Ⅰ two of a kind - 3




“赤葦、今日練習終わるの待ってていい? 一緒に帰ろ”
“いいですけど、外寒いんで教室とかで待っててください。迎え行きます。あと、とりあえず授業ちゃんと受けてください”
“はいはい、心配性だな~赤葦は。というかそっちも授業じゃん”
“こっち自習なんで”
“ちゃんと自習しなさい”
“プリント終わって暇なんですよ”
“ふーん。じゃあ、私で暇潰ししてるんだ?”

 一分も経たずにぽんぽんと返事の続いていた軽いやり取りが途切れてしまって、つい意地悪をしすぎてしまったかなと少し後悔をする。六時間目は古文の授業、のらりくらりと学ぶのは源氏物語、第五十一帖。おばあちゃん先生はしょっちゅう黒板を向いて何ごとか書きなぐっているから、机の上に堂々とスマートフォンを出していてもいっこうに咎められやしない。十二月の昼下がりは閉めきった窓の外の晴天から淡い日光だけを受け取り、クラス中の眠気やけだるさが暖房によって温まりきった薄い空気のなかに溶けこんでいるような、なんとも言えない澱みが目に見えるようだった。クラス中みんながもうとっくに絡めとられている。自分たちの吐き出した退屈の隙間に。

 窓際のいちばん前の席に座る木兎がふと黒板から視線を外し、窓の方を向いて先生に気づかれないように小さくあくびをした。授業の内容なんて一個も頭に入ってきてないだろうに、彼は新チームの主将に指名されてからぴたりと授業で居眠りをしなくなった。あんなバカにも、自覚ってものがあるんだなあ。なんて、失礼な感心をしていると、暗くなっていたスマートフォンのディスプレイが音もなく光を点した。

“そういうの、ずるいです。俺がどんだけ浮かれて文字打ってるか”

 文字の羅列を追い終えると同時に六時間目の終わりを告げ知らせるチャイムが鳴って、停滞していた教室の空気がふわりと目覚める。つまらなそうに下を向いていたクラスメイトたちがいっせいに顔を上げるなかで、ひとつ年下の男の子のくれたいじらしい返信に、ついにやけてしまいそうになる顔を隠すためじっと画面とにらめっこをしたままでいた。
 忘却にさらわれたおぼつかない恋のあしどりが蘇る。ずるいのだって、浮かれているのだって、独りじゃない。紛れもなく二人のことだ。



 教室の掛け時計が七時を回ったのを合図に、コートに袖を通し、首にマフラーを軽く巻く。六時半で今日は上がりのはずだけれど、練習なんてきりのいいところまで伸びるものだし今ごろまだ着替えている最中かもしれない。連絡はない。きっと、もうすぐだ。六時半のチャイムで、隣の教室で自主練していた吹奏楽部も、廊下で発声練習していた演劇部も、みんなぞろぞろと引き上げてしまった。二年生の教室が並ぶこの階にまだ残っているのは、きっと私だけだろう。

 赤葦が告白をしてくれた日からちょうど二週間が経った。「付き合ってください」だとか、「付き合おうか」だとかはっきりした言葉は結局交わしてないけれど、至極まっとうに恋をしている実感はたえず頭の片隅に心地の良い痺れをもたらしている。今日、共働きの私の家は日付が変わるころまで空っぽだ。「ちょっと上がっていく?」と聞いたら、彼は一体どんな顔をするだろう。彼をつい困らせてみたくなったり、我侭を言ってみたくなったりするのは、こんなにも確かなことでさえ、いやもしかしたら確かなことだからこそ、何度でも確かめたいからなのかもしれない。この気持ちは、とても強欲だ。

 七時五分を過ぎた。したん、したん、と階段のほうから一人ぶんの足音が響いてきて、胸が動く。教室の後ろのドアがひらかれて、待ち焦がれたひとがそこに立っている。その、はずだった。

