Ⅱ S.O.S - 1




「赤葦~、あと十本!」

 全体練習の終わった体育館に、三時間弱の練習をこなしたあととは思えない木兎さんの豪快な声が響き渡る。正セッターを任せられる前から一応の覚悟はしていたものの、このひとのスパイク練習は本当に果てしない。持って生まれた足腰の強さ、バネ、体力、持久力、そして何より集中力。とても常人のそれではない。そんな奇特な人間に常人の自分が付き合わなくてはならないのだから、覚悟なんかいくらしたって、覚悟だけじゃ済まされないことなのかもしれない。額の汗を手の甲で拭って、顔を上げた。練習熱心なのは結構なことだが、この天才的なスパイカーを過度の自主練なんかで使い潰すわけにはいかない。

「木兎さん、さっきも同じこと言ってましたよね」
「じゃー五本! 五本でいいから!」
「……あの、最近ちょっとオーバーワーク気味じゃないですか。怪我したら元も子もないですよ」

 はぁ? と木兎さんがあからさまに不服そうな声を上げる。やり場のない熱を持てあましているときの声。テンションの上がりきった木兎さんは厄介で、後輩の自分がただ頭ごなしに注意するだけでは本当のところいなすのも操縦するのも難しい。ここは二年の誰かに一緒になって言ってもらうしかないと、ふと周りを見渡してみると、ちょうどサーブ練を終えて隣のコートを引き上げるところだった木葉さんとばちりと目が合った。木葉さんは何も告げられなくともふてくされた表情の木兎さんと俺の様子とを見てすぐに状況を理解したようだが、そこから導きだされた忠告は俺の期待していたものとは百八十度違っていた。

「上げてやれよ赤葦。こいつ故障するようなタマじゃねーし」

 首に掛かっていたタオルで汗を拭きながら、木葉さんは木兎さんに向かって顎をしゃくった。木兎さんがあからさまに目を輝かせる。それは冗談でもなんでもなく、確かに木兎さんは誰よりも練習の虫のくせして知る限り一度も怪我らしい怪我はしたことなかったし、むしろ集中力が途切れないから周りの意識を高めさえする。正真正銘、このひとはエースという人種だった。だから少しの我侭や不調などお構いなしに甘やかされているというのか、かわいがられているというのか、それとも逆に手玉に取られていると言うべきか。いずれにせよ、彼を扱うための型がある。この型にどれだけ寄りかかっていいのかは、まだ計りかねているのだけれど。

「はあ……でも、」
「それとも何、このあと予定でもあんの?」

 急に、木葉さんがせせら笑うような表情で俺を見据えた。ぐ、と喉が詰まる。今日の六時間目の終わりにさんと交わしたやり取りを思い出して、木葉さんの問いかけのあとに意味深な間がひらいてしまう。こういう、見逃してしまいそうな他人の動揺を木葉さんはよく見ていた。俺がさんに告白したという事実を知らないはずないのに、木葉さんは別段何を言ってくるでもなく今まで通りだった。ただ、今みたいに何でもない言葉に、こちらが勝手になのか向こうが意図的になのか知れないが、今までとは違う重みを感じてしまう。そんな居心地の悪さを断ち切るのにも、バレーボールを触っていることが確かにいちばん自分にとっては有効な手立てなんだろう。

「……別にないです。木兎さん、あと五本ですからね」
「よっしゃ!」

 木兎さんが汗を散らしてガッツポーズをする。げんきんなものだ。観念してまた、トスを上げる。木兎さんが見事な助走をつけて踏み切る。自主練を続行する俺たちを尻目に、木葉さんは「お先~」と言って体育館を出て行った。
 こんなものかな。俺でさえそう、信じてしまいそうになっていた。
 だけど、「こんなもの」で済まされるはずがなかったのだ。教室のドアの、わずかな隙間から見てしまった光景。この身を襲うおぞましさにははっきりと覚えがあった。色々なものが打ち砕かれ、打ち砕かれると同時に植えつけられた日のことを、踵を返して階段を駆け下りながら、思い出したくもないのに思い出した。
 落ちつけ。さんざん分かっていたはずじゃないか。これがあのひとの手なんだって。



