Ⅱ 密の園 - 1




 春は出会いと別れの季節だと言うが、天童覚にとって十六回目の四月はまさしくいくつもの出会いに彩られた春だった。ひと月前の三月に涙のひとつもない別れを味わっていたから、なおさらそう思えたのかもしれない。
 地元の公立中学校で過ごした三年間に、天童はまるで未練などなかった。ほとんど苦痛に近かった教室での毎日六時間の授業、それに付随するクラスメイトとの淡白な折り合い、がんじがらめの事細かな規則と、抜け駆けや悪目立ちをけっして許さない陰鬱なまなざし。彼にとって唯一といっていい欲求の対象であるバレーボールでさえ、時に彼をつまはじきにした。というよりも、自分からすすんで馴れ合うことを拒否していたと言ってもいい。退屈な連中に足並みをそろえてやることがチームワークだと言うのなら、そんなお人好しに自分はなれない。十五歳の自我を貫き通すには、中学校という閉塞空間は、まさに牢獄のような場所だったのだ。

 生まれてこのかた県北に位置する山間部の実家を出たことのなかった天童は、目を皿のようにして県内外から有望な選手をかき集めていた白鳥沢学園男子バレーボール部からの誘いを受けて、入学とともに仙台市内の学生寮に入った。設備の行き届いたきれいな寮も、近代的な校舎も、いっぺんに何面もコートをとれるばかでかい体育館も、彼にはすべてが明るく、自由な空気に充ちて、何より新鮮なものに映った。もちろん、そこに集う人間たちもそうだ。クラスメイト、ルームメイト、チームメイト。それだけじゃない。瀬見と出会ったとき、彼女はまだ十三歳で、中等部の二年に上がりたてだった。白鳥沢学園が中高一貫校で、なおかつ中学と高校の校舎が同じ敷地内になければ、そして何より彼女の兄が自分と同じ部に所属していなければ、自分の三年間は彼女とはまったく無縁だったろう。むろん、たったそれだけの偶然で天童とはどうしようもなく引き合わされてしまったわけではないのだけれど。

 ――思えば、をひと目見たその日から、自分が彼女に向ける欲望のかたちは一貫して性欲と結びついていたかもしれない。はっきりと顕わになってくるそのずっと前から、欲望の種を蒔かれていたのだ。そこがの傲慢さのひとつでもあるし悩ましさでもある。彼女は自分の生まれもった姿かたちが周りのそれよりも数段上等なものであることを知っていたけど、媚態については無知だった。無知ゆえに、垂れ流しだった。たったひとりの人間に対してだけは。



、来てたのか」

 入部して間もない四月の、土曜の午後練習が始まろうとしているときだった。食堂を引きあげて体育館に戻る道すがら、バレー部員がよく使う水飲み場のあたりにひとり立っていた女生徒に、天童と雑談をしていた瀬見英太が不意に会話を中断して声をかけた。唐突に会話を切りあげられてしまった天童は、なんとなく瀬見と一緒にその場に足を止めるしかなかった。名を呼ばれた少女が、嬉しそうに渡り廊下へと駆け寄ってくる。彼女の着ている微妙に高等部とは違うデザインの制服が、高等部に外部入学をして間もない天童には物珍しかった。

「うん。今日、午前中だけだったから……」
「見てたってつまんねーぞ。基礎練ばっかだし」
「そんなことないよ。高校の練習、初めて見るもん。いいでしょ」
「ったく、まだ寒いんだから無理すんなよ」

 瀬見が、少女の頭を軽くぽんぽんと撫でる。喜びをひそやかに噛み締めるようにはにかんで彼女は瀬見を見上げていた。そして、となりにいた天童にも別れ際に軽い会釈をして、ちらりと感じ良く視線を合わせた。それが二人のファースト・コンタクト。あっけない一分間にも彼女はたくさんの印象を振りまいていった。制服、声、イントネーション、笑顔、会釈したときの視線の使い方。再び歩きだしたとき、瀬見は天童が尋ねるよりも前に、彼女のことをざっぱくに口にした。

「妹なんだ、あれ。二つ下で、中等部のほう通ってんの」

 妹。その解答は天童の純粋な直感に反していたので、彼は思わず「え」と間抜けな声を洩らしてしまった。かといってもちろん何かを理詰めで推論していたでもないのだが、天童には自分の勘とか読みのようなものを単純にひとつの情報として信頼しているような節があって、しかもそれは他人からの又聞きなんかよりは断然に信憑性の高いデータだったから、はずれればそれなりに驚くべきことだったのだ。

「似てないね、あんま」
「そーか? まあ、男と女だしな」
「いや、ていうか、同じ生活の匂いがしない」
「……するでーなー…」

 よく言われる、と天童はにっこり笑って瀬見のジト目を受け流した。瀬見英太は中等部からの持ち上がりの部員で、寮には入っていない実家組だ。だとすれば、実の妹とは当然のこと「同じ生活の匂い」がしてしかるべきものなのだが、彼らにはそれが希薄であるように感じた。天童がの表情や仕草だけを凝視していたからなのかもしれない。彼女の振りまくものはすべて、ずいぶんと「よそゆき」だったから。
 瀬見は自分のなかに渦巻いている身の上話が、出会って半月ほどしか経っていないチームメイトに言うべき話なのかどうかという彼なりの葛藤をしばらくしていたようだが、けっきょく悟られてしまったのなら仕方ないと思うに至ったらしかった。健康な正直さは瀬見の美徳だろう。体育館の端でシューズの紐を結び直しながら、瀬見は天童に自身の妹のことをもう少し詳しく聞かせた。

