Ⅱ S.O.S - 3




が復活したと思ったら、今度は木葉がダウンか」

 言外に含みのある言い方をしてかおりはパックの野菜ジュースをすすった。購買で買ってきたピザまんを頬張りながら、何もそういう言い方しなくてもいいのに、と私は恨めしげにかおりを見上げる。かおりとゆきちゃんと三人でお昼を過ごすのはずいぶんと久しぶりのことだった。偶然購買で二人に会って、そのままなんとなく私の教室で一緒に食べることになったのだ。二人は今週末の練習試合のことだとか少しの打ち合わせがあったみたいだけど、それもすぐに片付いて結局はこの話題に行き着いてしまう。私とアキの関係はだいたいが筒抜けだったから、私たち三人にはちょうど良い共通話題のようなものだったのだ。

「まーたいつの間にか仲直りしてんの」
「……してないよ、別に」
「じゃー、喧嘩ゾッコー中?」
「それは……そういうわけじゃないけど……」
「はっきりしないなー。まあアンタらだいたいいつもそうだけどさ。ケンカップルってやつか?」

 かおりがけらけら笑う。私はぶすっとした顔のまま、ピザまんを飲みこんだ。かおりがこうやってことあるごとに私とアキのいざこざを笑いとばすのは、なんだかんだ言ってそれが常に元通りになると思っているからだ。アキが体調不良で朝練も学校も欠席しているなんてさっきかおりから聞くまで全く知らなかったけど、彼女はアキが私の看病をしているうちに風邪をもらってしまったのだと信じて疑っていなかった。もちろんそれは正しい面もあるのかもしれない。だけど現実の二人は、決して彼女が想像するようにほほ笑ましいものでもなかった。

 あの日、「帰っていいよ」と言ったのに結局アキは本当に私の母親が帰ってくるまで家に居続けてくれた。あれから薬を飲んで殆ど寝ていたから会話らしい会話もしなかったけれど、真夜中にふと目が覚めたとき、ベッドサイドにへたりこんで私のベッドに顔を伏せるようにして眠っているアキを見て、困惑と安堵がないまぜに押し寄せてきたのを覚えている。あれ以上、何をしてくれたわけでもない。ただそばにいてくれた。あの日私たちは、何もしないで一緒に眠りながら夜を明かしたのだ。次の日の朝、母親が数日ぶりに帰ってきて、アキが私の病状のことを説明しているのをベッドの中で狸寝入りをしながら聞いた。何日も娘を放ったらかしにするような親に対してもアキの言葉遣いはびっくりするほど丁寧で、感じが良く、いつも以上に大人びた印象を私にも母親にも与えた。あの日のアキは、アキじゃないみたいだった。優しくて、静かで、ずっとベッドサイドにいてくれたのにあんなにも彼を遠くに感じたことはなかった。

 それからすぐに母親に病院に連れて行かれ、私はさらに二日間学校を休んだ。一週間ぶりに学校に来てみると、たった一週間の間にも授業はずいぶんと進んでいたし、クラスメイトたちとの間に流れる空気もたえず色を微妙に変えているのだということが目に見えて分かった。教室から離れてみると色んなことが分かる。一週間という時間は、私たちにとってとてつもなく長い。だとしたら今までアキと過ごした二年半もの月日は、二人にとってもはや永久にも等しいのかもしれなかった。

「木葉はさ、といてもいなくてもバランス崩れちゃうんだよ」

 ゆきちゃんが豪快にびりびりと菓子パンの包みを開けながらさらりと核心を突くようなことを言う。彼女はひとつの食べ物にハマるとそれをずっと食べ続けるたちで、今日は購買で三個もイチゴジャムとバタークリームの二色サンドを買っていた。

「だから帰巣本能と浮気癖がセットになってるじゃん。ほーんと厄介でどうしようもないね~」

 大きな口を開けて好物にかぶりつくゆきちゃんは、いつも本当に幸福そうな顔をする。たとえこんなにも辛辣な言葉を吐いたあとだったとしても、だ。雪絵はあいっかわらず言葉に容赦がないなあ、なんてかおりが溜め息を吐きながら、「でもその通りだ」と言ってとどめを刺した。そうだ、その通りだ。近づくことと遠ざかることは、いつの間にかアキと私にとって自然な関係のあり方になってしまっていた。だから今この状態が私にとって、彼にとって、その関係の延長線にあるだけのものなのか否か、結局のところ分からない。自分では断ち切ったつもりでも意識下で続いているものはないのか。「アンタみたいに軽くない」なんて啖呵を切っておいて、私はきっちり揺れ動いてしまっているじゃないか。

「……お互い様なのかな」
「えー? は浮気しないじゃん。むしろあんなの相手にけなげだよ」
「いや……うん……」
「あっ、赤葦!」

 タイミングがタイミングで、かおりの発したその名前に過剰に肩が震えた。それでも幸い二人とも教室の出入り口のほうへ視線を向けていたので、その動揺に気づかれることはなかった。慌てて顔を上げると、教室の後ろの扉から顔を覗かせるようにして赤葦が立っていた。一瞬、紛れもなく目が合う。彼はもとよりそう簡単には表情を崩さないひとだったけれど、それでもその瞳には私と同じような動揺が確かにひらめいていた。

