Ⅰ 夏の背中 - 3




 あいつがいつも、焚きつけてほしそうな顔をしていたから。

 同じ高校の制服を着ているのに、なぜか他校の生徒と親しげに話している女。目立たないようにしていても、いやがおうにも印象に残ってしまうのはきっと俺だけじゃなかっただろう。何せその話し相手が木兎だったのだから。中学のころから東京じゃ有名なやつで、推薦の誘いなんてよりどりみどりに違いなく、一体どこの高校に入ったのかと思えば自分の入った都立高とよく練習や合宿をともにする私立の梟谷学園に入学していた。チームは違えど、これから三年間コイツと一緒にやんのか。そう考えると、緊張と高揚とがないまぜになった痺れが全身を駆け巡った。そしてあの痺れは、きっと今でも続いている。思いのほかしぶとく、俺の三年間をまるまる支配してしまいそうなくらいに。

「木兎、あの子ってお前のカノジョ?」

 初夏に入って、少しずつバレー外のたわいない会話も交わすようになってきたころ、さりげない疑問をよそおって彼女のことを聞きだした。はっきりと覚えている。体育館の壁にもたれてしばしの休憩をとっていた俺たちの視線の先には、いつの間にか梟谷のマネージャーたちと言葉を交わすようになっていた彼女の姿があった。
 話をしたことがないのはもちろん、クラスが違えばそうそう顔を合わすことさえない。ときどき休み時間の廊下ですれ違って、視線が合えば少しの会釈をするくらいの仲。いや、仲とも呼べない何か。となりの木兎は一瞬何を訊かれているのか分からなかったようで、妙な沈黙が問いの隙間に流れた。とはいえ指でさすような野暮なことはできないので、「今日も見に来てるだろ」とつけ加えたら、ようやく彼は合点がいったようでなんのためらいもなく彼女の名前を呼び捨てた。

「あー、? いや、幼なじみっつーか、そういう感じ」

 へえ、と条件反射のように気のない返事をしながら、木兎のその短い言葉や素っ気ない物言いのなかに、二人だけが長らく分かちあってきただろう時の流れのようなものを感じずにはいられなかった。その正体をたとえ見通すことができなくとも、見通すことのできないものがあるのだという事実が、平坦に見えていたものたちに陰影をつけていく。ああ、だから、いっつもあんな顔してんだ。焚きつけなくてはならないほど、何かが彼女のなかにくすぶっている。そう考えたら、もう、瞬く間に焚きつけられていたのは自分のほうだった。



 八月の中旬に梟谷との一日だけの合同練習が組まれた。いつも一緒に練習するほかの学校はちょうど春高の一次予選にぶつかる時期で、参加できるのはインターハイ予選でベスト16以内に入り、予選大会のシード権を獲得していたうちと梟谷の二校だけだった。梟谷のバスが駐車場に着くのを確認し、いつものように部室を開け、体育館に部員が集まりだしてようやく、あの人一倍うるさい梟谷のエース様が居ないことに気がついた。聞けば、国体選抜の壮行試合が重なってしまい今日は一日中来られないなのだという。去年はインターハイ予選の優勝校がそのまま出場していたからすっかり頭から抜けていたが、そういえば今年は優勝校を中心に何人かの優秀な選手を招き、選抜チームのていで国体に臨むのだった。あいつは当然のように代表メンバーに選ばれていて、もちろんのこと中心になる活躍を期待されている。いつもバカ言いながら一緒になって練習しているヤツが、蓋を開けてみればずいぶんと遠くに立っていて、盲目を許さないその距離をなんだか妙に恨めしく思った。

「何見てんだ?」

 午前の練習が終わり、後輩たちの居残り自主練に付き合ってから食堂に向かうと、あらかた昼飯を食べ終わっていた梟谷の連中が数人集まってえらく盛り上がっていた。昼食の盛られたトレイをテーブルに置いて、席につきながら彼らの輪のなかを覗きこむ。彼らが熱心に見ていたのは各々のスマートフォン画面のなかだった。

「これ、こないだのインハイのときの思い出写真展」

 となりに腰かけていた木葉が自分のスマートフォンを俺に寄越してみせた。グループチャットで共有されているアルバムのようなものなのか、彼のスマートフォンの画面には何枚もの写真がずらりと並んでいた。そのなかのひとつをタップして拡大してみると、それは寝ぼけまなこの三年生たちが寝癖もそのままに朝の洗面所で並んで歯磨きをする姿を捉えた一枚だった。どうでもいい一瞬すぎて、気が抜ける。

