Ⅱ S.O.S - 4




 家の鍵を開けるとリビングルームに明かりが点いているのが見えて、あれ、と思った。夕方五時のチャイムが遠くから聞こえる。いつもなら一人で聞き流す「夕焼け小焼け」の童謡だった。

「おかえりー」

 まっすぐ伸びる短い廊下の奥、リビングルームにつながる扉がひらいてなかから母が顔を覗かせた。余所行きの服も着ていなければ、アクセサリーもつけていない、化粧っけもまるでない顔。母のこんなに気の抜けた姿を見るのはなんだかとても久しぶりのことのように思えた。

「ただいま……どうしたの、仕事は」
「水曜はずっとお休みにしたのよ。これからはと一緒にご飯が食べられるね」

 わざとらしいくらいに優しい声でそう言って、にっこりと笑いかける。まるで娘のご機嫌取りをしているみたいな態度。ここ数日の彼女はずっとこんなふうだ。こんな母親でも体調不良の娘を何日も放置してしまったことにはさすがに責任を感じているようで、ずっと夕方仕事に行って朝帰ってくる彼女とは殆ど会話をしない生活が続いていたのに、ここのところ顔を合わす時間が以前に比べてぐっと増えた。別にとりたてて彼女に話したいことなんてなかったけれど。

 暖房の効いたリビングルームに入ると、キッチンカウンターの上には母が焼いたであろう手作りのクッキーがお皿に山盛りになって用意されていた。そういえば母は、私の小さいころにはよくこうやってお菓子を作って振る舞ってくれるひとだった気がする。外に働きに出るようになってからはもう滅多にお菓子作りなんかしなくなっていたけれど、一体もう何年ぶりだろう。母はなんだって家事をきっちりこなすひとだった。今思えば彼女は完璧すぎるひとだったのかもしれない。ある日、前触れなくぷつりと糸が切れた。だけど糸が切れてからの母は、私の目にはむしろ以前よりも生き生きとしているようにも映った。だからきっとあの糸は、操り人形のピアノ線みたいなものだったのだ。

「そういえば、あの子誰かと思ったら木葉クンじゃない」
「……え?」
「中学のとき一度会っただけだったからすっかり忘れてたけど、アンタまだ付き合ってたのね」

 キッチンに立つ母はどうしてかずいぶんと機嫌が良いようで、私の戸惑いなんてお構いなしに嬉しそうに電気ケトルに水を注いでいた。中学のとき、一度……。記憶のアルバムをもたもたと捲っても母の会話のテンポには追いつかない。気まずさを紛らわすように、ソファに転がっていたリモコンでテレビの電源を入れた。夕方のニュースが今日一日の出来事を淡々と流している。私と母との間に心地良い雑音の膜を張るように。

「あの子、しっかりした子になったわね。お母さんもう、感動しちゃった。あのときはまだなんて言うのかな、不良っぽいっていうか、はお母さんと男運の悪さ似ちゃったのかなーなんて心配してたんだけど、夜通し看病してくれるなんて優しい良い子じゃない? それに結構、整ったきれいな顔してるし」

 ぺらぺらとアキの話をする母の声が、私のもたつく指先なんかよりずっと軽やかに記憶のアルバムを捲っていく。ようやく思い出せる、二年前の三月のこと。中学の卒業式を目前に控えていた私は、素行不良でアキと二人して親の呼び出しをくらってしまったのだった。

 あのころ――高等部への内部進学(と言っても殆どエスカレーター式のようなものだったけれど)を決めたあとの私とアキの不真面目さと言ったらなかった。学期末に向かって増えていく自習時間は往々にしてサボりっぱなしで、当時の私たちは同じクラスだったから一緒に教室を抜けだせば当然目立っていたんだろう。告白自体がクラスメイトの前での罰ゲームみたいなものだったし、付き合っていることもクラス中に筒抜けならば、どんな噂を立てられたって文句は言えない。それに実際、二人で授業をサボってすることなど陳腐な噂の通りだったから。

