Ⅱ Don't Pray Back - 1




 夏休みが明けて、久しぶりに自分の教室に入ってみると、クラスメイトたちはいよいよ受験一色といった空気に包まれていた。カレンダーが九月になっても相変わらずの残暑が続いているし、これからもしばらく夏服を着続けるのだろうし、肌で感じられる季節の変わり目はまだもう少し先になるだろう。それでも、あっけなく夏は終わってしまった。まだたくさんのことをやり残しているような気がしたけれど、そしてそこには二度と立ち戻れない何かがあったはずなのだけど、音も立てずに待ったも聞かずに逃げてしまった。それが高校生活最後の夏だった。

 そんな少し忙しないような、神経質でぴりぴりした秋口の空気に逆らうかのように、春高の二次予選が終わってからというもの男子バレーボール部の練習量は日に日に増していくばかりだった。図書室が閉じる時間まで粘ってから体育館を目ざしても、彼らの使っている大体育館は決まってこうこうと明かりがついている。なかを覗くとたいていはもう全体練習が終わって自主練習をしているころなのだけど、自主練とはいえこのごろは上級生の大半が残り、各々の納得がいくまでボールを触り続けているようだった。鉄朗には、「待たなくていいよ」と言われている。それでも、待っていたくなる。ずっと彼らを見ていたくなる。焦りを感じるだけの息苦しい教室になんとなく疲れていた自分にとって、毎日の終わりに彼らの練習を垣間見られることはむしろとても有りがたくて、贅沢なことだった。

「孤爪くん。私、何か手伝おうか」

 ローファーを出入り口で脱いですみっこのほうに追いやり、靴下で体育館の床を踏みしめる。この部にはマネージャーというものがいない。だから、みんなが思い思いに練習するこの時間は素人目に見ても人手が足りていなかった。コートの外でボール籠から適当なボールを選んでいる孤爪くんにそんな声を掛けると、彼はびくりと肩を揺らして、なんだか少し不服そうな視線をよこしてみせた。もっとも彼の愛想笑いだとか、社交辞令だとかに、私はついぞ出会ったことはなかったけれど。

「……そういうこと言ってると虎あたりが調子のるよ」
「調子のる?」
「泣いて喜ぶっつーこと。、こっちで球出し頼む」

 孤爪くんと話していると鉄朗の声が背後からぬっと割りこんできて、いきなり肩に腕を回されたかと思ったら、空いているコートの一角へ私はそのまま放りこまれるように連行されてしまった。役立てることがあるならなんでもいいけれど、一応、孤爪くんに声をかけたつもりだったのになあ。そんな私をよそに、鉄朗はてきぱきと自主練の用意を進めていく。今日、なかば強制的に私が仰せつかったのはネット際にボールをひたすら高々と上げ続けることだった。私が放ったボールに合わせて鉄朗が踏み切り、強烈なスパイクに仕上げてネットの向こうへ突き刺していく。スパイク練習なら孤爪くんのトスでやったほうがいいのに。ボールを出しながらそう話しかけたら、彼は「たまにはお前の下手クソなボールを返すのも、実践練習になっていいんだよ」なんて言ってにやりと笑った。嬉しいような、ちょっと失礼なような。だけどやっぱり、こうやって少しでも彼の努力の一端に触れているということが、私には充分すぎるくらい嬉しいことだった。

「最近、あんまり合同練習しないんだね」

 籠ひとつぶんのボールを打ち終わり、コートの向こうがわで二人一緒になってボールを拾い集める。体育館の掛け時計を見上げると、時刻はまもなく午後七時を回ろうとしていた。もうすぐ最終下校だ。鉄朗は落ちていたボールの最後のひとつを手に取って軽やかにトスをし始めながら、私のその呟きになんとも不敵な言葉を返した。

「ま、これ以上手の内見せてやる必要ねーよ。お互いにな」

 お互いに。その一言が名指している学校はきっとひとつしかないのだろう。彼らがしょっちゅう合同で練習したり合宿したりしている学校のなかで、音駒と梟谷だけが同じく都内に位置している。そして先日の春高二次予選で、音駒と梟谷は互いにベスト4まで見事に勝ち残った。東京代表の三つの椅子を争う最終予選まであと二ヶ月弱。もう、仲良しこよしは終わりなのだ。真剣勝負。そのためには、ここまでともに切磋琢磨しあった彼らだからこそ、見せるべきではないことが双方たくさんあるのだろう。

「梟谷のほうはこの時期、練習試合も原則非公開だしね。徹底してるよなー」

 壁に向かってひたすらレシーブ練習をしていた夜久くんが、跳ね返ってきたボールをいったん片手で受け止めると私たちのほうを振り返った。都外から予選で負けた強豪の新チームとかいっぱい招いてるらしいよー、と夜久くんはどこか羨ましげに言葉を続ける。梟谷ほどの全国大会の常連チームならば全国津々浦々にツテというものが当然あるんだろう。そんな強豪同士の練習試合なら音駒だって混ぜてもらえればきっと得るものはたくさんあるだろうに、もうお互いのためにもそういうわけにはいかない季節になったのだ。

