Ⅲ させないで - 1




 誕生日が過ぎて天童覚は十七歳になった。
 晩春と初夏とが混ざりあった心地良いそよ風の吹く季節はあっという間に流れて、東北はもうすぐ梅雨入りを迎えようとしていた。近ごろ湿度の高い不快な日々が続いている。長袖のシャツを肘まで捲り上げて、ネクタイを少し緩めた。本格的な夏服の季節が近い。

「なんか食ってる?」

 三時間目終わりの休み時間に瀬見が天童のもとへと電子辞書を借りに来た。その日の四限は天童のクラスが数学、瀬見のクラスが英語だった。二人のクラスはとなりどうしだったから、忘れものをしたときは互いに相手を頼りにしてしまっている。辞書を借りるついでに少しの雑談をしていたとき、瀬見は天童の口もとがもごもごと何かを咀嚼していることに気づいたらしい。天童は瀬見の問いかけに、制服のズボンのポケットに突っこんでいた板ガムを取りだしてみせた。取り口を切られた青いパッケージ。瀬見にとってそれはなじみ深いものであるはずだった。

「コレ」
「あ、俺もそれ好き」

 美味いよね、と当たり障りない言葉を返しながら、知ってる、と胸のうちでひそかに呟く。瀬見がいつも、食事終わりや、練習が終わって部室を出るタイミング、あるいは単に口寂しいときによく噛んでいるミント味のガム。一緒に日々を過ごしているなかでその姿を何度も目にしていた天童は、瀬見のお気に入りのガムとそっくり同じものを今朝、学校近くのコンビニエンスストアで買ってきたのだった。一枚噛めば口のなかがすっとして、さわやかな辛みが舌にしみつく。どちらかといえば天童は甘党だったからこういう眠気覚ましや口直しになるようなガムは好まなかったけれど、久しぶりに食べてみると、ひとつの刺戟を与えてくれる嗜好品としては悪くない味だと思えた。とはいえ、別に嗜好品として食していたわけではないのだけれども。

 あの学園祭一日目の放課後、はわざわざ隣駅にあるコーヒーショップまで天童を連れて行った。こんな大げさな警戒をして、根掘り葉掘り色んなことを聞かれたり、聞かされたりするのかと思いきや、は存外にも飄々とした様子で「わたし、お兄ちゃんのことが好きなんだと思います」と告白してきた。重大な秘密だと思っていたことがこんなにもあっけなく晒されて、顔には出さなかったが天童が盛大に拍子抜けしたのは言うまでもない。天童はその「好き」の背後にあるものをぽつりぽつりと断片的に聞かされ、兄のほうからもなんとなく聞いていた二人の事情などどうでもよかったからほとんど受け流していたけれども、とにかく彼女が一方的に兄に憧れをいだいていることは分かった。とはいえ普段の兄の態度から察するに、その感情はけっして好意の押し売りというわけではないんだろう。たとえ、好意の意味が多少食い違っていたとしても。
 お兄ちゃんにこのこと、話しますか。大方、自分のことを話し終えてから、は天童にそう尋ねた。これだけ正直に淡々と話されてしまうと、うんともすんとも言いがたい問いだった。彼女はもしかしたら、自分の気持ちや、自分という人間を誰かに分かってもらいたいだけなのかもしれない。さあね、とだけ答えたけれど、その一言でにも分かったはずだ。天童が、自分とのこの秘めごとをそうすぐさま手放すわけがないということを。

 あれ以来、天童はに遠ざけられるどころか、変に付きまとわれてしまっているのが現状だった。帰宅部の彼女にとって生まれて初めてできた「先輩」のようなものだから、単に存在を物珍しがられているのかもしれない。あの日、連絡先をせがまれて交換してしまったのがまずかったのだ。は年相応の女子中学生らしくどうでもいいことを送ってよこすし、末っ子気質なのか年上に構われたがりなところがあった。天童はそもそもひとのこまめな連絡をふいにするような奔放な性格だったから、彼女からの一方的な連絡は彼にとってまるで鳴り止まない目覚まし時計のようなものだったのだ。

