Ⅲ させないで - 2




 違う。こんなんじゃない。だけどこれ以上は、ひとりで先に進めない。
 そんなことを悶々と考えたり耽ったりしながら、瀬見の一週間は刻々と過ぎようとしていた。

 風呂を済ませて寝間着を身につけ、自室のベッドの上にころんと横になる。しばらく何をするでもなく天井を見つめているのだけれども、彼女が確かめたいのは何の変哲もないまっしろな天井の色なんかじゃないのだから、いずれするべきことはひとつだった。

 薄いコットン地のパジャマのなかに、お腹からおそるおそる手を、いれてみる。昨日から彼女はもううっとうしい生理用品を身につけていなかったから、触れればほとんどじかに指の感覚が届いた。あのとき、あのひとがそうしていたように。そう思っては、下着ごしに折り曲げた指をさするように動かしてみた。ぴりぴりと下腹部のあたりを一本の糸でしごかれるような感覚が走る。だけど、心地良いのか判別しがたい。くすぐったいだけかもしれない。そんなことを冷静に考えられる時点で、あのとき感じたどうしようもない刺戟とは似ても似つかないものなのは、彼女がいちばんよく分かっていた。
 それでも、何度か同じ動作を繰り返しているとしだいに波がやってくる。彼女は今までこういう行為にひとり没頭するという時間を持ったことがなかったが、この一週間で自然とそれなりの手つきが身についてしまった。全部、あのひとのせいだ。そうやって恨めしく思うたび、ひとりの男のことを思い浮かべながら手淫にひたってしまっていることに、はまだ気づいていない。

 とんとんとん、と荒っぽく階下から足音がのぼってきて、ははたと手をとめた。熱に疼いていた頭が一気に冷たく冴えていく。いつの間にかずりおろしていたパジャマをあわてて着直して、なんとか身を起こしたと同時に自室の扉をノックされた。どうぞ、と何食わぬ声で果たして自分は応えられていたのかどうか。

。母さんがさくらんぼ食べないかって。どうする?」

 自室のドアを叩いていたのは兄の英太だった。引いたはずの熱が彼の声と姿のせいですぐにも押し寄せてくる。彼は、ドアを開きながらそんな声をかけ、視線を勉強机からベッドへと移した。彼の釣り目がちの大きな眼に、自分はどうやって映っているのか。上半身がぜんぶ、心臓でできているみたいになる。親愛と恋慕とがないまぜになったようなふしぎな緊張のなかで、はまだ少し濡れている髪に指先をするりと滑らせた。

「あ、悪い。もう寝てた?」
「う、ううん。ちょっと熱っぽくて、横になってただけ」
「げっ。大丈夫か、ちゃんと計ったほうが……」
「大したことないから、平気だよ。ぜんぜん」

 さくらんぼ、食べたいな。なんとか明るく笑って、ベッドを降りる。部屋を出るとき心配性の兄に額に触れられてはいけないと思って、案の定近づいてきた手のひらを少しあからさまに避けてしまった。それでも兄は許してくれず、避けられた手の甲をやや強引に彼女の頬に押しつけてしまう。熱いし、赤い。兄が咎めるように呟く。それは、あなたのせいでもあるんじゃないの。とは、言えない。何も、何も、言えない。それはけっして同じ屋根の下に住むひとに向けていい感情ではなかったから。

 は小学校の低学年から中学に上がるまでの五年間を兄と離れ離れに過ごした。今はこの住宅地の一軒家に越してきたが、当時の彼女たちの家は社宅住まいで、生コンクリート工場が多く立ち並んでいるような工業団地と隣接していた。外に出ると独特のコンクリート臭や埃っぽさを感じて、もともとあまり身体の丈夫ではないには住みにくい場所だったのだ。そのせいもあって、長期的に体調を崩したとき父方の祖父母がのことを預かるといって頑として譲らなかった。こうして彼女は五年もの間、家族から離れて幼少期を過ごすに至ったのだ。
 五年間まったく顔を合わせていなかったわけではないのだけれど、いざまた一緒に住むとなると「兄」というのは奇妙な存在だった。英太はの二つ年上の兄だったから、九つだった兄が、また一緒に住むときには十四歳になっていたのだ。中学三年生の兄は、中等部に入りたてのにとって、充分なくらい男のひとだった。家族だとしてもはっきりと他人だった。異性である、という意味においては。

