Ⅰ 夏の背中 - 2




「梟谷?」

 その話を聞かされたのは、いつも通り部活を終えた彼が、いつも通り腹が減ったと言うので、いつも通り立ち寄ったなじみのファーストフード店で一緒にフライドポテトをつついているときのことだった。

 ようやく梅雨が明けて、からりと晴れていて、暑くて、中学生活最後の夏休みに入る直前の一日だった。七月の夕焼けはとてもしぶとくて、日没を過ぎても窓の向こうにひろがる空はまだ完全な闇を孕んでいなかった。夏期講習、どうしようかな。そんな話題を受験生らしく持ちかけたときに、私の無神経な幼なじみは「俺はパス」とポテトを数本一気に頬張りながらそう言った。梟谷ってとこ、行くかもしんね。聞き慣れない学校の名前を当たり前のように口にして、まるで大したことじゃないみたいに打ち明けられる。そんな態度をとられたら、戸惑いの素振りひとつできなかった。

「……私立、受けるの?」
「うんにゃ、コッチで受かるわけねーじゃん。バレーで誘われてんの」

 コウちゃんは人差し指でこめかみのあたりをとんとんと叩いて、ちょっと照れくさそうにへらりと笑った。バレー、バレー、バレー。彼が口をひらけば必ず、その話を聞くことになる。コウちゃんは片足を膝に乗せて、あまりお行儀が良いとは言えない座り方をして、頬杖をつきながら窓の外を見ていた。雑居ビルの二階の窓からは、駅前の大きな横断歩道が見下ろせる。ちょうど帰宅ラッシュの時刻とぶつかって、信号が変わると横断歩道の縞々を道行くひとたちがいっせいに覆い尽くした。

 私たちの通っていた中学校はふつうの公立校だったけれど、いくつかの運動系クラブはそれなりに強くて、男子バレーボール部もそのひとつだった。もちろん、強いといっても、それはけっしてコウちゃんにとって満足のゆくものとは言えなかっただろう。彼がこの部に入ったのは偶然だ。コウちゃんは小学校のころからクラブチームでバレーをしていたけれど、部活にかんしてはたまたま学区域に強いチームがあっただけだ。だけど今度は違う。彼は選ぼうとしている。一足早く、自分の道を。

「都立じゃだめかな」
「別にだめじゃねーけど。だめだとしたら俺の頭じゃね」

 ようやくコウちゃんが窓から視線をはずして、私を見た。自分がどんな表情をしていて、どんなふうに彼に映っているのか、まったく見当もつかなくて、ただただ焦燥で息が詰まった。ポテトの味も、シェイクの味も、もう何もしない。自分は彼の幼なじみで、十五年間、向かいの家に生まれ育っただけで、たったそれだけのことで、彼を縛ることもできなければ、自分を彼に縛りつける理由もない。そういう当然の距離が、考えればすぐ分かる「ひとりぼっち」のことが、あのとき急にお腹にすとんと落ちてきた。コウちゃんの、夕闇を押しのけてしまいそうな強い眼をみて。

「俺にはバレーしかねえからさ。自分のできることだけ、三年間めいっぱいやってみたいんだよ」

 今の自分だったら、あんまり真剣な会話の得意じゃない彼が、そうやっていくばくかの決意を紡いでくれたことに少しは慰められるのかもしれない。だけど、あのときの自分にはまだそんな余裕はなかった。まぶしさを直視するには時間がかかる。こんなにずっと近くにいてまだ時間が足りないなんて、ばかみたいな話だけれど。

 けっきょく、コウちゃんはひとつも勉強なんかできなかったけど、夏休みが終わるころにはすんなりと梟谷学園の高等部に進学することが決まった。
 私はそれなりに受験勉強を重ねて、都立の音駒高校に進学した。自分の学力や通学のしやすさのことももちろん考えたけれど、この高校に惹かれてしまったのはきっと、コウちゃんのことがあったからだ。夏休みの学校見学に足を運んだとき、たまたま体育館で行われていたバレーボール部の練習試合が強く印象に残っていた。見落とすわけがなかった、そのスコアボードの対戦相手の名前を。こんなこと彼に白状したら呆れられてしまいそうで、絶対に言えないけれど、自分のはっきりとした記憶に嘘をつくわけにもいかない。こわかったのだ。あのころの自分には、ずっとそばにいた幼なじみが、いきなり遠ざかってしまうことが。



 東京を離れて数日、インターハイは最終日をもってとどこおりなく幕を閉じた。

 お祭りの日の鉄朗は私に向かって「早く帰ってこい」なんて口では言っていたけれど、出発の朝に彼から届いたメールには律儀にも「昨日の訂正。優勝するまで帰ってくんな」という言葉があった。それ、コウちゃんに言ってあげればよかったのに。優勝まであとひとつ。最終日までこっちに居ることはできたけど、決勝戦まで戦うことはできなかった。ベスト4は立派な成績だ。それでも、表彰状を受けとるコウちゃんの目は笑っていなかった。笑顔で大会を終えられるのはたったひとつのチームだけなのだから。

