Ⅲ never land - 1




 彼女とは一年のころからずっと同じクラスで、女友達と言っていいものかは分からないが少なくとも俺にとっては唯一といっていいほどの、気の置けない異性のクラスメイトだった。一年のときは誘われれば何度か一緒に遊びに行ったこともあったし、今でも普通に教室ではよく喋るけれど、そういえばさんと付き合うようになってからずっと、どこかで彼女と二人きりになることを避けていたのかもしれない。自惚れだと呆れられてしまうかもしれないが、こんな日がいつか訪れてしまうような気がして。

「赤葦のこと、好きです」

 改まった言い方をして、緊張を紛らわすように足元に視線を落とす。容姿だって性格だって、好きかと聞かれれば好きだときっと答えられる。そしてそれくらいの曖昧な感情から始まっていく関係がたくさんあるということも知っているし、否定もしない。だとしても、あのときもしさんにフラれていたら、俺は今ここで彼女のことを受け止められたんだろうか。そう考えてみても、何も見つけられない。一途だからじゃない。諦め方が分からないだけ。ただ生きているというだけで期待をせずにはいられない恥知らずな魂が、きっとどんな仕打ちを受けたってあなたに向かってしまうだろうから。

「……ごめん、そういうふうには見れない」

 やっぱり、と言って彼女は顔を上げ、気丈に笑ってみせた。良い子ぶっているわけではなく、本当に胸がきりきりと痛む。それでも「ごめん」以上に掛ける言葉が見つからない。自分を許してしまうずるい言葉。それがなければ相手を許すこともできない、そんな自分の弱さをつまびらかにする言葉。大嫌いな言葉。よほど俺の表情が沈んでいたのか、彼女は「あーもう、そんな顔しないでよ」と不必要なくらい明るく言った。きっと無理をしている。傷つけてしまった相手にそのうえ余計な気まで遣わせてしまった自分が、たまらなく無防備で腹立たしかった。

「いいのいいの、ほら、なんていうか、こっちの我慢が限界だっただけで」

 中庭に出ていると七月の太陽光が首の裏に突き刺さり、正午を過ぎた今ごろにはそう長く立っていられないような暑さだった。一学期の期末テストも終わり、夏休みがもうすぐそこまで来ている。彼女の言う「我慢の限界」とやらが自分に訪れたのは、ちょうど正反対の季節が始まらんとしていたころだった。十二月。吹きつける風になびくさんの髪とか、あのとき初めて触った冷たい頬だとか、かじかんだ指先の痛みだとか。もう、あまりうまく思い出せない。そのときは何百回と頭の中で再生したはずなのに、冬が来れば真夏の暑さなんて信じられないし、夏が来れば真冬の寒さをすっかり忘れてしまうように、過去の全ては結局いつもまぼろしだった。

「自己満足だよね、こんなの。こっちこそごめん」

 逆に謝られてしまう。目の前の彼女もまた自分を許したくなる何かがあったのかもしれない。できたらまた普通に友達として接してほしい、と言い残して俺を置いて去っていく後ろ姿を、しばらくぼうっと見送る。最後の言葉が脳内に延々とリフレインしていた。自己満足、自己満足、自己満足……。まじないみたいだ。受け入れられなかった感情も果たされなかった告白も結局、誰に向かっていても自分のためのものでしかないんだろうか。誰もそんなに簡単にひとりぼっちになんてなれやしない。だからこんなにも胸がざわつく。過去のまぼろしをたとえ全て忘れても、彼女を好きになってしまったときからずっと川の流れみたいに、この胸騒ぎは続いているのだ。

 五分ほど遅れて校舎に入り昼休みの騒がしい階段をのぼって教室まで帰っていくと、二年六組の教室の前でどうしてだかさんが壁にもたれて立っていて思わず息を呑んだ。俺に気づいたさんが、「京治」と俺の名前を呼んで小さく手を振る。さんに何も罪はないけれど、正直タイミングが悪すぎると思った。今しがたフッてしまった彼女がさんのことを見たら、俺とさんのことを見たら、一体どう思うんだろう。さらに傷つくのだろうか、それとも少しは慰められるだろうか。恋人のいるひとを好きになってしまったことが、慰めに変わる?絶対にそんなこと、あり得ない。あり得なかった。