 一度、昼休みに仮病をつかって保健室で横になっていたとき、から居場所を尋ねるメールをもらったことがある。彼は延々と別の場所を教えて、昼休み中、彼女をたらい回しにし続けた。どこどこに居ると告げると、本当に彼女はそこに向かうのだ。何度も、何度も、半信半疑でかくれんぼを楽しむように。連絡をすっぽかしても、適当を言っても、はまったく懲りなかった。けっきょくそんなの態度に、天童のほうが先に折れたのだ。



ちゃんってバカ正直だよね」

 授業が終わってすぐに売り切れるものだと知りながら、購買でプリンを買ってきて、とのことをパシらせたら彼女はわざわざ近くのコンビニまで行って同じものを買ってきた。あげく、もうプリンの気分じゃないからちゃんが食べたら、とにべもなく突き放しても、むしろ食後のデザートを与えられて喜びさえする。これではおちょくられているのはむしろ自分のほうではないか。嬉しそうにプリンのふたを開ける彼女を横目でみながら、天童は小さく溜め息をついた。

 バカ正直、という天童のあけすけな言葉にはめずらしく頬をふくらませ、「誰にだってそうなわけじゃないです」などと分かっているのかいないのか、天然なのか計算なのか、ずいぶんとかわいらしい答え方をした。なんだそれ。プラスチックのスプーンで少しずつプリンをすくって食べている彼女の口もとをじとりと見ながら、天童はふくれっつらのの額を軽く指で小突いた。

「俺にだけ?」

 埃っぽい天井に二人の会話が吸いこまれていく。管理棟五階の踊り場は校舎に入りきらないがらくたが詰めこまれている場所で、学園祭前後は机や暗幕の出し入れをしていてそれなりにひとの出入りがあるが、今はもうすっかり落ち着いてまた雑然とした物置に戻っていた。陽がささないので昼間でも薄暗いが、かわりに夏でも涼しかった。冬はとても居られたものじゃないが。
 がスプーンをくわえたまま、しばらく黙りこむ。二人はマットと暗幕が折り重なった即席のソファのような場所に並んで座っていた。やがて、こくんとプリンを飲みこんで、は口をひらいた。カラメルの甘く香ばしい匂いが彼女の声にもうっすら絡みついていた。

「だって天童先輩、ふつうじゃないから」

 のその言葉は、天童のほんのうわべだけを無責任に掠め取っているだけのようでもあったし、天童の奥深くへと一直線に手を伸ばして鷲掴みしているようでもあった。ふつうじゃない。さげすみではないのだろう。むしろ、にとってその言葉は最大級の賛辞のようなものなのかもしれない。

「……わたしも、ふつうじゃないから。おかしいから。だから、……先輩だったら、いいかなって思ったんです。分かってくれるかなって思ったんです。あのときも」

 思いもよらないところにまで「バカ正直」の根が張っていることに気がついて、天童はまたひとつ大きな発見をしたような気持ちになった。自分のことをなんのてらいもなく「ふつうじゃない」と言い切るの、どうしようもなく傲慢なところ。それでも「おかしい」自分を誰かに打ち明けたいと思い悩む幼いところ。彼女が自分に晒しているのはそういう危うさなのだ。学園祭の日、苛立ちに任せて奪ってしまった彼女のくちびるが、今また別の欲望のはけ口として彼のことを誘惑する。がプリンを食べ終わるのを見計らって、天童はあのときと同じように彼女を軽々と自分のほうに向かせ、後頭部に手を添えた。ところがその先は、あのときと同じようにはいかなかった。がふっと顔をそむけて、天童の視線と手の拘束から逃げたのだ。何か、反射的にそうしてしまったというような動きだった。

「ありゃ。俺がしてあげようと思ったのに」
「……なに、」
ちゃんが、お兄ちゃんにこうされたいなーって思ってることとか?」

 片方の腕をの腰に回して、彼女の軽い身体を引き寄せる。そむけた顔をのぞきこんで彼女をいたぶるような言葉をかけると、はさすがに動揺したのか、よからぬ気配を察知したのか、ますます目を伏せてしまった。今さらもったいぶっても無駄じゃないか、と言いたくなるほど、それは恥じらいをもったあどけない態度だった。