「赤葦どうしたー?」
「……あ、えーっと」
「なに、木兎?」

 目ざとく赤葦を見つけたかおりは、教室のちょうど中央のあたりにある私の机から出入り口付近に留まる赤葦に向かって声を張った。確かにここは男子バレー部主将の木兎が属するクラスでもある。ほんの一秒にも満たない赤葦の逡巡が同じ秘密を共有する私にはよく分かった。

「あ、はい、そうです。木兎さん探してて」
「木兎ならどうせ昼練でしょ」
「そう、絶対そう。体育館探した?」
「これから探してみます。……えっと、じゃあ、失礼します。かおりさん、雪絵さん、ありがとうございました」

 軽く頭を下げて赤葦はそそくさと行ってしまった。たったこれだけのことで心臓がばくばくと鳴ってしまって情けない。別に悪いことをしているわけじゃないのに。

「正直、体育館に先行けってくらいだよね」
「それー。赤葦って意外と抜けてるとこあるんだねえ」

 あの単細胞が昼休みに教室で時間潰すわけないじゃん。そう言ってかおりとゆきちゃんが一緒になって笑うので、私も浮かないようにせめてもの笑顔を作った。私とアキの話は赤葦が来たことで途切れて、それきり私たちは他愛もない芸能人の話やテレビの話をして昼休みを過ごした。二人の話に相槌を打ちながらも、私の脳裏にはずっと赤葦のあのかすかに揺れる瞳が残っていた。赤葦が私の家を訪ねてきて以来の、久しぶりの彼の顔。言いたいことがたくさんあるような気がした。彼にも、そして私の中にも。ようやく体調が元に戻って、いつもの教室に戻って、日常に戻って、彼の動揺した顔を見て。私たちには今すぐにでも言葉が必要だと、急にそんな切迫した願望が胸に迫ってきた。



 放課後、学校を休んでいたうちに配られたプリントの山を職員室まで取りに行ってから昇降口に降りていくと、掃除当番だったのか空っぽのゴミ箱を両腕にふたつぶら下げた赤葦と下駄箱前の階段でちょうど鉢合わせた。彼が反応を見せる前に、驚きも隠さずに「赤葦」と数段上の段差から声を掛ける。話したかった。会いたかった。だけど赤葦のほうはというと数段下の段差で足を止め、どこか気まずそうに目線を泳がすだけだった。

「今日、昼休み……」
「気にしないでください」

 まだちらほらと生徒たちが行き交う部活前の昇降口は騒がしくて、二人で階段にそう長く突っ立ってなどいられない。赤葦がそれだけ言って私を追い越すように階段をのぼっていこうとしたので、私は慌てて踵を返した。

さん風邪治ったんですね。安心しました。それが確かめたかっただけなんで」

 下駄箱まで降りていく生徒たちの流れにさからって階段をのぼっていきながら、赤葦は私に目もくれずにぼそぼそと口早に話した。掃除をしていたのだったら他のバレー部員はもうとっくに体育館に行っているころだろうけど、だからって誰かに会わないとも限らないしこんなところで私と一緒にいたくないのかもしれない。でも、それだけとも思えない。赤葦の態度には遠慮ではなく苛立ちがあった。棘となって私に突き刺さってくるような。

「赤葦、おこってるの」

 赤葦は答えない。もくもくと階段をのぼっていく二人の足音と、反響する放課後のざわめきが沈黙を難なく埋め尽くしてしまう。彼に幻滅されても仕方のないことをしてしまった。所詮は優柔不断で流されやすい、浮気な女なのだと、そしてそれは誤解でもなんでもない正しい事実だと、私自身が誰よりも痛いほど分かっていることだった。このまま二人がだめになってしまっても全て私のせいだけれど、それでもその前にひとつだけ、赤葦に伝えなくちゃならないことがある。彼が部屋に来てくれた日、自分を守ってしまうようでどうしても言えなかった一言を。

「おこってるなら、私、」
「怒ってないですよ。怒ってるとしたら、自分に怒ってます」

 一年生の教室が並ぶ階にあっという間にのぼり着き、赤葦は多少声を張り上げた。横を通り過ぎた女生徒がひとり、ちらりと不思議そうに私たちを見遣る。他学年の教室の並ぶ廊下というのは下でも上でもいつでも居心地の悪いものだ。ここにいてはいけないような気がしてくる。決してこんな重苦しい話をする場ではないけれどしょうがない。出会ってしまったのだから。

「二番目でいいって自分で言ったくせに、さんのこと責めました。嫉妬したんです」

 嫉妬した、ときっぱり自分の感情を口にする赤葦に怖気づく。赤葦が自分の教室に辿り着いてドアを開けると、暖房を切ったあとに残る生ぬるい温かさが肌に触れた。掃除の済んだ彼の教室は幸いにももう誰も残っていなかった。

