Ⅰ 夏の背中 - 4




 高校に入って最初の夏休みがもうすぐ始まるころだった。どうせやることは大して変わらないとは分かっていても、初めてのインターハイが控える夏の入り口に俺は今、立っているのだと、そう思うと顔がにやけた。出られるかどうかはまだ分からない。けど、必ず出る。出てやる。そのときの自分の頭はそんな根拠のない自信と一丁前な決意とでいっぱいで、ほかのことを咀嚼している余裕なんて自分から願い下げてやるといった調子だった。高校の三年間は短い。一年生の夏はもっと短い。その短さと張りあうためには、自分をもっと削ぎ落とさないとならない。頭で考えるより先に心が勝手にそう動いてた。俺はいつも、そうだった。

さー、黒尾ってやつ分かる?」

 の部屋に来るときはだいたい、彼女の漫画棚に用があるとき。小さいころ、俺の家にあった少年漫画を一緒に読み漁っていたからなのか、彼女の漫画棚には今も少女漫画に混じって少年漫画がちらほら並んでいた。二人で揃える漫画を手分けしていたころの習慣のなごりで、今も新刊が発売されると思い出したようにの部屋に向かっている。部室で週刊誌を回し読みしているから、別にそこまで話の続きが気になるわけでもないのに。

「くろお?」

 勉強机に向かっていたがカーペット敷きの床に座っていた俺のほうを振り返る。手にしていたコミックスから視線を上げると、自然と目に留まったのはハンガー掛けに吊り下げられていた音駒のセーラー服だった。夏服は襟まで白くて、リボンと同じ色の線が一本襟をふちどるようにあしらわれている。高校に入ってと初めて学校が別れても、音駒と梟谷ではあまり離れた気がしなかった。だいたい学校でなんて中学のころから大して話してなかったし、案外こんなものなのかもしれない。

「こないだの試合でやたらブロック決めててよー、音駒の一年でいちばん上手かったやついるじゃん」

 いまいちがピンときてないようだったので、もう少し特徴をなぞった言葉をつけ加えてやる。自分の言葉であいつのことを述べ伝えようとすると、どうしてもついこの間、音駒に行ったときにやった一年生だけのワンセットマッチのことが思い出された。今、思い出しても悔しくて腹のあたりがむかっとするけど、あいつに得意のクロスを一本完璧に止められたのだ。試合には勝ったけど、あの一本のせいで俺は全く喜べなかった。

 は椅子をくるりと回転させて、俺が散らかした漫画を一冊手にとると、退屈そうにぱらぱらとページをめくった。うーん、と思案するようにしばらく視線を落としてから、彼女は首を横に振る。

「上手いとかよく分からないよ」
「あー? 目立ってたろ、いちばん背でけぇの。こーんな髪型しててさー」
「……ああ、あのひと」

 身振りと手振りを混ぜて説明するとようやくは「黒尾」を思い浮かべることができたようだった。音駒で合同練習とか試合とかするときはいっつも覗きに来ているくせに、なんつーかこいつは注意力が散漫なやつだ。レシーブ、トス、スパイク、サーブ、ブロック。何をするにも決めるにも、名前なんかしょっちゅう呼びかけあっているものなのに、未だに名前と顔がろくに一致しない。バレーのルールだってあやしい。差し入れやらなんやらしてくれるのは有り難いと思っているけど、そんなんじゃ見に来たってきっとつまらないだろうに。
 は持っていたコミックスを本棚に戻すと、そのままベッドに移動してクッションを腕に抱えこんだ。ベッドのふちに腰かけられると、ショートパンツから伸びたの脚が、ベッドを背もたれにして座っている俺の真横にすっと降りてくる。彼女の裸足の指先には、薄い水色のマニキュアが塗ってあった。

「そのひとが、どうかした?」
「今度一緒に遊ばねえかって」
「ふうん」
「お前も入れて、三人で」

 の顔はクッションに半分隠れてしまっていたけれど、それでもまるく見ひらかれた両眼がその驚きをじゅうぶん伝えていた。

 正確に言うのなら、俺は黒尾に「三人で遊ぼう」と言われたわけじゃない。夏休みに入ったらどっか遊びに行こうと話していたとき、「こっちでも女子ひとり誘うから、お前はさん誘ってくんね」と持ちかけられたのだ。黒尾がに興味を持ってる。それは、なんとなく分かっていた。だからこそ俺はその提案がどうも居心地悪くて、「そんなまどろっこしいことしなくても、なら紹介すっけど」と言ってしまった。四人はだめだ。三人がいい。割り切れない人数。考えもなくそう思った。あの日、その当日、強制参加の居残り練習がなかったら俺たちはまだ三人のままで居たんだろうか。今でもときどき、そんなことを考える。