 アキが始業のチャイムなんかまるっきり無視して、私を誰も居ない女子トイレの個室に引きずりこむ。後ろから抱きすくめられ、軟体動物みたいな彼の舌がうなじに這えば、私の身体の自由はそれだけで全てアキのものになった。アキの手のひらが上から、下から、私に触れる。私のスカートの奥にひろがる欲望はいつもアキのことを喜ばせた。「もう、濡れてる」。そう楽しげに囁くアキの声が、何より濡れていた。その声を聞くと、もうだめなのだ。授業に出なくちゃいけないのに、とか、誰かが来るかもしれないのに、とか、彼はちゃんと避妊具を持っているんだろうか、とか。色んなストッパーがことごとく飛んでいって、私は転がり落ちるように「悪い子」になってしまう。アキに縋ってしまう。だけど決してそんな自分を嫌いにはなれなかった。むしろ彼の強引さに屈する自分は、隠れ蓑みたいなものだったのだ。私が私を許すための。

 ――何もしてませーんって言っとけ。向こうだってオオゴトにしたくねーんだし、信じたフリするって。

 親を呼び出されてもアキは全く動じることもなく、いつも通りけろっとしていた。堂々と、自然と嘘を吐ける。アキのそういうところが、時おり垣間見せる箍の外れた言動の全てがこわかった。こわくて、だからこそ強烈に惹かれていたのだと思う。実際のところ大人たちはみんな面白いくらいアキの言う通りの反応をした。誰もアキと私の言うことなんて鵜呑みにしてはいなかっただろうけど、「健全なお付き合いならいいんですが」と担任教師が面倒事から目を逸らせば、あとは授業態度がどうとか成績がどうとか、そういう当たり障りのない注意が続くだけだった。

 私の母も結局は無責任な担任教師と一緒だった。学校の応接室では表向き私を信じたフリをして、家ではしつこくアキのことやアキとの仲について聞いてきた。付き合ってはいるけど男友達みたいなもの、仲が良いだけ。そう何度言っても彼女はなかなか引き下がらなかった。うんざりだった。だって、彼女は自分の娘の嘘を見抜いているわけではなかった。決して。ただ「何もないわけない」って、自分の物差しを振りかざして娘を詮索しているだけだったのだ。

 ――、お母さんあなたのこと信じてもいいの? ちゃんと生理はきてるの? なんなら病院行って……
 ――うるさいなあ、もう! 何にもしてないよ!

 あんなに癇癪を起こしたのに今の母はそんなことまるで忘れているみたいに呑気にあのときのことを話している。ひとの記憶も、印象も、頼りないものばかりだなと思う。母のアキに対するそれはいとも容易く塗り替えられてしまって、私の気持ちなんてそっちのけで、あるいはこれもご機嫌取りの延長線上にある会話なのか、今のアキを必要以上に褒めそやしている。もう、何が本当なのか分からなかった。アキの態度も、母の言葉も、自分の苛立ちとふがいなさの根も。リビングテーブルについて黙ってスマートフォンを弄っていると、母はあの山盛りのクッキーの皿を私の目の前に置いてから、小さい子をあやすような手つきで私の頭を撫でた。こんなことしたって、もう昔のようには戻れない。分かっているくせに、ばかみたいな茶番だ。

はお父さんみたいな浮気男引っ掛けちゃだめよ。お母さんの何倍もかわいいんだもん、何倍も良い男のひとと結婚できるんだからね」

 結婚――。非現実的な響きが耳にこだまする。私の頬をうっとりとなぞる母の指先があまりにおぞましく、こんなに暖かい部屋のなかでも背中に鋭い悪寒が走った。彼女のその指には、私の心臓へと一直線につながる頑丈な糸が何本も巻きついているように思えたからだ。



