Ⅱ S.O.S - 2




 の家はたいがいいつ来ても空っぽで、そういうオトシゴロの男と女が二人きりで過ごすにはもううってつけどころか、どーぞあれこれしちゃってくださいとでも言うようなさみしさをいつも持て余していた。

「ねー、もういいかげん帰りなよ」

 借りてきたDVDを一本見終えて、当たり前のように二本目のDVDを見ようとしていたら後ろからなんとも刺々しい声が降ってきた。早々にアクション映画に飽きてしまったが、長風呂と風呂上がりの入念なドライヤーも終えてようやくリビングに戻ってきたところだった。平日の午後十時過ぎ。そろそろ最終バスもなくなる時刻だったが、のマンションから俺の家までは歩いてもそう大した距離ではなかったし、夜が明けてから朝練前に一旦家に戻るのも別に珍しいことじゃなかった。うちの親どもは、寛容というより、あまり俺に興味がないのだ。中学のころから素行は悪いし、勉強のひとつもできなければ、唯一の取り柄みたいなバレーだって180cmにも乗らない身長でスパイカーとして目指せるものは限られている。だからって他人みたいに自分自身のことを何もかも諦められるわけじゃ、ねーけど。

「いいじゃん、まだ。今日も仕事なんだろ母ちゃん」
「そーだけど……明日も朝早いんじゃないの」

 俺が食べ散らかしたスナック菓子の袋とか空のコップとかを集めながら、は憂うつそうな声でそう呟いた。シャンプーの爽やかな香りが鼻を掠めて、なんとはなしに目の前に揺れていた彼女の髪に指を絡める。乾かしたての髪はまだ少し熱を持っていてあたたかい。適当にくるりと髪を巻いたりして弄んでいると、はなぜか急に改まったように正座して俺の顔を睨むように見つめてきた。ちょうどテレビ画面を遮るようにして。

「アキ、最近ちゃんと寝てないでしょ」

 目が疲れてるよ。囁くように言われ、涙袋のあたりにふやけた親指のはらがするりと滑る。その言葉にも行為にも、まったく不意を突かれた。こんなふうに真面目くさって話すことも話されることも滅多にないことだった。頭の芯が熱くなってむずがゆさを覚えるほどに。髪に絡めていた指をほどいて、かわりに彼女の手の甲を包みこむように掴む。その向こうでの眼が本当に大袈裟なくらい不安げに揺れていて、ばかみたいだった。

「へえ、心配してくれんの? やっさしー」
「……別に、そんなんじゃないけど」
「んじゃ、今日はと一緒に寝よっかな」
「はい?」
「そのほうがぐっすり眠れるからさ」

 掴んだ手をぐいと引っ張って反論を飲みこむみたいに唇を塞いでしまう。一緒に寝るったって仲良く枕を並べて眠りこけるわけじゃないけど、ただやることをやってしまえばそのあとに深い眠りが訪れるタチなのは確かだった。そうやって力尽きるとあっという間に深く眠ってしまうのだ。まあ、そのせいで朝練をうっかり寝過ごしてしまって先輩らにどやされたことも何度かあったけれど。一年のころは「ヤりたい放題じゃ気が緩んでも仕方ねーか」と嫌味を言われたこともあった。そのたびヤらせてくれる女の一人も見つけられない奴は嫌味言うくらいしか能がねーんだな、と心の中で毒づいてたけど、今思えば自分の寝坊癖も棚に上げて最低の後輩だったと思う。
 そうだ、最低だ。そんなことはとっくに、分かってる。

「まっ……ア、キっ、アキ」

 待って、と訴えるを無視してカーペットの上に仰向けに押し倒す。覆いかぶさるようにして首筋に舌を這わすと、まるで条件反射みたいにはびくつくから面白い。その反応に色気はなくとも、こっちだって条件反射みたいなものだ。興奮にコントロールは効かない。止められない。こんなところでまで我慢しようものならいよいよ焦燥の行き場がなくなってしまう気がするから。緩んだネジを拾い集めることもせず、薄いスウェット生地の中に手のひらを滑りこませた。

