Ⅱ Don't Pray Back - 2




 ――あの子絶対、アンタに告白されるの待ってるよ。

 と同じクラスで、彼女ともそれなりに親しい女バレ部員の一人が、練習前のわずかな時間にそんな確信めいたことを俺に告げる。お前は予言師か、それとも占い師か何かなのか。そうでないなら、なんで他人が誰かの心を決めつけられる。なんて、必要以上に神経質に食ってかかりたくなってしまうのは、自分の心がその無責任な決めつけに浮かれてしまっていることの何よりのあかしだった。高校一年の、九月の終わり。残暑も過ぎ去って、朝晩はほんのりと肌寒さが滲むようになってきた。と出会った季節が背後へと遠ざかり、新たな季節にいつの間にか正面から呑みこまれている。終わるとか、始まるとか、俺たちは簡単にその言葉を使ってしまうけれど、季節の只中に立たされているとき、そこにはけっして目に見える継ぎ目なんてものはない。二人の関係もきっとそうだろう。いつだって地続きの想いに、それでも捉えがたく変化し続ける感情に、どうやってひとつのケリをつけようか。あのころの俺は、暇さえあればそんなことばかり考えていた。

「あのさー、

 水曜日の全体練習は他の曜日のそれよりも少しだけ早めに切り上げになる。ちょっと待っててくんねーか、と六時間目の授業の終わりに彼女のクラスに寄れば、はなんのためらいもさしはさまずに「分かった」と笑顔になった。理由も聞かずに彼女は喜んで俺だけのために放課後の数時間を潰してくれる。それだけのことで、確かにひとはたやすく予言師にも占い師にもなれるだろう。だけど、自分のこととなれば話は別だ。俺はけっきょく最後まで、確信どころか自信すら持てなかった。あんな仕方でしか想いを伝えられなかったのは、きっとその余裕のなさの裏返しみたいなものだったんだろう。

「うん?」
「……俺たち、その、付き合ってるよな」
「え、」

 六時を過ぎた空はもう明るさを失って、高台にある校舎からとぐろを巻くように続いている坂道はふしぎなくらい静かだった。が思わず、といった様子で歩を止める。手つかずの雑木林がガードレールの向こうにひろがる、坂の途中。ひとつの季節をかけて、俺とはそれなりに互いのことを知ったと思う。誰かさんをかすがいにしなくても、という意味においては。だとしても、けっしてその言葉は自分のかねてから用意していたものではなかった。戸惑ったのは俺も、とおんなじだ。

「えっと、いつから……」

 今思えばのその切り返しもじゅうぶん奇妙なものではあったけれど、そのときの彼女が俺の言葉を真に受けたように、そのときの俺もまた彼女の言葉を真に受けて必死に頭を回した。いつから。いつの間にか、放課後に偶然を装わなくても二人きりになれる二人。いつの間にか、わざとらしく二人きりを選んでいる二人。だけど、それだけじゃ足りない。この強欲を止めるにはもう、名前のない二人のままではとうてい居続けられなかった。
 誰が来るとも分からないのに、の肩を引き寄せてすっぽりと腕に彼女を抱きしめる。衝動はさんざん巡らせた想いなんかよりもずっと雄弁だった。驚いたのか、こわいのか、恥ずかしいのか、彼女が腕のなかで息を呑むのが分かる。ああ、こんちくしょう。かわいい。頭にあるのはどうしようもない好意のかけらたち。そのひとつひとつをつなぎ合わせても、テレビドラマのなかに転がっているような洒落た告白なんてとてもできなかったけれど。

「……今から、じゃだめか?」

 彼女の左耳に答えを落として、ようやく腕の力を緩める。薄暗がりのなかで俯いていたの表情はうまく読みとれなかったけれど、俺のシャツを掴んでいた震える指先を、そのやわらかな引力を感じるだけで、彼女の内側にあふれた水溜まりのことを思わずにはいられなかった。

「……だめじゃないけど、ずるい」

 濡れた声が、その甘い水が、堰き止めるすべもなく流れこんでくる。あのとき彼女が俺の胸につくった染み。時間が経っても、けっして消えてはいない。ずっと濡れたまま、俺は彼女の水に生かされ続けている。

