように意識して瞼を閉じるのは奇妙で、その瞬間をとてもまどろっこしく感じた。既に出かかっていた涙が当たり前のように溢れて止まらなかった。瞬けば瞼は大粒の雫を幾粒も生みだし、頬に小さな川の流れを作りあげる。再び視線を戻した及川は、拭われることなく流れ続ける私の涙をしばらく黙って見ていた。いっそそのまま無視してくれたら、良かったのに。自分から突き放したくせに彼は、あろうことかやがて情にほだされるようにして、豆のつぶれた親指のはらを私の目元に添えようとしたのだ。
 彼に嫌われないように、彼の迷惑にならないようにと、彼のなすがままにされてきた私の心は、そのとき初めて一つの取り返しのつかない反抗をした。その狡い手を、払いのけて。

「……よそ見できてたら、こんなに苦しくなんかない」

 汗ばんだ手のひらが、乾いた頬を叩く音。もちろんドラマのように潔くはいかない。それはあまりにちんけで、壊れた玩具の太鼓みたいに間抜けな音で、あっという間に打ちあがっては夕闇に消えてしまった。



 誰かが私のことを呼んでいるような気がして振り向いた。その声の主が及川であることを期待していないわけではなかった。ありったけの力をこめて土手道を駆けてきたせいもあって、ばくばくと胸が暴れている。屋台の立ち並ぶほうへと歩いていく人の波に逆らい、かき分けるようにして目の前に現れたのは、よれた白のTシャツに色落ちしたジーンズ姿の岩泉くんだった。どこから追いかけてきてくれていたのか、彼もまた、ほんのり息を乱している。

 立ち止まってみると無理をして走った下駄履きの足はどうしようもなく痛かったし、だらだらと浴衣の下を流れる汗も気持ちが悪かった。涙は風を受けているうちに乾いてしまったのか、頬に汚い跡が残っているのだろうということが自分でも分かった。今更頬を擦っても、醜さに変わりはない。暗闇が都合の悪いことの全てをかき消してくれれば良いのにと思いながら、ばつが悪くて彼から目を逸らした。

「おま……なんで一人なんだよ」

 岩泉くんは立ち止まった私に近づきながら、弾んだ息もそのままに開口一番そう尋ねた。まるで叱られているかのようだった。弁解の余地は無い。あるいは逃げる余地なら、いくらかあるだろう。

「岩泉くんは一人じゃないみたいだね」

 岩泉くんが片手にぶらさげていたビニールの袋からは、数本のラムネ瓶が覗いていた。買い出しじゃんけんにでも負けてしまったのだろう。部活の仲間で来ているのか、はたまたクラスメイトと一緒なのか。彼は私の言葉に少しだけぽかんとした顔を見せたが、すぐに「話を逸らすんじゃねえよ」とでも言いたげな手厳しい顔に戻った。

「……大方はぐれたってところか」

 違うよ、とすぐさま反論してみたが自分でもびっくりするくらいに覇気が無い。岩泉くんが疑り深そうな瞳をこちらに向けた。岩泉くんの澄んだ声は落ち着きを宿しているけれど、彼の唇が動くたびに身構えている自分が居た。

「及川は」

 漂っていた気まずさも悲しさも全てその名前の奥に吸い込まれ、空気が危ういバランスを崩して揺れてゆく。周囲の賑やかさが渦潮のようにとぐろを巻いて闇の中へと消えた。ピンクのライト、黄緑のライト、ちかちかとうるさい電飾の波は、岩泉くんが背中に背負っているだけでなんだかとても意味あるものに思えた。

「……置いて来た。ぶっ叩いてきた」
「はぁ?」
「あ、嘘だと思ってるでしょ」

 冗談めかしてそう言うと、埒が明かない、とでも言うように岩泉くんはふぅと溜め息をついて目を伏せた。ジーンズのポケットから携帯を取りだして、及川に連絡でも入れるのかと思いきや時間を確認してまたすぐにポケットの中へ戻すだけだった。

「嘘だと思いたいんだよ」

 シンプルな言葉ほど耳にも胸にもよく馴染み、よく残った。嘘だと思いたい。本当にその通りだ。だけどきっと時間を巻き戻せたとしても、私は彼の下した決断に対して同じように返しただろう。岩泉くんも私もそれ以上続ける言葉を持っていなかったから、気まずい沈黙を持て余してしばらく向き合っていると、やがて電信柱に括りつけられたスピーカーから花火開始の定刻を告げるアナウンスが流れ、川原のほうでわっと大きな歓声が上がった。

、上」

 始まるぞ、と岩泉くんが呟いた途端、大きな砲音と共に大輪の華がぱっと夜の闇に咲いた。呼吸することを、一瞬だけ忘れる。ふと隣を見遣ると岩泉くんも同じように空を見上げていた。瞳の中に、光のさざ波が立っている。綺麗な色だ。余韻に浸る暇もなく次々と打ちあがる尺玉花火は、川辺に集まる人たちの歓声や拍手を受けて、より一層鮮やかに輝いているように見えた。