「赤葦は二番目なんかじゃないよ」

 その言葉にいつわりはなかった。だけど、だとしたら赤葦は私の「一番」なのか。決して「二番」ではないけれど、「一番」の意味までは私にはまだ分からない。だって、そもそも順番なんてつかない、私にとって同じ物差しの上には決して乗らない二人のことなのだ。私はずっと、アキと自分しかいない二人きりの国の住人だった。順位づけに意味なんてなかったし、そもそも比べる相手もいなかった。だけど先にその国の外へと駆けだしたのは、自分だ。私の世界にはもうアキじゃない男の子がいる。そしてその男の子は私が二人に順位をつける権利があって、その権利を行使するのは当然のことで、実際そうしていると思っているのだ。途方もないことだ。急にめまいがして、混乱をかき消すように小さく咳をしたら、赤葦は病み上がりの私を気づかうように教室のドアを閉めた。空になったゴミ箱をもとの場所に戻してから。

「いいんです、二番で。無理やり一番になっても、そんなのさんだって苦しくなる」

 赤葦は教室のドアにもたれて、さみしく笑ってみせた。赤葦の中にさみしさの影を感じたのは初めてのことだった。

 アキといるとき、私はいつもさみしかった。二人でいても、一人きりの日曜日の夕暮れみたいに、私の心はさみしさに押しつぶされていた。一緒にいてもいなくてもバランスが崩れてしまう。昼休み、ゆきちゃんが何気なく言った言葉は私たちの関係をよく表していた。一緒にいてもいなくてもどうしようもないならば、一体どうすることが正しいのだろう。こうやって赤葦の優しさが私に考える間を与えるたびに、私は自分だけでは答えの出せない難問に嵌っていく。さみしさの連鎖に彼を決して巻きこみたくないのに。

「違う。……二番でいいなんて、そんなふうに言われるほうが苦しい。それだったらいっそ一気に仲良くなれたほうが、」
「それじゃあのひとと同じだ」

 今まで聞いた彼のどんな言葉よりも強い語気だった。私は咄嗟に、自分自身がアキから体得した「普通」の中に赤葦を押しこめようとしていた自分を恥じた。教室のドアから離れて、赤葦の足音が近づいてくる。おそらく私を抱き寄せようとした彼の手は、肩に触れる手前でためらうように止まってしまった。さっきまでゴミ箱を持っていたことを気にしたのかもしれない。そんなの全然、構わないのに。背の高い赤葦は私を胸に仕舞いこむかわりに、膝を曲げて私とぴったり同じ目線で眼と眼を合わせた。見上げなくてもいい高さに赤葦の綺麗な顔がある。こうやっていつも私の弱さに付き合ってくれる、赤葦に甘えることに慣れていく。そんなのだめだ、と思っても、赤葦はそれでいいと、もがく私にあっさり手を差し伸べてくれてしまうのだ。

さん、俺たちまだお互いのこと何にも知らないし、こうなって一ヶ月も経ってないんですよ。もっとちゃんと時間、かけましょう。俺はいつまででも待つし、こんなことで諦められるなら告白なんてしてません」

 赤葦は忘れているのかもしれないけれど、彼は「二番目でいい」と言ったのと同じ口で、私のことを「独り占めしたい」とも言ってくれたのだ。それなのになんでまた二番目でいいなんて、そんな残酷な言葉を蒸し返し、自分に言い聞かせるように言って自らさみしさの中に身を投じようとするのだろう。私が、そうさせているんだろうか。同じ目の高さ、彼の真剣な目に囚われた状況では物分かりよく頷くしかないけれど。首を縦に振ると赤葦はようやくほっとしたように目を細めた。それだけが救いだった。赤葦には笑っていてほしかった。時間をかけること。言葉を尽くすこと。赤葦がそれを望むなら、そうするのがいちばんの正しさなのかもしれない。たとえ毒に成り代わったアキへの感情を彼がすぐに吸いだしてくれなくても、その毒の巡りの速さに苦しめられたとしても。

「あ、でもひとつだけ我侭、いいですか」

 赤葦がちょっと気まずそうに人差し指で頬をかいた。言うか言うまいか迷っているような顔をして、彼はゆっくりまばたきをする。それは、きっとたいていの女の子なら彼のために何でもしてあげたいと思ってしまうような、そんないじらしい表情だった。

「うん、何?」
「……木葉さんとこ、お見舞いに行かないでくさい」

 性格悪いですね、俺。赤葦は小さくそう呟いて、我侭を言ったことをどこか後悔しているみたいに目を伏せた。胸がきゅんと閉じる。この柔らかな気持ちを決して手放したくないと、私の胸もまた、我侭を言っているみたいに。赤葦。あなたは、あなたが思っている以上に、きっと私を独り占めする力を持っている。そんな予感がする。だけどこの予感が現実に孵るかどうかは、私にはもう決められない。それはひとえに赤葦が、彼の意思を優先して決めることであるべきだと思うからだ。









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2014.8