「あれ、じゃん」

 そこに立っていたのは、私の名前を呼んだのは、マフラーをだらしなく首から垂らしただけの、髪の毛をしっとりと汗で濡らしている練習終わりのアキだった。廊下の冷たい空気が開いたドアから入りこみ、無防備な太腿に触れる。すきま風が凍える季節を思い出させる。ずっとぬるま湯に浸かっているみたいだった小さな箱の中に、アキが真冬を従え連れてきたのだ。

「なっ、」
「いや、教室に忘れモンしてさー。したらここだけ電気点いてっから」

 けろっとした様子で、アキは無造作に前髪を梳かしながらそう言った。声を詰まらせた私のことなんて構いやしないとでも言うように、彼は身支度をばっちり整えて座っている私を一瞥してから鼻で笑った。

「なに、赤葦のこと待ってんの? 初々しー」

 相手にしたら負けだと悟り、かっと熱くなった頬を隠すように視線を外した。するとアキは三つ先の自分のクラスに向かうでもなくあろうことかにやにやと笑顔を貼りつけたまま教室の中に入ってきて、肩に掛けていたスポーツバッグをどさりと床に置いたかと思うと、そのまま乱暴に私の前の席を引いて後ろ向きに腰掛けたのだ。アキとこんな距離で向き合うのは、それこそ別れ話を持ちかけたとき以来だ。たった二週間足らず。それでもこんなに長い間、アキと顔を合わせないのも、言葉を交わさないのも、初めてのことだった。別れたのだから当たり前だと自分に言い聞かせながら、きっと、故意に逃げていたんだろう。私にはまだ逃げるようにしなければ、彼から離れる自信がなかったのかもしれない。アキはもしかしたら、それに気づいているんじゃないか。私の逃げ腰を、未練だとか執着だとかに読み替えようとしているんじゃないか。そう思いついたら、急に気味の悪い胸騒ぎが全身を襲った。

「……ちょっと、さっさと自分の教室行ってよ」

 俯いた顔を強引につけまわすような視線を拒んでそっぽを向いたら、私の語尾をかき消すようにアキの笑い声が教室に弱々しく響いた。練習終わりのアキの匂いは、制汗剤のきつい薄荷の匂い。手をつないで一番星を探したこと。がらがらのバスの中で、キスをしたこと。二つ前のバス停で降りることすら名残惜しくて、わざわざ遠回りをして帰ったこと。あらゆる二人の断片がシャッターを切るように次々に脳裏によみがえる。そのなんでもない市販スプレーの匂いすら無視できない自分が、悔しくてたまらなかった。

「お前さー、赤葦のことマジなの」

 アキは椅子の後ろ脚に重心をかけながら、私の目の前で頬杖をついた。さっきまで心地良く染み入っていた温風が、今は皮膚の表面を舐めるだけで心臓には冷たい血が巡っている。こうやって一人誰も居ない教室に残って、アキのことを待っていたこともある。しょっちゅうある。だけどもう、二度とない。そう決めたのは自分だ。アキの眼に追いつめられていたとしても、たとえ逃げきれなかったとしても、捕まらないでいる仕方ならいくらでもある。戦え。

「あ……アンタみたいに、軽くないから」
「から、マジってこと?」

 そんなふうに一拍も置かずにじりじりと問い詰めて、まるで私のほうがアキを見捨てた悪い女みたいな言い方をする。見捨てられてもしょうがない身勝手をさんざんしてきたのはそっちだというのに、棚に上げるのもここまでくれば一種の才能だろう。アキが何を言いたいのかが分かる。私を責めたいのが分かる。どんなに酷い扱いをされたって、どんなにアキがろくでなしだって、先に全部要らないと、全部じゃなきゃ要らないと痺れを切らして捨ててしまったのは私のほうだから。彼は一度だって、私を捨てなかったから。諦めばかりの関係を今さらになって断ち切ったのは、アキが言うように赤葦の一押しがあったからに違いない。傍から見れば要は、乗り換えたのだ。だけどそれをここで、彼の前で認めさせられてしまったら、それこそ私は悪者で、彼の思うつぼになってしまう。これが戦いなら、恋人同士の喧嘩ではもうないなら、そんな決着は絶対に許せない。