 今でもときおり、はこのときの俺の間抜けなほどに強引な告白を引き合いにだして、「鉄朗ってほんと、ずるいとこあるよね」なんて言って俺をからかうことがある。
 そうだ。俺は、ずるい。お前を手に入れるためなら、いつだって、いくらだって、ずるくなれるような気がしてる。そんな自分がこわい。そんな自分を捨てて、と向き合うことがこわい。――あの子絶対、アンタに告白されるの待ってるよ。果たしてほんとうに、そうだったろうか。そんなことひとつ、今になっても面と向かって確かめられやしないのだ。



「まさか一浪覚悟とか言うなよ?」

 担任の釘をさすような野太い声が進路指導室に響いて、俺は一気に束の間の甘い記憶の旅から引き戻された。現実に目を向ければ狭苦しい小部屋に、むさくるしいおっさんと二人きり。しかも顔を突き合わせて話のタネにしているのは成績表と模試の結果ときたものだ。だいたい二ヶ月に一度ほど行われる進路相談は、何度やったって大して言われることも言うことも変わらない。とはいえ俺の場合はけっして「手が掛からないから」という理由で面談内容が膠着しているわけではなかった。その、自覚はある。自覚だけは。

 音駒は別にトップクラスの都立高ってわけでもないが、生徒の進学する大学のレベルは置いておいて進学率の高さが売りになるような高校ではあった。ようは、あまり無理はさせたくないという指導方針なのだ。じっくりとひとりひとりの学力を見極める。そのための、ちょっと過剰なくらいの進路相談。面倒見のいい手厚い指導はときに、心配性のお節介とあまり変わらないものだ。

 差しだされた成績表はさんざん確認したものだし、模試の判定だって穴のあくほど見つめたとしてもそこに並ぶ数字が都合よく変わってくれるわけではない。それに、先生にとっちゃ危なっかしいデータの羅列なのかもしれないが、俺にとってはこれでもあらゆる最善を尽くした結果だったのだ。それを「一浪覚悟」とは、心外にもほどがある。

「いやいや、ちゃんとやってますって。成績上がってんでしょ一応」
「一応な、一応。つっても、お前の場合ハードル自体が……」
「第一志望は変えません」

 きっぱりそう言い放つと、ほんっとに頑固なやつだなお前は、と担任は呆れたような、諦めたような声色で嘆いて盛大に頭をかいた。おお、よく分かってんじゃん、マツダ。別に俺は無謀なことをやってのけようとしているわけじゃない。ただ、あと数ヶ月のうちに訪れる自分の成長を無視したくないというだけだ。だったら手堅いところで併願はしろよな、とマツダはそれでも食い下がり、用意していたファイルのなかからいくつかの大学案内を取りだしてよこした。目を通してみるとそこにはちゃっかり男子バレーボール部の評判が良い大学の名ばかりが並んでいて、やたらと口うるさいところはどうかと思うが、やっぱりこのひとは三年間自分を見てきた担任なのだ、と妙に感心してしまった。

「お前もなあ、もうひとつふたつ夏に勝っとけば猫又さんのツテでそれなりの大学に押しこめたんだろうが」

 ぱらぱらとパンフレットの一冊を手に取って捲りつ、彼は今さらそんな詮無いことを言う。大学をバレーで選ぶとか、スポーツ推薦を受けるとか、自分がそんなご身分にないことは百も承知だけれど、それでも決してそう遠くないところにそういう奴らがごろごろいるのも事実だ。梟谷でレギュラー張ってる連中なんか、全員どこかしらに推薦のあてはあるんだろう。インターハイでベスト4だもんな。そりゃ、すごいわ。そしてそのなかでも群を抜いてすごいのが、約一名。引く手あまた。きっとこの言葉がいちばんしっくりくるはずだ。

「……まあ、全国大会出場が条件ってとこ多いっすからね」
「惜しかったな」
「大学と春高は自力で行きますよ」
「おおー、さすが。バレー部の主将様は頼もしいねえ。代表決定戦、俺も観に行っちまおうかな」

