Ⅱ 密の園 - 2




 春は新生活に戸惑うひとたちを乗せ、ゆっくり蛇行しながら、ようやく五月の暦に足を踏み入れた。

 天童覚にとって五月はひとつ歳を重ねる季節だったが、白鳥沢学園にとっての五月といえばとにかく学園祭の季節だった。男子バレーボール部は、部としての出し物も催し物も、招待試合も特にない。ただ至ってふつうに体育館で練習があって、学園祭に参加できるのは午後の終わりの数時間だけという不親切なスケジュールを組んでいた。練習が終わると多くの部員が大急ぎで着替えて自分たちの属するクラスへと駆けだしていく。参加できる時間が限られているのだから、その時間に手伝いのシフトを入れられている者が大半なのだろう。天童はというと、彼はそもそも学園祭に参加することを放棄していたし、クラスメイトたちも彼を仲間に引き入れることをなかば放棄していたので、急ぐことなど何もなかった。いつも通りゆっくりシャワーを浴びて、だらだらと着替える。髪を整え、部室を出たころにはもう、校庭に並んだ屋台はあらかた店じまいの支度をはじめていた。



 ――明日、天童覚は十七歳になる。だから学園祭初日のその日は、彼にとって十六歳最後の一日だった。

 十六歳の三百六十五日目が、こんなにも味気なく過ぎ去ろうとしている。かといって学園祭当日につかまりそうな友人のアテもないので、もう寮に帰ってしまおうと校門に向かってひとり歩いているとき、ふと、見慣れた人影が校門へと続くメインストリートから少し逸れた、焼却炉へと伸びる脇道にとどまっているのを見かけた。というよりも、天童は彼女のうろつく視線にはたと捕らえられた。瀬見。彼女は自身のクラスの揃いのはっぴのようなものを着ていた。鮮やかすぎる青の色。天童の目に留まったのはの顔とか姿というよりむしろ、このはっぴのショッキングブルーのほうかもしれなかった。

「さとり先輩!」

 ちょうど目の前を通り過ぎようとしていたとき、にいきなり名前を叫ばれて天童はふたつの意味で困惑してしまった。ひとつは彼女の声のばかでかさに。もうひとつは、彼女が自分の名前を知っていたことに、だ。天童はのことを「ちゃん」と呼んでいたが(とはいえ呼ぶ機会なんて数えるほどしかなかった)、が自分を呼んだ記憶がない。あったとて、おそらくそれは「天童先輩」とか「天童さん」だとか、そういう平凡な呼び名に違いないのだ。なにせまったく覚えていないのだから。

 は手にしていた空っぽのゴミ箱をその場に置いて、天童のもとにいそいそと駆け寄ってきた。そして駆け寄ってきたかと思えば、天童の片腕に自分の腕を絡ませてしがみついてきたのだ。なにごとか、と頭を回す暇もない。ただ、答えはすぐに導きだされた。彼女はひとりでそんな人気のないところに居たわけではなかったのだ。が怯えたように見つめる先には、三人の男子生徒が居た。三人がかりで中学生をひとり囲む。ナンパってそんなものか。もともとこのあたりが地元じゃない天童には彼らの着ている制服がどこのものかは分からなかったが、とにかく彼らは他校生で、状況は単純だった。ただし、そのあとに続くの言動は予期できなかったが。

「わ、たし、このひとと付き合ってるんです」
「……あ?」
「ね、さとり先輩」

 が念を押すように天童を見上げる。その眼はかすかに潤んでいて、こんなへたれナンパ野郎を追い払うのにさえずいぶんと必死なものだと思った。これだから、こいつは。自分の持っているものを把握しているにも関わらず、自分の発揮できる能力をまったく知らない。傲慢なくせに、無知だ。だからこんなことになる。うまく男どもをあしらえないし、そのくせ男を引き寄せてしまい、あげく男に無頓着に頼るし、頼ってもいいと思っている。あほか。自分の兄のとなりにいつもいる男が、自分の兄のように優しいとは限らないだろうに。

 の口から出まかせも、その態度も、練習に疲れた天童のことを苛立たせるには充分だった。けれども、彼の苛立ちを手のつけられないモンスターにしてしまったのは、の即席の恋人宣言だけではない。それ以上に、その恋人宣言を聞いてナンパ野郎のひとりがこぼした無神経かつ無礼な一言が彼の怒りをかきたてた。

「え、こんなのと?」

 しかも、せせら笑うような下卑た表情つきである。自分たちの不格好さなど一切を棚に上げるどころか天井裏あたりまで押しこめて、よくもまあそんなことをのたまえたものだと思った。確かに、瀬見は美少女だ。整った顔立ちをしている。だから、ゴミ捨ての合間だとか、ひとりになる瞬間をつけ狙ってまで執拗に声をかけられるのだ。自分は今、瞬時に品定めをされたのだろう。こんなやつらに。そのとき膨らんだ異様な腹立たしさには、もしかすると天童の個人的な痛みが反映されていたのかもしれない。見た目だけで気味悪がられ、悪口を叩かれ、のけ者にされてきた。幼き日々の、痛みのことが。