 アキと顔を合わせず、話をせず、バレー部の練習にも赴かない日々がさらに一ヶ月積み重なったころには、さすがにかおりやゆきちゃんもいつもの喧嘩とは違う雰囲気を察したようで、次第に私の前でアキの話を持ち出さなくなっていった。どうやら私とアキは彼女たちのなかで「ついに別れた」ということになったらしい。あれだけ「別れちゃえばいいのに」とさんざん言ってきた二人も、いざ本当に私とアキとの仲が壊れたとなるとわけが違うみたいで、私が自分から話をするようになるまで何も聞くまいと決めているようだった。そのおかげで、というのもおかしいけれど、私はまだ赤葦のことを誰にも打ち明けずに済んでいた。ほっとしている自分がいることに気がついている。赤葦が、本当は私のために二人の関係を隠してくれていることも。

「えっ赤葦すごい、二年の問題すらすら解けちゃってる」

 学期末試験を来週に控えた、二月の終わりの金曜日。いつもは忙しいバレー部もこの時期ばかりは一週間きっちり全ての練習が休みになる。テスト週間に真面目に勉強していること自体が不真面目な私には新鮮だったけれど、きっとそんなことを言ったら赤葦は呆れ果てて「勉強するのが普通ですよ」とかなんとか言うんだろう。そう、これが普通なのだ。普通のことを赤葦としている。大切に、二人の関係にちゃんと時間をかけている。そんな真っ当な気持ちになれることが、今の私には何よりも嬉しいことだった。

「別にすごくは……今やってる範囲を応用すれば解けるんで」
「それがすごいんだって。えー頭良い、天才」

 おおげさな、と言って赤葦はまた参考書に目を落とす。一学年上の数学の問題にも全く物怖じせず、顔色ひとつ変えず、彼はあっという間に方程式を解いてみせた。しかも赤点を回避できれば御の字という私にはもったいないくらいの、分かりやすく丁寧な解説つきで。

 赤葦が私の家に訪れたのはこれがたったの二度目だ。一度目は、風邪を引いたあのとき。なんとなく二人とも口実を見つけられず、口実に頼ることもできないまま、気づけばずいぶんと時間が経ってしまっていた。後輩の彼に「勉強教えてよ」なんて半ば冗談だったんだけど、彼なら本当に私のような出来の悪い先輩相手なら問題なく何でも教えられそうだった。この二ヶ月ちょっと、赤葦と毎日を過ごしていて少しずつ分かってきたことがある。彼はいつでも落ち着いていて、何でもそつなくこなすけれど、とはいえ決して特別に要領の良いタイプではなかった。彼はむしろこつこつと、積み重ねを怠らないひとなのだ。だから本当のところ、テスト前に慌てて勉強をする必要があるのかあやしいくらいだった。テストと言えば一夜漬けの私とはまさしく正反対だ。

 マグカップを手に取り、少し冷めてしまったココアに口をつける。ちらりと時計を見ると、もう時刻は九時半を回っていた。ありあわせで簡単に作った夜食を食べて小休止したのも、もう二時間以上も前のことだ。それからずっとリビングで二人、テーブルの角を挟んで座ったままもくもくと勉強し続けていたのか。勉強をしていてこんなに時間の進みを速く感じるなんて、普段の私には絶対にありえないことだった。

さんは、進学しないんですか」

 手も動かさず呑気にココアを飲んでいる私に気がついたのか、赤葦は視線をノートに落とし、その上にペンを走らせたまま、少しだけ突飛な質問をした。梟谷には大学はついてなかったけれど、かといって特に進学校というわけでもなかった。大学受験をするひともいれば、短大や専門学校に行くひとも、就職するようなひともいる。私はというと、定期的に提出を求められる進路希望の調査票には、いちおうずっと「大学進学」と書いてきた。何にも努力もしてないし、具体的な目標もないのに。夢も希望もない未来から目を逸らしたい一心で、適当にもほどがあるというものだ。

「……うーん、あんまりちゃんと考えたことない。どうせ大したところ行けないし」
「そんなことないですよ。受験勉強なんて今からやれば充分でしょう」

 赤葦がシャープペンシルを置いて、顔を上げた。そりゃあ赤葦みたいに優秀な子は集中力が違うのかもしれないけれど、とは、彼の真剣なまなざしを見たあとではとても言えなかった。彼はなぜだか時おり、私以上に私のことを考えていた。そして、その態度は私自身に自分のことを考えるようにいつも無言で促すのだ。赤葦と接していると、自分のあまりの考えのなさが恥ずかしいと思うことがある。彼は決して私のことを責めたり、詰ったりなんかしないけれど。