 木葉さんは自分とさんとのことをあまり隠さずに軽々と語りだすひとだった。特別にひけらかすわけではないけれど、練習前のウォーミングアップ中とか、練習後の部室で着替えをしているときとかに、他の当たり障りのない話題と全く同じテンションで脈略なくそれは彼の口から溢れだした。のろけとも少し毛色が違う。どちらかと言うと、愚痴に近かったかもしれない。なにせ、さんの話をするときの木葉さんの口癖は「めんどくせー」だったから。クラスの女子と話してただけで機嫌悪くしてめんどくせー、たまにはデートに連れてけってうるさくてめんどくせー、どうせヤるだけだろっつったらキレられてまじでめんどくせー。だいたいこんな感じで、そんなこと聞いてもいいのかと思うようなことでもあっさりと、木葉さんは後輩の俺にもよくさんの話をした。俺はそれがどうにも苦手で、試合や練習を観に来るさんを見かけるたびに木葉さんの話を思い出してしまう自分も嫌だった。「昨日のとこ行ってたら終バス逃して、起きて一旦家戻ってから来たわ」。そんなふうに朝練で言われた日の放課後なんかにさんと鉢合わせて、何も思わずにいろというほうが、無理がある。

 だから、あるときついに本音が出てしまった。夏休みに入る手前の蒸し暑い真夏日だった。ウォーミングアップの柔軟でたまたま近くにいた木葉さんとペアになったとき、またいつもの調子で木葉さんが不平をこぼすようにさんのことを話すものだから、相槌の連続にもいい加減に限界が訪れてつい言いたくてもずっと言えなかった言葉が声になってしまった。

「……あんま言うと、さんかわいそうじゃないですか」

 木葉さんの背中を、体重をかけてぎゅっと押す。身体のやわらかい木葉さんは、そんなに力を入れなくてもぺたりと脚に上体がくっつくようにして身体を折り曲げられる。十秒数えて、腕の力を緩めて。木葉さんが上体を起こしたとき、俺はそのさりげなくも巧妙に探りを入れるような視線の網の目に、あっけなく捕まってしまっていた。

「“”さん?」

 そう、口の端を持ち上げた木葉さんに聞き返されて、無防備だった俺はようやく気がついた。そういえば、このひとに向かってさんを名前で呼んだことはなかったと。
 とはいえ別に、勝手にそう呼んでいたわけじゃない。さんのほうが「名前でいいよ」と言ったのだ。さんはうちのマネージャーのかおりさんや雪絵さんと仲が良いみたいでしょっちゅう練習を観に来たし、一年とマネージャーで練習の後片付けをしているときなんか、木葉さんの着替え待ちをしているさんとはよく何でもない会話を交わしていた。彼女と話しているとき、そこには木葉さんから伝え聞くような「めんどくささ」なんてちっともなかった。今の自分であればその印象のズレにきっと嫉妬しただろうが、あのとき嫉妬を覚えていたのはむしろ木葉さんのほうだったんだろう。
 咄嗟に「すみません、木葉さんのがうつりました」と言って誤魔化したが、きっとそんな言い訳まがいの言葉では誤魔化しきれていなかった。その呼びかたから滲みでるもの。その奥底にあるもの。透き通る憧憬。あのときの木葉さんには、ひょっとすると俺よりも俺のことがよく見えていたのかもしれない。

 次の日、木葉さんとさんが部室で寝ていた。
 そういう意味で、二人は寝ていた。

 男子バレー部の部室は体育館の上階にあって、部室と暗幕で区切られた隣のスペースにはボールやら予備のネットやらの保管庫がくっついている。その日、俺は昼休みのボール磨きの当番だった。四時間目が少し早く終わったせいもあって、昼休み開始のベルが鳴るころにはすでに保管庫に引っこんで独りボールを磨いていた。そこに二人はやって来た。木葉さんが強引にさんを引っ張ってくるようなかたちで。筒抜けの生々しい声に耳を塞ぐこともできず、暗幕の隙間からわずかに見える現実から目を逸らすこともできず、ただボールを手にしたままその場に立ちつくし、おそろしいようなおぞましいような思いを持て余して二人の行為が過ぎ去るのを耐えるしかなかった。