「……あ、でも、今年も招待試合あるよね。文化祭で」

 つい最近、そんな連絡が梟谷のマネージャーの子たちからきていたのを思い出す。毎年のことではあったけれど、梟谷の男子バレーボール部は文化祭で他校を招いての練習試合をすることになっていて、去年も、一昨年も、音駒の練習日と被らない祝日に試合が組まれていたのでみんなで試合を観に行ったのだ。だから、なんとなく今年も行くのかな、という気持ちになっていたけれど、その話を振った夜久くんの表情はあまり芳しいものではなかった。

「あー、来週の月曜だっけ。いいねえ、文化祭。こっちは祝日返上で練習だってのに」
「そっか……それじゃあ、今年は行けないね」

 籠のなかのボールに視線を落としてそう答える。目に見えて練習の量を増やしている彼らなのだから、確かに他人の試合を観ている暇なんてなくても当然なのかもしれない。少し残念なようで、どこかでほっとしている自分が不思議だった。見たくて、見たくて、見たくないもの。いつの間にかそんな相反した気持ちが自分のなかに芽吹きはじめていたから。

「いいんじゃん、は行って来いよ」

 すると、そんな私の優柔不断な本性を見透かしているかのように、鉄朗が私の背中をぽんと後押しするみたいに叩いた。叩いたというより、手のひらをあてがったといったほうが正しいかもしれない。シャツを通して押し当てられた彼の熱。振り返って見上げても、私にとって特別な熱を帯びたそのひとと目が合うことはなかった。

「でも、ひとりじゃ……」
「一緒に行く友達のアテくらいあるだろ。勉強の息抜きにもなるしさ」
「そうかもしれないけど、」
「代わりに偵察頼むわ。あと、あいつにもよろしく言っといて」

 それだけ言い残すと、鉄朗は「下校時間になるからそろそろ切りあげなー」と体育館いっぱいに響くような声を部員たちにかけて、ボール籠を押しながら部室のほうへと向かってしまった。手を伸ばしてもさわれない背中の真ん中に、とびきりの熱の跡を残して。
 ――信用ないのかな、なんて言って彼を困らせたのは私のほうなのに、こんなふうにまるで躍起になっているかのように信じている素振りを見せつけられても、途端に彼の内側が分からなくなってしまう。あまのじゃく。私も、鉄朗も、肝心なところできっとそうなんだろう。

 夏の終わりに、合宿中のコウちゃんが私の家にちょっとだけ寄っていったことがあった。部屋で居眠りをしていてぱっと目覚めたらコウちゃんの顔がすごく近くにあって、しかもなんだか機嫌が悪くて、お母さんの前ではふつうに振る舞っていたけど、あれ以来コウちゃんとはろくに話せていなかった。別に、文化祭に行ったくらいで、ほんとうに「よろしく」の一言すら言える機会があるかどうか。どんな顔して、どんなふうに、話したらいいんだろう。一度だってそんなふうに悩んだことはなかったのに、一旦意識にのぼった戸惑いはなかなか消えてはくれなかった。



 どんな顔をして、どんなふうに話したらいいか。けっきょく何度も巡らせた私の思案は、意外なかたちで徒労に終わった。というのも、私が夏の終わり以来初めて目にしたコウちゃんは、瞼も、口も閉ざして、保健室のベッドですやすやと眠りこけていたからだ。

「バカは風邪ひかないって嘘だったのかって、今日100回は言われそう」

 雪絵ちゃんが大きな溜め息をついて、スマートフォンの画面に表示されるデジタル時計を確認した。梟谷文化祭の最終日。あと数分で招待試合が始まってしまう時間になっていた。

 試合前に彼女たちがばたばたしているところに偶然鉢合わせて、何事かと思えば、主将がアップ中に倒れたというので、それを聞いたときは血の気が引いたけれどここで彼の顔を見てほっとした。雪絵ちゃん曰く、「練習バカが自分の体調管理もそっちのけで試合に出ようとしたのが悪い」ということみたいだけど、どうやら数日前から微熱が続いていたことを誰にも言わずに黙っていたらしい。その数日のあいだも練習には欠かさず参加して、自主練まで人並み以上に重ねていたというのだから驚いてしまう。無尽蔵。そんな言葉がぱっと思いついてしまうような底の知れなさ。とはいっても、こうやって肝心なところでガス欠を起こしてしまうのだから、やっぱり彼にも底はあったということなんだろう。