「その……、俺もできることがあったら、全然力になりますし」

 自分のことでもないのに彼があまりに切実にそう言うので、なんだか可笑しくてつい吹きだしてしまった。心配性なのだ、赤葦は。自分に対しても、私に対しても。そんなに一生懸命にならなくったっていいのに、気を抜いたって私はどこにも逃げたりなんかしないのに、束縛することも独り占めしようとすることも遠慮したまま、それでもどこかでその欲望を隠しきれないでいる。赤葦はそんな自分を、もしかしたら情けないと思っているのかもしれない。だけど私にとってはそれこそが彼のいちばんの魅力だった。彼の余裕のなさがちらつくと、自然と胸が、お腹の下が疼いた。ぞくぞくした。もっと見せてほしい。見たい。赤葦のことを、ずっと、奥深くまで。

「赤葦が先生になってくれたら頼もしいね。……きっとなんでも、教えてくれる」

 わざと声をひそめて、彼を見上げる。こうやって上目遣いでねだると、赤葦はいつも困ったように一度は目を逸らし、それから改めて向き直って私の頬に手を触れるのだ。少しだけ身を乗りだして、近づいてくる彼に目をつむる。何時間も真面目に勉強したのだから、最後にこれくらいの不真面目さは許してもらいたいものだと思う。それに最近の赤葦は少しずつ、本当に少しずつ、色んなものが決壊しかかっていた。時間をかけましょうと言った手前、そう簡単には自分から理性を崩せないと、そうやって思うことが余計に彼を悩ませ、混乱させているのだ。さっきまで立派に家庭教師を務めてくれていた男の子が、今はもう、舌と舌を絡ませあう行為のその先へどうやって進めばいいのか頭の中で必死に考えているのかと思うと、心の底から愛しさがこみあげた。いつだって好きなときにそうすればいいのに。時間をかけるって、いつまでもキスをしながらぐずぐずしていることなの? きっと、いや絶対に、そうじゃない。

 ゆっくりと彼は唇を離し、私の口の端の唾液を指で軽く拭い、そして休む間もなくもう一回小さく息を吸いこんだ。ほら、赤葦のこういうところ。視線を外して俯いたのは、彼の緩んだ瞳の色にたまらなく胸が締めつけられたからだ。

「……そろそろ帰らないとお母さん心配させちゃうよ」

 それは半分本心で、もう半分はちょっとした意地悪だった。彼を試した。彼自身ではなく、彼の理性に直接話しかけてみたい。そんな、ほんの少しのいたずらのつもりだったのに、赤葦は存外にもあからさまに狼狽してみせた。行き場のない唇が、閉じたり、半開きになったり、そんなふうに言葉を選んでいる彼を私は初めて見た。

「大丈夫です、別にそんな過保護じゃ……」
「でも最終バス、もうすぐだし。赤葦は駅まで行くんだから、ね? 続きはまた今度」

 続き、の一言に赤葦が目を見開いた。ぽかんと口を閉じるのを忘れている彼ににっこり笑って、「次はちゃんと赤葦から誘ってね」ととどめの念を押す。すると、みるみるうちに赤葦の耳に火照った赤い色が差した。赤葦を見ていると、赤葦と接していると、今まで流したこともないような涙がすっと落ちていきそうになる。できることならもちろん、泣きたくなんかない。赤葦とはずっと笑っていたい。だからはやく、一刻もはやく、私の身体の上に残るアキの痕を、私の身体を巡るアキの毒を、全て消し去って。

 もう二度とあの日々には戻れないのだと、戻る意味なんかないのだと、私の身体にたっぷり時間を刻みつけて、ちゃんと教えこませてよ。









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2014.8