 初めて「異性」というものの存在を感じるという経験を、は実の兄を前にして味わった。同じクラスの男の子たちは粗野で、子どもで、そんな感情は一度も教えてくれたことがない。だれだれくんがかっこいいとか、付き合うとか、告白とか、すべてがごっこ遊びのようでばからしい。兄だけがにとっての異性だったのだ。つい、数週間前までは。そうだ。感情を保留するにしても、今やこれだけは認めざるをえないだろう。天童覚は、自分にとって紛れもなく異性であると。



 来週またここにおいで、と天童覚にささやかれてからきっちり一週間が過ぎて、同じ曜日が巡ってきた。

 その日の四限は公民の授業だったけれども、板書を写す手だけは動けど、の頭に授業の内容はほとんど入ってこなかった。思いがけず胸に秘めていたほんとうの気持ちを打ち明けられるひとができて、その存在に少し浮かれすぎていたは、ずっと彼女のほうから天童をつけ回していた節がある。だけど、天童のほうから約束をとりつけられたのは先週が初めてのことだった。もし、行かなかったらどうなるだろう。自分と、天童のシーソーは、自分のほうに傾くだろうか。は考える。きっと、そうはならない。そんな気がした。自分が彼の約束を破れば、きっと彼の興味の海から自分は吐き出される。シーソーを自分のほうに傾けたいのならば、そして同じシーソーに乗っていたいのならば、自分はもっと別の方法を考えないといけないだろう。例えば、隣町のコーヒーショップで想いを打ち明けたときのように。

 はけっきょく、天童とのシーソーゲームを手放すのが惜しかった。まだ天童を信じていた。そういうことだったのかもしれない。
 ところがその日の昼休み、待てども、待てども、天童覚は彼女のもとへ来なかった。
 彼女はひとり、誰も来ない薄暗い管理棟で待ちぼうけをくらった。要は、すっぽかされたのだ。

 嘘をつかれたことならたくさんある。はぐらかされたこともある。逃げられたこともある。それでもは傷ついたことも、めげたことも、泣いたこともなかった。そんなが初めて、傷ついた。天童の気まぐれに傷つけられた。悔しくて、恥ずかしくて、冷たい暗幕のベッドの上で涙がこぼれた。はようやく、天童覚というひとりの人間を理解しようとしていた。ひどいひと。彼は、ひどいひとだった。



 天童がのもとを訪れたのは、次の日の昼休みのことだ。

 教室の自分の席で弁当をひろげようとしていたとき、あまり話したことのなかったクラスメイトの男子生徒が「瀬見、あのひと呼んでるけど」と言って教室の後ろのドアのあたりを指さして教えてくれた。中等部の校舎で高等部の濃い紫のネクタイが悪目立ちしている。それに、彼の鮮やかに染められた髪色も。目が合うと、天童はなんとも友好的ににっこり笑って手を振ってきた。

ちゃーん」

 教室に残っているクラスメイトたちはみな、ちらちらと物珍しい天童の存在を気にしているようで、席を立って仕方なく彼のもとへ向かっているときもどことなく視線が痛かった。天童覚が似つかわしくない平和的な手段を使ったのはここまでで、呼びだしたの耳に「ここじゃできない話だから」と吹きこむと彼はの返事など聞かずに彼女の手をとって構わず歩きだした。背後でクラスメイトたちが息を呑んだのが分かる。自分の知らない間に自分のことをあることないこと噂するようなひとたちが居るかもしれないと思うと、気持ちが悪かった。

ちゃんって、友達いないのな。いつもひとりで食べてんの?」
「……先輩に言われたくない」
「はは、まあね」

 天童が何食わぬ顔でけらけらと笑う。悪びれもせずに彼がを連行したのは、昨日、が待ちぼうけをくらった約束の踊り場だった。今日も今日とて薄暗く、ひとの気配がまるでない雑然とした物置。彼はへそのあたりの高さまで積まれたマットの上にをちょこんと座らせて、自分は彼女の目の前に立ったまま、どこまでも不満顔をしているの両手のひらをあやすように、あるいは説得でもするようにぎゅっと握った。

「昨日はごめんね。急なミーティングが入って、長引いちゃったから」

 そんな簡単な一言の詫びで許せることでもないし、今となってはそもそも、その一言を信じられるのかさえかなり怪しい。天童の迫力ある円いまなざしにさっそく押しつぶされそうになった意思をなんとか奮い立たせる。かろうじてまだ、視線を外さずには天童と会話することができていた。