 どこで吸ってるとも分からない煙草の匂いをぷんぷんさせながら、鼻歌でもうたうように彼は言う。応援は多いに越したことないだろ、なんて恩着せがましくにやりと笑って。いっつも仕事溜まってんだから別に無理しなくっていいっすよ。照れ隠しでもするみたいに、そんなあしらい方しかできないけれど、こうやって途方もない外野からなにげなく背中を押されるのが地味にいちばん胸にくるのだと、最近そんなふうに思うようになった。これが感謝というものなのか。きっと分かりあうだけが、ひととひととのつながりじゃない。

 それから先はほとんど大学のパンフレットを肴にした世間話のようなもので、大いに脱線しながらも俺たちはなんとか併願校の目星をつけ、ようやく指導室から放りだされたころにはずいぶんと校内は閑散としていた。あと一週間で二学期の中間テストが始まる。小走りに階段を降りて、昇降口まで駆けていくと、「下駄箱のとこで待ってるね」の連絡通りそこにはひとりで単語帳を捲っているの姿があった。。名前を呼ぶ。顔を上げたは目を細めて、カーディガンの袖口に半分ひっこめた手のひらで、俺に小さく手を振った。

「おつかれ。けっこう時間かかった?」
「だいたいおっさんの与太話に付き合わされてたわ」
「鉄朗、松田先生に気に入られてるもんね」

 気に入ってる生徒にあの態度かよ……。そうぼやくと、は「なんだか楽しそうな面談だなあ」と呑気なことを言ってくすくす笑った。面談の話で盛り上がり、テスト期間中に仲良く放課後の勉強デート。なんという清く正しい受験生カップル。そんな二人のかたちに安心もするし、不安にもなる。ずっとこうして、二人でいたい。だけど二人がずっと二人でいられるかたちは、これじゃないのかもしれない。無理やりに変えられるものじゃないからこそもどかしかった。継ぎ目のない関係を移ろいゆく季節のように受け入れられるほど、俺ももきっとまだ出来た人間というわけじゃないから。



 駅前の適当なコーヒーショップに入って、窓に面したカウンターの並びの二席を確保する。平日の夕方。俺たちのような制服姿の学生グループがちらほらと、時間潰しているような一人客がいるだけで、店内はそう混みあってはいなかった。

「私、ちょっと手洗ってくるね」

 飲みものを載せたトレイをカウンターに置くと、は俺にそうことわってくるりと背を向けた。その瞬間、カウンターに出しっぱなしになっていた彼女のスマートフォンの画面がぱっと光る。呼び止めようかと思ったが、間に合わない。そのかわり、まったく不意をつかれた自分はそこに浮かび上がった文字列をどうしても目に留めてしまった。一通のメッセージ。簡潔な一行。内容が頭に入ってしまえば差出人の名前なんか見なくてもすぐに分かるものだった。

 ――国体、初戦勝った。一応報告しとく。

 なーにが、一応だっつの。その一行に至るまで、二人のあいだにどんなやり取りがあったかなんて知れないが、反射的に負け惜しみみたいな突っこみを入れてしまう。自分が世の平凡な高校三年生らしく受験勉強とやらに頭を悩ましているあいだにも、あいつはまた全国の大舞台でバレーをしているのだから。つーか、バレーしかしてないな。あいつはこの高校三年間、ずっと。それが許されるご身分。木兎光太郎はそういう男だ。

 公式戦で互いの姿は見ているものの、木兎と一ヶ月以上まともに顔を合わせていないのもなかなか珍しいことで、よく考えたら最低でも月に一度は合同練習があるし長期休暇には合宿があるのだから高校三年間で初めてのことなのかもしれない。は、二週間前の文化祭で木兎に会っているはずだ。コウちゃん風邪っぴきで試合出られなかったんだよ、とは聞いていたけど、それ以上のことは聞いていない。どんな会話をしたんだろう。何があったのだろう。気になれば気になるほど、そんな自分を悟られたくなかった。

「お待たせ」

 参考書を読みふけっていたふりをして、視線を落としたまま彼女を迎える。こういうごまかしばかり得意になっていくのは、何もこういう関係ばかりのせいではないのだけれど。が木兎からのその報告に目を通して、どんな反応を見せるのか。彼女の表情を見たいような、見たくないような複雑な気持ちだったが、けっきょくは着信を知らせる点滅に気づかずに、スマートフォンをそのままかばんのなかに放りこんでしまった。