 ――宿舎の許可もらえて今から駐車場で花火するんだけど、さんももし時間あったら遊びにきなよ。

 海岸沿いを歩きながら、少し前に木葉くんから届いていたメッセージをもう一度だけ確認する。家族で泊まっているホテルから梟谷のみんながお世話になっている宿舎までは、歩いて十五分くらいの距離だった。大会前日に一度だけマネージャーの子たちに差し入れを渡しに行ったので道はなんとなく分かるけど、それでも見知らぬ土地の夜はこわい。なんとか日が落ちきってしまう前に着きたいなとそそくさと動かしていたサンダル履きの足は、半分ほど道のりを歩いたところでぴたりと止まった。歩道から海岸へと降りていくコンクリートの階段に、見慣れた背中がまるくなっている。ぎょっとした。そこにはコウちゃんがいた。外灯の明かりも満足に届かない、宵闇の砂浜に。

「コウちゃん、どうしたの。花火しないの」

 話しかけていいものかどうかと頭が考えるより先に、足はコンクリートの階段を降りて、発した声は彼の名前を呼んでしまっていた。コウちゃんが振り返る。闇のなかで私をみとめて、彼はちょっと目をみひらいてみせた。。こんなふうに面と向かって彼に名前を呼ばれたのはずいぶんと久しぶりのことのように思えた。

「お前、ホントに来たのな」

 彼が腰を掛けているとなりに、私もスカートの裾に気をつけて座りこむ。何を今さら、という言葉だったけれど、そう言えばこっちに来てからこうやってコウちゃんと話すのは初めてのことだった。幼なじみといってもなんの遠慮もない間柄というわけにはいかない。年齢が上がっていくにつれて、知らないことや、知りえないこと、知ってはいけないことが、少しずつ増えていった。例えば鉄朗と孤爪くんみたいに同じスポーツを一緒にし続けられる、男の子どうしの幼なじみだったなら。あるいは、同じ学校に通えていたら。私にはまだ、薄暗い夜の海辺にひとり佇んでいる彼のことを、もう少し知りえる特権が与えられていたのかもしれない。

「そりゃあ、最後の全国だからね」
「春高があんだろ」
「もちろん。でも念のため、念のため」

 あっそ、と私の答えなんかさして気にも留めてないような返事をしてまた、コウちゃんは残照に縁どられた海へと視線を戻した。磯の香りに混じって、となりから石鹸の清潔な匂いが漂う。彼の髪の毛はぺたんこで、おろした前髪は幾度となく海風に撫でられて揺れていた。いつの間にか沈黙を沈黙だと思える距離に彼が遠ざかっていることに、胸が痛まないと言えば嘘になる。だけど遠ざかってみて初めて、近くにいては目が潰れてしまいそうになる彼のまぶしさを、ちゃんと真正面から受け止められつつあるのもきっと事実だ。

「そうだ。おめでとう、優秀選手賞」

 チームの表彰とは別に、最終日まで戦い続けた彼には個人の表彰が待っていた。準決勝の試合はフルセットにもつれこむ大接戦で、最後は何度も、何度も、マッチポイントが両者を行き来した。そのとき、幾度となく相手からマッチポイントを奪い返していたのがコウちゃんの強烈なスパイクだ。終盤になっても威力は衰えるどころか、むしろ集中力に比例して増していくばかりで、あんなスパイクを見せられたらどんな声を掛けられるよりも周りは勇気づけられるだろうと思った。背中で語る、というやつか。彼には言葉よりももっと強い引力で、ひとを惹きつける才能がある。

「……別に、チームの優勝しか意味ねーし」

 ふてくされたみたいにぷいと顔をそむけて、足元の砂をサンダルのソールで蹴りつける。彼の上がったり落ちたりと忙しい性格は、物心ついたころからずっと変わらない。梟谷のバレー部のひとたちは、落ちこんでいるときの彼のことを「しょぼくれモード」と呼んでいる。マネージャーの子たちからそれを教えてもらったとき、私は彼に気づかれないようにと思いつつ、その的を射た言葉に笑わずにはいられなかった。そして同時に、彼はやっぱり彼の正しい道を選んだのだと思った。正しいひと。私にとってコウちゃんは、そうやって形容するのがいちばんしっくりくるひとだった。今までも、今も、これからも、きっと。