「良かった、会えた」

 さんが笑っている。彼女の笑顔を見るとほっとした。まだ自分が彼女の隣にいてもいいと、彼女の隣に存在する価値があるのだと、そんなふうに思えた。フッた相手に申し訳なさを覚えていても、結局はさんの笑顔ひとつでつまらない優越心を満たしている。罪悪感なんてあっという間にまぼろしだ。

「どうしたんですか」
「京治のこと探してたの」
「俺を?」
「見て、こないだの期末の結果」

 二つ折りになった小さな正方形の紙を、さんがちょっと誇らしげに俺に差しだす。それは定期テストの順位を本人に知らせる紙切れだった。この時期、全校生徒が受け取るもの。他人にわざわざ見せるものでもないと思うが、彼女はどうやらこれを俺に見せるためだけに教室前で待ち伏せしていたらしかった。促されるまま紙をひらく。さんの名前と、学年順位。試験前にさんと勉強会をするようになってから三度目の定期テストだった。

「……すごい。二桁じゃないですか」
「ぎりぎりだけどね。これでも、私史上初めてなんだよ」

 得意げな笑顔をつくってさんが俺を見上げた。そうか、彼女は俺に、褒められにわざわざここまでやって来たのか。これでは本当にどちらが先輩でどちらが後輩なのだか分からない。

さん、飲みこみがはやいですから。これならもっと上狙えますよ、きっと」

 そう言って彼女を褒めたり励ましたりする自分もまるで家庭教師気取りだ。いわゆる受験勉強と呼べるほど大層なものではないのかもしれないが、それでもさんは何でも勉強すれば勉強したぶんだけみるみるうちに吸収した。もともとやればできるだけの余裕が残っていたのだと思う。さんは決して変わったんじゃない。戻っていったのだ。少しずつ、ほんの少しずつ、あのひとの痕が癒えていって、あのひとの毒が消えていって。確かに俺はさんがさんに戻っていくための手助けを、ちょっとはできていたのかもしれない。けど、それだけだ。自分の何かが彼女を作り変えられたわけじゃない。自分の何かのために彼女が変わったわけじゃないのだから。

 紙切れをさんに返すときかすかに指先と指先が擦れあって、さんはちょっと照れくさそうにはにかんだ。今さらこんなささいな皮膚の触れあいで恥ずかしがることもないのに。薄い皮膚の下、もっと奥にあるものが疼く。ぞわりと、胸の平穏を覆して。

「ありがとう。京治のおかげだね」

 それでもさんはこうやって穏やかな目をして俺を見る。気圧されてしまいそうになるくらいに、すっきりとした美しい表情で。温かく火照っていく彼女の眼に、簡単に勘違いのできる愚かさが欲しかった。決して錯覚などには導かれない賢さが欲しかった。どちらにも逃げきることのできないまま、時間だけが虚しく過ぎ去っていく。二人の関係に時間をかけることは、一体いつからこんなふうに空回りするようになったんだろう。



 四月のはじめ、さんと寝た。満開になった桜があっという間にもうちらほらと散りだしているころだった。

 意を決して俺からさんのことを誘ったはずなのに、結局は終始俺のほうが彼女に甘えさせてもらっていたように思う。さんの部屋で、さんのベッドの上で、さんが優しく俺を導いてくれたような、そういうセックスだった。一度目はただもう夢中で、とにかく俺の好きなように。二度目はさりげなく囁かれる声を頼りに、彼女のあらゆる性感帯を、丁寧に順を追って巡るように。一度目はとにかく最高だった。ずっとずっとそうしたかったことを全て、彼女の肌の上でし尽くせた気がした。二度目は愛しさで気が狂いそうになった。違う、嘘だ。「京治、京治」とうわごとみたいに繰り返してすがってくる彼女は明らかに一度目よりも感じていて、そんな彼女の躯体を必死に繋ぎとめるように抱きしめながら、俺は愛しさと憎らしさで気が狂いそうになったのだ。