 の部屋に足を踏み入れるのは、あの日以来だ。

 ずいぶんと久しぶりだと思って記憶をじゅんぐり辿っていたら、行き着いたのはあのときの、あの会話の断片だった。一年生の夏休みが明けて、梟谷の寮に入ってしまってからはの家ともそれなりに疎遠になった。休暇中は何日か実家に戻って、そのときの家に邪魔することはあっても、あいつの部屋までずけずけと入っていけるような距離はいつの間にか二人の間からは失われていた。失くしたつもりなんかなくても、失ってしまった。そういう感じ。取り戻し方も、取り戻すべきことなのかも、分からない。

 八月の終わりに、音駒で夏休み最後の合同合宿があった。音駒から俺の家までは自転車かっとばして十分、走っていけば二十分。山あり谷ありでちょうどいい走りこみのコースにもなる。合宿も半ばにさしかかった三日目、午後の全体練習が早めに終わり、三時からの自由練習の時間を利用して俺は家までの道のりを走った。梟谷の寮から持ってくる荷物は最低限にしてあるから、だいたい途中で着替えが足りなくなるのだ。合宿所で洗濯してもらっていても、毎日二回、三回と着替えていては間に合わない。だったら、家に残してるTシャツ類を引っぱり出してくるほうが断然てっとり早かった。

 着替えをまとめて、一杯の麦茶を飲んで、すぐにまた家を出る。そこまではいつも通りだった。向かいの家の庭でたまたま水撒きをしていたの母親に声をかけられるまでは。

「コウちゃん、コウちゃんじゃない」

 の母親は、と同じように俺のことを「コウちゃん」と呼ぶ。というよりも、このひとが「元」なのだと思う、その幼い呼び名の。彼女は水撒きホースを手に持ったまま、垣根のそばまで目をきらきらさせて近寄ってきた。

「いつ戻ってきてたの。今年はお盆も寮だったのに」
「金曜。いま音駒で合宿してっから」

 そう答えながら、いちばん厄介なひとと顔を合わせてしまった、と思った。午後の陽射しが刺さるように落ちてきて、ちょっと立ち話をしているだけでも、コンクリートからたちのぼる太陽の熱にうっと息が詰まった。

「ねえちょっと寄ってかない? もうすぐマフィンが焼きあがるのよ。一緒に食べましょう」
「いやでも、俺いますげー汗臭ぇし……てかすぐ戻んねえと、」
「いーのよー、そんなこと気にしなくて。ちょっとくらいいいじゃない。さ、上がって上がって」

 の家の門がひらいて、俺はほとんど引っ張られるようにしての家に上がることになった。の母親は少し、いやかなりお節介なところがある。が言うには、息子が欲しかったけどけっきょく生まれなかったひとだから、俺が彼女の息子がわりみたいなものらしい。そんなふうに言われると、ふだんよくしてもらっている手前、あんまり彼女の誘いをむげにすることもできなかった。
 久しぶりにの家に入ると、ドアを開けた途端にマフィンの甘いにおいが玄関までふわりと漂ってきた。スニーカーを脱いで、用意されたスリッパに足を通す。リビングに入るとテレビはつけっぱなしで、夏の終わりの風物詩みたいな二十四時間生放送の番組が小さな音量で流れていた。誰も見ていないのに。

「そうだ、が部屋にいるから呼んできてくれる? おばさん、オーブンの様子見てるから」

 それだけ言うと、彼女はぱたぱたとスリッパを鳴らして足早にキッチンへと消えていってしまった。

 こうして俺は今、の部屋の、扉の前に居る。に会うのは八月の初めのインターハイ以来で、この部屋に訪れるのはおそらく二年前の夏ぶり。ドアをノックしても、声をかけても、なかから返事が返ってくることはなかった。

? 入ンぞ」

 ドアノブに手をかけてその扉をひらくと部屋の明かりはついておらず、勉強机の電気スタンドをつけっぱなしにしたままで、が机に突っ伏して居眠りをしていた。さっさと揺り起こしてしまえばよかったものを、ぐるりと部屋に視線を投げたのがいけなかった。の部屋は、記憶のなかのそれとはだいぶ違った。違うものになっていた。本棚にはもう少年漫画はなかったし、枕元に並んでいたぬいぐるみはみんな消えて、かわりに読みさしの単語帳が転がっていた。小花柄のカーテン、ギンガムチェックのブランケット。こいつの部屋、こんな女っぽかったか。あっけにとられてしばらく部屋を見渡していると、ベッドとサイドテーブルのわずかなすきまに、何かが落ちているのを見つけた。近づいて、しゃがみこんで、手にしてみて、ようやくそれが何なのか、気がつく。ベッドのすきまに落ちていたのは、未開封のコンドームだった。