 及川は今頃どうしているだろう。及川もこうやって、この人ごみのどこかで花火を見上げているのだろうか。そうだったら、いい。

「そういえばガキのころ、及川と花火見た帰りにさ」

 暗がりの中で花火の音に合わせて照らし出される岩泉くんの横顔は、懐かしい光景を慈しんでいるかのような眩しい表情を宿していた。誰しもの琴線に触れるきらびやかな光の華。美しければ美しいほど、切なくなる。及川の口から聞かされたのと同じ日の同じ思い出を、私はもう一度、今度は岩泉くんの物語として聞いた。彼の、思い出を撫でるような声の抑揚を花火の打ち上がる音と一緒に聞きながら、私はいつから七夕の短冊に願いをこめることを忘れてしまったんだろうなんてぼんやりと考えた。

「なんでもないことを、覚えてるもんなんだよな」

 岩泉くんの声はさりげなく笑っていたけれど、そのあっけらかんとした口ぶりにはどこかさみしさも滲んでいた。誰もが立ち止まって一斉に夏の夜空を見上げている。その不思議な一体感から一歩引いてみると、そこには幼き日の彼らと、その幼き日の思い出を鮮やかに語る今の彼らに対する、私なりの答えがたゆたうように横たわっていた。

「岩泉くん、岩泉くん、下、見てみて」
「下?」

 岩泉くんのシャツの裾をぐいと掴んで、人だかりの向こうに見える水の流れを私は真っ直ぐに指差した。さざ波立つ岩泉くんの瞳孔が驚きに膨らむ。遠い、手を伸ばしても届かなかい頭の上にではなく、土手をゆるやかに降りて行けばすぐ、その足元に。次々に打ちあがる花火のきらめきを映した水面が、無数の星々の光のように美しく、明るく、揺らめいていた。

「ね、天の河みたい」

 川面を指差したまま岩泉くんの顔を見上げてちょっと得意げに笑って見せると、岩泉くんはみるみるうちに、まるで涙を内側にこらえるように切なく眉を歪ませた。てっきり笑い返してくれると思っていたせいで、ぎょっとする。彼の腕が突然肩に回って、私は彼の表情を伺う間もなくすっぽりとその無骨な腕に抱きしめられてしまった。瞬間、足が浮いてしまうんじゃないかというくらい、強く。ぎゅう、ときつく背中を抱きとめられれば、胸の金縛りは静かにほどけていく。ああ、そうか。このひとはもしかしたら、私の思っている以上に、私のことを愛しいと思ってくれているのかもしれない。そんな自惚れを起こさせる確かな腕の力に、落ち着きを取り戻していたはずの私の胸は自然とまた高鳴りだしていた。

 道行く誰かがひゅうと口笛を吹いて、ようやく岩泉くんの腕の締めつけが緩む。再び目を合わせ、彼の親指のはらが私の腫れた目元に触れた。いつから気づかれていたのだろう、岩泉くんは枯れた涙の跡を丁寧に指でなぞった。さっき及川に許さなかったことを私、岩泉くんに許している。そう考えたらまた、泣きたくなった。避けようと思えばいくらで避けられた下手な張り手を、真正面から受け入れた彼のことを思い出して。

「……ごめんな、急に」

 心底申し訳なさそうに声を絞りだして、岩泉くんの腕と指が離れていった。彼の目が潤んでいる。私の目もきっと、熱と光と想いに中てられて潤んでいるに違いない。じゃあもう行くな、と言って岩泉くんは砂利を踏み鳴らして踵を返した。そして数メートル夜道を歩いたところでなぜか、思い出したように彼はまたこちらを振り返る。その背中をずっと目で追っていた私は、いきなりのことに息を呑んだ。あ、今の、「激写」したかったかも。その一瞬が、絵になる。

「あー……そうだ、言い忘れたけど」

 華やかに打ちあがっては消える花火の真下で、岩泉くんは照れたようにちょっと俯いてから頭を掻いた。人ごみに消えてまた、一人と一人に戻ってしまう前に。二人で居られるこの今を、少しでも長く。今の私ならば短冊に、そんなお願いをするのかもしれない。

、その浴衣すっげー似合ってるよ」

 土手を行きかう人たちが、少しだけ私たちに視線を投げる。だけどそんなことは気にしない。花火の音に負けないように、「ありがとう」とお腹から声を出した。私が彼に伝えられるたった一つの言葉が流れだして、そして辿りついて。想いの対岸で岩泉くんは夜の片隅を照らすように、真昼の太陽のように笑ってくれた。こんなに幸せな気持ちになったのは、久しぶりだった。



 とぼとぼと一人、夜の道を歩きながら空を仰ぐ。目玉の大きな牡丹花火がいよいよ空高く打ち上がり、一度花ひらいたあと華やかにみっつに分かれてオレンジの火の粉を散らした。きっともう二度と見ることのできない、夏の大三角形。巾着の中で携帯電話が震えているのを知りながら、私はしばし足を止めてそれを眺めた。瞼の裏であやなす天の河の光を映した、何の変哲もない夜の水際の揺らぎの上に。









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2014.7.7