「……え?」

 今度は、のほうがいつもとは違う初めての呼びつけ方に戸惑う番だった。天童はのことを呼び捨て、片方の腕にくっつかれているのを利用し、もう片方のの腕をぐいと引っ張って自分のほうへ身体ごと向かせた。の身体は軽くて、細くて、それくらいの強引なそぶりはまったくたやすい。のぽかんとした、くちびるの半開きになった表情はあまりに好都合で、天童は苛立ちながらも内心少しばかりこの状況を面白がっていた。自業自得。そんな言葉が浮かんだのも束の間だ。天童は手のひらでの後頭部を包みこむと、軽く身を屈めて彼女の艶やかなくちびるに自分のくちびるを押しつけた。抵抗も、咎め立ても及ばぬスピードで。

 その場にいた天童以外の人間はみな呆気にとられていたし、たまたま通りかかったような生徒たちも突然こんなものを見せられたらぎょっとしたに違いない。当のはというと、存外に大人しかった。何も考えられていなかったのかもしれない。彼女のくちびるは薄くて、アメでも食べたあとなのか、それともつけていたグロスのせいか、香料の甘い匂いがした。いちごだ、と天童は呑気に思う。くちびるを離したとき、さっきまで潤んでいた彼女の瞳にはもう水溜まりはできていなかった。戸惑いの涙も引っこんでしまうくらい、天童の行動には脈略も突拍子もなかったからだ。

「悪かったね、“こんなの”で」

 天童は、どこの誰かも分からない男子生徒たちをギロリと睨みつけて、低い声で唸った。自分でも思い及ばないような凄みのある声が、どっかから引きずりだされてきたらしい。狙い定めていた美少女が目の前でほかの男に口づけされたのだから、これ以上その場に留まり続ける意味もなければ度胸もない。遠巻きにするような一瞥をくれて、彼らはすごすごと校門のほうへ逃げていった。はい、完了。いつまでもしがみついたままでいた腕を軽くほどいて、天童はと視線を合わせた。今しがた自分の名演技とちょっとの暴走で乗り越えた厄介ごと。しかし本当の修羅場はそのあとに待っていた。ナンパ野郎の背中も見えなくなったころ、の小さな手のひらが天童の右頬をめいっぱいの力で打ったのだ。

「最低、です」

 威力はいまいち、台詞は凡庸、意外性は特にない。予想していた反応のなかでは、まあそこまで難儀なパターンでもないし、むしろ素直なほうだ。そんなことを冷静に頭で考えながら、右頬をさすりもせずに天童はに視線を合わせ続けた。動揺のひとつもしない天童の様子に、逆に怯んだのはのほうだったろう。

「先にめんどうに巻きこんだのはソッチだよね」
「そ、そういう問題じゃないです」
「別に減るもんじゃないでしょ、今さら」
「な、」

 焦りを孕んだの表情を彼は初めて見る。そんな気がする。なんと言っても彼女の表情といえばいつも緩みきっていて、顔じゅうで幸せを噛みしめていたのだから。兄貴と引き離された場所では、彼女はこういう反応をして、こういう顔をして、こういう喋り方をする。天童はとても大きな発見をしたような気持ちになって、の焦りに満ちた表情をまじまじと見つめた。減るもんじゃない。衝動的に口にしたその一言のおかげで、二ヶ月ほど前に目撃してしまったあの光景が思い出される。誰かに言いふらすつもりなど毛頭なかったが、張本人に口が滑るくらいなら別に構わないのではないか。その先の関係がどうなってもいいのであれば。そもそも、今しがたの自分の暴走のせいで、二人の「ただの知り合い」としての可もなく不可もない関係は破綻しかかっているのだから。

「お兄ちゃんとしてるもんね、ファーストキスは」

 とっておきの切り札を彼女の喉もとに突きつけて、天童はの反応をうかがった。はあまり理解の早いほうじゃない。もっとも天童ほど自分のうちに生じた観念のあれこれを簡単に結びつけて、ひとつの物語をつくってしまう能力に長けているような人間もそうそういないのだけれども。天童からしてみれば、だいたいの人間の理解は遅い。それは他人の奥底に自分の思考の証左を欲しているからだ。天童はまだあまり、そういった、他人を求めるがゆえの不安や図々しさを覚えたことがなかった。その点で彼は不幸ではなかった。ただし幸福になりえないのも確かだ。

 の大きな瞳がまるく見ひらかれるくらいでは何も面白くない。天童は無駄にジョーカーを切ってしまったような気になって、少しだけ後悔をした。つまんねえやつ。天童はわざとらしく、に聞こえるように舌打ちをひとつして、彼女から視線を外した。

「……まあ、俺にはカンケーないけど」
「待って」

 背を向けて歩きだそうとしたとき、ようやくは言葉を発して、そしてまた天童の腕に腕を絡めて彼のことを引きとめた。彼女の黒目がちの眼には迫力があってそれだけでも男を待たせる力があるのに、彼女自身がそれを分かっていないから、こんなふうに無遠慮に男に触れてしまうのだ。触れるということは、触れられてしまうということ。どうも、彼女に教えるべきことはごまんとあるらしかった。

「天童先輩、このあとお時間ありますか」

 かりにこのあとお前の長ったらしい身の上話やのろけのような恋愛話を聞かされたり、必死に口止めを乞われたりするのなら、そんなもののための時間はない、と天童はとっさに思った。けれど。

「……なくはない」

 美しい少女がその美しい容れものなかに蓄えている密の味。自分はそれをなぶる権利を得たのだ。おそらくは、世界中でたったひとり。
 十六歳最後の一日。こんな一足早い誕生日プレゼントも悪くない。









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2015.12