「や……めて、ってば!」

 すると突然、ただごとではない金切り声と共に腹部に鈍い痛みが走って、どうにも上体を引かずにはいられなくなった。その一瞬の隙には俺の体の下から這い出してしまう。荒い息を吐きながら乱れたスウェットの裾を伸ばして、全然こわくなんてないけれどおそらく威嚇しているつもりの痛々しい視線をぶつけてくる。全身をわなわなと震わせて。

「なんでそうやっていつも、全部冗談みたいにするの……」

 に癇癪を起こされたことなんて今まで数えきれないほどあったが、こんなふうに刺すように鋭く怒りを剥きだしにされたことはなかった。ぼろ、と崩れるようにの双眸から涙の粒が落ちる。つい一分前に溺れていた唇の夢見るような柔さは、もう跡形もなく頭からも心からも消え去っていた。

「そんな根性だから木兎にエース取られたんじゃないの?!」

 その空虚めがけて、彼女の叫び声が投げこまれる。あまりにもまっすぐ、強く、避けがたく。まるで俺の傷つけ方を、知っているみたいに。

 木兎は、ありゃ、比べるのも虚しくなるような器だろ。高校からスポーツ特待で入ってきた、エースになるために名門中学から引っ張って来られたようなヤツじゃねーか。今ベンチに入ってんのなんて大概そうなんだよ。生え抜きでなんとかやっていけてんのなんて俺と小見くらいのもんだろ。つーか別にエースとか、中学のときはなんとなく任されてただけで、梟谷の中等部は特別強いわけでもねーし。レギュラー取れりゃ、ポジションなんてどこでも、やるべきこともできることも俺のスペックじゃ決まりきってんじゃねえのか。どこだって……。

 これほど返す言葉が溢れかえることもないというくらいに、鬱屈した反論の数々が瞬時に脳を支配した。けれどもフル回転で言い訳ばかり探して、言い訳を探している自分に打ちのめされ、結局は何も言い返せなかった。

 あの日、無言での家を飛び出してからあいつのところには足を運んでない。
 との間に生まれたさみしさはとの間でしか拭い去ることはできないのに、こうなってしまうと決して互いに歩み寄ることもできず、そうこうしている内にいつも誘惑に抗えず他の女のところで立ち止まってしまう。緩衝剤みたいだ。嗅ぎ慣れない香水の匂いも、しるしのない肌の温もりも。その場しのぎをつないで確実にを傷つけているんだと、思わなければやっていられない。

 だけど、それももう、いつの間にか幻想だったのだ。



「木葉さん、お願いします」

 小見が見事なレシーブで拾いあげたボールを、赤葦が完璧なトスに仕上げて俺の頭上に放る。踏み切ったときには既に自分でもマズイ、と思っていて、それでもなんとか真芯で捉えようと足掻いてみてもやっぱり無駄だった。打ってしまえばいやがおうにも分かる。今のスパイクは、無いって。

 コートの外で3対3の行く末を見守っていた木兎が、向こう側のコートに俺の打ち損じがなんとか刺さったのを見届け、大声でチームに集合をかける。体育館の時計は六時半をとっくに回っていて、仕方なくどうにも気持ちの悪いまま軽い連絡事項を受け流し、号令と共に今日の全体練習を終えるしかなかった。週のはじめから、ついてない。つーか、集中の持たなかった自分のせいだけど。どっと疲れが全身に廻っていつも以上にのろのろとゼッケンを脱いでいると、後ろから「木葉さん」と声を掛けられた。振り向くとやけに真剣な顔をした赤葦が立っていた。