 さんの家に足を運ぶのはその日以来それほど珍しいことではなくなったけれど、それでも俺は未だにさんの両親の顔を知らないし、もちろん部屋に泊まったこともないし、休日の昼間だろうと平日の夜遅くだろうとさんの家が空っぽである理由を聞いたり聞かされたりもしていなかった。それでも別に構わない、そういうものだと本当ならば思わないといけないのかもしれない。だけれどそう思うためには、俺ははじめから色んなことを知りすぎていた。彼女の苦しさや、痛みや、切なさのこと。誰かと比べてしまっているのは、間違いなく自分のほうだ。



「京治……今日、したいの?」

 さんが小さく笑う声が耳の裏から聞こえて、ようやくはたと我れに返った。即座に彼女から身を引き離す。ほんのり乱れた彼女の着衣がこの目に飛びこんできて、ついさっきまで理性を溶かしていた自分に羞恥心がむくむくと募った。夏休みに入ってすぐの合宿前夜。明日から一週間、男子バレー部は埼玉へ遠征する。当然東京にいるさんとは一週間会えなくなるし、連日朝から晩まで練習漬けになることを考えれば連絡をとることもままならないだろう。明日も朝が早いのにわざわざ練習帰りにさんのマンションにあがりこんで、正直何も期待していないといえば嘘になる。嘘にはなるが、だからって部屋に通された途端にこんなふうにがっつくしか脳のない自分にはほとほと呆れ果てるしかない。バランスが崩れてしまった。何もかも悪いことなどひとつも起きていないのに、その静けさのなかにちゃんと二人で居られているのか、確かめる術が分からない。これ以上、何があるんだろう。時間も、言葉も、身体も。尽くしても尽くしても、尽くし足りないものなのに。

「ごめんなさい、俺……」
「待って」

 ソファの上に座り直そうとしていた俺の手首をさんが掴む。何かと思い巡らすより速く、もう片方の彼女の手が俺の足と足の間にあるものを、服の上からも分かるかすかなふくらみを、すっと撫で上げた。喉が引き攣る。血の気が引く。自分の身勝手さを、自分よりも先にさんに気づかれてしまった。こんなの、まともに顔すら合わせられない。

「なんとかしないとね、これ」

 そう言いながら、さんの冷やりとした指先がシャツの裾を割って腹に触った。制服のズボンのファスナーを彼女が下ろそうとしているのが分かって、慌てて彼女の手を引っ掴む。けれどもさんの右手は思った以上にかたくなな力で抵抗をした。

「い、いいです、本当に」
「足もう少しひろげて、楽にしてみて。投げだすみたいな感じで」

 俺の制止などどこ吹く風の甘い声でそう囁かれると、焦る感情とは裏腹に喉がごくりと鳴ってしまう。さんはまるで俺を安心させるみたいににっこり笑って、少し身を乗りだすと触れるだけの軽いキスを唇に落とした。きっと、悲しいくらいに強張っていた。表情も、感情も。彼女はそれを目ざとく見抜いて、ほぐそうとしてくれたんだろう。

「……、さ」

 結局のところ、彼女の行為を強く拒絶できるわけがなかった。その強引さに折れてしまった。ファスナーをおろし、下着の中に手を差し入れ、俺の不格好で情けないエゴのかたまりをさんの両手がつつみこむ。ゆっくりと付け根から撫であげられると、その光景のあまりの信じられなさに、強すぎる快感に、絶句するしかなかった。恥ずかしさに目が回る。思考がびっこを引く。今まで一度だってこんな行為に及ぶことはなかったのに。してもらいたいなと思ったことはある。正直何度だって頭に思い描いたこともあるけれど、さんはいつも、こういうことに関しては特に、さりげなく俺に選択を委ねてくれていた。だからこそ、彼女にわざわざこんなことをさせられなかった。それなのに、どうして。俺が選べなかった選択肢を、さんが代わりに選んでしまった。間違い探しをするみたいに。

「なんでこんな、いきなり……」

 久々に唇をひらいたら、喉からはもう掠れた呻き声のようなものしか出なくなっていた。自分の声のふがいなさに涙が滲んでしまいそうになるのを、喉の奥で必死に食い止める。さんが手を動かしたまま顔を上げた。ひとかけらも余裕のない顔を見られるのは耐え難いが、かといって視線をそらしたところでまた情けなさが塵のように積み重なっていくだけだ。さんの眼はきらきらと光を細かに散らしていた。潤んでいるのだと思った。あるいは、自分の両目のほうがもう使いものになっていないのかもしれないが。