ちゃん、ごめんね、せっかく来てくれたのに。木兎が起きたらこの薬飲ませてくれるだけでいいから……」
「ううん、大丈夫。あとは任せて。試合、がんばってね」

 申し訳なさそうに何度も「ごめんね」と言う雪絵ちゃんの後ろ姿を見送って、ベッドサイドの木製のスツールにあらためて腰をおろす。騒がしいのは保健室の外、廊下や、校庭から聞こえてくる賑やかな話し声や笑い声だけで、ドアを閉じてしまえばここにあるのは侵してはいけない静けさだった。起こさないように慎重に、そっと彼の額に手を触れてみる。確かに、熱い。寝顔からは苦しさはあまり感じないけど、頬も心なし火照っているようだった。

「……国体も、春高の最終予選も控えてるのに。なんで手加減できないかなあ……」

 そう独りごちながら、分かっていた。それが彼なのだと。
 幼なじみとして十何年と彼と過ごしていても、こうやって熱にうなされるコウちゃんの姿を見た記憶はほとんどない。中学生のときなんて三年連続で皆勤賞をとっていたくらいなのだ。それを思うと、今の彼の壮絶な努力が、その痛みと厳しさとがはっきりと目に見えるかたちでここに表れているような気がした。

(俺にはバレーしかねえからさ。自分のできることだけ、三年間めいっぱいやってみたいんだよ)

 ほんとうに、その通りになった。その通りにしてみせた。彼は、どんな野放図に言葉を紡いでも、その設計図に見合った糸をなんでも持っていて、見さかいなく色を取りあわせているようで、できあがってみれば誰よりも美しく自分自身の今を編み上げてしまう。私も、その糸の一本くらいには、なれているのかな。いないのかな。こんなことが気になってしまうのは、私にとって私という糸がとても細くて危なっかしくて、どんな色にも埋もれてしまいそうだからなんだろう。自分の希薄さを、彼の選択のなかではかろうとしている。私、自分で見留めている以上に、ほんとうは弱い人間なのかもしれない。

 あれこれと出口をみずから放棄しているような、そんな堂々巡りの物思いにふけっていると、急に遮断された騒がしさが迫るように聞こえてきたので、コウちゃんの寝顔からはっと視線を上げた。保健室のドアが開いたのだ。半開きのカーテンの向こうで、後ろ手にドアを閉めた女の子の茶色い瞳と、ぱちりと目が合った。

「木兎先輩と付き合ってる方ですか」

 色んな挨拶や自己紹介のたぐいを一気にすっ飛ばして、見ず知らずの女の子が私に向けてきたのはそんな質問だった。びっくりして、しばらく声を出すことも忘れてしまう。黒髪を耳の後ろでふたつに結んで梟谷の制服を着ている彼女は、どこか不安げで、だけど毅然とした眼をして、私をじっと見ていた。その一言を聞いて、彼女の表情を一目見て、特別鋭くもない私でもなんとなく分かってしまった。悟ってしまった。彼女は恋をしているのだと。この、私の目の前で、安らかに眠り続けている男の子に。

「……安心して。そんなんじゃないから。マネの子に看ててって頼まれてるだけ」

 私が言えるのはせいぜいそれくらいのことだった。数メートルの距離で、女の子が少し安堵したような表情を見せる。恋をしている女の子が、まさに恋している瞬間って、こんなにかわいいものなんだなあ。彼女の様子を見ているだけで、そんなみずみずしい感動が、熟れた果実に歯を立てたときみたいに胸にじゅわりと浸みこんだ。

「こっち来て、座る?」
「いえ。私、ついこのあいだ、ふられちゃってますから」

 言葉じりはしっかりとしていたけれど、どこか力なく笑いながら、ゆっくり首を横に振る名前も知らない女の子。すっと私の内側にも刃のような冷たさが刺しこむ。年下であるはずのそのかわいらしい女の子が急に大人びて見えてくるのは、彼女が私の知らない痛みを負っていて、その痛みを引き受ける覚悟をしたひとだからなんだろうか。

「好きなやつがいるから、気持ちには答えられないって。そう、言われました」

 淡々と、彼女は見ず知らずの私に向かってそんな告白をしてくれた。そして、言葉の端をじっくりと舌に乗せながら、やっぱり私を見つめ続けるのだった。どれだけの想いを募らせても、どれだけの深さや厚みのある思いを届けても、それをたった一言で拒まれてしまうような出来事がある。誰が悪いわけでもないのに、こんなに哀しいことがある。恋って、誰もが決断に迫られる、危険な賭けなのだ。
 いきなりごめんなさい、と言い残してその女の子は保健室を出て行った。きっとコウちゃんが倒れたのを知って、心配して駆けつけてきたのだろう。そうしたら、自分の恋する男の子の近くに知らない女が座っていたのだ。あれくらいのぶしつけな質問はしょうがないのかもしれない。私なら、許しちゃう。私だけなら。だけど、ここに居て彼女の言葉に耳を傾けていたのは、どうやら私だけではなかったみたいだ。