「天童先輩は、お兄ちゃんじゃない」
「どうかなー」

 ――ちゃんはバカ正直だから、すぐ俺に騙されちゃうんじゃない。煽るように言葉をつけくわえると、はとっさに顔を上げて抗議でもするように潤んだ眼で天童を睨みつけてきた。後頭部に添えていた手のひらを、なめらかな手つきで彼女の両目を覆うために使う。何するの、とでも言いたかったのか半端にひらいた口に軽くくちびるを触れあわせると、が面白いくらいびくりと背を揺らした。彼女にまとわりつく甘ったるい味を掃除するように、自分の舌先を温かなそこに差しこんでいく。からになったプリンのカップがかつんと軽い音を立てて、床に落ちだ。けれど、そんなことをもう二人とも気にしてなどいられなかった。

 生きもののように天童の舌が咥内を這って、はまともに息ができなかった。視界を塞がれた闇のなかで彼女は何度もくちびるを離そうともがいたけれど、そのたびに執拗にまた深い息継ぎを阻むように天童の舌が差しこまれるので、やがて抵抗に労力を費やすことができなくなった。そんなことより、なんとか天童の悪戯にかたちだけでも応えていないと、自分の原型がまともに保てなくなってしまいそうで、その得体の知れない恐怖と戦うのに必死だったのだ。

 は、自分をおかしているこのモンスターが自分の優しい兄だとはとうてい思えなかったけれど、彼が律儀にも自分の兄と同じ匂いを舌先に漂わせていることに、いつの間にか気がついていた。薄荷の味。夢中になることを許されている。がけっぷちで背中をとんと押されている。きつく身体を抱き寄せられればかすかに腰が浮いてしまい、いよいよもって自分が、自分の身体が、自分だけの力で成り立っているのか分からなくなってきた。与えられているのが快感なのか、苦痛なのかさえ、おぼつかないのだ。もう、いや。最後の力を振り絞って、天童の胸にしがみついていた腕で彼の重みを押しのけようとしたとき、予期せぬ場所に強い刺戟が走った。目隠しに興じていたはずの彼の手が、指が、のスカートのなかをまさぐっていたのだ。

「や、っあ」

 ほんの少し、一瞬、天童は曲げた中指の関節を、彼女の下着の上から押し当てただけだった。にとってはそれだけでたまらない刺戟だったようで、彼女は絡めていた舌先を瞬時にほどいて鼻にかかった呻き声をあげた。初めての声と、初めての反応だった。いきなりくちびるを離したものだから、彼女の口の端からはだらしなくどちらのものともつかない唾液がこぼれていた。唾液に濡れた口もとが、とても十四歳の少女のものとは思えず、そそる。
 依りかかる熱を肩で支えながら、薄い下着の奥にあるはずのやわらかな感触がないことに天童はアレ、と思った。指の関節で感じた布ごしの厚みは、彼女が月に一度のめんどうごとに襲われている証だった。残念なような、ほっとしたような。行き止まりを察して、天童はもう一度だけ彼女の割れ目を想像しながら関節をぐりと押し当てた。

「あっ」
「んー、」
「だ、だめ、だめです」

 は泣いていた。涙を流してはいなかったが、瞳が濡れそぼってうまく機能していなかった。かわいそう。かわいそうで、かわいい。スカートのなかから手を出して、天童は両手を彼女の両肩に乗せる。諭すような格好で、その涙の溜まりをのぞきこんだ。

「“今日は”だめ?」

 からすれば、それは頷くしかないだろう、という圧のある言葉だったかもしれない。天童の視線を受け止めきれなかったは、なんともあいまいな仕方で、俯くようにして首を動かした。ひとまず考えることを放棄したいがためにそうしたような、投げやりな、諦めたようなそぶりだった。

「来週またここにおいで」

 ぽんぽん、と天童はの頭を撫でてやる。彼女の兄がよく、そうするように。天童は胸にうずまく可笑しさを悟られないように、動けないでいるを置いてひとあし先に踊り場の階段を降りて行った。なんだ、最初からこうしていればよかった。天童は階段をおりながら耐えきれずほくそ笑む。彼女の密をなぶりたいなら、自分からそれを植えつけてやればいいのだ。









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2015.12