 たった一度、名前を呼んでしまっただけで、こんなにも過剰な先回りをされる。皮肉にも敵意を向けられれば、それだけ自分の中の曖昧な感情もまたきっぱりと鋭く尖っていくような気がした。
 恋はするものではなく落ちるものだとはよく言ったものだと思う。
 もしも恋がするものならば、暗幕の奥で息をひそめる惨めさを自分の恋として引き受けられる人間なんて、どこを探したって居るはずないだろうから。



 自主練が長引きそうなのでやっぱり先に帰っていてください、すみません、ともっともらしい嘘をついたメールには結局次の日になっても返信は来なかった。決して返信が必要な内容だったわけではないが、いつものさんだったら何かしら返事をしてくれたはずだ。だからきっと、今のさんは、「いつもの」さんじゃないんだろう。昼休み、たった一通の返信が来ないというだけであっけなく痺れを切らして足を運んださんのクラスに、彼女の姿はなかった。どうやらさんは学校自体を休んでいるらしかった。昨日、目前にひろがっていた光景が蘇る。あのあとのことは、あのあと何があったのかは、あの二人にしか分からない。何があっても、なくても、どちらにせよ自分にとって信じがたい事実であることに変わりはなかった。とはいえ現実はいつも一本道だ。都合の良いたらればは、ない。

“今日の放課後、練習試合だけなんで帰りにさんとこ寄ります”

 寄っていいですか、と聞いたらまた絶望的な気持ちで返事を待たなくてはならないような気がして少しずるいメールを打った。さんの家は梟谷前のバス停から七つ目の停留所を降りた住宅地にある低層マンションだ。入ったことはないが、エントランスまで送ったことはこの二週間ちょっとのうちに何度かある。いちかばちかの図々しい連絡に、さんは意外にもあっさりと待ちわびていた返信を送ってくれた。まるで昨日のすれ違いを流してしまうような、「いつもの」さんがそこにいると、錯覚と安堵を感じてしまいそうになる文字の羅列だった。

“わざわざありがとう。202号室だよ。気をつけてきてね”



 うちの一方的なストレート勝ちが続いた練習試合は午後六時前には片づけも含めてすべて終わり、次の日も朝から遠征しての練習試合が立てこんでいることもあってそのまま解散になった。バスに飛び乗り、六つの停留所を落ち着きなく乗り過ごし、〈降ります〉ボタンをすぐさま押す。試合疲れもそのままに彼女のマンションに辿り着いたのは六時半を過ぎたころだった。202号室のインターホンを、一呼吸おいて鳴らす。まるで待ちわびていたかのように、あるいは待ち構えていたかのように、「待ってたよ」といつも通りのさんの声が素早く機械越しに返ってきて、目の前のエントランスが開いた。たった一階上がるためだけにエレベーターを待つ余裕もなく、階段を駆け上がってしまう。二階の廊下に出ればそこには、部屋のドアを開けて俺を迎えてくれているさんの姿があった。たった一日ぶりの彼女の顔が、何よりもひどく懐かしかった。

「赤葦、お疲れさま」

 練習試合のことを言っているのだろうか、さんの笑顔はどこかはかなげで、疲れているのはむしろさんのほうじゃないかという気がした。さんはセットアップの薄い紫色のスウェットを着ていて、髪もまっすぐ下ろし、化粧も何もしていないふうだった。あどけない雰囲気に少しだけほっとして、自分が緊張していたのだということに気がつく。初めて彼女の部屋に足を踏み入れ、「誰もいないから」と言って通されたのはリビングルームだった。テレビは消音のまま無為な情報番組を垂れ流し、ローテーブルの上には飲みさしのマグカップが置かれ、そしてソファの上には青いブランケットが被さっている。そこは正真正銘、彼女の生活の只中だった。

「ごめんね、思いっきり部屋着だし、散らかってて」
「いえ、具合の悪い日にすみません。こっちこそ飲み物のひとつも買ってこなくて……」
「微熱が出てだるいだけだから、そんな心配しなくても大丈夫だよ」