「思い出写真、て。修旅かよ」
「マネージャーたちが撮ってたんだよ、知らんうちに」

 女ってなんでもすぐ撮りたがるよなー、などと言いながら、木葉もまんざらではないようで、俺には充分この即席の写真展を楽しんでいるように見えた。練習中のなにげない一コマ、開催地ののどかな自然や体育館の様子、バスに揺られる部員の寝顔や、宿舎の晩飯を映したものまで。けっきょく最後の夏もインターハイという全国の舞台に立つことのできなかった自分には、そんな一枚一枚がくだらなくもまばゆく映る。どんどん指先でスクロールして画面を流していくと、やがて手持ち花火に興じる彼らの写真が何枚も連なって出てきた。

「……木兎あんま映ってねーな」
「あー花火のやつ? なんでだっけな」
「準決で負けて、しょぼくれモード発動で行方不明」

 向かいに座ってた小見が頬杖をついたまま面白がってそう合いの手を入れると、そのとなりにいた猿杙も思い出したように話に加わってきた。

「なんかいつの間にか戻ってたけどね。海のほうまで散歩してたとか言って」

 あの万年お祭り男の木兎が、ひとりで浜辺までたそがれにねえ。なかば信じがたいような気もするが、彼らの言うおなじみの「しょぼくれモード」というやつならば成せることなのか。木葉にスマートフォンを返してやっと昼食にありつこうとしたとき、今度は小見が俺に向かってスマートフォンを差しだしてきた。彼が画面にひらいていたのは一枚の写真。闇のなかに佇んでいても分かる。線香花火の橙色の火に瞳を輝かせている、彼女の姿が。

「そうだ、黒尾これ。さんの写真、送ってやろーか」

 そう言って見せつけられた写真に写っていたのは、が慎重に線香花火を指につまんで、そのはかない火花をじっと見つめている様子だった。別におおっぴらにしているわけじゃないが、俺とが付き合っていることは仲間うちではとっくに知れわたっていた。驚いたのは、彼女がそこにいたこと。インターハイから帰ってきて、向こうでの出来事をは色々と聞かせてくれたが、梟谷の面々と花火をしたなどという話は一度も出なかった。開口一番、話題にしそうなものなのに。その素朴な疑問は、小見が何気なく放った一言のせいで、みるみるうちに小さな焦燥の火種に変わった。

さんも来るの遅かったから、線香花火しか残ってなかったんだよなー」

 写真のなかに浮かび上がっている火の玉は、けっして消えることも落ちていくこともない。切り取られたその世界を永久にあかあかと照らしている。こんなことだけで心臓に穴が空いたみたいな息苦しさを一瞬でも感じてしまうのだから、恋は病だとはよく言ったものだと思う。

「ねえそこ食べ終わってるなら手伝ってよー」

 午後の練習の準備にかかるマネージャーの号令でそれきり写真展はおひらきになった。ひとり残された俺はただ、腹が減っているのかいないのか、飯が美味いのかまずいのかも分からずに昼食を大急ぎでかきこむと、すぐさま食堂を飛びだした。体育館ではなく、図書室へと向かうために。



 音駒高校の夏休みの校舎は驚くほどひっそりとしている。これが梟谷のように秋に文化祭のある学校ならばそれなりに八月の学校も賑やかなものなんだろうが、うちは春先に文化祭を済ませてしまうので夏休み中に出し物の準備に追われているなんてことはありえないのだ。運動部も文化部もだいたいは部室棟にこもりっきりで、教室を使っているのはせいぜい演劇部か、人数の多い吹奏楽部のやつらくらいのものだろう。そんな静かな廊下を抜けて、もっとも静かな場所へとひた走る。本館校舎の、体育館と正反対の突き当たり。廊下側のガラス窓からなかを伺うと、そこにはやっぱり、が居た。自転車通学の彼女は、夏休み中よくここで受験勉強をしていたのだ。

 が視線をあげた瞬間をみはからって、窓ガラスを弱く叩く。俺の影に気づいたは、目をまるくして急いで図書室を飛びだしてきた。いつもおろしている髪を、勉強の邪魔になるのかゆるくバレッタでまとめあげている。その、少しの無防備さが夏のけだるい午後によく映えていた。

「……どしたの、急に。休憩中?」

 夏休み中も登校時は制服を着なくてはならないという面倒な校則があるから、は夏服のセーラーをちゃんと着ていたけれど、胸もとをかざっているのは指定のえんじ色のリボンではなくスカーフを結んだような紺色のリボンだった。毎日違うリボンを選ぶこと。彼女なりのささやかな夏の遊び。図書室のなかが寒かったのか、薄手のカーディガンをその上から羽織っている。