「あの、最後のどうでしたか。ちょっと高かったですか」
「あ? ……いやあれは、」
「あれは木葉の踏み切りがクソだったろー」
「小見うっせ!」

 隣で同じようにゼッケンを脱いでいた小見が会話に割り入ってきて、的確すぎる図星をついた。付き合いが長ければ長いほど、好調不調の波はすぐにバレてしまう。小見はなんの遠慮もなく「おっまえマジで落ちてンの分かりやすい」とひとの不調をけたけた笑い飛ばした。とはいえ案外こういう反応をされるのがせめてもの救いだったりするんだが、赤葦は小見の横やりをどうやら真正面から受け取ったらしく、顔色ひとつ変えずに小さく頷くだけだった。

「すみません、分かりました。次は踏み切りにタイミング合わせます」

 それだけ言うと赤葦は踵を返して再びコートの中へ入っていった。汗も拭わず、水も飲まず、おまけにゼッケンを取ることすら、忘れている。

「赤葦、気合い入ってんな。おっかねーくらい」

 小見が赤葦の背中を見送りながら呑気な声でそう言った。それはまあ良いとして、同時に鼓舞するように背中を叩かれるのは心底うっとうしい。それを分かってやっているところも含めてなおさらに。本当に、小見はそういう奴だよ、中学のころからずっと。

「うかうかしてんなよ、お前」
「だっから、してねっつーの!」
「あ、そうだ、木葉~」

 名前を呼んだ声の主は木兎だった。木兎は得点ボードに引っ掛けていたタオルを取ってシャワーでも浴びたあとみたいに髪を拭きながら、ばかな小競り合いをしていた俺と小見のほうへ大股で近づいてきた。

「お前さァ、の見舞いとか行ってやってんの」

 突然バレーとはまったく関係もない話題を繰り出されて、一体なんの話をされているのかすぐには呑みこめなかった。だいたい木兎の口からの名前が出るなんて滅多にないことなのだから。

「……見舞い?」
「いや土日明けても休んでっからさー、風邪こじらせてんのか知らんけど。さすがに心配じゃん」

 木兎の話すすべてが初めて知ることだった。それでも、知らなかったという事実を受け止めるよりも先に、知っているふりをしてしまった。だってこいつらは、何も知らないから。俺とのことも、俺と赤葦のことも、赤葦とのことも。今日行くつもりだった、と口から出まかせを言えば、だったら早く行ってやれよ、とそのまま厄介払いされるみたいに体育館を追いだされてしまった。体育館の中ではまだ赤葦が鬼気迫る自主練の真っ最中だというのに。と、自然に頭が回ってしまった自分がおそろしかった。何、張り合ってんだ。そうじゃない。こんなの勝負以前の問題だ。



 正面エントランスの暗証番号を四ケタ入力し、行きがけに202号室のポストを確認する。新聞やらちらしやらでポストはぱんぱんに詰まって開け口も閉じられなくなっていた。の家は、留守がちだ。父親は単身赴任ではなから居ないし、母親のほうは夕方から朝方にかけて近所のスナックで手伝いみたいなことをしているらしい。すれ違ってばっかで帰って来てんのかも分かんないんだよね、と冷めた口調でいつかがそう言っていたのを、思い出す。

……? 居んだろ?」

 202号室のインターホンを鳴らしても反応はなかった。電話してもどうせ出ないだろうと思い、ちょっと物騒だが直接ドアを拳で叩いて名前を呼んでみる。すると奥のほうからかすかに物音が聞こえてきて、ほどなくしておぼつかない足音が近づいてきた。足音が消えれば、かわりにかちゃん、とドアの鍵がひらく。どうやら内鍵はかけられていなかったようだ。

「……ア、キ?」

 ドアの隙間からその顔を見た途端、その声を聞いた瞬間、さっと血の気が引いた。今にも倒れそうな彼女の身体を、思わず片腕で支えてしまう。服越しにも分かるくらいに熱い。は俺の腕を振り払おうともせず、嫌がることもなく、むしろ縋るように体重を少し預けてきた。おそらく立っているだけでも相当辛いのだろう。