「赤葦のこととか、関係、ないし」

 嘘をついているのかもしれない。それでも赤葦がむりやりに私を攫ったわけではない。私が、アキの手から離れて、彼に着いていくことを自分で選んだのだ。ぷつりと暖房の音が途切れて予期せぬ静寂の訪れに、胸のあたりを吹き荒れて今にも飛び出していきそうだった言葉がまごつく。アキはそんな私のためらいを決して見逃してくれはしなかった。耳たぶなのか、頬なのか、髪なのか、きっと戯れに私に触れるために伸ばされたアキの手を、ほとんど叩くようにして振り落とす。咄嗟に身体を後ろに引くと椅子の足がギィと喚いて沈黙を裂いて、アキの余裕ぶった色ガラスのような眼に初めて小さな亀裂が走った。

「アキのこと好きだった自分なんか、ホントはとっくのとうに忘れてたの! ずっと!」

 好きでいるということは好きになることとは比べようもないくらいに曖昧で、目を凝らしていないとすぐになんでもない日常の背景へと沈んでいってしまいそうになる。きっとこの目に映そうとしている時点で、何かを履き違えていた。手をつなぐのも、キスをするのも、セックスするのも、好きだからそうするに決まっている。そう、決まっているという、どこから持ち出したか分からない目に見えるものに照らし合わせて、私はずっと彼を好きでいたのだ。見えないものを見えないもののままお守りにするなんてできっこないから。
 思いのほか大きな声が出てしまって、恥ずかしさからか興奮からか、コートの下でうっすらと背中に汗をかいた。さっき暖房がひとりでに止まったのはこの部屋が温まりすぎたからなんだろう。取り巻く生温さをひとたび意識してしまうと、身体にこもった熱がとても不快なもののように感じられる。じっと見据える、アキの瞳の亀裂。薄い唇がふと開く。今にも邪悪なものがそこからぽろぽろと零れてきそうで、目を離す術が見つからなかった。

「そんなん、また思い出せばいいじゃん」
「っ、アンタ調子いいにもほどが……」
「思い出してよ」

 アキの手のひらが私の手首を掴む。今度こそ振り払おうにも敵わないくらいの強い力で。息をするのも、瞬きをするのも、ままならない。揺らめくアキの瞳が甘い恋の痺れなど容易く凌駕して、私のなけなしの自由と理性を奪う。彼の指先が頬に触れると、頭を拳で殴られるよりもずっと多くの脳細胞が次々に死んでいく幻影を見てしまう。コートなんか着るんじゃなかった。マフラーなんかするんじゃなかった。出どころもあやふやな熱に巻かれて、頭がうまく働かない。アキの顔がいつの間にかとても近いところにあるのに、避け方も何も思いつかずに気づかないふりをしてしまった。そうすれば一体どうなってしまうのか、残酷なほどに全て知りながら。

「……思い出してよ、

 アキの懇願なんか信用ならない。どうしようもない大嘘つきで、はぐらかすのが上手で、ひとを騙しておいていつもへらへら笑っている。だけど彼がそうやって何度でも私を罠にかけるのは、結局は私がいつだって彼を信じてしまうからなのだ。言い訳が、立たない。アキの唇が唇にさっと触れて、すぐに離れる。一度、二度。最初は舐めるように。そして二度目は半開きの口を抉じ開けるようにして。やがて彼の舌が慣れた仕方で咥内へと割り入ってくれば、頭の中までぐちゃりと捩れて、もう何かを考えようとかどうにかしようという気はとうてい起きなかった。

 したん、したん、と階段のほうから一人ぶんの足音が響いてきている。そんな気がする。夢ならばいいのにとばかな言い訳を望むのは、その舌先なのか、その足音のほうなのか。いっそのこと、そのどちらも関係のない世界のできごとであれば良かった。









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2014.6