 とっさに俺は、を振り返る。彼女には起きる気配など微塵もなく、ずっと同じ体勢で眠り続けていた。心臓が痛いくらいに激しく動いていて、内側の音が外にまで漏れていないかとこわくなるくらいだった。手にしてしまったそれをハーフパンツの後ろポケットに突っこんで、ようやく俺は自分の任務を思い出した。。自分の声が、何かに絡めとられているみたいに不自由に響いてる。

、起きろ」
「ん、」

 彼女のほそっこい肩を揺する。今しがた、誰のためのものか明らかな避妊具を拾いあげた、同じその手のひらで。

、」

(コウちゃんに後悔は似合わないよ)

 なんだよそれ。どういうことだよそれ。似合うとか似合わねえとか、意味分かんねえよ。の無責任な励ましの数々が頭のなかを風に吹かれた落ち葉のようにからから巡って、それが今になってむしょうに苛立って仕方なかった。

「……俺だって後悔くらいするからな」

 眠りの世界に落ちているに、そう吐き捨てるのが自分のやっとだった。むやみに口走ったその「後悔」の深さなんて、自分ではかれもしないまま。



 その夜、風呂あがりに洗濯物を出しにいく段になって、俺はいやがおうにももう一度の部屋でひろった落としものと向き合わねばならなかった。洗濯室の籠の前で、汗みどろのハーフパンツのポケットからそれを取りだす。そのままにしておけばよかったものをけっきょく慌てたついでに持ってきてしまった。二年という月日は、幼なじみの部屋にこんな忘れものを残していく。一度も言葉を交わしたことのなかったどうしが恋人になったり、ガキのころから一緒にいたやつが赤の他人のように遠く感じられたりする。そう思うと、高校三年間なんてあっという間だと思って信じて疑っていなかった自分がばかみたいだった。

「あれあれ木兎くん、合宿所で一体何しちゃってるんですかね」

 背後から声をかけられると同時に絡まれるように肩に腕を回され、風呂に入ったばかりだというのに背中にじわりと冷たい汗をかいた。隠そうとしたってもう遅い。腕を振り払うようにして身をよじり、手にしていたものを背後の呑気な声の主に突きつける。黒尾のきょとんとした顔を見ていると、の部屋で感じたしょうもない苛立ちがまたむくむくと育っていくのを感じた。

「返す」
「あ?」
「お前ンだろ、これ」

 押しつけるようにして無理やりにそれを黒尾の手につかませると、洗濯籠のなかに今日履いていたハーフパンツを投げこんだ。ほかのTシャツやら靴下やらも無心に籠へと投げこんでいく。ぽす、ぽす、ぽす、と衣類が衣類に沈む乾いた音がまぬけに会話のすきまへと滲んでいった。

「お前な、そんなんの親に見つかったらどうすんだよ。ちゃんと隠しとけっつの」

 なんで自分が、こんな余計なこと言ってんだろ。すべての衣類を出し終わり、空になった着替え入れの袋をくしゃりと握りしめて洗濯室を出ていこうとしたとき、後ろからまたけっこうな勢いで手首を拘束された。振り返って目の当たりにした黒尾の表情は、今まで一度も見たことのない、一度も向けられたことのないものだった。ぎょっとする。こいつ、こんな顔ができるんだ。のために。

「……お前、自分の家戻ってたんじゃねえのかよ」
「仕方ねーだろ、帰ろうとしたらあいつンとこのおばさんに掴まっちまったんだから」

 黒尾の目の強さに圧倒されて、こんな弁明を強いられていることにも納得がいかなかった。見たくないものを見せられたのはこっちのほうだ。二年ぶりに見てしまったの部屋。あいつの部屋を、あいつ自身を、俺のあずかり知らないところで全く知らないうちに変えていたのは、お前なんだろ。そう言い散らして、向けられた嫉妬をそっくりそのままなすりつけたい気分だった。

「別に何もねーよ。心配すんな」

 手首にこめられた力を、腕を振って削ぎ落とす。胸に沁みた苛立ちをこれ以上溢れさせたりなんかしないように、そう考えたら、黒尾の目はもう見ることができなかった。









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2015.11