「あいつが中学あがるまで、一緒に住んでなかったんだよ。五年間くらいかな。もともとあいつ身体がそんな丈夫じゃなくて、それで、長いこと体調崩したことがあって。そんとき住んでたとこが近くに工業団地あったからさ、空気の良いじじばばの家で養生してたんだ」

 身体もすっかり良くなって、白鳥沢の中等部に合格して、時を同じくして閑静な住宅地に越した実家へと彼女は戻ってきたのだと言う。天童は軽くストレッチをしながら瀬見の話に耳を傾けていたが、その間なるほどそういうことか、と納得する気持ちと、なんだつまんねえな、と鼻白む気持ちと、ほんとうにそれだけかよ、と疑う気持ちとがそれぞれに脳裏に浮かんだり消えたりしていた。口にしたのは、そうなんだ、という素っ気ない相槌だけだったけれども。

「もう一緒に住むようになって一年経つんだけど、まあ、ふつうの兄妹とは違うかもな」

 だからその、ふつうの兄妹とは違うかもしれないところを、今しがた自分はさりげなく指摘したはずだった。瀬見の話はそれきりで、二人は午後の練習の始まりを告げるホイッスルを合図に、各々ポジション別に集合する輪に向かって離れ離れになった。

 あれから二年の月日が流れたけれども、瀬見英太との兄妹が一風変わった関係の歩みを持っているということを知っているのは、おそらくは天童だけだろう。そもそも部の連中やクラスメイトに対して積極的に話すようなことでもないし、「同じ生活の匂いがしない」なんていうことを勘づく人間はそう居ないだろうし、かりに勘づいたとしても天童のようにそれを口にしたりする人間が居るとも思えない。ひょんなことから兄妹のプライベートを知ってしまったからなのか、天童と瀬見はそれ以来それなりに気の合う間柄になっていった。は試合ともなればたいてい観客席に観にきていたから、瀬見とつるんでいれば自然と話をする機会もあったし、二人が知り合い程度の仲になるにはそう時間もかからなかった。だけど、それだけだ。それだけのはずだった。二人がそれ以上の関係を取り持つようになるのは、それから季節が一巡して、天童覚にとって十七回目の春が訪れてからのことだった。



 十七回目の春のはじめは、季節はずれの雷とともに動きだした。

 頭のてっぺんから足の先まで稲妻が走るなんていう大げさな形容は必要ないけれど、瀬見兄妹のことをひとよりも少しだけ深く知っている天童にとって、あの光景はひとつのスキャンダルでもあり、約一年越しに自分の直感が正しかったことを証明するものでもあった。

 春雨の降り続く三月。期末テストも終わり、一年生の天童にはあまり関係なかったが、卒業式が数日後に控えていた。彼はその日、ずいぶんと早めに卒業式の予行練習が切り上がり、バレー部の練習が始まるまで昼を跨いでかなり時間があったから、仕方なく時間を潰すため滅多に足を運ばない図書館へと立ち寄った。そこに、瀬見と、がいた。二人がどうしてそこに居たのか、何をしていたのかは分からない。学期末の人気のない図書館で、瀬見は自習机に頭をあずけて居眠りをしていたし、はそのとなりに座って彼の顔を幸せそうに覗きこんでいた。彼らは絵になる兄妹だった。絵に釘付けになるような素養は天童になかったけれども、彼らの風景には目を奪われるものがあった。とはいえ、天童が凝視していたのは、初めて出会ったときそうであったように、のその兄にしか向けることのない恍惚とした表情だけだったのだが。

 の指が瀬見の髪に触れる。彼を覗きこんでいた顔が、表情が読みとれないほどに近づいていく。ほほえましかった兄妹のひとときが、どろりとマグマのように溶けだした。だけど不思議といやな感じはしなかった。おぞましさもなかった。彼らはやっぱり絵のようであり続けたので、彼女はきっとそんな自分に酔っているのだろうと漠然と天童は思った。兄のくちびるにくちびるを寄せてしまうような自分自身に。

(――ああ、やっぱり)

 驚きよりも先に満足を感じる自分がいて、天童はそんな自分にむしろ驚いていた。けっきょく自分は自分の直感を手放すことができなかったのだ。そしてそれは正しかった。自分は正しかった。そう思って、適当に手にとった本の陰で彼は口もとを緩めていた。笑いが止まらない。別に、この先ここで見たこの光景が自分にとって益になるとか、何かの手段になるとか、そんなことは微塵も思っていなかったし、彼は他人の秘密をのぞき見することに喜びを覚えるようなタチでもなかった。ただただ、ひとつのゲームに興じて勝ったときのような快楽。あのとき覚えたのはそういったたぐいの喜びだった。

 その日の午後からの練習試合を、彼はとても気持ち良くこなすことができた。体育館のなかにいても、雨の音が聞こえる。ごろごろと遠くで雷鳴が響いた。げ、雷まで。アップ中、レシーブ練習のペアを組んでいた瀬見が、面倒臭そうにそう呟いた。遅いよ。もう、雷ならとっくに落ちてる。天童は心の隅で、そんな言葉を彼に返した。









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2015.12