 くしゃりと笑うその表情も心なしか元気がない。俺をソファに座らせて、さんは「お茶でも淹れようか」と言ってキッチンのほうへ向かおうとした。昨日のすれ違いがすべて嘘だったかのように自然な素振りで。どうして夢ならばどれだけ楽か知れないつらい現実を守りたいとさえ思うのだろう。離れていくその手を後ろから掴んで引き留めると、思っていた以上に彼女の重みは頼りなくて、つい魔が差してそのままソファの上に身体ごと倒れこませてしまった。空いていた左手できょとんとしている彼女の額をつかまえる。手のひらにじわりと熱がひろがっていく。そこにはまだ不調を訴えるには充分な熱が居座っていた。

「……熱いっすよ、まだ」

 熱のせいか、この近さのせいなのか、さんの大粒の瞳が潤んでいることに気がついてしまって堪らなかった。額に手のひらを当てたまま華奢な身体を腕に抱え込むような体勢で顔を近づける。けれども、触れられると予感した思いは静かに裏切られた。息の掠める距離で彼女の手のひらが俺の胸を押し返したのだ。

「今日はだめ、うつっちゃうから」

 言葉以上に俺を制するくぐもった声。やんわりと手首を掴まれ額から下ろされる手のひら。優しく諭されればそうされるほど、あの日の部室で感じた惨めさが募る。引き受けたつもりでいつかは振り払えると思っていた。ゆっくりと失っていこうと思っていた。浅はかな見当違い。ただこの惨めさを引きずりたくないという願望が、幸福な、束の間の夢をうつしていただけなのだ。

「昨日ならよかったんですか」
「……え?」

 本当は、あんな静かな下校間際の校舎で、堂々と近づいてくる足音に気づかないわけがない。あんな不自然なメールで誤魔化せるわけがない。こんなのすべて茶番なんだ、本当は。気づいていることに気づいてしまっても気づかないふりをしろと、さんのいつも通りの視線や仕草が俺に訴えかける。酷いひと。厄介なのはあのひとだと思っていたけれど、結局恋のさなかで何より厄介なのは、どんなときも惚れた相手のほうに決まっているのだ。

「それとも俺はだめで、木葉さんならいいんですか」

 さんの顔がみるみるうちに青ざめていく。気づかれていたことを怖れてではなく、気づかないふりをし続けられなかった俺を恨んで。きっと、そうだ。潤んでいた瞳が歪んで、俯きざまに涙が溢れた。顎を掴んで上を向かせても、堰き止めることはとうていできない速度で落ちていく。こうやって流れ去るものもあるんだろう。それでも、待てども、待てども、さんは決して「ごめんね」とは言わなかった。その言葉が投げかけられた人間ではなく、投げかけた人間の清算に使われることをきっと彼女は身を持って知っているのだろうと思った。

「……さん、泣かないで」

 泣かせておいて、泣かないでと言って背中ごと抱きしめる。矛盾している。自分でも分かっている。横目でちらりと見遣った音も無く矢継ぎ早に切り替わるテレビ画面の向こうで、いつのまにか番組が変わって流行りのアイドルグループが歌いはじめていた。愛だの恋だの報われないだの、整えられた歌詞の世界がテロップと共に廻る。この小さなソファの上では、腕の中に閉じ込めた愛するひとが泣いているというのに。

「俺、言ったじゃないですか。さんのためならいくらでも痛い目みるって」

 それが、自分にできる精一杯の覚悟のつもりだった。少なくとも屋上で彼女に向かってそう言い放った自分には、ひとつの迷いもなかった。その標のようだった言葉が今、彼女を罪悪感に縛りつけるような呪いの言葉になりかわっているということ。気づかないふりをねだった仕返しだと言わんばかりに、知りながらゆっくりと復唱している。俺はこんなことをするためにここに来たのか。もう、誰が残酷なのかすら分からない。

 胸にしがみついてさんがすすり泣く声が、途切れ途切れに耳に届く。彼女の涙が満ち潮みたいに狭いリビングルームに溜まっていく。愛だの、恋だの、報われないだの。この密室にある物語もその程度のもののはずなのに。それでもこんな二人の惨めさ、きっと一片の歌詞にもならない。









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2014.7