「なっ、おっま顔色やべーぞ……てか母ちゃんは?」
「……ずっと帰ってない」
「はぁ?! ちょ、とにかく寒みぃしドア閉める……」

 両腕で首にしがみつかせ、彼女の熱い身体を抱えながら、なんとかドアを閉じて鍵をかけ直す。
 それからはもう、俺一人てんやわんやの騒ぎだった。
 この時間に医者はどこもやってなかったから、とりあえずベッドまでを運んでやって出しっぱなしのまま放置されていた氷枕を作り、切れていた風邪薬を買いに薬局まで走ったついでに、粥ひとつ作れないから市販のレトルトも何食ぶんか買いこんで、なんとか慣れない台所と格闘しながらの口にいれられそうなものを揃えた。たまご粥と、冷蔵庫にあった角切りのリンゴの入ったヨーグルトと、だまになってしまったホットココア。薬と水と一緒に盆に乗せて寝室まで運ぶと、ベッドに横たわってぐったりと死んだように目を閉じていたは物音に反応してはたと瞼を上げた。浅い眠りについて汗をかいたせいか、さっきより少しだけ顔色はマシになっていた。

「食えるか」

 かすかに上下した首を肯定ととって、起き上がろうとする彼女の背中を支えてやる。は具合が悪いながらも腹が減っていたのか、何も言わずにもくもくと粥を口に運んだ。きっとこの数日ろくなものを食べていなかったんだろう。つっても、この粥だって大したものじゃないけれど。黙って粥をたいらげる彼女を、俺もじっと黙ってただ見ていた。沈黙と静寂があらゆる思考を呼び覚ます。先週の、部活終わりの教室でのこと。ずるいことをしてしまったと思う。だけど、こんなことで壊れるようならそれまでだろう、とどこかで乱暴に思っていたことも事実だ。俺とも、と赤葦も。だからきっと、あの場でさえ信じていた。いつも通り、どんな勝手をしていても自分は彼女に許されるのだと。

「なあ……母ちゃん帰るまで、一緒にいてやろーか?」

 が空になった器を盆の上に返したのを見て、やっとの思いでそう問いかける。今までの二人だったら、つい数週間前までの二人の関係の中にいる自分だったら、そんなことは聞かずに勝手にここに居座っていただろう。母ちゃんが帰ってこない理由も、の様子を見ていればなんとなく察しがつく。男んとこ泊まってんだろ、と今までの自分だったらずけずけと無遠慮に断定していたかもしれない。だけど、今はもうそれができなかった。無理やりに埋めようとした距離は、埋まるどころかもっとひらいてしまった。何より自分の変化にそう感じとってしまうのだから、皮肉なものだ。

 ヨーグルトを手にしながら、はようやく固かった表情をほどくように笑った。それだけでほっとする。少しだけ時間を巻き戻せたような気になる。たとえそれが虚しい勘違いだとしても。

「なんか、優しくてアキじゃないみたいだね」

 その通りだった。今の二人は、お互いに自分じゃないみたいだったのだ。今までが砂のように消え去って、これからが泥のように積み重なっていく。かすかに笑うの横顔はとてもさみしかった。それは独りになってしまった人間のものではない、独りになろうとしている人間のさみしさだった。

「……今日、ありがとう。本当に。でももう、いいの。大丈夫……ずっと、大丈夫だから」

 の視線は手に持ったヨーグルトに落ちたままだった。「今日」が「ずっと」にすり替わる、掠れた旋律が胸を裂く。たった一度でも彼女に優しくしようとか、彼女を思いやろうとか、俺は思ったことがあっただろうか。どうしてそんなことすら思えずに、二人は今までつながっていたんだろう。忘れたつもりもないのに何も思い出せなかった。思い出してよ、なんて彼女に一方的に押しつけておいて、忘却に飲みこまれているのは自分だって同じだったのだ。

「ごめんね」

 ピリオドを打つようにの声がする。告げられた言葉の奥で二人の今までとこれからは一緒くたに渦巻き、俺は喉元まで出かかっていた言葉を、その渦の彼方へ永遠に見失ってしまったような気がした。









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2014.7