「……余計なこと言いやがって、」

 仰向けに寝ていたコウちゃんがにわかにうごめき、腕で両目を覆いながら呻くような声を漏らす。驚くのも束の間、そのままゆっくり寝返りを打って、彼は私にぐるりと背を向けてしまった。起きた。というか、起きていた。どこからだろう。何が余計なんだろう。色んなことが気にかかる。寝起きのコウちゃんの声はかすれていたけど、思ったよりも元気そうだったから、知らず知らずのうちに気張っていた心がほろりとほぐれていくのを感じた。

「あの子、コウちゃんの後輩?」
「女バレの二年」

 照れ隠しなのかぶっきらぼうにそう言って、コウちゃんは目を擦りながら上体を起こした。髪の毛、ぼさぼさ。ワックスでかためてあるのが取れかかっている。あんまり心配しているような声をかけると気持ちを焦らせてしまいそうだったから、何も言わずにサイドテーブルにあった錠剤とペットボトルの水を差しだした。それに、今の私には一日経てばけろっとしている彼の病状より、今しがた名前も知らない女の子から受け取った恋の印象のほうがよほど興味深かったのだ。とても真っ当で、鮮やかなものを目にしたような気がした。ふられてしまった、と口では言っていたけれど、彼女の恋心はきっとまだ燃えている。伏せても、伏せても、そう簡単に消えたりなんかしないものなのだ。

「すごくかわいい子だね。もったいない。付き合ってみたらよかったのに」
「……簡単に言うなよ。好きでもねーのに、」
「そこから始まる恋もあるよ」

 こういうことに他人が口出しする権利はないにせよ、他人事だからと適当を言っているのではなく、純粋にそう思った。そう思える子だった。あんなにかわいい子がまっすぐに好きですなんて言ってきて、よくばっさりふってしまえるものだ。もしかして、そういうシチュエーションに慣れているのかな、コウちゃん。告白するとかされたとか、好きなひとが居るとか居ないとか、そんな話、今までしたことがなかったから私が知らないだけで。私の知らない彼なんてきっとたくさん居る。私がそれを、知りたくなかっただけで。

「お前もそうだったわけ」

 コウちゃんの話をしていたはずが、不意に問いが折り返されて私に向かってきてびくっと心臓が跳ねる。ぱちり、ぱちり。小さな音を立てて錠剤がふたつ、コウちゃんの手のひらに落ちていく音。もう眠気の過ぎ去った無表情で錠剤を口に入れると、彼はペットボトルの水でそれを一気に喉へ流しこんだ。

「え、何?」
「だから。……ほかに好きなやつがいんのに、付き合ったのかって。あいつと」

 口もとを手の甲で拭いながら、彼は私と目を合わせようともせずにやっぱりどこか素っ気なく、乱暴に言葉を放った。まるで私を責めているような声音で、そんなことを唐突に聞いてくる。ほかに好きなやつ。彼の一言が、私の胸のなかの、手つかずの荒れ地に土足で踏みこんでくる。ちょっとずつ歳を重ねて、少しずつ言葉にして、伝えて、丁寧に整理されていった私を一瞬で掻き乱してしまう。そんな荒業ができるのは、きっと、世界中でたったひとりのひとだけだ。

 今ここで何を言葉にできたとしても、自分の感情には遠く及ばないものが代替品として生まれてしまうような気がした。そう思ってしまえば、頭さえも言葉を探すためには動かなかった。黙りこくってしまった私にすぐに痺れをきらしたのか、コウちゃんが再び口をひらきかけたとき、私の手のなかで沈黙を裂くような着信音が鳴り響いた。親指を滑らせて急いで確認すると、それは雪絵ちゃんからのメッセージだった。

「……第一セット、獲ったって。私、友達と来てるから。もう行かなきゃ」
「おい、」

 コウちゃんの刺のある声にも構わず、かばんを肩にかけて立ち上がる。一方的に彼の問いの行方を伏せて立ち去ってしまうのはフェアじゃない。分かっている。それでも私には、あの女の子のように自分をまっすぐみいだす手立てが、まだ見つけられなかった。それはきっとここで何時間、彼と一緒にいたって同じことなのだと思う。たった独りで見つけなくちゃいけない。そういう、ひとりぼっちの問いかけだったから。

「おだいじに、コウちゃん」

 半開きだった間仕切りのカーテンをわざわざ閉ざしてから逃げるように踵を返した。コウちゃんの言葉に何も返すことのできなかった自分を振り切りたくて、いっそのことどこかに落としてしまいたくて、文化祭のざわめきのなかを私は靴を鳴らして息切れするほどに駆け抜けていった。









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2015.11