「まーね、ちょっと充電しに」

 図書室前の踊り場に置かれている二人掛けのベンチに腰掛けると、彼女も俺にならってそのとなりにすとんと座った。直射日光は避けられるとはいえ、廊下は廊下で熱気がこもっていて暑かった。座っているだけでもじわり、じわりと汗が背骨に沿って垂れていく。

「インハイ行ったとき、梟谷の連中と花火したんだって?」

 急いた気持ちはおさまらず、わずかな時間のなかですぐさまこの話題を切りだしてしまう。は羽織っていたカーディガンを丁寧に袖からゆっくり脱ぎながら、いきなりの問いかけにもさして戸惑うような様子も見せずに話した。

「あ、うん。誘ってもらえたから、ちょっとだけ一緒に」
「木兎のやつ、張りきってたろ。あいつ合宿でも最終日になるとすーぐ花火やろーぜって言ってくるし」
「……そうなんだ。うーん、あんまり覚えてないや」

 なんでもないようににっこり笑っていても、目を合わせようとはしない。それが何かの証拠だとかそんな大それた勘は働かないけれど、だとしてももう少しさりげなく切り抜けてほしいだとか、そんな身勝手な感情が駆け巡ってしまう。彼女は隠すのが下手だ。こと、あいつに関しては。

「内緒なんだな」
「え?」
「木兎と抜けだして、海に行ってただろ」

 何も知らないくせに、ずるい鎌のかけ方をした。彼女が俺のためにと考えて気づかってくれていることを、ぶち壊すような尋ね方をしてしまった。の動揺のちらついた顔を見て、言った端からすぐさま後悔するようなことを、それでも言わずにはいられない自分の意地の悪さにうんざりとする。ふだんは二人にとっていちばん馴染みのある共通話題のようなやつなのに、肝心なところでむしろいちばん分かりあえない話題にあいつはすり替わってしまう。あいつに関して隠しごとをするのが下手なのは、けっきょく俺も同じなのだ。

「違うよ。抜けだしたんじゃなくて、道で偶然、見つけちゃったというか……」
「へえ。それで花火もそっちのけになったと」
「少し話してただけ。そんな別に何も、」
「だったら初めから正直にそう言ってくれよ」

 つい荒くなってしまった語気のせいで、彼女は言葉を喉もとへと押し戻してはたと口を閉じた。悪循環みたいなものなのだ。別に何もないことが分かっていても、こうなってしまうのが分かっているからは余計なことを喋りたがらないし、実際こうして何もないと分かっていたとしても俺はこんなふうに彼女をなじってしまう。何もはじめてのことじゃない。一年のころから付き合っていれば色々とある。ときには喧嘩もしたし、分かりあえないと思ったこともあった。それでも俺たちは二人でいることを選び続けているのだから、もういい加減こんな繰り返しはやめにしないとだめだ。そう、思うのに。

「……冗談だよ。あーあ、そんなこったろうと思った。焦って損したわ」

 険悪になりかけた空気を蹴散らすように、ぐっと腕を上げて伸びをする。何も話をするなとか、二人きりになるなとか、そんなことを言いたいわけじゃない。ただ、あいつとのそういう関係をどこかで俺に対して遠慮しようとしている彼女に、腹が立つ。正直にすべてを話す気がないのなら、それは嘘をつかれているのと同じだから。無性に焦る。二人の関係を互いに信じきれていないような気がして。

「私、そんなに信用ないかな」

 スカートの上でくしゃりと小さなこぶしを握って、が俺を見つめる。俺は急によこしまな気持ちと優しい気持ちとがないまぜになったような気分になって、彼女の髪に手を伸ばすと前髪を掻き分けるようにして撫でた。ああ、ようやく充電している。ほんの少し皮膚と皮膚とが触れただけでも、こんなにも彼女はあたたかい。

「そういうことじゃねえよ。ただ俺が、あいつより十年ほど出会いが遅いってだけ」

 髪を撫でる俺の手に、の手が重なる。絡まりあった指と指。その向こうで、が不意打ちのまじめな瞳をしていた。俺を諭すような神妙な面持ちだった。

「好きな気持ちに、時間なんて関係ないと思う」

(……そうかな)

 はいつも、誰かに焚きつけてほしいという顔をしていた。それはたったひとりの待ち人に向けているようにも見えたし、誰でもいいからはやく来てというSOSのサインのようにも見えた。だから、俺は俺にとって都合のいい受け止め方をして彼女を手に入れたし、はそれを許してくれた。その関係が、今もまだ続いている。俺は彼女を正しく焚きつけられたのだろうか。胸に咲いた火種をうつして、火をつけて、それで。焚きつけなくてはならないほどにの内側にくすぶっていたものの正体を、俺はまだ暴ききれないままでいる。









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2015.11