「……そういや、は第一志望のA判出たんだよな」

 少し背の高いカウンターの椅子に、が慎重にスカートをおさえて腰かける。窓の向こうはもう薄闇で、目を凝らさなくてもガラスに映った自分の顔が外の風景に重なってよく見えた。

「うん、ようやく。でもまだ自信ないなー…。ほんと、がんばらないと」

 温かいカフェラテの注がれたマグカップを手のひらで包むように持ちあげながら、はちょっと弱々しく眉を下げて笑った。俺ほどじゃあないけども志望大学に少しの背伸びをしているみたいで、みんな勉強ちゃんとやってて息が詰まりそう、なんて弱音を吐きながらも毎日こつこつと地道な努力を重ねていた。

「一人暮らしとかしてみたいなあ、大学生になったら」

 バイトもしてみたいし、サークルとかも入ってみたい。どんなのがあるのかなあ。が夢見る口調で彼女にとっての「大学生らしさ」を語るのを、適当な相槌を打ってぼんやり聞いていた。二人とも都内の大学を狙っているとはいえ、彼女も自分も第一志望に合格したら大学は離れ離れになる。そうなれば、こうやって当たり前のように同じ日常を共有するのは難しい。そんなことをつらつら考えていたらコーヒーの苦みも味気なくて、俺はまた知らぬ間にのためにずるくなるすべを探してた。

「つーか、一緒に住まん?」
「……え、」

 あのときと同じように、たわいない会話を急に途切れさせてしまう俺の一言に、彼女は戸惑いも追いつけないような声を漏らした。はっとして、すぐさま気まずさに追いこまれる。後悔する。考えがまったくなかったわけじゃないにせよ、さすがに今のは、まずかったと。

「あ、いや。もちろん、すぐにってわけじゃねーけど。大学入って、二人でゆっくり金貯めてさ」

 取り繕えば取り繕ったぶんだけ、むしろさっきの一言が生々しく浮いてしまうような気がした。伝えてしまった言葉を取りかえすことはできない。焦って、焦りを隠そうとしてさらに焦っている俺を見て、はなんだか気が抜けたみたいな笑みをこぼした。引かれるのも仕方ないという一言だったから、がそんなふうに笑ってくれるだけでも少しだけ気持ちが救われるような気がした。

「なんかプロポーズみたいだね、それ」
「おーい、いじるなって。俺も言ってからヤベェと思ったわ」
「でも、嬉しい」

 が弓なりの瞳で俺を見つめる。嬉しい。その不意打ちの一言が俺の提案なんかよりもずっと、ずっとずるい響きを含んでいて、散々まごついた思考がさらに使いものにならなくなってしまいそうになる。は思考停止している俺のことなんてお構いなしに、どことなく火照った頬を冷ますように手のひらのうちわで顔をあおいだ。あー、赤くなっちゃいそう。そんなとびきりかわいいことを呟きながら。

「なんか、びっくりしちゃったよ。鉄朗がそんなこと考えてるなんて」
「……お前が考えなさすぎなんだよ」
「えー、ふつう考えないよ。そんな先のこと」

 へらっと笑って、は両の手のひらを自分の頬にあてがった。「先のこと」と彼女は簡単に言うけれど、きっとどんな「いつか」も気づけば目前に迫っている。むしろ、往々にして通り過ぎてしまっているものなのかもしれないとさえ思う。だからせめて、何もせずに見送るしかできなかったなんてことにならないように。突っ立ったままそこにいることを許される、俺はそんな「ご身分」ではとうていないのだから。

「……いっそプロポーズになりゃいいけど」
「へ?」
「よし、さっさと勉強しよーぜ」

 わざとらしいくらいきっぱりとした声で会話を切って、コーヒーをひとくちだけ口に含む。当たり前のように舌に苦みがよみがえって、ようやく頭が正常に働きはじめそうだ。強引だって、ずるくたって、動かないよりはきっといい。彼女のとなりにいた二年間、思い知らされたのはそんな恥ずかしいくらいの正攻法。気がつけばいつもとなりにいたわけじゃない。俺は、のとなりを選びとったのだ。弱みだと思っていたことが、わずかな強みに変わるとき。彼女もまた、俺のとなりを選びとってくれたらいい。









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2015.11