「別にいいです、もう」
「生理終わった?」

 こういうことを何にも包まずにさっさと聞いてこられることにはまったく慣れていなかったから、その一言だけでも彼女の焦りとか、羞恥とか、迷いとかを引きずりだすには充分だった。あのとき、指一本、触れられただけなのに。このひとはなんでもすぐに見破ってしまう。きっと、今もそうだ。そう思うとはおそろしかった。自分のなかに彼を拒絶しきれない薄暗い自分がいることを、知っていたからだ。
 指と指が絡まりかけていた両手を押し返そうとして、はもがいた。だけど、もがけばもがくほどになぜか二人の手のひらは密着していって、もはや容易には離れそうになかった。ジグソーパズル、みたい。となりどうしのピースが過不足なくつながりあう。二人の手と手は、今まさにそうだ。

「離して、ください」
「続きしようよ、先週の」
「もう、いいって言ったじゃないですか」
「あ、怒ってる? やっぱ昨日ひとりでずっと待ってたの?」
「っ……ほんと、最低……」

 の瞳から大粒の涙がぼろぼろとこぼれて、自分で自分の涙に驚いて、あとからあとから感情が涙になりかわっていく。どんなに涙を流そうとも天童は彼女からけっして手を引こうとはしなかった。両手が塞がっていて涙を拭くこともままならないの、濡れた頬を、天童の乾いたくちびるが這う。そのこそばゆい温もりさえも涙を誘って仕方なかった。悪循環なのだ。天童は、を泣かせるやり方ならごまんと知っていたけれど、泣き止ませる手立てなんてひとつも持ちあわせていなかったのだから。

「ごめんね。今日はなんでもしてあげるから、そんなに泣かないで。機嫌なおしてよ」

 ――そしてけっきょく、天童は昼休みの予鈴のチャイムが鳴るまでを泣かせ続けた。



 また今日も天童から薄荷の匂いがする。先週とはまるで違うやっつけのような口づけのなかにも、ちゃんとその味が隠れていての舌先は痺れた。
 泣いているわけではないのかもしれないが、とにかくは涙がずっと止まらず、こめかみが終始ずきずきと痛んでいた。まともに物も考えられないくらいに。

 天童の細長い指が縦横無尽に駆けめぐり、立ち止まり、這いつくばり、吸いつき、絡み、ひっかき、まさぐる。ときおり異物感に脚をこわばらせても、お構いなし。「だいじょーぶだよ、もうすぐだよ」と、そう言って、やめない。そんなところで、話さないで。息を、しないで。の祈りのような念力が通じるはずもない。マットの上に座っていたはずのはいつの間にか上体をすべてマットに預けて仰向けになっていた。変な格好で、変なことをしている。これが、先週の続き、なの? 色んなことを教えてほしくて、は、せんぱい、せんぱい、と何度も喘いだ。だけど、一度もちゃんとした問いを紡ぐことはできなかった。そんな余裕があるはずもなく、が声にならないぐずぐずの鳴き声を発しているあいだに、天童は指先と口をつかって、をおかした。それだけだった。

「ほら、大丈夫だったでしょ」

 すべてが終わってから、天童はぐったりしているの身を起こしてやった。は少しも天童の言葉の意味が分からなかった。何が大丈夫だったのかも、何が「もうすぐ」だったのかも。そして彼の言う「もうすぐ」が訪れてしまったのか、どうかも。目を擦ってふと視線をはずしてみると、彼女は天童のズボンの下に隠しようのないふくらみがあることに気がついた。何を思ったのか、彼女はそれを、靴下履きの足指ですっと撫でてみる。天童は、突然のの悪戯にも腰を引くこともなく、少しも動揺した様子を見せなかった。の内に悔しさと切なさがむくむく育っていく。

「なに、見たいの?」
「……ぜんぜん」
「だよねー」

 ぶすっとしているの頬を、天童の左の手のひらが満足げに撫でる。その手に涙のあとや、頬の熱や、肌の柔らかさをすべて感じとりながら。一方的な行為の果てに、こんなにも身も心も充実していることがあるだろうか。天童はみずみずしい気持ちで彼女に触れていた。の肌の上で起きること、すべて自分にとっても心地良い。にとっては何もかもが初めてだが、その裏側で、それらは天童にとっても間違いなく初めて尽くしだった。

「また今度ね」

 また今度。先週と同じように軽々しい一言で関係をつなぎ止められ、はようやく気づきはじめる。いたずらに懐き、疎ましく懐かれていた、二人のごっこ遊びのようなたわむれはあっという間に終わりを告げたのだと。
 たった数週間の攻防の末に、見える景色が、見せられる景色が、見たい景色が、様変わりしてしまった。二人の関係はいつどこでこんなふうに折れ曲がり、あらぬかたちに歪んでしまったんだろう。









←backtopnext→

2015.12