「京治といるとね、優しい気持ちになれるの」

 不意に名前を紡がれる。何を言われているのか、そんなことよりも先に自分の名前が強く、強く脳にこだまする。ひとは生まれて死ぬまでの間に何回下の名前を呼ばれるのだろう。そしてその中で、愛するひとにこんなにも真っ直ぐ、こんなにもじかに名前を呼んでもらえることが一体あと何回あるんだろう。長く、ゆっくりと、幾度かまばたきをして極度の興奮を誤魔化した。受け取ってしまった強すぎる刺激から少しでも逃れられるように。

「私ずっと、ずっと、こういう恋がしたかった」

 誰と――。

 いよいよ息が荒くなり、時おり吐息と一緒に唸るような声まで漏れるようになってきた。さんがサイドテーブルの上のティッシュケースを片手で引き寄せる。色んなことを考えたかった。考えなくてはならない気がした。だけど思うように問いを立てることもできなければ、答えを探し当てることなんてもっとできない。高みへと導かれながら頭を駆け巡るのは、わずかにたったひとつの疑問符だけだ。ばかの一つ覚えみたいに、誰と、――誰と? って。

 こんなことに絶えず頭を回しているから、肝心なところでいつも正しさを選び損ねてしまうのだ。

「好きだよ、京治。とっても」

 先端を刺激されて、深い快感にその一瞬だけは全てを委ね、何ものにも決して抗えない。その瞬間、目の前にさんがいるというのになぜかひとりでするときと同じように、俺は目をつむって頭の中にさんの顔を思い浮かべていた。俺の中に棲むさんが、幸福そうに目元を緩めている。だけどそれも、一瞬だ。彼女の手によって吐きだされた白が、頭をまだらに埋め尽くしていく。そうしてそこに棲むさんのまぼろしをすぐさま掻き消してしまった。行かないで。嘘。そうじゃない。出て行って。二度と帰ってこないで。これ以上ここに居てしまわれたら、きっと俺はいつか胸の内のまぼろしで眼前のさんを塗りつぶしてしまうだろうから。

、さん。さん」

 そこに居ることを確かめるように、さんの肩を引き寄せてかき抱く。求めた先にはちゃんと自分のものではない重みがあった。当たり前のように温もりがあって、鼓動があり、息をしていた。だけど、あなたにとって、俺は?ちゃんと重みがあって、温もりと鼓動があり、呼吸する生きものでいられているのか。過去の全てのまぼろしが、重みも、温もりも、鼓動も、呼吸も、あの白濁のナルシシズムのように俺から奪って、全てを塗りつぶしてはいないのか。

「……京治?」

 夢にまで見たさんの心も身体も、本当に夢のようだった。どんなに繋がりあえたとしても、いつまでもどこかであやふやな夢のままだった。それは決してさんのせいじゃない。俺がこうやって彼女に間違い探しをされるまで、目の前にちらつく正しさを放っておいたから。だからもう今度こそ、自分の声で、自分の言葉で、二人の正しさを選ばなければ。きっとこれが最初で最後のことだと思うから。

「……別れて、ください」

 見て見ぬふりをするにはもう限界だった。あるいは最初から、本当は心のどこかでこういう日がいつか来ることを予感してしまっていたのかもしれない。冬の日に「好きです」と告げてから、夏の日に「別れてください」と言う日まで。さらえないことを知っていて、それでもさらいたかった。奪いきれないとどこかで諦めながら、奪うこともまた決して諦めきれなかった。好きだったのだ。さんのことが、たとえ誰かのものだと痛いほど分かっていたとしても。

 ――自己満足だよね、こんなの。

「別れてください……お願いします」

 あなたがずっとしたかった恋はここにはない。もう気づかないふりは決してしないで、ここには何もないということを認めて、今だけはさんと一緒にこの愛しい虚しさのなかに沈んでいよう。掬われるのはまだ、もう少しだけあとでいい。









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2014.8