「主将がそんな顔しちゃだめだよ」
「ふご、」

 小さなころそうしたように、彼のへそ曲がりを手っ取り早くうやむやにしてしまう方法がひとつある。彼の鼻先を指でつまんでしまうのだ。一緒になって落ちこんでも仕方ないときは、彼の気持ちを逸らしてしまうのがいちばんいい。こうやって私が子どもみたいな仕草でコウちゃんの不機嫌をいなせば、逆に彼のほうは自分が子どもみたいにいつまでもいじけているのがばからしくなってくるのだろう。

「わかった、わーった! 離せ!」

 けっこうな力で鼻をつまみ続けていると、ついに彼は観念して、鼻声になりながらも強引に私の腕をひっぺがした。彼の大きな手のひらはそれなりに汗ばんでいて、触れられると熱の刻印を押されたみたいに温もりが焼きついた。

「春高で優勝すりゃいいんだろ」

 きっぱりと、むしろぶっきらぼうにそう言い放つ。私に向かってというよりも、しんとした眼前の海を睨みつけて。規則正しい波の音が言葉の端をかき消しても、その言葉の核を侵すことはできない。そんなふうに何も寄せつけない強さで紡がれてしまったら、目の前でいじけられるよりもずっと、どう言葉を返せばいいのか分からなかった。

「ざんねんでした。優勝は音駒です。さ、花火行こう」

 だから、これでおしまい。スカートをはたいて腰を上げると、コウちゃんもどこか面倒くさそうに頭をかきながら、ようやくゆっくりと立ち上がった。こんなに暗くなってしまったら、きっともう私たちのことなど置いてけぼりにして花火は始まってしまっているんだろうな。こっちだったよね、と道のりを彼に確認して歩きだす。ちょっと海へと続く階段のところに座っていただけなのに、サンダルの底には細かな砂のざらつきが残っていて、歩くたび足裏がくすぐったかった。

「……ってさー、黒尾と普段どんな話してんの」

 すると突然、道端の小石を蹴りながら、コウちゃんは妙なことを私に尋ねた。今までそんなこと一度も気にしたことなかったのに、今だってそんな話題の気配もほとんどなかったのに、だ。コウちゃんは歩道と砂浜をへだてる背の低い石塀にひょいとのぼると、器用にその上をてくてく歩きだした。こんなに暗いのに、危ない。危ないのに、危なげない。しばらくその軽やかな足どりに見惚れてから、私は彼の問いかけに見合う言葉を探した。

「えー。そうだなあ、世界平和や国際情勢について熱く……」
「あーあー、もういい」

 すぐさま冗談の気配を察したのか、彼は荒々しく私の言葉を遮った。コウちゃんは背が高くて、歩いていても一歩一歩がとても大きい。だから、私はとなりにいてもいつも、いつの間にか彼の斜め後ろを歩いていることが多かった。いつだって視界にあるのは、その背。その大きな背。彼のTシャツの背中には「エースの心得」と題された三箇条が載っていたけれど、この暗がりのなかでは細かな字をひとつひとつ追うことはできなかった。

「コウちゃんの話、よくするよ。なんてったって、私たちの仲人ですから」

 ちょっと振り返って、私を見て、コウちゃんはなんだか訝しげな表情をしてみせた。私の言葉を疑っているのか、その言い方が気に入らなかったのか。何を思ってそんな顔をしたのかは分からないけど、彼はポケットに手を突っこんで溜め息ともとれるような大きな息を吐きだした。

「もう二年か」

 ちょうど最近、自分も同じような感慨にふけっていたことを思い出して、彼のその短い感嘆のような一言に妙にどきりとした。変な感じ。コウちゃんが改まって振り返る二年のなかで、一体私たちはどんなふうに映っていたんだろう。お腹の底がむずむずして、彼に二人の関係について触れられるとどうも居心地が悪くなってしまう。別に隠すわけじゃないけれど、必要以上にごまかしたくなってしまうのだ。

「あー、もしかして後悔してる?」
「は、何がだよ」
「かわいい幼なじみを友達に紹介しちゃって」
「うぬぼれてんじゃねー」
「あた」

 コウちゃんは塀からひょいと飛び降りて、さっき鼻をつまんだお返しと言わんばかりに、ぱしんと私の頭をはたいた。いい音はしたけど痛くはない、昔と同じコウちゃんの叩き方だった。そう、これくらいがちょうどいいのだろう。ひとしきりじゃれあえばすぐに、私たちは昔から何も変わらない幼なじみになれる。なったつもりになれる。心に染みついた仕草や言葉を並べて、積みあげて、一緒になって、いつか壊れる砂のお城を作るように。

「コウちゃんに後悔は似合わないよ。いっつも前だけ向いてるのがコウちゃんだもん」

 私のその一言に彼が何か言葉を返すことはなかった。痛くもないのに彼の手のひらが触れた頭のてっぺんをさすりながら、私はまた彼の斜め後ろを、追いかけるように足早に歩いていく。









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2015.10